70.サンセットアクアリウム (71/76)


久しぶりに操作したティンカー・ベルはしっくりと私に馴染んだ。
クイーンはお姉ちゃんのものだから、見えない煙みたいなものを通して操作している感じがしていた。
でもティンカー・ベルは始めから私のものだからか、下手でも私の手足のように動く。
それだけ確認させてもらってから、私は『サターン』へ向かった。

「行けるか?」

ジンが小さく私に訊いてくる。
『サターン』に侵入するための急ごしらえの通路は風に揺れて、気を抜くとこけそうになる。
揺れる度に強度を疑いたくなる壁に手を付きながら、私はこくりと頷く。

大丈夫。

何度も何度も…心の中で呟き続けて来た言葉を繰り返す。
彼はそれをどう受け取ったのだろう。
紅い目は何を思っているのか、私には読めない。
彼は私のことを多かれ少なかれわかっているようなのに、私にはわからないというのは随分とずるい話だ。
彼だって、これから自分の祖父と戦わなければいけないのに。
そして彼を殺した檜山さんと戦うのに。

小さく、本当に小さく深呼吸をしてから、前を見る。
『サターン』へと繋がる扉がゆっくりと開かれ、私たちは『サターン』へと侵入した。

その場を八神さんに任せ、私たちはコックピットを、山野博士は制御室を目指す。

「ヨル君。辛いとは思うが、ユイ君の停止を急いでくれ」

「…はい!」

山野博士と別れるとき、彼の方が辛そうな表情をして私に言った。

そうだ。止めなきゃいけない。
先に進むためにも。

忘れていたわけではないのに、その瞬間を思い描くと足が一気に重くなる。
みんなから遅れる形になりながら、私はその後を付いていく。

「カズ! ヨル!
私たちは左よ!」

「俺たちは右だ!」

場所の関係上、私はジンとここで別れることになる。
紅い瞳が心配そうに私を見ている。
それに私はどう返せばいいのだろう。
色々なものが蠢いて訳が分からなくなっていく心の中から、私は何を掬い出せば彼を安心させられるのだろう。

「ヨル! こっち!」

アミちゃんに名前を呼ばれる。
その声に現実に引き戻されて、危うげな動作で右に曲がろうとしたその直前…

「ヨル!」

今度はジンに名前を呼ばれた。
足を止めるわけにはいかないけれど、少しだけ速度を緩めるとジンの口が開くのが見えた。
けれどもその口から音が出ることはない。

「……大丈夫。
もう、大丈夫だから…心配しないでいいよ!」

本当は何も大丈夫ではないけれど、そう言って笑ってみせた。

その言葉を聴いた彼の顔を見れないまま、私はアミちゃんとカズ君の後に続く。

「見つけた! パンドラ!」

「よっしゃ! フェンリル!」

私が彼らに追いつくと、そこには敵LBXとパンドラとフェンリル。
私もポケットからティンカー・ベルを取り出して、CCMを開く。

「アミちゃんとカズ君はバン君たちのところに行って」

呼吸を整えながら、私は彼女たちに言う。
CCMの画面は敵LBXが近くにいることを示している。
あまり悠長にしている暇はない。
私はこの先に用がある。
万が一だけれど爆発の危険だってあるし、彼女たちはバン君たちのところに向かわせよう。

「何言ってるの!
私たちも付いていくわよ。
貴女一人を置いていくなんて出来ないわ」

「そうだぜ。
お前のティンカー・ベルだけじゃ心配だからな」

カズ君の手が私の頭を乱暴に撫でる。
乱暴なのに妙に優しい手つきに振りほどけないでいると、アミちゃんがぺしっと叩いた。

「いてーな! アミ」

「女の子の髪をそんな乱暴に扱わないの。
綺麗な亜麻色が台無しになるじゃない」

「そ、そんなに気にしてないから大丈夫」

悠長にしている場合じゃないのに、なんだろう…妙に懐かしい感じがして、少しでいいからこの空間に浸っていたくなってしまう。
こんなことをしている暇はないと、私は頭を振り、なるべく真摯に彼女たちに言う。

「ユイもいるし、敵の数もそんなに多くないから、私一人でもどうにか出来るよ。
だから、ここは私に任せて欲しい」

「………」

必ず、止められるから。

言外にそんな思いを込めて言うと、アミちゃんとカズ君は溜め息を吐きながらもほんの少し笑った。

「わかったわ。
ユイは任せたわよ。
絶対に私たちのところに戻ってきなさい。待ってるから」

「転んで怪我すんなよ」

「…うん! ありがとう。
アミちゃん、カズ君」

もう一回カズ君に頭を乱暴に撫でられて、それからアミちゃんとカズ君は来た道を戻っていく。
それを見送っていると、するりとポケットからクイーンが飛び出した。
クイーンの小型スピーカーからユイの声が聴こえてくる。

《ヨルちゃん。道案内、するね》

「うん。よろしく」

私もCCMを構える。
この動作すら今の私には懐かしい。
敵LBXの姿を視界で捉える。
私はティンカー・ベルの武器をドライバーで固定する。
アミちゃんたちにああは言ったけれど、私のティンカー・ベルは対多数戦には向いていない。

「ユイ。クイーンで牽制して。
向かってくるのだけを相手すればいいから。
倒すことは考えなくていい」

《わかった》

一体一体を律儀に相手してはいられない。
深呼吸を一つしてから、私は全力で駆け出す。
向かってくるLBXの関節部分を的確に判断して、ドライバーで貫く。
動けなく出来ればそれでいい。無理に倒す必要はない。
クイーンが弾幕で敵を牽制する。その弾幕を潜って来たLBXだけを相手にして、他はあまり考えないでとにかく突き進む。

《次の角を右!》

ユイの指示に従って、私自身はあまり考えずに進んでいく。
ティンカー・ベルやクイーンへのダメージも考えない。
こんなとき、きっとアミちゃんやカズ君だったらもっと上手くやるだろうに。
そう思いながらも今目の前の敵をどうにかしなければいけないのは私で、嘆いたってどうにもならない。

クイーンへのダメージが予想以上に大きい。
フレームにひびが入っているのも視認出来る。
あまり長くは持たないのは明らかだ。

《その先! 扉があるよ! 開けるから飛び込んで!》

「わかっ…た!」

動けなくなったLBXを飛び越えて、着地する際にティンカー・ベルで周りのLBXの関節部を貫く。
扉からは距離がありLBXでは間に合わないと判断して、ティンカー・ベルを手で掴んだ。
クイーンもと思ったけれど、それよりも先に敵の攻撃がクイーンの胸部を貫いたのが見えた。
紫色の粒子の束。
そこからひびが円状に広がっていって、私の目の前でクイーンが…お姉ちゃんのクイーンがあっけなく壊れていく。

《ヨルちゃん! 速く!》

私が手を伸ばすよりも先に、ユイの声が私を引き戻していく。
反射的に扉の向こうに飛び込んだ。
通常よりも早いスピードで閉じていく扉。
呆然とする私なんてお構いなしに、無慈悲に扉が閉められた。

「はあっ……はっ…」

息を整えながら、重く閉じられた扉に視線を送る。
クイーンは再起不能なまでに壊れたことは明らかで、私が手を伸ばせばどうにかなったわけではない。

…あれはお姉ちゃんので、失くしちゃいけなかったのに…。
ああ。でも、なんでだろう。
煙を通したようにしか操作出来なかったクイーンが壊れた瞬間、私の中の何かがすうっと溶けていくような感覚がした。
吐いたわけでもないのに、少しだけ体軽くなったような気がする。
反面、それがどうしようもなく気持ちが悪い。

それを振り払うように扉の向こうに戻ってクイーンを取ってこなきゃと手を伸ばしかけて、私のやるべきことを思い出す。
優先順位を考えろ。
たった一つのLBXよりも、仲間の安全を取る方が先だ。
あれはただの道具なんだから。

「……っ」

扉から視線を外す。
背後に目を向けると、天井ぎりぎりの高さにまで伸びた円柱が三つ。
これがユイの本体。その側面はちかちかと感情に合わせて様々な色が光っている。
その間を幾本ものケーブルが繋いでいた。
正面には急ごしらえのコントロールパネル。
無人ながらも目まぐるしく画面が動いているのがわかる。

室内はあの地下室を思い出させるように青白い。
そして、あの部屋のように寒い。
吐く息も幾分か白くなっているような気がする。
冷却のために空調が限界まで下げられているのか。

妙に笑い出したくなった。
全く別の場所なのに、なんでこんなに似ているんだろう。
吊るされたお父さんとこれは想像だけれど、それを見上げるお母さんが見えてしまいそうだ。

《ヨルちゃん。ここなら、声ちゃんと拾えるから…》

「わかってる。
ユイ。命令変更。
『サターン』艦内のLBXを全て停止」

《了解しました。命令を受理します》

ユイの声が途端に無機質になる。
寒さで震える手を握り直し、冷たい空気を肺に無理矢理流し込む。
私はコントロールパネルに近づくと、艦内のカメラの映像を全て画面に出す。
敵LBXが停止していくのが見えた。

「ユイ。
システムがいくつか独立してるって言ってたよね」

《うん。私のシステムが全然関わってない場所がある。
ちょっと待って。本体があるここなら…》

画面が勝手に動く。
『サターン』の艦内図から独立したシステムのある場所が示される。
制御室とコックピットの二つだ。

《さすが、檜山さん。
完全に独立してるね、この二つは。私を止めても意味がない。
コックピットじゃないと『サターン』は止められないし…檜山さん、私も信用してなかったんだなあ》

「……まあ、私もそうだったから」

あの人はその執念で全て出来てしまうような人だから。
全ては読めなかったけれど、私たちを信用しようとは思わなかったんだろう。
あの人との知り合いごっこはそれなりに楽しかったけれど、それももうお終い。

ユイを止める前に独立した箇所を調べさせる。
もしかしたら解読して、侵入できるかもしれない。
しばらく眺めて、それが私の力では無理だと思い知らされた。
お姉ちゃんなら…と思うけれど彼女はもういない。
思い出が頭を過ぎる度に吐き気が込み上げてくる。

なんで、私はお姉ちゃんじゃないんだろう。

《なんだろう、これ?》

「どうしたの?」

《見たことのないLBXのデータがあるの。
『イノベーター』が使ってるものでもないし、だからって檜山さんのとも違うような…。
なんか嫌な感じだなあ。これ。
変に構造が歪んでる感じがする。
強いっていうか、禍々しいっていうか、気持ち悪い》

「………新しいLBX?」

《多分。檜山さんの新しいのかな。
一歩間違わなくても、これは暴走するね。
後さき考えないオーバースペックだもん。
うーん……でも、なんか微妙に私が入ってる感じがする。
余計に気持ち悪い。
勝手に動かされてる気分。
痛い部分を切り離せてないような感覚がする》

「どうにかならないの?」

《どうにかしたいけど…私を止めないと……。
知らない私が暴れてるのは気持ちが悪いよ。ヨルちゃん》

「………っ」

そうだ。そのためにここに来たんだから。

震える指で画面を操作する。
ユイを壊す。
それは私が『サターン』に直接侵入できないからこその作戦で、今なら必要ないんじゃないかと密かに考えていた。
壊さなくても、本体を止めてもう一度逢えるんじゃないかと。
でも……コックピットが動かせない以上、『サターン』を止めるためには自爆を選ばなければいけなくなる可能性が高い。
いや、山野博士ならそう判断するはずだ。

ならば、ここで私の手で壊さなくちゃ。
組み上げた、生み出したこの子を壊さなくてはいけない。

「外装部分から消去する。
そうすれば、制御室のシステムは山野博士たちで動かせるよね?」

《うん。
安全を確認しつつ、外から消去していこう。
こことここ、それからこっちだね》

ユイの指示で外側から消去していく。
人格への影響の少ない部分から消していく。
肉体部分からどんどんと削っていくのだ。
腕を失い、足を失い、動かせる部分がどんどんと減っていく感覚がするに違いない。

粗方、外の部分を消し終えると右側の柱が一つ停止した。

《今のところは大丈夫かな。
それにしても……調べれば調べる程、このLBX、やばいなあ。
どうにか止められないかな》

「………」

何もないかのような、声。
苦しくないのか。痛くないのか。
私の手は彼女を消すたびに震えて仕方がないのに、なんで私たちにはこんなに距離があるんだろう。

このまま…別れるんだろうか。
きっとそうなる。
ずっとそうだったから。
お姉ちゃんのときも、お母さんのときも、お父さんのときも……別れの言葉はなかった。

「……さよなら」

ぼそりと呟いた。
感情のない言葉。現実感がまるでない。
言ってみたはいいものの、噛み合っていない。
本来の意味での「さようなら」ではない。

「人格の消去を……」

その先の命令が出せない。
ただ肯定すればいいだけであり、それだけで終わるのに。
嘔吐感が喉までせり上がってくる。
こんな気持ち悪いこと、早く終わらせなければならないのに…。

《ヨルちゃん……》

私の動揺を悟ったのか、ユイが私の名前を呼ぶ。
それが居た堪れなくて思わず視線を逸らすと、私の視線の先、ユイの本体の奥の方に何かがあることに気づいた。

なんだろう。あれ……。

ふらりと無数のとぐろを巻くコード群を飛び越え近づくと、そこには「ユイ」がいた。
正確に言えば、「ユイ」の形をしたあのアンドロイドが無造作に転がっていた。

「こんなものまで持ち込んでたなんて…」

《あ、私だ。
久々に見たよ。
うーん、まだ動きそうだね。これ》

「……」

どうしようかと思ったけれど、何もしようがない。
この場でこれがあったところで何の役にも立たない。

《ヨルちゃん。提案なのですが……》

「?」

慎重なユイの声が室内に響く。

《この子を動かせないかな?》

「動かすって、そんなの意味がない。
それに人間に近くなってるから容量がないし、本体からのサポートをさせるわけにはいかないんだよ」

《わかってる。
私は消える。
人格プログラムはぎりぎりまで消去しよう。
私が私を保てる程度でいいよ。二、三十パーセントぐらいでいいかな。
それだけあれば充分。
その消去も時限式にしよう。
そうすれば私は消えられるし、容量の問題も済むはずだよ》

「……理由は?」

《檜山さんのLBXが気になるんだ。
嫌な感じがする。
倒せる気はしないけれど、どうにか出来るかもしれない。
私がコックピットに移動できさえすれば。
だから、その体を使おう》

「………」

それは建前なのか、本音なのか。猶予をくれるということなのか。

いや、それよりも…ユイが動く。
一度は死んだ人間が、私の前で死んだお姉ちゃんの形をしたものが、もう一度動くのか。
『アルテミス』のときは少しだけ吐いた。
今だって嘔吐しそうなのをぎりぎりのところで耐えている。
覚悟を決めたのに、なんでこうもそれを崩しにかかってくるのだろう。

でも、ユイの最期の意志を汲み取ろう。

お姉ちゃんには出来なかったことをしなければ…。
私が正しいと信じた人の正しいと思うことを信じよう。
間違ってるなんて、私に言う資格はない。

「わかった。そうしよう」

《うん。ありがとう。ヨルちゃん》

私の声で指示を出していく。
人格を削っていく。
ぎりぎりのところまで、ユイとして生きていられるぎりぎりの部分まで削る。
左側の円柱の明かりが完全に消える。

私はなるべく深く呼吸するようにして、慣れ親しんだ吐き気を抑え込む。
お父さんに迷惑を掛けちゃいけないという考えが、一瞬頭を過ぎった。

アンドロイドの指が静かに動く。
アーモンド色の瞳が開かれる。
頭上から聴こえていた声が彼女の喉から掠れながらに聴こえてきた。

「……ヨル…」

「…かはっ」

その声を聴いた瞬間、込み上げてきたのはどうしようもない吐き気だった。

あ、これはやばい。

気づいた時には床に手を付いて、吐いていた。

「げほっ…ごほっ……は、はあ…」

最近ちゃんと食べていないことが幸いした。
固形物のない胃液みたいな吐瀉物が床に広がる。

いつもみたいに気怠くなりながらも体が軽くなっていく。
それと同時に罪悪感が襲ってきて、いるはずなんかないけれどお母さんが頭上から私を見ているような気さえする。
その手が降ってくるのかと思ったとき、想像よりもずっと軽い手が降ってきた。

「ヨルちゃん…。
今まで、よく頑張ったね。
もう少しで全部終わるから、そうしたらゆっくり休もう」

完全に立ち上がり移動してきたユイが私の背中を擦る。
吐きながらその姿を見上げると、私の記憶よりも幾分か成長したお姉ちゃんがいた。
成長を予測して造ったのだから当たり前なのだけれど、その姿に私はもう何回目かわからない喪失感を抱いた。
吐いたのに、ずっしりと重い。
これを私は抱いていかなくちゃいけない。

「けほっ……」

汚いと思いながらも服の袖で口元を拭う。
よろよろと立ち上がるとユイが私を支えてくれた。

「大丈夫?」

「大丈夫じゃない」

間髪入れずに答えた。

ずっと前から大丈夫なんかじゃない。
そんなのわかりきってる。

わかりきってるから、だからこそ私は支えてくれていたユイの手をそっと離した。
もう私は独りで立ち上がらなければいけないから。
この手に、支えてもらうわけにはいかないから。

「行こう。
行けるところまで、私も行くから」

「うん。ありがとう。ヨルちゃん」

ユイの言葉が響く。
扉に向かう彼女の背中を追いながら、青白い空間を見上げた。
吐いたばかりで気持ちの悪い生温かさのある肺に冷たい空気が入ってくる。

やっぱりあの場所に似ていて、お父さんがそこにいるような気がする。
ぶらりと吊るされたお父さん。
それを見上げるお母さんがいる気もする。

薄暗い視界にお父さんの顔が映る。
その幻覚に私は少し驚いた。
あの冷たい部屋に入る度に見上げていたくせに、ずっと思い出せなかったお父さんの顔が…今ははっきりと見える。
その顔は綺麗でもなく、遠い記憶の彼方にあるお父さんでもなく、寧ろ醜いと表現出来る顔をしている。
追いつめられても、そんな顔を子供に見せるべきじゃないはずだ。

お母さんの顔も見える。
お父さんばかり見つめるその目には、私なんていなかった。
本当は一瞬でも見ていたのかもしれないけれど、幻覚だからかもしれないけれど、もう頼りになるのは私の記憶しかない。
記憶の中のお父さんやお母さんが笑ってくれない。

そうなんだ。これが答えだ。

もう何回も突き付けられ、吐き出し続けた事実が今度こそ私の中にしっかりと落ちてくる。

私はどうやっても、どう思い出しても、どう作り出そうとしても……どんなに願ったとしても愛されるなんて無理な話だったんだ。

「さようなら。お母さん、お父さん」

両親にお別れを言う。

二人の幻覚は青く揺蕩い、私が瞬きを一つすると消えていた。
私の中に戻ったとのだと思えた。
それは私の中のお腹とか心とかあの黒い泥が溜まる場所に再び溶けながらも、吐き出そうとは思わなかった。
吐いた分を埋めるように、少しだけ体が重くなる。

でも、これでいいんだと諦めではない感情で受け入れることが出来る。

前を見るとユイは私を待っていてくれた。
扉から一歩外に出ると、重い音を立てて扉は閉まっていく。
青い空間が遠ざかる。
手を伸ばすことは、しない。

「生んでくれて、ありがとう」

ユイにも聴こえないぎりぎりの声で言う。

扉の向こうの青白い空間には、もう誰も何も、いない。





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