67.茨の冠 (68/76)
あんなに優しい眼差しを向けられたのはいつぶりだろう。
あんなに優しい声が降って来たのはいつぶりだろう。
記憶にある限りは三年前が最後で良さそうだけれど、あの頃お姉ちゃんには幾分か悲しそうな何かが混じっていたので、ここまで純粋なものは本当に久しぶりだ。
向けてくれた当人は今は拓也さんに呼び出され、ここにはいない。
おそらくはもう研究所の方に向かっているのだろう。
常にある嘔吐感は未だに消えない。
反面じんわりと胸の中に何かが広がっていくのを感じながら、私はサイドボードのCCMを見る。
どこにも通信できないからとかなんとか言われて持ってきたらしいけど、見事にユイに担がれたんだなあ。ジン。
私はCCMを手に取ると、開いて話し掛ける。
「ユイ」
《はいはいです》
少し甘さがある声は間違いなくユイのものだ。
私のCCMがどこにも通信出来ないのは確かに正しいけれど、同時にユイには唯一どんな状況下であっても通信出来るようになっている。
加えて、CCMが起動していれば会話はほぼ筒抜けだ。
さっきの会話も全部聴こえていたということになる。
「状況は?」
「時間稼ぎが途中でバレたみたいだね。発射時間が早まった…元に戻ったかな。
もう私じゃ止められないね…。
『イノベーター研究所』に向かったよ」
「そう…」
ということは、あの人もいる。
私はベッドから起き上がると、手を開いて閉じることを繰り返す。
大丈夫。ぎこちない動きはもうない。いつも通り。
瞬きをする。
ほの暗く、くすんでいる。これもいつも通り。
何回かそうやって動作確認を行う。
大丈夫。動ける。
それが解れば十分だ。
「ティンカー・ベルは?」
《解析が途中…だけど、皆サポートに回ってるから見てる人はいないねえ。
いやあ、不用心。
ちなみにここの監視カメラは止めてあるよ》
「知ってる」
ジンが入って来たときから作動していないじゃないか。
ベッドの下に揃えてあったブーツを履く。
靴紐をしっかりと結ぶと、何回か鳴らして足に合わせた。
そしてベッドから立ち上がる。
煩わしいので、肩にかかっていた髪を払う。
「ティンカー・ベルをこっちに回して。
それから、人の目につかないルートを教えて。
ここから出るよ」
《目的地は?》
「『イノベーター研究所』」
《…バン君たちを助けに行くの?》
「そうなる」
《別に、ヨルちゃんが行く必要ないんじゃないのかな?
あの人だって、そこまで酷い目にはあわせないよ。
待ってれば帰ってくるから、待ってようよ。
『サターン』も発射されても…どうにかなるから、わざわざ会いに行く必要なんて…ないんじゃないかな》
「………」
ユイらしくない台詞。
声が震えている気がする。
甘い声が何に揺れているのかを考える。
記憶を遡り、色々な人の声と比較しながら…心配しているんだと気づいた。
それから心配の理由を考える。
こっちはまだ簡単だ。
「何言われようと『約束』を反故にしたのは、謝らなければいけない。
それは当然のことだよ、ユイ。
…それに私は生きてる。生きてるなら役に立たなきゃいけない。
あそこにはジンもいる。バン君たちもいる。
友達は助けるものだよね? 理由としては十分」
《そうじゃなくて…休んでたっていいんだよ。
ここは任せて、少し休もう?
最近全然寝てなかったでしょ。
今のまま…行っちゃだめだよ…》
「? お母さんに怒られるんじゃないんだから、大丈夫だよ。
それより早く…」
《そうじゃなくて…!
そうじゃなくて、今のヨルちゃんじゃあ、ダメだよ。
もっと色々吐き出してからにしないと…!
あそこに行ったら、もっと溜めこむことになるだけだよ》
必死の声が何に必死なのか、わからない。
確かに吐きたいけど、今吐くわけにはいかないし…そんな意味で言っていないのはわかるけれど…。
それにあれは脳が痺れた感じになるから、嫌だなと思う。
ああ、でも…正しくない気がする。
この考えは多分違う。
違うのにわからない。
それがどんどん自分の首を絞めていく気がする。
これはいけない。
息が苦しくなる。
なんで、私の体はすぐにこうやって当たり前が出来なくなるんだろう。
「行動してる方が、吹っ切れていいよ。
それでいいよね?」
《それは…違うよ。
吐き出すのと同じで、拾わなきゃ。
まだ何一つも拾えてないのに…!》
「?」
私、何か忘れたかな。
何もしてなかった気がする。
忘れるほどのものがあったとも思えない。
それよりも彼女は自分の心配をした方がいいと思う。
彼女はこれから確実に消えることになる。
でも…今それを口に出したら余計訳のわからないことになりそうで、言えなかった。
どうしたものかと思っていると、肩に重みを感じた。
視線を少しだけ移動させる。
エメラルドグリーンの塗装が見えた。ティンカー・ベルだ。
ちゃんとこちらに回してくれたらしい。
「…とにかく話は後で。
行こう」
長引かせるよりいいかと考えて、扉を開けようとする。
そうしようとしたところで、黒髪が少しだけ気になった。
これは私の色じゃない。
ユイではない以上、このままでいるわけにもいかないか。
「ねえ。ユイ。
これ、髪の色ってどうにかなる?」
《……え?》
「戻したいんだけど」
《え、えっとね…サイドボードのボトル、あれで落ちるよ!
新製品!
もうすぐだよ! すぐ!》
声が明るくなる。
良かった。
やっぱり明るい方がいい。
「ああ。何かと思ったら…」
サイドボードのボトルを手に取る。
ちゃぷちゃぷと音がするそれの説明書きを見る。
ユイの言う通り、短時間で出来そうだ。
まあ、ぎりぎり間に合わないこともない。
《亜麻色の方が似合うものね。
ヨルちゃんはやっぱりその色だよ》
いつかの日のように、ユイがそう私の色を褒める。
緊張感の欠片もない。
そういえば、いつでもそうだったなと懐かしく思い出した。
何回目だろうか、こういうふうに思い出すのは。
少しだけ感傷に浸りつつ、私は思考を目の前のことに戻すことにした。
とりあえずは色を元に戻そう。あの憎たらしい色に。
■■■
お祖父様を殺したのは……レックスだったのか…。
画面の向こうの彼から告げられた真実に思考が遅れながらも付いてくる。
いや、思考に真実が追い付いたと言うべきか。
本物のお祖父様がいない以上、どこかでこうなっていることはわかりきっていた。
それでも、これは堪える。
状況は芳しくない。
指令室の扉は閉ざされ、全てが終わるまでここにいろと言う。
『サターン』は発射されてしまった。
あれを止めなくてはいけない。
こんなところで悠長に見ている訳にはいかない。
そうだというのに、どうにも出来ないこの状況はまるで……
《バン。何が出来るというんだ》
「俺は…俺は…最後まで諦めない!」
バン君のその言葉が暗い考えを晴らしていく。
諦めない。諦めないからこそ、ここにいる。
《全て手遅れだ。大人しくそこで見ていろ》
「くっ…!」
「俺も諦めねえぜ…! うわっ!?」
カズ君の素っ頓狂な声に振り返ると、閉ざされていた扉がゆっくりと開いていく。
そこにいたのは、幾分かくたびれた服装の山野博士。
「父さん!! …と、それから…」
思わず目を見張った。
博士の横のCCMを持ったその姿に。
青い瞳に、亜麻色の長い髪をした、
「ヨルっ!?」
まだ『シーカー』本部にいるはずの雨宮ヨルがそこにいた。
肩にはティンカー・ベル。
山野博士の一歩後ろに着き従うようにして、指令室に入ってくる。
カズ君やアミ君と彼女の目が合う。
二人とも不思議そうにしている。
当たり前だ。
彼らには本人から言うべきだろうと彼女の名前は教えていないし、あの髪色はこの場では僕しか知らないのだから。
「え…と…あ! 妹!」
「髪の色全然ちげえ!」
「…それ、今必要?」
微妙に緊張感に欠けた会話は、しかしすぐにレックスの声によって遮られる。
《やはり来ましたか。山野博士……それにお前も。
まあ、わかりきっていたことではあるが。
てっきり八神あたりが来るかと思ったよ》
「…お久しぶりです。檜山さん。
八神さんには無理を言って、私が博士に付いて来ました」
視線を少し上に持って行ったヨルは、睨むようにレックスにそう言う。
青い瞳が濁るのが確かに見えた。
レックスがその姿を鼻で笑う。
《お前、死ななかったんだな》
全てを知っているかのような低い声がした。
その一言でわかる。
彼女は僕らの敵で、レックスの味方だったのだということを。
■■■
檜山さんは語る。
彼の父親のこと、計画の全貌。
私はそれを静かに邪魔にならないように聴いていた。
ユイも沈黙を守っている。
海道義満氏によって責任を押し付けられ、最後には死んだ父親。
バラバラになった家族。
それに対する復讐。
復讐をその裏にいる権力者へと向けたこと。
彼のメッセージを全世界に伝えること。
ほとんどは私の知っていることだ。
そして、目の前の彼らには言えなかったこと。
私が彼らの敵であるということは、決して間違いではなかった。
山野博士は言う。
『科学者こそ人間の良心を忘れてはいけない』と。
彼が説得する言葉がまるで自分に言われているように感じる。
ふと視線を上げると、私よりも高い位置にいるジンと目が合う。
その眼差しは少し険しい。
私は安心させようと思って笑ってみるけれど、余計に険しくなった。
その意味を理解しようとする前に、全てを話し終えたはずの檜山さんが私へと視線を向ける。
《しかし、お前が裏切るとは思っていなかったよ。
まさか…山野博士と通じていたとはな。
いつからだ?》
「……海道邸に侵入する少し前です。私の方から連絡を取りました。
直接会ったのは『アルテミス』が初めてですが…」
「それ以来、彼女は私に協力してくれている」
「そんなに前から?」
バン君が驚いたように訊いてくる。
私はこくりと一つ頷いた。
この場の視線が私に向けられているのがわかる。
「海道邸天井に爆弾を仕掛けたのは私です。
檜山さんの動向や『イノベーター』について得られる限りの情報を、山野博士に伝えていました。
恩を仇で返すような真似をして申し訳ありません。
『約束』を果たせなかったことも」
「『約束』って、もしかして…」
《ああ。そうだな。
お前が死ななかったのは予想外だ。
せっかく『シーカー』に入れるためにした小芝居も台無しじゃないか。
おかげで心配事が一つ増えたよ。大したことじゃないが。
お前に才能がないのが功を奏したな》
「そうですか。たまには役に立ったようで何よりです」
どうあれ、人の役に立つこと自体は私にとっては良いことだ。
本心からそう言うと、隣にいたアミちゃんが肩を掴んできた。
爪が喰い込んで痛い。
「貴女ねえ! レックスに死ぬように言われて、死ななかったことを責められて!
何が『何より』よ!
少しは嘆きなさいよ!」
「そんなこと言われても…。
というか、今はそれどころじゃないから」
微妙に我慢している吐き気が込み上げてくるので、揺らすのは止めてほしい。
何故か悔しそうなアミちゃんの顔と山野博士の難しそうな顔が見えた。
私が吐き気に耐えていると、ジンの静かな声が室内に響く。
「何故、ヨルを貴方の味方にした?
『約束』をさせたんだ?」
《ユイが必要だったからだ。正確には、ユイの感情を処理するAIプログラムが必要だったんだ。
あれの性能は現存するAIプログラムの中でもトップクラスだ。
ジン。アンドロイドの海道義満は優秀だっただろう?
フェアリーを見ただろう?
俺の計画に十分に貢献してくれている》
その言葉に私は目を伏せる。
人間の感情というのは複雑だ。
外界からの干渉の種類によって感情は変わり、それが一つの感情から構成されるとも限らない。
過去の記憶から感情を生み出すこともある。それが肉体に影響を与えることも…。
私みたいに本音と建前を使い分ける場合もある。
人間は生まれながらにして、そんな複雑で難しくて当たり前のものを持っている。
それを処理する機械の方には相応の性能が求められる。
ユイをベースにしているからそれほど感じないかもしれないけれど、彼女はすごいのだ。
彼はそれを欲しがり、私は完成させるための資金が欲しかった。
例え最後には破壊されるとわかっても、ユイを完成させたかった。
私は始めから何もかも上手くいかないということをわかっていたのかもしれない。
《ただし、問題があった。
ユイが動かせるのは初期に組まれたプログラムに書き込まれた家族だけなんだ。
噂を聞きつけ、俺が協力の打診に行ったとき、父親は既に死んでいた。
もう動かせるのも、完成させられるのも一人しかいなかった。
だから、味方に引き入れた。
アンドロイドを整備するのにも役に立ったぞ。
役目を与えれば、それなりの成果は出す。
ただし…今のように、敵に転がる可能性もある。
その前に対策を立てておくのは当然だろう。
ユイに俺に協力するように命令させ、そのまま死ぬことを約束させた。
幸い、そいつには俺の求める絶対的な才能はなかった。
後々切り捨てるのにも丁度良かったんだ》
「………」
その通りだ。
私には才能がない。特別なものが何もない。
人並みになるのだって時間がかかる。
そんな人間を切り捨てるのは当然だ。
彼は合理的なことをやっている。
それに不満はない。
そもそもお互い同意の上だ。
責めるのもおかしいし、文句など言うものか。
私は緩んでいたアミちゃんの手をそっと離す。
《むしろ俺の方が訊きたい。
人を裏切るのは悪いことだろう? 何故、お前は俺を裏切った?》
「……単純にユイとして考えただけです。
私は良くても、ユイはこれからを生きる存在です。
立場が悪ければ、どんなに人間らしくてもバレる可能性はあります。
ただでさえ機械に身体的成長は出来ず、疑えば切りがない。
貴方がやったように、対策を立てたまでです。
ボディを用意するという約束も有り難かったですが、心配事は少ない方がいいですから。
…まあ、それも今となっては無駄なことですが」
《なんだ、てっきり家族が嫌になったのかと思ったぞ。
保身ですらないのか》
「誓ってそんなことはありません。
自分を生きたいというのはありましたが、ユイの次でそれほど問題はありませんでしたし…。
それに家族のことを憎んでいたのは確かにありますが、今でも愛していますから」
心から私は言った。
どんなに誰かに自分を語ってみても、根本で私は変わらない。
ジンの顔が何かで苦しげに歪むのが見えた。
彼の祖父のことを知っていて話さなかったことを責めているのか…。
私にはわからない。
あの顔を何もわからぬままに見ているのは、辛い。
《そうか。結局、お前はそういう人間だったのか。
読めない奴だったが、そこまでわかっていて本当に根本がわからない人間だな。
それとも、元々そういう人間なのかもな…。
どちらにしろ、俺にはもう関係ないがな》
「そうですね……。
そもそも貴方がユイの本体を『サターン』に乗せるということがわかった時点で、決別は目に見えていたのかもしれません。
基礎が優秀なのも考えものでした。
私がどう足掻こうとも、私の計画は脆く崩れていたんですよ。
馬鹿で間抜けなのは今も昔も、なかなか変われませんね」
本当に。私はいつまでも馬鹿なまま。
《ふっ。ははははっ。お前は相変わらず、それか!
まあいい。
俺は俺の目的を果たす。じゃあな》
そこで通信は途絶えた。
砂嵐のような画面を私はずっと見つめていた。
いつもある黒いものが溢れるのを抑え、意識的に呼吸をする。
それをジンが私の手を引き、指令室から連れ出すまで続けていた。
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