66.私の、物語 (67/76)


ロックを解除して医務室に入ると、簡易ベッドの上に彼女が眠っていた。

その寝方は特徴的で背を丸め、まるで卵の中に収まるかのように手足を折りながら眠っている。
その姿に子供部屋の布団を思い出した。
本やノートが積み上がり、眠るのには窮屈そうだった。
僕は静かに椅子を引いてベッドの傍に座る。

眠りは相当深いのか、起きる気配はない。
僕はサイドボードに彼女のCCMと液体の入ったボトルを置くと、少し考えてからその掌をそっと開かせる。
ぽたりと血を流していたその手には既にカサブタが出来ていて、もう血が流れることはなかった。
それに少しほっとする。

僕が手を離そうとすると、彼女が小さく身じろいで青い双眸がゆっくりと開かれた。


■■■


私は家族が大好きだ。愛していると言っていい。
小さい頃からそれだけは変わらない。
家族に愛してるなんて言葉を使うのはおかしいけど、愛情を表現する最上級の言葉だと思うから使うことにしている。

でも、なんで好きなの? と言われると少し返答に困る。
だって家族だから、好きって当たり前の感情ではないのだろうか。
愛情を向けるのは当然で、愛するのは必然なんじゃないのだろうか。
家族の幸福を願うのは義務じゃないのだろうか。
そこに明確な理由はない。
理由なんていらない。

そのことをお姉ちゃんに話したら、アーモンド色の瞳を困ったように揺らしながら私の頭をゆっくり撫でた。

「そっかあ。良い子だね。
大丈夫。大丈夫。私が…お姉ちゃんがいるから、大丈夫だよ」

大丈夫。

その言葉はお祖母ちゃんもよく言っていた。
トキオブリッジの崩壊事故で死んでしまった、ロシアで一緒に住んでいた私のお祖母ちゃん。
小さい頃からよく聴いていたその言葉は、今でもよく心の中で呟くようにしている。
そうすると、本当に大丈夫な気がする。
だから、よく呟く。
大丈夫。大丈夫。大丈夫。
でも、何が大丈夫なんだろう。
私はお姉ちゃんほど頭が良くないので、未だにその答えがわからない。

お姉ちゃんと私は双子なのに、似ているのは顔ぐらいなもので他は全然似ていない。
お姉ちゃんのお父さんとお母さんの色が調和した色が私は大好きだった。
その色がずっと欲しかった。今でも欲しくてたまらない。
でも、私の色は青くて亜麻色で…全然似てない。
いつかロシアで見た写真の中の曾お祖母ちゃんの方がそっくりだった。
それはそれでいいけれど、やっぱり私はお姉ちゃんの色の方がいい。
そう言うと、決まってお姉ちゃんは私の色を褒める。

「私は青い方がいいなあ。
青って、空の色で海の色でしょ。
自由な色だと私は思うんだ。
それからね、幸せの青い鳥!
だから、きっと貴女は幸せになれるよ」

「…お姉ちゃんが言うなら、きっとそうだね」

お姉ちゃんは頭の良い人で、大抵のことは私なんかよりずっとよく出来た。
だから、彼女の言うことは正しい。

私とお姉ちゃんは小さい頃に別々に引き取られたけど、仲が良くて、休みの日はよく二人で遊んだ。
お互いに家で遊ぶことはほとんどなくて、公園とかに集合して遊ぶ。
家で遊ぶとお母さんは嬉しそうにするけど、お父さんは良い顔をしないからだ。

お姉ちゃんと一緒にいるのが好きだった。
お母さんの笑顔も見れるし、お父さんの話も聞けるし、何よりお姉ちゃんと一緒にいると世界が輝いて見える。
きらきらしていて、綺麗で美しくて…なんでも素晴らしいものに見えるから不思議だ。
彼女がいなくても、彼女とのお話とか目の色とか髪の色とか…そういうのを思い出すだけで、世界が色鮮やかになる。
私の当たり前の一つ。
家族が大好きなのと同じぐらいに当然のこと。
私がお母さんに笑顔を向けてもらえなくて、お父さんに冷たい目で見られるのと同じ。
当たり前。常識。
うん。それが正しい。

私はお母さんにもお父さんにも、あまり視界に入れてもらうことがない。
それが当然だと思っていたし、一般的なものだと思っていた。
大好きなのだから、大した問題でもないとも。
小学校に行っても友達の家に行ったことなんてなかったし、これが一般的なものではないという考えがなかった。
知識がなければ、おかしいなんて思うはずもない。
知ったのは、いつだったか。
きっかけは…お姉ちゃんだった。

その日、私はふと思い至って、お姉ちゃんとお父さんを訪ねることにした。
確か…父の日だったかな。
お父さんにありがとうと言えば、ありがとうと返してくれるかもしれないと閃いたのだ。
お母さんはお父さんが大好きなので、一人で会いに行ったと言えば怒るに決まってる。
私はこっそりと家を出ることにした。

ずんずんと歩いて、いつも遊んでいる公園を通り越して、ちょっと遠い鳥海家を目指す。
道中、そういえば…私はお父さんに何を感謝すればいいのかな? と考えた。
困った。理由がない。
お父さんだから、ありがとうでは味気ない気がする。
一生懸命考えて、でも結局適当な理由が浮かばなかった。
そうこうしているうちに鳥海の表札を見つけて、でも理由も浮かばないままチャイムを鳴らすのもなんか変で…しばらく玄関で考え込んでいると、笑い声がした。

あ、お姉ちゃんの声だ。

声のした方、家の小さな庭の方に気配を潜めて行ってみる。
庭に向いた大きなガラス戸の傍まで寄ると、ぺたんと体育座りをしてその声を聴く。
お姉ちゃんの一方的な他愛もない話が続く。
私との話とかが時々話題に上っていたけど、お父さんからの返答はない。
当たり前のことなので、それは別に変に思わなかった。
でも、お姉ちゃんがこの前あったというテストの話をして…普段は「やる気なーい」と言いながら手を抜いている彼女が珍しく満点を取ったという話をすると、空気が変わるのがわかる。

「よくやったな。ユイ」

優しい男の人の声がした。
瞬間、それが誰のものかを理解した。
私の聴いたことのない優しい声音。お父さんの声だ。

あれ? なんで、そんな優しい声になるの?
私がお姉ちゃんとお父さんに会う時は、全然喋らないで冷たい目ばかりするのに。
記憶を漁ってみるけど、それ以外の記憶がない。
でも、そうだ。お姉ちゃんはお父さんは優しい人だよと言っていた気がする。

胃から嘔吐感がせり上がって来る。
何が起こっているのかわからないのに、体が勝手に嘔吐しようとするのを必死で抑える。
私にはお母さんから言いつけられていることがあるから。

「良い子にしてなさい。
特にお父さんには迷惑かけないで」

それを守っていれば、いつか褒めてもらえると信じていたし、ここで吐くのは悪いことだ。
私は口を手で抑えて立ち上がると、音を立てないように注意しながら庭を出て行く。
お父さんがどんな目であの声を出したのか…気にはなったけど、それを見てしまったら何もかも壊れる気がして見れなかった。
近くの公園のトイレに顔を突っ込んで嘔吐しながら、私は漠然と思った。

もしかして、私っておかしいんじゃないのかな。

わからない。わからないけど、何かが噛み合っていない気がする。

胃液まで吐き出して、漸く落ち着いたところでふらふらとしながらもトイレから出る。
陽の光に目がチカチカした。
それから、公園で遊ぶ親子を見たら、なんだろう…視界がほんの少し暗い気がした。
いつもは輝いて見える光景なのに、その時に限って色々なものがくすんで見える。
私はお姉ちゃんの色を思い出してみる。
そうすると世界は輝きを取り戻していた。

ほっとする。良かった。おかしくない。
私はさっきのことも気のせいだと思うことにして、家路に着くことにする。
お父さんにはありがとうと言えなかった。
言えなかったけれど、今更どう言えばいいかわからなかった。

その日から、私はもやもやとした…それでいてドロドロした真っ黒いものをお腹の中とか心に抱えるようになった。
ふとした瞬間にそれは溢れて来て、止まらなくなる。
例えばお母さんのお父さんの写真を見つめる表情やクラスの子が親に甘えているのをたまたま見た時とか…そんな瞬間に。
でも、それを体の内側から外に出すわけにはいかなくて…。
そうなってくると、決まってお姉ちゃんと遠い昔にした会話を思い出す。

「お姉ちゃん。良い子って、どうやったらなれるの?」

「うえ? 突然だね。
うーん…家の手伝いするとか、一生懸命勉強するとか…」

「勉強は…頑張ってみるけど…」

「えーと…そうだなあ。じゃあ、人助けとかは?
あとは他の人を困らせないようにするとか…。
人助け…人助けかあ。うーん、私もやってみるから、それでどうかな?」

「わかった。それにする」

人を助けること。迷惑をかけないこと。
良い子にしていればお母さんが振り向いてくれると信じているから。
黒い何かを内側から出したら、人に迷惑になるから、しない。
でも溜めておくと吐き出したくてしょうがなくて…そういう時は大丈夫って呟く。
それから、お姉ちゃんのことを思い出して、見えるものすべてが鮮やかに色づいていくのを待つ。
鮮やかになるまでの時間が息苦しい。
とても時間がかかるけど、必ずその瞬間は来てくれるから我慢する。
誰にも苦しいなんて言えない。
呼吸の仕方も忘れそうになる。
無意識の行動を忘れるなんて、変な話。
変だけど…それぐらい辛くて、苦しい。

こんなの捨てられればいいのに…。

そう思って、そう感じる瞬間をなんとなく俯瞰で見つめるようにしていたら、何とはなしにそういうのが感じづらくはなった気がした。
楽になるわけじゃない。
やっぱり苦しいけど、幾分マシかもしれない。
その程度だけど、やらないよりは良い気がした。
ちょっとだけ自分が薄っぺらくて、何をどう感じたらいいかわからなくなる時もある。
比例して真っ黒いのも増えていくけど、対処法はあるから大丈夫。

そんなことをずっと続けていた。
お姉ちゃんとも相変わらず仲が良くて、だから…大丈夫かなって思って…出来心で言ってしまった。

「私、お姉ちゃんになりたい」

去年はライトブルーのリボンを貰ったなと思い出しながら、誕生日に何か欲しいものはあるかと訊かれて私はそう答えた。
何気なく言うと、彼女は「わかった」と言った。

思えば、これが間違いだった。

「一日だけだけど、髪の色を黒くしてみない?
それからカラーコンタクトを入れるの。髪の長さは…えーと、結ぶ?」

あれこれと意見を出し合って、その日はやって来た。

今でもあの日のことをよく憶えている。
一緒に歩いていた私たちに大型トラックが突っ込んできて、私たちの前にいた男の人とお姉ちゃんを巻き添えにして事故を起こした。
私の目の前を驚いた眼をしたお姉ちゃんが腕を伸ばして通り過ぎていく。
私が手を伸ばすよりも先に、べちゃっと嫌な音が耳に届いた。
温かい何かが服とか肌とかに張り付くのがわかった。

何が起こったのかわからなくて、視線をお姉ちゃんに移すと血だまりに手と荷物だけが転がっている。

震えながら、その手に自分の手を伸ばす。
血が付くのなんて気にせず、生温かい手に触れる。
ぐっと引っ張ると潰れた部分から血が溢れた。

「お姉ちゃん? ……ユイ?」

名前を呼ぶ。
車の破片の隙間からユイの体を覗き込むと、原形のない体とぎょろりとしたアーモンド色の目が見えた。
体中から、真っ赤な血が止めどなく流れている。
お姉ちゃんのその姿を見た時、胃の底から慣れ親しんだ吐き気がやって来た。

でも、吐いちゃいけない。
お姉ちゃんを汚しちゃう。
気持ち悪くて涙を流しながら、なんとか呼吸する。
サイレンの音や周囲の人の声がするけど、何を言っているのかよくわからない。

「お姉ちゃん? お姉ちゃん?
ねえ…違うよね。だって、こうなるのって…」

私の方じゃないの?

続けようにも言葉が出てこない。
気持ち悪いのか、悲しいのか…よくわからない涙が零れる。
涙が零れる中、同じぐらいあの真っ黒な泥がどこか体の深い場所から溢れてきた。
どっちも止まらない。
でも感情はどこか遠い場所にあって、今どんなことを思えばいいのか自分でわからない。

ただ…一瞬だけ、思ったことがある。

もしかしたら、もしかしたらだけれど…万が一に違いないけれども、私にもあの優しい声が掛けられるかもしれない。

そう思ってしまった。
そんなこと考えてはいけなかったのに。
証人なんて誰もいない、私しか知らないことだけれど、思ったことは私の中から消えてはくれない。
ただ良かったのか悪かったのか、そんなのこと、どうやったって叶うはずもなかったのだけれど。

お姉ちゃんの死体を前にして、お父さんが言った言葉を私は忘れない。

「死んだのは双子の妹の方です。ユイでは、ありません」

毅然とした、それでいて私にもわかる嘘つきの顔をして淀みなくお父さんはそう言った。

いくらなんでも無理がある。
確かに髪の色も瞳の色も、私はお姉ちゃんそっくりだ。
彼女の顔はもう見るも無残で、私かユイかなんてわからない。
状況が飲み込めない中、これだけはわかった。

「私、お姉ちゃんになりたい」

私のその願いは思わぬ形で叶って…しまった。


自分のお葬式というのは変なものではあったけれど、私にとってはお姉ちゃんのお葬式で特別だった。
参列者の少ないお葬式の中、私はずっと私の傍に付き添っていた。
お母さんが初めて私を抱きしめてくれた。私じゃなくてユイに対して。
堪らなく嬉しいのに、なんだか遠い場所の出来事のようにそれを受け止めた。
お母さんはすぐにお父さんを探してどこかに行く。

その姿はどこかくすんで見える。
というよりも、見えるもの全てがくすんでいる。
変だなと思って、ごしごしと目を擦ってみるけれど治らない。

「…?」

その時は気づかなかった。
気づけっていう方が無理…だったのかなあ…。

一日中、何故かくすんだ視界が元に戻ることはなかった。


お姉ちゃんが死んで始まった私とお父さんの生活は…特に何もなかった。
お父さんはユイを造ることに必死になっていたし、私と会話してくることはなかった。
名前を呼ばれることもない。
視界に捉えてくれていたかも、今ではもうわからない。
お父さんの一生懸命な背中を見ているのは大好きだったから、大丈夫だと私は言い聞かせた。
そのうち、お母さんも病気で死んでしまって、後を追うかのようにお父さんもユイを完成させられることが出来ずにぶらりと天井から吊るさった。

私にはユイだけが残った。
彼女を完成させることが、私は正しいって信じることにした。
大好きだから、愛してるから。ただそれだけで良かったから。
だから、他人の手を借りてでも完成させた。
ユイと同じ声で、同じような思考を持っているのに…何故だろう。
私にはどうにもお姉ちゃんと呼ぶことが出来なかった。

ユイの姿で、ユイみたいな笑顔で外に出てみる。
あんなに美しかったはずの世界がやっぱりくすんでいる。

黒いのが溢れだしてくる。
息苦しい。寒い。こんなの嫌だ。
反面、お姉ちゃんはこんな痛みじゃなかっただろうという冷静な考えが過ぎる。
それに比べれば、どうってことない。だから、いつもみたいに一人でどうにかする。
いつものようにお姉ちゃんの色を思い出す。
思い出しているのに、どんなに思い出しても思い描いても、色彩が戻ってきてくれない。
くすんでいて、ほの暗く、輝かない。
これが私の本来の視界なんだろうか。
私の見ている世界というのは、こんなものだったのだろうか。
お姉ちゃんがいなくなってから、ずっとこのままだった。

ああ。そうか。
ユイは私の目だったのかもしれない。
私が見ていたあの輝いた世界は、全部彼女のものだったのかもしれない。

お姉ちゃんの目を通さないと、見ることすらままならない。

そう考えると、私の信じていたものが全て実は嘘ばかりだったんじゃないかと思えてきた。
考えれば考えるほど、止まらなくなる。
お母さんの言葉やお父さんの目の意味を考える。
私の思いは変わらないけど、同じようにあの人たちの思いも変わらなかったんじゃないのか。

ジンに言われるまでもない。

答えは簡単で…始めからそこにあった。
本当はずっと気づいていたのかもしれない。
いつからか、好きという気持ちにすり替えていたのか。
どこから? どうやって? どうして?
考え続けると、また息が出来なくなる。苦しい。辛い。
本当に生きるために必要な当たり前のことすら出来なくなっていく。
大丈夫なはずなのに。

大丈夫? 何が大丈夫なの?
私は全然大丈夫なんかじゃない。

あの美しかった世界は返ってこない。
他の誰でもダメだった。
その人たちがダメなんじゃない。多分、私の方がおかしい。

こんなことなら、ずっとこのままの視界の方が良かった。
始めからこんななら、家族を大好きだと言うこともなかったかもしれない。
愛さないですんだかもしれない。
こんなことで気づきたくなんてなかった。

私はなんでお姉ちゃんと仲良くしていたんだろう。
なんで、あんな愛しくて残酷なモノの傍にいたんだろう。
後悔した。今もずっと後悔している。
私のお腹とか心とか、そういう感情の溜まりやすい部分から、あの黒く暗くドロドロとした何かが殻を破ろうとゆらりと蠢いている。
この正体を知っている。
それでいて、同じ場所にそれを飲み込むかのようにほのかな温かさがある。
憎くて、愛しい。
大嫌い…でも大好き。
同じものがお父さんとお母さんを見ても溢れてくる。

気持ち悪い。
体が常に重たい。何も背負ってなんかいないはずだというのに。
体中でそれらが混ざり合う感覚。ぐちゃぐちゃになって、やっぱり息が出来ない。
生きるための行為が満足に出来ない。泣きたいぐらいに虚しくなる。
なのに、涙が出てくれない。
だから、わざと口に手を突っ込んだりして生理的に涙を流す。胃の中を空っぽにする。
物理的に体を軽くする。
そうすると、体が心地の悪い浮遊感と倦怠感を帯びる。その瞬間が、一番楽だった。
頭が痺れて、気持ちが悪いこと以外は何も考えずにすむ。

自分がおかしいことに気づいてから、私はずっとそうやってきた。
笑いながら、こんなことを考えている自分に嫌気がさす。

私なんて大嫌い。誰よりも何よりも、大嫌い。大嫌い。

それでもお姉ちゃんのフリをし続ける。
お姉ちゃんらしくすると、夜は一日分のあの感覚が襲ってくる。
でも吐いたら、次の日はお姉ちゃんらしく笑えないから、必死で勉強したり機械を解体してみたりして、とにかくとことんまで疲労させて、何も考えず眠る。
生きる分の最低限の行動をする。
嘔吐することは私のその行動の一つで、次の日に響かない休日に決まって胃液が出るまで吐くこともしばしばあった。

そんなことを気が遠くなるぐらいに繰り返して、心も体ももう疲れた。
お姉ちゃんへの罪悪感からか、両親への献身からか続けて来たユイの真似事を続ける必要もユイが完成した以上はもうない。
私は必要ない。
もともと必要なんかじゃなかった。
いなくなっても大丈夫。「約束」も口実としては十分だ。

まあ、いっか。もう、いいや。

そう思うと同時にこんなことも考えた。
私はずっと前から私を生きていない。私の名前を呼んでもらっていない。
私の感情が遠い。私の声がどこか遠くで響いていて、異国の歌みたいに聴き慣れないものになっている。
私が遠い。私は私のはずなのに。
食事しているときや眠っているときは確かに私なのだろうけれど、そういう人間として必要なことだけが生きていることに該当するとはとてもじゃないけど思えなかったし、言えるはずもなかった。

そうだ。もうこの後のことを考えなくていいなら、少しぐらいは私は私を生きてみたい。
短い間なら誰にも文句は言われないかもしれない。
それを咎める人もいない。認めて欲しい人もいないけれど。
私が私を生きられたら、何の後悔もなくユイにユイを返そう。
そうだ。それがいい。
結局は色々なものが噛み合わなくて、「約束」を果たせなかったとしても…。
自分の意志で、私はそう決めたから、そうしよう。

でも、困った。
私には、長い間お姉ちゃんの思考ばかりを通してきた私には、私として生きる方法がわからない。
ずっとこのままなのかもしれない。
そう思っていた時、彼が…海道ジンが私の目の前に現れた。
私が私だった時を知っている人。
私の名前を憶えていてくれているかもしれない人。
彼をきっかけにしたら、私はもう一度私を生きられるかもしれない。

一生懸命考えて、他人に迷惑をかけることを自分に納得させて、私は彼に一方的に賭けることにした。
灰原ユウヤを利用して、それに伴う身勝手な吐き気を抑え込み、彼をくすんだ視界に捉え、出来るだけ自然な言葉選びをする。


「……何をやっているのかな? 君」


涼しげな自分の声が、久しぶりに私に馴染んでいく気がした。


■■■


青い瞳が僕を捉えるのが見えた。
ゆっくりと呼吸し、視線を二、三度動かしてからまた僕へと視線を向き直す。

「……」

「目が、覚めたか?
どこか痛いところはないか? 気持ち悪いところは…」

まるで母親のようだなと思いながらそう訊くと、彼女は不思議そうな目をしてから、何故かその体勢のまま手を開いたり閉じたりした。
その手の中には離し忘れた僕の手がまだある。
開いたり閉じたりするときに、赤ん坊が親の指を握るように柔らかく握られる。
少しくすぐったい。
何回かそれを繰り返すと彼女の方から手を離し、ゆっくりと起き上がった。

「……大丈夫」

妙に子供っぽい声で答えた。
涼やかな声ではあるけれども、幼さがある。
記憶の中のあの幼い姿と少し重なった。

「ねえ…記憶、繋がってないんだけど…ここ、どこ?」

「医務室だ。
君は倒れて運ばれたんだ」

「そう。そっか…倒れたのか…。私、吐いた?」

「いや。嘔吐してはいない」

「……そう。良かった」

その言葉が次に続くことはない。
僕と彼女の間に沈黙が流れる。

青い目を深く淀ませながら、その視線が僕の輪郭をなぞる。
目だけが別の生き物のように動く。
少し居心地の悪さを覚えながらも、悪意がないことはわかるのでそのまま反らすことなくその視線を受け止める。
自分が壊したという罪悪感を実感するかのように。

彼女はこんな僕をどう見るのだろう。
身勝手に彼女を救おうとした僕をどう見るのだろう。
あんな黒々とした感情を引きずり出したのは、間違いなく僕だ。
それは受け止めなければならない。
罵られて当然だとも思っている。
沈黙の後に来る言葉を待ちながら、ほんの少しだけ僕が彼女を助けようとした目的は果たされれことはないだろうなと未練がましく思った。

「ねえ、この部屋…明るい?」

言葉は予想外のものだった。
僕はしばらく言葉を頭の中で噛み砕いてから、そのままの意味でいいのかと悩みながらも口を開いた。

「普通だと思うが…」

明るさは平均的なものだと思うが、それを言っているとは思えなかった。
だからといって、彼女が言いたいことがわからない以上迂闊に答えるわけにはいかない。

「…私は……暗い。

もうずっと暗い。お姉ちゃんがいなくなってから、見えるものが全部くすんで見える。
そのことに気づいてから、ジンたちに言ったみたいに思ったんだ…。
私の見るものは嘘ばっかりで、本当は正しくないんじゃないかって。
そんなこと信じたくなかったから、もう一度あの輝いている世界を取り戻そうと思ったの。
だからバン君たちに近づいた。
ほら、LBX触ってるときって、目が輝いてるよね? バン君たち。
私が見たいものにとても近い気がしたんだけどなあ。
同じものを見ようと思ったけど、無理だった。
私にはあの小さな玩具が、道具にしか見えなかった。

結局、全部無駄だった。

あのね、ジン…私は、自分勝手かもしれないけど…私は私を生きてみたかった。
それだけなんだよ。

私、間違ってた?」

「それは…僕にはわからない…」

あのときのように、そう答える。
僕が答えていいものでもない。

僕がそう答えても、彼女はイオでもユイでもない彼女自身は淡々と僕を見ているだけだ。

その青い瞳には自分がなさ過ぎていた。

目の前にいるのに、彼女自身が遠い気がしてならない。
近いけど遠いという言葉がよく似合う。
追いつけない果てしない距離がある。

「僕には、答えは出せない。
でも…手助けすることは出来る」

「?」

考えるよりも先に口を開いていた。
自分で言っていて、なんて易い言葉なのだろう。

「答えは、出せない。
それは君が自分から見つけるしかない。
でも…手助けは出来る。
君が答えを見つけるまで、それまで…君が望む限り僕が傍にいる」

彼女の瞳をまっすぐに見つめて言う。
青い瞳が丸く開かれていくのがよく見えた。

「…どうして?」

子供のような声で、当然の返答をされる。
僕は口の中が渇いていくのを感じながら、言葉を続ける。
ただし、頭の中でよく吟味してはいない。
ほとんど直感だ。

「友達、だから…」

「いつから?」

「…今から…」

自分で間抜けだというのがよくわかる。
彼女がきょとんとした顔をしているのがいい証拠だ。

それでも、これが今の僕に出来る最善だ。
そう…信じている。

「友達に…なりたいんだ。
君と友達になりたい。
君を助けたいんだ。

だから…僕と友達になってくれないだろうか…」

「………私が?」

「君でなければ意味がないだろう」

「…すごく面倒だよ?」

「承知の上だ。
そもそも、あの勝負の時点でわかりきっている」

「すごく、すごく面倒だよ?
ジンの言っていることの、そこにある感情を理解するのなんて、到底無理だよ。
今だってわからない。
それは煩わしい。
きっと常に確認する。不安だから、確認する。
ヘリポートのあれは本当に特別で……むしろ、ああやって責めるかもしれない。
良いことを一つも言えない」

「良いことがなければ、友人関係が成立しないなんてことはない。
少なくとも僕はそうは思っていない。
わからなければ、教えるから…いくらでも訊いてくれ。
全てには答えられないけれど、助けにはなる。
それで、いいんじゃないか?」

数秒、彼女の呼吸が止まったのがわかる。
それがゆっくりと動き始めるのも。
僕の言葉を吟味するかのように、その瞳を深く青く揺らめかせる。

「本当に?」

まるで自分に言い聞かせるかのような言い方だった。
でも、それでいいと思う。

「ああ。本当だ。
だから…」

この後に続く言葉はとても図々しいと自分で思う。

僕が彼女を助けようとした理由。
でも、それがないといけないと思ったから、僕はゆっくりと言う。


「君の名前を教えてくれないだろうか?」


僕がそう言うと、彼女は本当に驚いたようだった。
驚いて、それからその眼差しが一瞬柔らかになるのを見た気がした。

「あ…雨宮……」

ゆっくりと優しい音が紡がれる。


「雨、宮……ヨルです」


何度か詰まりながら、時間をかけて、ずっと聴きたかった名前が漸く聴けた。
彼女の本当の名前は昔から知っているかのように、いや実際は確かに聴いてはいたのだけれど、とにかくよく自分の中に馴染んでいく気がした。

「そうか。綺麗な名前だな」

本当に心から、僕はそう思った。



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