64.Carnival Y /     (65/76)


彼女の青い瞳を見つめていると、彼女の言葉が再生される。

死者は蘇らない。ずっと眠っているのだ、と。
私はこの世のどこにもいないとも、言っていたのも思い出す。

ユウヤを助けた時もそうだ。
首を絞められながら、途切れ途切れにそう言っていた。
あれは全部自分への言葉だったのか。

最初から、全て、自分のことを言っていたんだ。

その意味なんて何も知らずに、ただ聞き流していた。
深く考えることを半ば放棄していた。
誰にも意味の解らないその言葉に、彼女はどれほどの感情を込めていたのか、僕にわかるはずがなかった。


「バン君たちもこんにちは。さすがに、拓也さんが来たのは予想外だけれど」

彼女はそう言いながら、一歩二歩と後ろへと下がる。
その先には柵も何もない。
落ちれば、まず助からない。
その高さに大して怯えている様子はなかった。

「ユイはちゃんと仲間になれたみたいで、何よりだわ」

《………》

にこりと笑う彼女に対して、ユイは沈黙する。
彼女の言葉に引け目を感じているのかもしれない。
僕はとりあえずユイのCCMをアミ君に渡すと一歩前に進み出た。

「それで何の用かしら?」

「君を止めに来た」

「あら。その必要はないわ。
そもそも、いない人間をどう止めると言うのかしら」

くすくすと笑いながら、また半歩後ろへと下がる。
段々と空へと近づいていく。
背中に嫌な汗が一筋流れるのを感じた。
まっすぐに見つめる青い瞳はやはり覚悟を決めた色をしている。

「今、目の前にいるっつーのに、なんでいないとか言うんだよ!
まだ生きてる奴が死ぬとか、そんなこと言うな!」

「私は死んでるんだから、問題ないじゃない」

カズ君の言葉に淡々と彼女は答える。
笑みが少しだけ消えたのが見えた。
視界に入るのは彼女と空。

ああ、今にも雨が降りそうだ。

「死んでるのはユイでしょう。貴女は死んでなんかいないじゃない」

「記録の上では死んでいるもの。そして、生きているのは…」

右腕をゆっくりと上げ、視線もゆっくりと移動させ、人差し指で差したのはアミ君の手に渡した白いCCM。
幸せそうな笑みを向けて、当然のように彼女は言い放った。

「生きているのは、鳥海ユイ」

《……っ!》

「たった一人の私の姉。血を分けた私の半身。私の家族。
お母さんがずっと羨ましがって、お父さんが大事にしていた、家族になくてはならなかった存在。
私なんかと全然違う。
生きているべき人なの。生きていて欲しい人だったのよ。
生きていて欲しいと望まれた人が、ここにいないなんておかしいわ。
貴方たちの仲間だったのも、ユイだもの。
それが正しい。正しい方がいいに決まってる」

「そんなの正しいわけがないよ!
それに俺たちの仲間なのは、お前じゃないか。
確かにユイのまま、ユイとして仲間だったけど、それはユイじゃなくて…目の前にいる君だ!
自分で積み上げてきたものを、なんでそんなに簡単に手放せるんだよ!
そんなのって、辛いよ……」

「? 辛いって、何が?」

バン君の必死の言葉に、彼女は首を傾げた。
その反応に僕は覚えがある。
悠介さんが死んだ時、彼女は自分のやっていることで僕が彼女を拒絶したことに、自分が悪いことをしたのかと尋ねた。
あの場で冷静に行動できる彼女は、どう見ても異常だ。
それに彼女自身は気づかなかった。

「何がって…全部手放すのよ?
それが辛くないわけがないでしょう!」

「だって、手放すんじゃないわ。
全部ユイのものだったんだから、ユイに返すだけよ。
それのどこが辛いの? 辛くなんてないわ。
家族のためにやったことだもの
大丈夫よ。ユイは私のやってきたこと、全部見ていたもの」

「それが辛いって言ってるんだよ!」

「だから、何が辛いの?
私にはわからないよ」

わからない。

噛み合わない会話に対してではなく、彼女は本当に辛いということがわからないのではないのか。
彼女の青い瞳を見つめながら、僕は迷いながらも口を開いた。

「君は…父親にあんなふうに扱われて、辛くないのか?」

「私がユイとして出来損ないだから、仕方がなかったのよ。
全部私のせいだもの。
辛いはずがない。辛いのはお父さんよ」

自分は辛くないと純粋な目をして言う。

「君は『好き』という感情が辛くて、苦しくて、絶望だと言ったじゃないか。
なのに、どうして君は辛くないと言えるんだ」

「言ったよ。
でもそれは死んでしまって、もう伝えられないから、もう何処にもいなくて声も聞けないから辛くて苦しいの。
だから、絶望なの。
想いが届かないのは辛いことだよ。
それって絶望だよ。
でも、私がお父さんやお母さんにされてきたことは、辛くなんかない。
私が良い子でいなかったせいだから、正しいことをしてくれてたの」

その言葉を聴いて、僕は愕然とした。

僕たちと彼女はどこまでも噛み合ってなんかいない。

彼女は本当にわからないのだ。
自分の感情に鈍感なのか。麻痺しているのか。

彼女の両親が彼女にしたことは、決して許されることではない。
辛いことだ。悲しいことだ。絶望しても仕方がないことだ。
不幸だと嘆いても誰も彼女を責めることなんて出来ない。
それなのに、彼女は辛いなんて思っていない。
わかってなんていなかった。
おかしいと気づいたのに、どうしておかしいのかがわかっていない。

だから、幸せだと思っていられたのか。

助けられる余地が一つもない。
他人が入る隙がない。
他人を入れる意味がない。
自分と家族だけで彼女の世界は「正常に」回っている。

「正しいわけがあるか…」

知らず、僕は呟いていた。
それはしっかりと彼女に届いていたらしい。

「正しいわ。
正しいから、私は眠るのよ。
それに…もうユイの居場所を奪っているのは、嫌なの。
ユイは『復活』したんだし、私は必要ないわ」

「なら、どうして僕に自分の存在を教えようとした?
自分自身に戻る賭けに出たんだ。
それこそ、君からすれば正しくないじゃないか!」

語気が強くなり、感情が抑えきれないのが自分でもわかる。

彼女は本当は辛かったと思っていたのではないかと信じながら。
無意識でいい。
少しでもそう思っていなければ、僕に正体を突き止めさせようとは思わなかったはずだ。

腹の底から込み上げてくるのは、怒りだろうか。
自分で自分の感情の種類がわからない。

「……もしも、私がジンに賭けをしなかったら、貴方はユイへの態度を少しは変えようと思ったかしら」

僕とは反対に彼女の青い瞳はどんどんと冷めていく。
冷めていくというよりも、諦めが濃くなっていく。
噛み合わない正論が彼女の口から紡ぎだされる。

「ユイへの違和感が少なからずあったジンが、私という接点なしにあの子を仲間とするのかなあと思ったのよ。
それならば、私が敵であの子が味方だったという今の状況を正直に話してみれば、多少なり改善されるのではないかと思ったのよ。
上手くいったでしょう?」

彼女の言っていることは、詭弁だ。

弱々しく揺れていた懇願するようなあの青い瞳が、最初から最後まで自分のことを一つも考えていないものではなかった。
それはわかるが、結果から見れば…彼女の言ったようになっている。
そうなっているように見えるから質が悪い。
望んでないはずなのに望んだ結果になるから、彼女は平気なように思えてしまうんだと気づいた。

深呼吸をする。
僕が怒れば怒るほど、距離が開くばかりだ。
心穏やかでは決してないけれど、冷静なフリをする。

僕はこれから彼女にとって酷いことを言うに違いないと、どこかで確信した。

「本当は上手くいったなんて、思ってないんじゃないのか?」

「……?」

バン君たちを手で制して、一歩、僕はまた前に出る。
彼女の青い瞳がゆらりと鈍く揺れるのが見えた。

「上手くいってしまっただけで、ユイのことなんて少しも考えていなかったんじゃないのか?
ユイのことなんて放っておいて、本当は自分だけを見て欲しいと思ってるんだ。君は」

「何を、言っているのかしら?」

「君の本心だ」

「ジンは私じゃないでしょう」

「それを言えば、君だってユイじゃない。
僕は僕で、君は君だ。
君が演じていたユイを本物のユイではないと言ったように、家族でも、双子でも、どれほど相手を理解していようとも君はユイにはなれない。
そもそも髪色と瞳の色が違う。
育ってきた環境が違う。
そのことは君が一番よく知っているな。
君なら始めから気づいていたはずだ。
始めからわかりきっていることに、君は何故自分から苦しみにいくんだ。
君には別の目的があったからに他ならないだろう」

冷静に。それでいて相手を苛立たせる言い方を。
そんなもの、彼女からすれば何の意味もないだろうが、少しでも彼女が揺らげばいい。
彼女はその青い瞳を鋭く細めた。

「……苦しくなんて、なかったもの。
私は確かにユイにはなれないけれど、私は私として家族の役に立ったわ。
それのどこが苦しいの?
家族のために何か出来て、私は嬉しいわ。
だって、それだけ私に価値があるってことだもの」

「自分に価値があるとわかって、じゃあ、何故君はユイで居続けたんだ。
途中で名乗れば良かったじゃないか。
価値があるということは、君が君でいたとしてもその存在を家族は認めてくれるんだろう?」

「っ…、だって!
お父さんが死んだのは私って言ったんだもの!
子は親に従うものでしょう。
それが良い子だもの!
親に言いつけられたら、それを破ったら悪い子になるんでしょう?
頼られたら…頼ったなら、お互いに助け合うのは当然よ。
お父さんがユイに生きて欲しいって望むなら、そうしなきゃ、私は悪い子になるわ!」

「お父さんが死んだのは私って言ったんだもの」。

その言葉に背後から息を飲む音がした。
僕は拳を握り直しながら、やはりかと納得していた。

落ち着けと自分に言い聞かせる。

「だから、ユイになったのか?
他人に言われたから? 自分の意志ではなく?
ユイが死んだのは三年も前だ。三年間も父親に言われたから続けて来たのか?
そんなわけがない!
そこには間違いなく君の意志があったはずだ!」

強い口調で、彼女がおそらく最も触れて欲しくないであろう部分に土足で踏み込んでいく。

そこは彼女しか入れず、触れていいのは彼女自身と家族だけのはずだ。
僕が触れていい場所じゃない。

彼女の僕を見る目に鈍い光が宿っていく。
諦めとは違う。
錯覚かもしれないが、言葉よりも雄弁に嫌悪が見える気がした。

「私の意志って…何」

「自分が一番わかっているじゃないか。
君が自分自身を死んだことにして、一度も名前を名乗らなかったのは、

ユイになりたかったからだ。

羨ましかったんじゃないのか。妬ましかったんじゃないのか。
ユイは君の欲しかったものをほとんど持っていたんじゃないのか?」

「そんなこと思ったことなんて…」

「ないと言い切れるのか。
君にはもう手に入らないものを持っていたユイに、一度でもそういった感情を抱かなかったのか?
君が手に入れられない、もう手にすることないものを持っていた彼女に対して、君はそれを自分の幸せだと思うことができたのか?
もしも自分がユイならばと思ったはずだ。
姉が死に、父親に君がユイだと言われ、漸く幸せになれると思ったんじゃないのか。
母親ではなく、父親に幸せを求めたんじゃないのか?」

「ジン!
いくらなんでもそれは…!」

バン君の制止の声を無視して、僕は目の前の彼女に言い続ける。
段々と強くなる風が
彼女の長い黒髪をなびかせる。
その隙間から見える青い瞳は怜悧で獣のようで、それでいてどこか怯えていた。

「ユイの死を利用して、自分が幸せになろうとしたんだろう。
でも、幸せなんてなかった。
だから死のうとしてるんじゃないのか?
勝手に願って、叶わないから絶望して死のうとしている」

違う。そうじゃない。
自分の言葉を頭の中で否定する。
彼女の境遇を考えれば、諦めるのは当然だ。
幸せを求めて何が悪い。
わかっている。わかっているけれど、ここで誰かが指摘しなければ、彼女はずっとおかしいままになってしまう。
この状態で助けても、またどこかで同じことをする。
そう考えることは難しくない。

気持ち悪い。

違うとわかっていることを、他人を傷つけているとわかりながら言うことにとてつもない嫌悪感を覚える。
せり上がってくる吐き気をどうにか飲み込んだ。

「違う! …そんなの違う…」

「何が違うんだ。
それとも、本当に君は家族だけを想っていたとでも未だに言うのか?
いい加減に本当のことを言ったらどうだ」

「本当のことなんて、だって、全部本当のことで…。
家族が大事で大好きで愛してて、幸せで、そのためにって思ってて、
お父さんもお母さんもお互いに大事な家族で、やっと頼ってくれて……やっと認めてくれたんだって、
必要としてくれたんだって!」

「ならば、何故君の父親は生き残った君ではなく、ユイということにしたんだ。
必要とされたのは君ではないということに、他ならないだろう」

「違う、違う…!
そんなこと、絶対に違う、違う…」

血が出るのではないかと思うほど、拳をきつく握りながら、彼女は「違う」と譫言のように呟き続ける。
強い意志を持つあの不敵な笑顔が、今は見る影もない。
瞳が弱々しく揺れている。

酷いことを言っている。
侵してはいけない領域に踏み込み過ぎている。

もう、あの優しい声で名前を呼ばれることはないかもしれないと漠然と思った。

「ユイを造ろうとしたのは君の父親だな。
自分からユイだと言った君がいるのに、君の目の前で、君を無視し続けて、何故ユイを造った?
答えは明白だ! 君は父親に―――」

《ジン君! それ以上はダメ!》

アミ君の手の中にある白いCCMから抑止の声が来る。
それを聞かなかったフリをして続けようとしたとき、

「やめて!!」

鋭い声が僕の言葉を遮る。

声は僕の目の前から。
彼女の握った掌から、ぽたりと赤い雫が零れたのが見えた。
青い瞳が一瞬にして変わり、鋭く僕を睨み付ける。
そこには僕の見たことのない彼女の感情が、怒りがあり、そしてどうしようもない絶望があった。

「それ以上は言わないで! お願いだから、それ以上は言わないで……。
認めるから! わかってたから!
わかってるから……!
黙って。お願い、それ以上言わないで!」

耳を塞ぎ、目を必死で瞑り、僕の声を遮る。
そんなことで遮れるはずがないのに。
ぽたりと、その白い手から段々と粒の大きくなる赤い雫が落ちる。
声を荒げる彼女の必死の懇願を無視して、僕は叫ぶ。

「家のコルクボードを見た!
玄関のメモは三年前からユイに対して父親は返事を書いていなかった。
写真立てにも、最近のユイの写真はなかった。
それどころか、母親はおろか君の写真は一枚もなかった。
君の父親はAIとしてのユイを造ろうとした。

君だってわかっていると言ったな!

君は父親に必要にされてなどいなかった!

ユイになってからも、それ以前から君は父親に必要とされていなかった!」

客観的に見て、それが真実だ。

本当に大切だったのなら、写真の一枚も残っていないのは不自然だ。
それ以前に彼女の目の前で、死んだのは彼女だと告げたのだとしたら、もう何もかも手遅れだ。

それどころか、もしも母親の病院での態度が続いていたのだとしたら、それは本当に……

「そんなの…」

まだ否定するのか。

またせり上がってくる吐き気を抑えながら、彼女との距離を縮めていく。

自分がおかしいんだということに、本当は必要とされていなかったことに気づかせて、酷いことをしている自覚も辛いのもわかっているつもりだ。
それでも一度壊さないと絶対にダメだと思った。
助けたとして、そのまま大人になれば、本当に彼女の両親のようになってしまうから。

それは彼女だって望んでいなかった。

「…そんなの、もうずっと前から気づいてたよ!!!

私が必要だったんじゃない! お母さんだって必要としてなかった。
お父さんに必要なのはユイで、自分の家族で、理解者だけ。
それ以外、何にも見えてなんていなかった…。

お父さんが私を死んだことにしたのは、自分の手でユイを一から造り直した時、また家族を最初から始められるようにしたかっただけ!

私なんて、最初から、お姉ちゃんじゃない私に価値なんて一つもなかった!

いてもいなくても、あの人たちには何も変わらない!

私はずっと赤ちゃんの私を抱えるお父さんやお母さんの写真の笑顔を見て、
お母さんのお腹の中で聴いたかもしれない優しい声を想像して、
いつかそれがまたあるかもしれないって馬鹿みたいに夢見てたのに!!
そんなもの、何一つも叶わなかった!」

今までの比ではない、僕も聴いたことのない深い憎悪の声が鼓膜を震わせる。
深く淀んだ青い瞳を更に暗く濁らせ、怒りに震えながら、彼女は感情を叫ぶ。

その瞳は誰よりも僕に向けられていた。
その感情を引きずり出した僕に。
ずっと蓋をして、死ぬまで隠そうとしていたのに。

「でも、希望を捨てきれない。捨てきれないままでいる…。
親だから…私を育ててくれたから、あの人たちだけが私の全てだから!

お姉ちゃんが羨ましかった!
ジンの言う通りよ!
お姉ちゃんは私の欲しいもの全部持ってた!!
お父さんに必要とされてた! 愛されてた!
お父さんだって、不器用に言葉を掛けてた! 私には当たり前の言葉一つだって掛けてくれなかったのに!

お母さんだって、お父さんしか見えてなかった! 私なんていらなかった!!
お姉ちゃんはお父さんの傍にいるからって、表面上でもお姉ちゃんを可愛がってたのに!
それすらしてくれなかった!
私の死体に一度だって声を掛けてくれなかった! お姉ちゃんは優しく抱きしめてくれたのに…! 私にそんなことしてくれたことなんてなかったのに…!!

お父さんはいつも私を無視する!
私は私を死なせてまでお姉ちゃんになったのに!!
髪と目の色が違う? 自分の子供なんかじゃない? なんでそんなこと言われなきゃいけないの!?
生んだのはあの人たちのくせに!
そのくせ、勝手に絶望させて絶望して、叶わないからって一人で死んでいった!!
遺書を読んだよ!
笑っちゃうよね! 最後まで私のことなんて書いてなかったんだよ!
『あとはよろしくおねがいします』なんて……私に向けた言葉なんかじゃない!!
あれは誰か他人に向けた言葉。私なんて、その他人ですらなかった!!

最初から最期まで、私のことを愛してなんていなかった!!

滑稽だよね? 馬鹿みたいだよね? おかしいよね?
でも…もう、どうしようもないんだよ!!

大好きなの! 大好きなのに、愛してたのに! 愛してるのに!

ずっとずっとずっとずっと…! 信じてたのに! 夢見てたのに! 努力したのに!
全部無駄だった!!
最後まで裏切られたんだよ!

お父さんもお母さんも…お姉ちゃんも! みんなみんな…大嫌い大嫌い大嫌い大嫌い大嫌い! 大嫌い!!」

怒りに肩を震わせ、絶望しながら、切実にその全てを叫んでいく。
大嫌い、と。
その叫びは悲痛で、それでもまだ家族が好きなんだとはっきりとわかる。

震えながら何度か呼吸を整え、彼女はその視線を再び僕に合わせる。
息を飲む。
その目に足が震える。
彼女との距離が残り一メートル程で、僕の足は止まった。
彼女の瞳に優しい色はなく、深海の底からどろどろと溢れるように黒々とした憎悪の色を湛えている。
でも、その中にまだ愛しさが滲んでいるのが、何よりも驚いた。

「大嫌いだけど…憎いけど、言いたいこと、たくさんあるけど……。

それなのに………なんで、まだこんなに大好きなの?

わかってたなら、悲しむ必要なんてないのに。
もう誰もいなくなっても、絶望する必要なんてなかったのに。
どうして、今でもお父さんやお母さんといた時間を幸せだって、言えるの?
お姉ちゃんを利用したことが、苦しくて堪らないの?

なんで、大好きって、愛してるって思うの?

なんで誰もいなくなったの?
私が悪い子だから?
私がおかしかったから?

ねえ。
同じところにいければ、わかるかな?」

一転して弱々しい声で、また自分のせいにした。

ふらりとその足が後ろに下がる。
そこから先は空だ。
落ちるしかない。

僕が手を伸ばすよりも先に、落ちることが出来る。

落ちる。

そう思ったときに、彼女の背後にLBXが、クイーンがいるのが見えた。
いつからいたのか、どこから現れたのか。
ただあれは…あのカスタマイズはユイのものだと一目でわかった。
僕の視線を追うようにして、青い瞳がその機体を捉え、驚いたように見開かれた。

《……ごめんね》

泣きそうなユイの声がした直後、その武器が火を噴く。
その攻撃の対象はユイの妹で家族。

武器を向けられた彼女は考えるよりも先に無意識に、地面を蹴り、前方に跳ぶことでそれを避けた。
驚きに目を見開いたまま、無意識の行動に対して思考がブレーキを掛けようとして動きが停止する。

僕はそれを見逃さなかった。

今度こそ、強く、その腕を掴んだ。
掴んだときにバランスを崩し、硬いコンクリートの上に彼女が倒れ込む。

「――っ! 離して!」

痛いはずなのにすぐに彼女は立ち上がろうとし、僕を睨む付け、僕の手を振りほどこうとする。
その目も、振りほどこうとする腕も、必死で少しでも力を抜くと振りほどかれてしまいそうになる。
僕はその腕を離さないように更に強く掴む。
彼女は僕の掴んでいない方の腕も振り上げると、そのまま僕の胸を叩いた。

痛い。
体も痛かったが、心も直接叩かれているかのように痛かった。

それでもその腕を離さないでいると、青い瞳を歪め、その腕が力なくだらりと垂れ下がった。

そして、くすくすと笑いだす。

笑っているはずなのに、まるで泣いているかのように。

「どうして、離してくれないの?」

「……助けたかったからだ…」

「そう。そっか。
あはは…はは…。
そんな必要、なかったのに…」

くすくす。くすくす。くすくす。

笑い続ける。
顔は伏せられ、長い黒髪がその顔を隠し、その表情は見えない。
ただ、泣いていないのだけはわかった。
僕の胸を叩くために握られていたから手から血が零れ、僕の服に沁み込んでいく。

それから、ぽつりぽつりと水滴を感じた。
見上げると、灰色の空から雨が遠慮がちに降り出して来ていた。

「私、どこで間違ったの?」

「…………」

ぽつりと彼女が呟いた。

僕はそれに答えられない。

するりと彼女の手が伸びてくる。
縋るように、僕の腕を痛いほどに強く掴んだ。
僕はそれをどうしようもない気持ちで、黙って受け入れる。

「私はどこで間違ったの?」

涙を零すように、言葉を零していく。

「どうして、お母さんは私を愛してくれなかったの?」

「どうして、お父さんは名前を呼んでくれなかったの?」

「なんであんなに冷たい目をするの?」

「こんな髪と目なんていらなかったのに…」

「どうして、死んだのがお姉ちゃんだったの?」

「私はなんでひとりになったの?」

「何を、どうやって謝れば、赦してもらえた?」

「私の何がいけなかったの?」

「私のどこがおかしかったの?」

「私はどうして間違ったの?」

言葉を吐き出しながら、緩く彼女が僕を揺らした。
その腕が震えているのが僕の目に映る。

「ねえ…教えてよ……。
私、どうすれば、良かったの……?」

「………すまない」

それしか、言えない。

その言葉に対する答えを僕も、この場にいる誰も、ユイでさえ持っていない。
持っていたはずの人たちは、もういなくなってしまったのだから。
もう答えを訊けるはずがなかった。

彼女の腕を掴んでいた手を少しだけ心配になりながらも、そっと離す。
いつかの彼女のように戸惑いながらも、手を伸ばし、震えるその背中をゆっくりと出来る限り優しく撫でた。
叩くのではなく、撫でる。

くすくす、くすくすと泣き声が響く。

「どうして、笑うのよ?」

いつの間にか僕たちに駆け寄ってきていたアミ君が、囁くようにそう訊いた。
アミ君もバン君もカズ君も、拓也さんも…困惑しながら、悲しそうに憐れむように彼女を見ている。

彼女はびくりと肩を震わせ、僕の腕をより強く掴んで呟いた。

「馬鹿だなあ、アミちゃん。
泣けないから、涙が出ないなら、あとは笑うしかないんだよ」

そして、くすくすと泣き続ける。

それが雨の小さな音と重なり、本当に泣いているように聞こえる。

僕はその様子を小さな背中を撫でながら、見ていた。
彼女の小さな世界が、当たり前が、優しい記憶達が、必死でしがみついていた希望が、
ぼろぼろになり、原形をなくし、どこまでも崩れていくのを、ただ黙って見ているしか出来なかった。
自分の手で、言葉で、追いつめて、壊してしまった人が目の前にいる。

まざまざと、その姿をどうしようもない気持ちで見ていることしか、僕には出来なかった。




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