68.小さなハネ (69/76)


その場を動かないヨルの小さな手を引く。
予想以上に軽い体は簡単に動いて、その青い目が僕を捉えた。
深海のように深いその青は淀み濁り、それでいて奥底にはどこまでも透明な光がある。
相反するそれを僕は複雑な気持ちで見つめ返した。

「ごめんなさい…」

ゆらりと体を傾けながら、ぼそりとそう呟いた。
それが何に対する「ごめんなさい」なのか、それとも何か複数に対しての「ごめんなさい」なのか。
僕に向けられたものであるのかすら、わからない。
ゆらりと、もう一度体と一緒に青い瞳が揺れた。


「雨宮ヨル…です。
よろしく、おねがいします」

緊張した面持ちで名前を言った彼女に、一番に近づいたのはカズ君だった。

僕から見ても機嫌の悪そうな顔をして無言で近づき、おもむろに手を出すとそれをヨルの頭に置いた。
それから乱暴に亜麻色の髪を撫でる。

「…?」

ヨルは不思議そうなに首を傾げながらも、黙って為すがままにされている。

それを見ている僕らはお互いに顔を見合わせてはみたものの、険悪な雰囲気はないのでそのまま任せようとこちらも無言で頷き合った。
カズ君は不機嫌そうに口を開く。

「……悪かった」

それだけ言うと、ぽんぽんとまた軽く頭を叩いた。
その動きには親しみというか、何か親しくなろうという意志がある気がする。
悪意は微塵もない。

「え…と、気にしていない…よ?」

「…意味、わかってないだろ。
わかってから、そういうことは言えよ。
ヨル」

「……うん。わかった」

いつもより幼い動作でヨルが頷く。
話し方も幼く、ぎこちない。
ヨルとしての行動に慣れていないのではないかと思う。

それにしても驚いた。
僕は彼に彼女が感情を伴った物事がわからないということを言っていない。
ヨルもそれを直接言っていない。
僕もどこまでわからないのかというのを把握していないというのに、彼はそれをわかっていたのだろうか。
彼は僕が思っているよりも、ずっと聡い人物なのかもしれない。

「まあ…一件落着、かしら」

そう言いながら、アミ君もヨルへと近づく。
その横顔は少し強張っていて、緊張しているのがよくわかる。
彼女はヨルに手を差し出した。
ヨルはそれを不思議そうに見つめ返す。

「川村アミよ。改めてよろしく。ヨル」

「よ、よろしく…おねがいします。
あと、LBX教えてくれてありがとうございました」

「…そうね。不肖の弟子だと思ってたのに…。
上手くなったじゃない。
見違えたわ」

そう言って、カズ君とは違う優しい手つきでヨルの頭を撫でた。
アミ君は彼女なりにヨルの行為をそれで許したのだろう。
纏う空気が柔らかくなっていくのがよくわかる。

他の仲間たちもそうだが、それほど険悪に成り過ぎていないのに安心した。
これなら、大丈夫だろうと思う。
ヨルが彼女自身の問いに答えを出すのに。

「ヨル…強いのに作戦に参加出来ないなんて、勿体ないよな」

「そう、だな」

隣で目の前の様子を眺めていたバン君の意見に同意する。

作戦の説明中、彼女は今回の作戦には参加出来ないと八神さんから言われた。
山野博士は彼女味方であることを保障してくれたが、やはりレックスの味方であったのが影響しているらしい。
ユイについての問題は残っているものの、山野博士やユイ本体がいるということで彼女は待機することになった。
僕は…八神さんを説得したけれども、肝心の本人が了承したのではどうしようもない。

あの時了承した彼女の顔がほんの少しだけ喜んでいたのが、忘れられない。
役目を与えられた人間の表情。
それは明らかに場違いで、噛み合っていなかった。
純粋な青い眼差し。

あれを見るのが、僕には苦しくて仕方がない。


■■■


「疲れた…」

薄暗い廊下で一人そんなことを呟いていた。

疲れる。自分で自分になるのは、疲れる。
吐き気がする。
我慢できない程ではないけれど、息も苦しい。
いつものように、意識して呼吸をする。

作戦不参加を言い渡された私は、自分から指令室を出て、配置や進行経路なんかの細かい作戦は聴かないようにした。
檜山さんの味方であった以上、そうする方が無難かなと思ったのだ。
あの場には私への不信感を持っている人も確かにいるし、私がいたら作戦そのものが失敗してしまうかもしれない。

だからといって、どこに行こうということもなく、視界と同じぐらいの暗さが心地いい廊下に留まることにした。

ずるずると廊下の隅にそのまま座り込む。
人気のない廊下には、こんな私を咎める人はいない。
みんな自分の役割を果たしているはずだ。

「……役立たず」

《廊下に座り込むのはどうかと思うのですよ。ヨルちゃん。
ちょっとした部屋なら、そこらへんにあるから入ったら?》

「いい。勝手には使えないから。ここでいい。
それよりも、ユイは自分の心配をしなよ」

《自分の…?》

「…『サターン』は、きっとそのままじゃ止められない。
どうなるかはわからないけど、あそこにユイの本体がある以上は無事じゃすまないと思う。
システム全体をAIに頼っているわけだし、檜山さんがそう易々と倒されてくれるわけもない。
私が直接停止命令を出せない以上、最低でも破壊は免れないよ。
強制破壊だよ、強制破壊」

《それは…うーん、ちょっと痛い…かなあ。
でも、ほら、あれだよ。
そんなに悪いことじゃないよ》

「…どこが?」

《どこが…って、それは多分ヨルちゃんの理由に似てるかな?》

「…? 何、それ?」

《わからない?》

質問に質問で返された。

私は膝に顔を埋めたまま、今までの会話を思い出しながらどこかに答えがないかを探す。
私にはわからないことが多すぎる。
色々なものが欠け過ぎていて、推測する要素が足りない。

ただ、諭されているような気はする。

わからないことがあると、いつも思う。
お姉ちゃんならどう考えるのだろうか、と…。

だから、思考を借りる。
自分を脳の奥深くに沈める。
私じゃなくて、お姉ちゃんらしい思考を呼び覚ます。

「……うえっ…」

慣れていることだけれど、気持ちが悪い。
視界が余計にくすむ。
頭がぐらぐらする。……おかしい、いつもよりも酷い。

お姉ちゃんの思考に近づくけれども、頭を抱えるとユイの方からそれを遮った。

《…わかんない、かあ。
まあ、そうだなあ。消えるなら、出来ればちゃんとした手順で…ヨルちゃんに消して欲しいなあ。
直接行かなきゃ、人格データは消去できないもんね。
人格プログラムから基礎プログラム、そういう経由なら止められるし、私の正しい消え方だから…それが良かったかな。
強制破壊は物理的にパーンだから、痛いよねえ。痛い、痛い。
でもですね、納得してるんだ。
私は私なりの理由で…だから安心してよ》

「勝手に造って、勝手に壊す私に文句とか、ないの」

《ないなあ。
造ってくれて感謝してるよ、寧ろ。
あの狭い地下室じゃあ、経験できないことばっかりだったもの。
ヨルちゃんが大好きなんだよ。幸せになって欲しいんだ。
……それよりも、ヨルちゃんはいいの?》

何故、そんなことを訊くのか。

いいのか、悪いのか。
そう訊かれれば、複雑な気持ちになる。
これからのためには消えるのは正しいわけで、そこに私の意志は入れるべきじゃない。

私がお姉ちゃんを造ろうと思ったのは、確かに正しいと思ったからであり、同時にもう一度…お父さんがそう願ったように、お姉ちゃんにあいたかったからだ。

あって…何がしたかったのか。

もう一度、遊びたかったのか。話したかったのか。謝りたかったのか。

「違う」

《…?》

そうじゃない。

声が口から洩れる。
静かで冷たい廊下に、私のらしい声が響いた。

本当は訊きたかったんだ。

お姉ちゃんは私にとって神様みたいな存在で、その神様に訊けば全てが上手くいくはずだし、正しい方向に導いてくれると信じていたんだ。
信じずにはいられなかったんだ。
だから、訊きたかった。

「私は…」

《ヨルちゃん…》

「…間違って、た?」

そう、訊きたかった。

お姉ちゃんの口から、私の神様ならどうにかしてくれると思ったから。
もしも…間違ってるとその甘い声で言われたのなら、私はどうしたのだろう。
こんなことは考えなかったのだろうか。

いや、そもそもお姉ちゃんがいたのなら、今も幸せではあったはずなのだ。
そんなことは考える必要はなかった。いらなかった。
気づくことすら、なくて良かったんだ。
いないからこその「今」なのだから。

「…あいたい」

《え?》

「あいたかったんだよ……お姉ちゃんに。
あって、訊きたかったんだよ。
『私は間違ってた?』…って。そうしたら、救われる気がしたんだ。
それが叶ってない。
叶ってないのに、納得なんて出来るわけない。

でも…未来のためには、別に私なんてどうだっていいや。
だから、大丈夫。理解はしてる。
心配ないよ。大丈夫。
私のことなんて、気にしなくていい。

自分の心配だけしなさい。ユイ」

《それじゃあ、堂々巡りだよ。ヨルちゃん。
自分らしく生きる第一歩はね、自分で自分の心配をすることだと思うんだよ。
少しぐらい利己的になったぐらいじゃあ、誰もヨルちゃんを見限ったりしない。
私が、ユイが、保証するよ》

「何、それ…わかんない。
私、自分のことしか頭にない。元から。
…わかんないよ」

わからない。

自分のことがこんなに遠い。
私に私がわからない。
吹っ切ろうとしたのに。全てが終わるまでは、私のことなんて全部どこかに沈めようと思っているのに。

「あれ? ヨル?」

不意に元気な声が聴こえた。
ゆっくりと膝から顔を上げると、こちらに駆け寄ってくるバン君の姿が目に入った。

「どうしたの?
あ、気分が悪いのか?」

廊下で座り込んでいる私を心配してくれたらしい。
彼は私に駆け寄ってくると、心配そうに私の顔を覗き込んだ。

「作戦会議、終わったの?」

「うん。
俺はこれからオーディーンの整備しようと思って出て来たんだけど、それよりも廊下に座り込んで、どうしたんだ?」

「特に意味はないというか、少し疲れただけだから…大丈夫だよ」

「そっか。ヨルが部屋出て行くときさ、ジンがすごい心配そうな顔してたから何かあるんじゃないかと思ったよ。
そうだ。ヨルもLBXのメンテナンスしようよ!」

バン君は鉄の廊下に座り続ける私に手を差し出す。

「?」

思わず首を傾げてしまう。
状況が読めずにいると、苦笑しながらバン君が私の手を掴んで立ち上がらせる。
それから、にこりと笑って手を引いた。

「ほら。行こうよ!」

閃光のようなその笑顔に目が眩む。
ふらふらと連れて行かれた先はLBXの整備とかそういう細々とした作業をする場所なのか、ちょうどいい高さのテーブルとイスが置かれていた。
私はバン君が座った横にちょこんと座る。

《そんなに縮こまらなくてもいいのに…》

ユイのそんな声は聴かないことにした。

バン君は鞄からオーディーンを取り出すとメンテナンスを始める。
その動作を横から眺めていると、彼が不思議そうな顔をして私を見てくる。

ああ、そうだ。私がティンカー・ベルを出してないからか。

合点が行ったので、私はティンカー・ベルを取り出すと軽く点検する。
私はティンカー・ベルを使うのはあのヘリポートが最後だと思っていたので、それに向けて調節してあるから、実は準備万端と言ってもいい。

ティンカー・ベルの性能は市販よりも少し上なぐらいで、特殊な装備やギミックはない。
あったとしても私では操り切れないからだ。
その代わりにティンカー・ベルは出力が従来のものよりもずっと安定していて、初動から百パーセントの力が出せるようにしてある。
それをバトルが終わるまでずっと保てるようにしてあるのだ。
あとは私が頑張って、LBXの操作を向上させる。

私の小さな強さの秘密は、それだけ。
実にちっぽけなのだ。

「ティンカー・ベル、見せてもらってもいいかな?」

「あ…うん。見ても、面白くないと思うけど」

私はティンカー・ベルをバン君に渡す。
彼は熱心にそれを見ている。
なんだか恥ずかしい。
彼のオーディーンに比べれば、ずっと性能的には劣るしアーマーフレームだって不細工だ。

「へえ。ここがこうなってて…」

ユイのときに、私と彼で随分とたくさんLBXについて話したことを思い出す。
必死で叩き込んだ知識を総動員していたあの時。
楽しかったような、虚しかったような。

なんだろう。
あのときのことがあるからこそ、彼は私に良くしてくれるんじゃないかと思うんだけれど、それは私のような私じゃないような…。

「バン君は…さ、」

「ん?」

「私のこと、憎いとか思わないの、かな?」

「思わないよ」

私が精一杯に訊いたというのに、即答されてしまった。

「ヨルの行動はさ、すごくわかりにくいけど、元を正せば全部俺らと大して変わらないじゃないか。
父さんに協力してくれたし、ヘリポートのときだって結局俺らを巻き込もうとはしなかった。
ヨルが本当に悪い奴ならあそこで攻撃して、今頃こんなふうに世界を救うなんて言えていないよ。
ヨルは良い奴だ。仲間だよ。
ユイも仲間で、ヨルも仲間なんだ。
それで友達だ。
友達は憎んだり嫌ったりするものじゃないよ」

「……そう、なんだ。そっか」

彼の言葉はすんなりとはいかずに、色々なところに引っ掛かりながら私の中に落ちてくる。

ただバン君は存外すんなりと私とユイを個別に考えている。
混同せずに二人ではなく、一人と一人をちゃんと見ている。

なんかすごく変な感じだなと思いながら、スカートの端を握った。

「調子はどうだ? 二人とも」

背後から落ち着いた大人の声がした。

大人の声が少し苦手な私は肩を一瞬だけびくつかせてから、そろりと背後を振り返る。

「父さん!」

そこには山野博士がいた。
優しそうな目をした彼は私たちに近づくと、そのままバン君の隣のイスに腰かけた。

協力関係にはあったものの、私は博士と面と向かって話したことはあまりない。
『アルテミス』以後は常に音声通信だったし、『シーカー』にいる以上は檜山さんの監視下にあると言っていいから直接会うのは避けていた。

「こ、こんにちは…」

少し萎縮しながら挨拶すると、博士も「こんにちは」と穏やかに返してくれる。

大人の本当のあるべき姿というのはこういうものなのかな。

あまり視線を合わせないようにしていると、彼は少し目線を下に向けながら口を開いた。

「君たちには謝らなければいけないな。……こんなことに巻き込んでしまったことを」

「え?」

「あ、いいえ。私には…」

自己責任。
博士が私に謝る必要は微塵もない。
何か言葉はないかとしどろもどろになっていると、隣のバン君が博士と同じ優しい目の色をさせながら言った。

「俺は、父さんに感謝してる。
ここに来るまでに大切な人たちに出会えたから。
悲しい別れもあったけど、」

彼は一拍置いて、自分の胸に手を置く。

私はそれを気持ちが悪いとよくする。
その動作を見ながら視線を少し上に上げて、扉の方を見た。

「その人たちから託されたものはちゃんとここにある」

「バン…」

「父さん、この作戦は必ず成功する。
父さんが設計して、悠介さんが造ってくれたオーディーンがあれば…!
あ…!」

「………」

《何気に全員集合かな?》

そこにはみんながいた。
明るく見えるはずのものが暗いのは、こういうときに嫌な気分になる。
だから、そういうときはちょっとだけ笑う。
にこりと笑うと、それを遠くから見ているはずのジンが険しい顔になった気がした。

「それに、支えてくれるみんなだっているから。
父さん。家に帰ったら、もっとLBXのこと教えてよ」

「ああ」

バン君はそれからみんなに駆け寄る。
そうなると、私は博士と面と向かう形になる。
それはさすがに私が気まずいので、博士の横を通り過ぎてバン君たちの方に近づく。

横を通り過ぎる時、あれが親子の会話というものなのだろうかと感じていると、博士がこちらをじっと見ているのに気付いた。

「?」

「ヨル君。君は、覚悟は出来ているのか?」

「……出来てます」

「そうか。辛い選択をさせて、すまない。
それから、ユイ君にも」

《いいえ。色々なことが本来の形に戻るだけですから。
本物のユイだって、それを望んでいるはずです》

ユイが私に続けてそう言うと、博士は多分辛そうな表情をした。

別に私のことなんてどうでもいいから、そんな顔しないでいいのに。
その表情を観察していると、後ろから声が掛けられる。

「ヨル」

「………ん」

今日は本当によく声を掛けられるなと思いながら振り向くと、ジンが立っていた。
少し見上げるようになり、その体勢のまま待ってみるけれど後に続く言葉はない。

「何?」

「いや…気分は悪くないか?」

「大丈夫」

「そうか。無理はしないでくれ」

「? うん。わかった」

お互い距離を測りかねているのがわかる。
どうしたものかと思う私にジンが手を伸ばして、無造作に私の頭に置いた。
撫でることはない。
ただお互いに無言のまま、私はじんわりと感じる微かな熱を享受しながら…そっと目を閉じた。



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