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何かを堪えるような呼吸をすぐ傍に感じた。
制御室のスピーカーからノイズ交じりの音を祈るように聴いていた。
それはユイの耳を通した音であり、彼女があまり音声送信に機能を割けないでいるのがよくわかる。
限界が近いのか…。
スピーカーを見上げながら、白い手が遠慮がちに僕の服の袖を掴んでくる。
真野さんや山野博士からも距離を取り、僕とは少しだけ距離を詰めたヨルの手だ。
少し視線を下げて見つめるとびくりとその肩が震えた。
「……ごめんなさい」
「気にしなくていい」
僕が首を振ると多少は安心したように小さく息を吐き、すぐに青く鋭い視線をスピーカーに向ける。
呼吸は何かを耐えている。
その細い指は小さく震えている。
そうだというのに、その深く青い瞳だけは別の生き物のように鈍く光る。
細かい爆発音やバン君の言葉がノイズと一緒に聴こえ続ける。
暴走するイフリートを止めようとするユイの言葉が僕たちの耳にも響いた。
《家族を守るのは当然です。ヨルがそうしたように。
お姉ちゃんが妹を守るのにも理由はありません。
そして……私が私を守ることに何も理由はいりません。
自己防衛ですもん。
自分の幸せを願うことと未来を守ることは『人間』の当然の行動ですよー。
それに今までああやってヨルも生きてこれたんです。
檜山さんが想像してるよりも世界は腐ってなんかいませんよ。きっと。
守るべき…ううん、私が守りたい世界です。
独りになっても寂しくなんてありません》
ユイがそう言ったとき、袖を引っ張る指の力が強くなった。
青い瞳を揺らし、そして小さく呟く。
「そうか。そういうことだったんだ。
それがユイの理由だったんだ」
納得するような、呆れたような呟きだった。
わからなかったことが漸く理解できたようにほうと息を吐く。
一際大きい爆発音の後、スピーカーのノイズがよりひどくなる。
聴覚機能が失われかけているのか。
それを悟ったのか、ヨルが少しだけ視線を下げた。
《父さん。聴こえる?》
CCMから音声通信が入る。
ユイの耳を通すのとは違うクリアな音に余計に限界が近いことを確信してしまう。
「!
バンっ! 二人共無事か!?」
《うん。
ユイも無事だよ》
《どうにか、ですけど》
「そうか…!」
バン君とユイの声を聴いて、袖を握るヨルが安堵の息を吐いた。指の力も少しだけ弱まる。
僕も同じように息を吐く。
《今コンソールの前だよ。
どうすればいい?》
「オーディーンをコンソールに置くんだ」
《わかった!》
微かに軽い音が聴こえ、それでオーディーンが置かれたのがわかる。
置かれたのがわかると山野博士がキーを押す。
画面はアルファベットと数字に埋め尽くされ、プログラムが起動された。
《何かのプログラムが出てきた!》
《あ、自爆プログラムかな?》
「その通りだ。
それを『サターン』に仕込み済みのハッキングプログラムに流し込む。
起動パスワードは『希望』だ」
《希望……。わかった!》
画面に「希望」の文字が入力される。
その言葉をどれだけの人が待ち望んだのだろう。
バン君の力強い言葉が聴こえてくる。
《全てを希望に変えるんだ……!》
その言葉と共にエンターキーが押されると、途端に室内が赤く染まる。
自爆プログラムが起動したのだ。
同時にヨルの指の力が少しだけ強くなる。
顔を見れば赤く染まった目が微かに揺れているのが見えた。
《成功だよ! 父さん!》
「よし! 直ちに脱出するんだ!
我々も行くぞ」
「………」
『エクリプス』へと向かう山野博士に後を付いて行こうとしたとき、ヨルの反応が少しだけ遅れた。
その手を引こうかとも思ったが、そうする前にヨルの方が動く。
亜麻色の髪をひるがえし、僕を追い越して彼の後に続いた。
僕もその小さな背中を追いかける。
まだ気持ちが悪いのか、時折ふらふらとするヨルを心配になりながらももなんとか辿り着き、視線の先に八神さんを確認する。
「間に合ったっす!」
「みんな急ぐんだ!!」
「バン君は戻っていないのか!?」
「ああ…」
コックピットと制御室からここまでの距離はそうは変わらない。
あの場から脱出したのならば、もうここに来ていてもおかしくないのだがまだ来ていないのか。
「バンなら大丈夫だ。我々も急ごう」
山野博士が信頼しているからこそ、そう言った。
僕と八神さんはそれを信頼してお互いに頷く。
大丈夫だ。バン君は必ず戻ってくる。
そう信じて、先に行く彼に続こうとしたところでヨルがコックピットの方向を見つめているのに気付いた。
「ヨル!」
八神さんに先に行くように言ってから、彼女を呼ぶ。
その拳は強く握られ傷が抉れたのか、ぽたりと小さな赤い雫が零れた。
深く淀んだ瞳が通路の先の暗闇を見つめ続ける。
この場から動かすのが憚られるほど真剣に。
一瞬動けなくなる中、小さな爆発音を聞いて僕は漸く足を動かした。
駆け寄ってその腕を引こうとして、彼女の方が先に動く。
「大丈夫。ごめん、ジン。
行こう」
そう言って、逆に僕の腕を引いた。
手を握る方が楽だろうに、血を気にしてかそうしようとはしない。
とても弱い力に逆らう気も起きず、幼い手に引かれながら二人で進んでいく。
不安定に揺れる簡易の通路の中、彼女の透明な声を僕は聞き逃さなかった。
「……大丈夫、だよね」
それはユイに言ったのか、自分に言ったのか。
暗く淀み濁った青色が前を見る。
その色を見たとき、僕は引かれていた腕を少しだけ離して彼女の小さな手を握った。
握ったときに彼女の指が微かに震える。
彼女は僕の手を振り払おうとはしない。
思いのほか冷たいその手を僕も離そうとは思わない。
ヨルの手から赤い血が僕の手を伝う。
ぬるりとした生温かいそれのいくらかは僕の服に沁み込み、そうはならなかったものは雫となって零れ落ちていった。
■■■
体中から嫌な音がする。
ギチギチとかキュルキュルとか、そういう機械らしくて壊れかけの音。
少し前までは頭の中で警報が鳴り響いていたけど、もうそれも聞こえない。
その分のリソースを情報の確保や体と感情の制御に回したから自分があと何分ぐらい持つのかもわからないけれど、あまり長くないのだけはわかる。
「動けるだろう。立ってくれ」
バン君が座り込む檜山さんの肩を支えようとしているのが霞んで見える。
彼の声も遠くに聴こえる。
感覚器官全般がもう持たない…か。
それでも約束したから…彼をちゃんと送り届けなくちゃ。
せめて、ここよりも安全な所まで一緒に行こう。
「……俺を助けるのか?」
「当たり前だろう!」
私が彼らに視線を合わせると、苦しそうに呼吸をする檜山さんがバン君の手を拒むのが見えた。
痛そうな音を立てて、バン君が床に倒れ込む。
「……っ」
「バン君」と名前を呼ぼうとして、声帯が上手く動かない。
ぱくぱくと酸欠の金魚のように口を動かす。
いよいよもって声もダメか…。
それはさすがに不便なので、右腕の機能を削る代わりに喉にリソースを回す。
バン君に駆け寄ると、檜山さんが私たちを見て言った。
「お前たち二人で先に行け。
俺はいい」
「ダメだ!」
強い口調でバン君はそう言うと、再び檜山さんの肩を支えようとする。
私も出来ればそうしたいけれど、喉の代わりに右腕が動かないのでやりようがない。
「離せ!」
「帰るんだ!
帰るんだ!! 一緒に!」
バン君の言葉に、それは果たせそうにないなあと頭の片隅で思ってしまう。
大きな爆発が起きる。
小さな爆発も頻発しているし、ここはもう長くは持たない。
「バン君、檜山さん! 早く!」
扉を指差しながら二人を促す。
檜山さんはそんな私に視線を向けると、勘弁したのかそれとも別の意図があるのか、比較的大人しくバン君の助けを借りて歩き出した。
「ユイ、案内頼めるか?」
「お任せあれ! なのです!」
私はびしっと元気に敬礼の真似事をしながら、二人を誘導する。
通路は煙が薄く立ち込めていて、予想以上に人間が呼吸しづらい状況だ。
感覚器官で拾えない分を確保していた地図情報と併せて出来るだけ安全な道を選ぶ。
進むスピードは鈍いけれど、そう広い艦内じゃない。
爆発に巻き込まれずに『エクリプス』まで辿り着けるはず。
私がそう考えながら先を行くと、檜山さんの荒い呼吸と…それからバン君の声が聴こえてきた。
「レックス。世界の人に送ろうとしていたメッセージって、どんなものだったの?」
「ふっ。あれか…」
「……あれ…」
右足の感覚もなくなってきたなあ。
ずりずりと足を引きずるようにしながら、私も檜山さんのメッセージについての情報を探ってみるけれど、記憶が抜け落ちていてわからない。
余分なものだとは思わないけれど、大半の記録はもうなくなっていてないものを思い出すのは無理だと考えて諦めた。
私も無言のまま言葉の続きを待つ。
「うわっ!」
「っ!」
突然、大きな爆発がして三人の体がよろける。
私はまだ自由が利く左足に力を入れて立ち、急いで後ろの二人を見ると壁に寄りかかるようにしていた。
「だいじょーぶ?」
舌の動きが鈍くなり、変に幼児みたいな声になってしまう。
どうにかバン君が頷くのは確認したので良しとしよう。
「人は…獣にあらず。
人は神にあらず。
人が人であるために、今一度考えるのだ。
人とは何かを…!」
「人とは何か」。
私にとってよく考えなければいけなかった言葉。
祈るように言いながら、檜山さんが体勢を立て直す。
うん。そういえば、そんな言葉だったかもしれない。
しっかりとバン君が支えられていることを確認してから、檜山さんの言葉に耳を傾ける。
「何をするべきかを…!
うっ!」
「人は何をするべきかを?」
「そうだ。
賢くなり過ぎた人間はこの世の全てを管理し、支配しようとする。
まるで神であるかのように。
大きな力を手に入れた人間は弱者を喰らい、どんな残酷な行いも厭わない。
まるで獣であるかのように」
「………」
檜山さんの言葉をバン君と一緒に噛み砕き、飲み干しながら前へと進む。
煙の向こうに『エクリプス』への入り口が見えた。
良かった。
あそこはまだ安全だ。
私の機能が完全に止まる前に来れた。
私は背後の二人が追い付いて来るのを確認するために振り返りながら待つ。
「進歩し過ぎた人は人であることをいつの間にか忘れてしまったんだ。
俺は世界の人々に考えさせたかった。
人はどうあるべきか、人が人であるための真実の姿を」
「ひとが…ひとであるために……」
思わず反芻する。
何故、人であり続けることがこんなにも難しいのか。
キカイである私よりもなんで人間の方がマチガイ続けるのか。
いや…私もまちがい続けたけれども。
私に限らず海道義満さんやこの世界の権力者の人たちも、もしかしたら悠介さんや檜山さん自身だってそのアリ方を見失い続けているのかもしれない。
だから、最初にめに入って来た強く光ルものが…自分の全てに見えてしまうのかもしれない。
セカイを変えるという意志然り、親…家族への愛然り。
輝いていも暗く濁っていてもひかれるものが自分の在りかたを決めたのかもしれない。
不自由になっていく頭と体で考えていると、不意に力強い言葉がキこえてきた。
「人は変われるさ。
新しい世界はきっとつくれる。
大丈夫! 俺が創るから……――レックスが望んだ世界を」
バン君の声だった。
彼はまっすぐな目をして檜山さんにむかっていった。
それは私にも届ク。
彼の言う「新しい世界」はきっと光に満ちていて、やさしくて温かい世界なんだろうなあ。
そうなると、いいなあ。
本当にしあわせなことだろうから。
「さきにいって」
彼らを先に行くように促して、テスリに手をかけるのをじっと見つめる。
正しくはもう立っているのがやっとだったから。
そうしているだけの私にギモンに思ったのか、彼が私のナマエをよんだ。
「ユイも早く……!」
その言葉に私は首を振る。
この動作ももうおっくうだ。
「わたしはもうゲンカイだから、いいよ。
こうなるってわかってて、ここまできたんだもん。
後悔は、ないから。
はやくいって。
ここにいたら、爆発にまきこまれちゃう」
「でも!」
彼がおそらくはかなしそうな目をして私を見ている。
それも掠れてミえない。
みえなくて良かった。
こんどこそ本当に泣いちゃうから。
見えないから、笑っていられる。
「バン、くんだって…わかってたはずだよ。
こうなるって。
だから、しんぱい、することないよ。
置いていってもだいじょーぶ!
それに、わたしの本当に本当のさいごのおねがいなんだから、叶えてよ。
ね、それぐらい…いいでしょ?」
にこりと表情筋をがんばってうごかす。
伝わったかなあ。ちょっとビミョウ。
声も途切れ途切れできっと聴き辛いだろうなあ。
バン君の足がこっちに向かおうとしているのが、少しだけ見えた。
それを制したのは、
「やめるんだ。バン」
檜山さん、だっタ。
「レックス!?」
「あいつはもう限界だ。
せめて、ユイの願いを叶えてやれ」
「……っ!」
バン君が私にせなかを向ける。
聴覚がもうほとんどキノウしなくなってきたから、何か言っているふうだけれど私にはキこえなかった。
それでもわらっていると、たしかにきこえてきた。
「……今まで、ありがとう。
さよなら…ユイ」
「………うん」
私がかろうじて頷くと、二人の姿がとおざかっていく。
それをカクニンしてから、私はほそくながく息をはいて…前のめりに倒れた。
鉄くずが倒れる音が自分からして、視界が霞んで、手足が動かない。
人間みたいに呼吸する動作も出来ナイ。
何もキこえなくて、爆発が頻発しているようだったけれどその音も何もなくなって、ただしずかだった。
「あー…これは、ほんとうに…だめだなあ…」
体は動かないけれど、頭はうごくのがなんかフシギだ。
うつ伏せなのはちょっといやだけど仕方がない。
がんばれば動かせそうだけど、それを声とあとは…ちょっとしたデータ通信に割りフった。
「やりたい、こと…たくさんあったなあ……。
もっとおはなししたりとか、あそんだりとか、あとは……えーと…」
やりたいこともうかばなくなってきた。
ことばがでてこない。
あ、あたまのなかのことばもなんかヘンなかんじだなあ。
「あとは……そうだなあ。
そうだよね、やっぱり…」
あれ?
なんか、メのしたつめたい。
がんきゅーのせんじょおエキこぼれたかな。
「もっと、いきたかったなあ。
ずうっといっしょにいたかった」
いもうとや、ともだちと。
むりだけど。
でも…だいじょおぶだよね。
「しあわせに、なる、よね?」
こればっかりはわたしには、わかんないんだけど。
まあ、あとはいきているひとたちのものだから。
しかたがないんだ。
わたしは…あとはいのるだけ。
しんじてる。
みんながしあわせになりますように。
みらいのことは…かのじょたちにまかせよう。
「ばいばい。
ヨルちゃん。
しあわせに…なって……ね」
もう、ほんとうに、なにも、ぜんぶ……やっと、おわっ……た…
■■■
「………!」
「ヨル?」
『エクリプス』のコックピットで、視線を上げたヨルが突然駆け出した。
来た道を戻り、揺れる簡易通路を見つめる。
壁に手を付いて、その先をずっとずっと……。
「どうしたんだ?」
追いついた僕の声も聞こえていないらしい。
あまり身を乗り出すのは危険だと判断して肩を掴むと、揺れる青色が目に入る。
「ユイ……」
そう小さく弱いヨルの寂しそうな声が聴こえてきて、それがずっと頭から離れなかった。
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