63.Carnival X / アオ (64/76)


「んー…これは参った。
ユイ。完全に命令無視してる」

ジンとの会話を吹っ切るように、明るい声を出すように自分を調節する。
彼女はそう言いながら、先ほど押したエレベーターのボタンをもう一度押す。
反応はなし。
仕方がないと地道に階段で行こうかとも思うのだけれど、あちらこちら防火扉が降りていたり消火剤が撒かれていたりして足が止まる。

「……ここもか。仕方がない」

気乗りはしないけれど、と言いながら彼女はCCMに向かって命令を出す。
ユイではない、既にそこから切り離された無機質なAIに命令して扉を開けさせる。
このままだと「約束」を果たせないかもしれないと危機感を抱きながら、階段を一段ずつ足音を殺しながら上っていく。
無意識だ。

ユイは足音を殺しながら階段を上りはしなかった。

彼女の性格上それは無理な話であり、そもそもあそこは彼女の家なのだから遠慮する必要がない。
階段を上っている間、敷きっぱなしの布団に潜り込む間、布団の中で本を捲っている時、日記を一文書いている時、体を丸めながら眠る直前。
毎日の中でその時間だけは、本当は彼女自身に戻っていた。

しかし、その時、彼女が何を思っていたのかといえば…

「ユイにあいたいなあ」

「お父さん、ちゃんとご飯食べてるかな」

「仕事忙しいのかな。お母さん」

家族のことばかりである。

そんなことを思い出しながら、ひょいと消火剤を跳び越える。
短い跳躍と軽い着地の音。
その時、ポケットでカシャンと音が鳴ったのに気づいた。

「あれ?」と思ってポケットの中に手を入れると、慣れた感触が二つ。
一つを取り出してみると、クイーンだった。
ユイの服を汚すわけにいかず、着替えた時に無意識にポケットに入れたらしい。
失敗したと彼女は思った。

「持ってきちゃったのか」

ユイの服と一緒に置いてくるべきだったのに。
どうしようかと首を傾げ、そのままポケットに入れ直す。
体をクッションにすれば、まあまあ使えるぐらいまでは形は残ると予想して、そこから先はメカ好きなユイに託すことにした。
指の動きを確認するためにも、その方がいいかもしれないと考える。
そう考えて、ずるずると記憶が引きずり出される。

ユイがクイーンに触る指の動きを思い出す。

あれはもう少し柔らかな手つきにするべきだった。

ユイの歩き方を思い出す。

彼女は時折下手なスキップをしていたけれど、あれは上手く再現できていただろうかと心配になる。

楽しげに揺れるユイのアーモンド色の瞳を思い出す。

何を楽しいとするのか。その基準に迷った時は多々あったけれど、結果的に周囲に合わせる形にしたのは本当に正しかったのかな。

もう考えても仕方がないことを、そう割り切ってはいけないことを、取り留めもなく考え続ける。
絶対に足は止めない。
その二つの足も。前進するという思いも。二つとも。

進むだけ。
でも、そこには感情が伴っていない。
嬉しくない、楽しくもない、悲しくもない、怒ってもいない、寂しくもない、辛くもない。
何も、ない。

家族への感情は複雑で一言で言い表しにくいけれど、それ以外は別にいいかと割り切れた。

家族以外には鈍感で、麻痺していて、長くおかしいと気づかなかった。
おかしいと気づいても、他の家族と違うというだけで、具体的にどこがおかしいのかがわからない。
悪いことがあったことは、わかる。

でも、彼女が、イオが、  が、………私が全て悪いのであって、家族の誰も悪くなかった。

ジンに言ったことには語弊がある。
家族がおかしいのは私のせいで、だから私がおかしいだけ。
私がおかしかったから、家族がおかしくなった。
それがきっと正しい。

だから、大丈夫。

「大丈夫」

大丈夫。大丈夫。大丈夫。

自分への言い訳のように呟き続ける。
けれども、そこではたと気づいた。

何が、大丈夫なんだっけ?


■■■


撒き散らされた消火剤や防火扉を開けながら、上へ上へと進んでいく。

ユイのCCMを持っている僕が一番先頭になり、その後にバン君やカズ君、アミ君、それから拓也さんが続く。
アミ君はそうでもないが、拓也さんが来たのは意外だった。

「信用ならないかもしれないが、大人としての責任だ」

本来その責任は彼女の両親が果たすべきものであるはずなのに、拓也さんはそう言った。

《あーうー…ダメだ。
足止めしたいけど、私じゃ出来ないようにロックされてる。
あの子、もう完全にこっちのしようとしてることに気づいてるよ。
エレベーターのシステム書き換えたのが私で本当に良かった!》

「お前が全部システムロックしてたんじゃないのかよ」

《ここのシステムに介入したのは確かに私だけど、えーと…、私みたいじゃなくてAIらしいAIにシステムをロックさせたみたいなの。
私の分離体と言いますか、私の素体みたいな子に。
今は私よりもあっちの方が権限あるし、私よりも容量占めてるから、性能的には上…かな》

すまない。意味がわからないんだが……。

「簡単に言いなさいよ!」

《これ以上の足止めは難しいのです!》

CCMから聴こえるユイの声に誘導されながら進むが、確かに所々ユイの力ではどうにもならない場所が存在した。
迂回路を確保出来るからいいが、その分時間がかかる。

「今あいつはどのあたりにいるんだ? ユイ」

《うーん。CCMの電波も妨害された。
上の方にはいるんだろうけど、わからない。ごめんなさい。
でもあの子体力あるから、こっちより速いと思う》

確かに彼女の体力は僕たちよりも上のような気がする。
『アルテミス』の跳躍が最たるものかと、今更ながら思い出した。
いや、あれは体力とは違うか。

途中立ち止まり、肺に酸素を送り込む。

「つーか、あいつ。
ジンに自分の正体当てろとか言っといて、近づいて来たら離れるって何がしたいんだよ」

「元々時間制限があったんだ。
先に破ったのは僕だ。
彼女はそのことに関しては正しい行動をしていると言える」

諦めたのかもしれないと考えられなくもないが。

そう言いながら、僕たちは再び走り出す。
ひたすら階段を上り、屋上のヘリポートを目指す。
途中で彼女に会わないかと思ったが、すれ違うものは何もない。
それどころか、攻撃してくるLBXの一つもいない。
やはり、彼女は僕たちを攻撃する気はないようだ。

「ねえ。ユイ。
貴女は、あの子の名前、知らないの?
知ってるんだったら、名前でも呼んでみれば、あの子、止まるんじゃ…ないのっ?」

息も切れ切れにアミ君がユイに訊く。

そういえば、ユイはずっと妹のことを「あの子」と呼んでいた。
彼女は家族を第一に考えている。
それ以外ないと言ってもいい。
家族ならば、名前を知っていて当然だ。
彼女が自分の本当の名前を教えないということは、さすがにないと思う。

《知ってたけど、今は知らない。
あの子が…私を侵入させる前に、自分に関することはほとんど消去しちゃったの》

「徹底してるな」

「本当に何も残ってないのか?」

バン君がそう訊くと、ユイはしばらく無言になった。
ルートは画面に映っているのでナビに関しては問題ないが、その沈黙は気になる。
何か知っているのなら話して欲しい。
彼女を止める手がかりになるかもしれない。

《残ってるには、残ってるけど…これは私が言うべきことじゃない。
本当のユイが言うべきこと。言うはずだったこと。
私はそれを横取りしたから。
ううん。私とお父さんが横取りした。
私も共犯かな、これは。
あはははは…》

「本当のユイ…」

それは無理な話だろうと言いかけて、止めた。
僕が言うべきことでもないだろう。
渇いた笑いの後、ユイはおそらく微笑みながら言った。
その声は本当に微かで、僕にだけしか聴こえなかった。

《伝えるべきことを全部伝えて、そうしたら……私に後悔はない。
私はワタシを幸せにするんだから》

「?」

言っていることの意味がわからない。
何かあるのかと訊こうかと思ったが、それは触れてはいけない部分な気がする。
侵してはいけない領域のように感じられた。
触れてはいけないものも、AIである彼女にだってあるだろうと自分の中で結論付ける。

階段を音を立てて上り続ける。

肩で息をしながら、最後の階段を駆け上がった。

説得のための言葉なんて、どこにも持っていない。
それでも、とユイの力でロックされた最後の扉を開けてもらう。

開いた扉から曇天の空が見えた。
どこかで雨でも降ったのか、風に乗って雨の独特の匂いと遠雷の音がする。

長い黒髪が風に靡くのが見える。
服はいつの間にか着替えたらしく、青と白のセーラーよりも似合っているなと場違いに思った。
振り向く彼女の顔には笑顔。
それは子供の頃に見た幸せそうなあの笑顔に似ている。
何が幸せなのだろうと考えたくなかった。

「こんにちは。ジン」

今は聞きたくない、空っぽの優しい声が僕の耳に響いた。



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