60.Carnival U / Воспоминания (61/76)


「прощание。

バイバイ……―――ジン君」


その言葉を知っている。
遠い記憶の彼方で、同じような涼やかな声がそう言っていたような気がした。



彼女の名前が出てこない。

名前を呼ぼうとすると、喉につっかえて声が出てこなかった。
呆然とその姿が扉の向こう側に消えていくのを、見ていた。
その動きを、細かい動作に揺れる長い黒髪や覚悟の色をした青い瞳を、確かに記録する程度には脳が動いたというのに声が…自由になってくれない。

扉は閉ざされ、無駄にしっかりとした扉のロックされる音が響く。
その音で僕は漸く声の自由を取り戻した。

扉が閉じると同時に足元のLBXは動きを止めた。
動きを止めたゼノンを見つめて、僕はさっきの会話を彼女の姿を反芻していた。

「……なんで、ユイを頼むと言ったんだ…?」

鳥海ユイは君だろう。
自分で自分を頼むとはどういうことだ。
その本人は何をしようとしている。

それに、彼女の瞳は青かったのは、何故だ?

「システムが完全にロックされてる…。
タイニーオービット社のほぼ全てのネットワークが遮断されています。通信回線も使えない!
CCMでの通話も妨害電波を出されています。
外部との連絡手段は完全に断たれましたね…」

「どうにか解除出来ないのか…!」

「やってはみますが、とても複雑で、いや単純? …こんなの見たことない…。
まるで子供の遊びですよ。
色々な所をつぎはぎして、落書きみたいなデタラメなデータばかり…」

拓也さんたちはシステムをどうにか回復させようとしているが、画面には『ERROR』という文字ばかり並ぶ。
バン君たちがCCMを操作してどうにかLBXを操作しようとしていたが、それも無理そうだ。

僕も自分のCCMを開いて操作してみるが、まるで動かない。
どうする。どうすればいい。
CCMを壊れるんじゃないかと思うほど握りしめる。
握りしめて、その視線が思考と一緒に下へ下へと向き始めた時、僕は自分の足元に黒いメモリーが落ちていることに気づいた。

『ジン。
子供部屋の写真立ての写真は見たのかしら?』

「っ!」

彼女のその言葉を思い出した。
すぐさま足元のメモリーを拾い上げる。
CCMで再生可能なタイプであることを確認すると、それを僕のCCMへと差し込む。

映像はない。画像データのみだ。

ほとんどの写真はリビングにあったものとそうは変わらない。
既に見たものは飛ばしていく。
リビングの写真立てと違うのは、写真の中の人物が幼くなっていくことだ。
最近の写真から始まり、やはり家族との写真はない。
それを必死に目で追いかけていく。

何枚目かの写真で手が止まる。
そこには同じ顔の黒髪の少女が二人並んで笑っている。
どちらも焦げ茶色の瞳。
日付は二月二十六日。
長い黒髪に目が行った。

その写真を見て、僕にあるのは違和感だ。
何かが、違う。

「……何だ…」

苦々しく呟きながら、次の写真へとボタンを操作する。

その写真で僕は違和感の正体に気が付いた。

病院の玄関らしき場所で、幼い少女たちが笑っている。
片方の少女は満面の笑み。もう片方の少女はふんわりと柔らかく笑っていた。
僕は目を見開いた。
満面の笑みを浮かべる鳥海ユイではなく、もう一人の少女に目を奪われた。

澄んだ青い目と……亜麻色の髪。

僕にとっての鳥海ユイがそこにいた。

その色を見た瞬間、あの頃の記憶が蘇ってくる。

「思い、出した…」



トキオブリッジ崩壊事故のすぐ後の病室。

ユウヤと僕と…それから鳥海ユイが病室にいた。
いや、正確には彼女は鳥海ユイではない。
それでも、鳥海ユイとするしかなかった。

何故なら彼女は自分の名前を、本当の名前を言わなかったからだ。

『мое имя…わたしのなまえ、鳥海ユイ、だよ』

流暢なロシア語と拙い日本語混じりに言われた名前。
その名前をどんな気持ちで言ったのか。
今思い出せば、彼女は随分と期待のこもった目をしていた。

彼女がいたのはほんの僅かな時間だ。
日数にして、たったの三日。
僕と彼女はあまり会話というものをしなかった。
彼女は話したげにちらちらとこちらを見てはロシア語を言いかけ日本語に直すということをしていたが、僕がほとんど無視したのだ。

彼女には帰る場所があるのだと知ったから。

『ロシアから、おかあさんにあいにきたの。
そしたら、おばあちゃん、しんじゃった。
でもね、おかあさんがいっしょにいてくれるって』

僕が事情を訊いたら、彼女はそう答えた。
心から嬉しそうに。
僕はそれでこの子は独りじゃないんだと思った。
僕らと、同じじゃなかった。
泣いたら背中を優しく撫でてくれる人がいる。
自分の名前を呼んでくれる人がいる。
そう思うとたまらなく自分が惨めで、彼女が病室にいる間は無視し続けたし、頭から布団を被って不貞寝していた。

彼女が入院して二日目。病院のロビーに行ったら、彼女が同じ顔の姉と会話しているのが見えた。
楽しそうに話していた。
その手にはクマのぬいぐるみ。

『おかあさん、きたー?』

『ううん。こない。
でも、むかえにはきてくれるって。
そしたら、おかあさんといっしょにいられるんだ。
ずっといっしょにいられるんだ』

彼女の幸せそうな声を聴いた。
これからの生活に期待を込めてきらきらと輝く青い瞳も見えた。
気づいた時には、僕は自分の病室に戻ってベッドの中で、独りなのが寂しくて泣いた。

そうしていると、いつの間にか布団越しに叩かれているのに気付いた。

ポンポン。ポンポン。ポンポン。

とても弱い力だったけれど、それはとても一生懸命だった。
やっていたのは、おそらく彼女だ。

ポンポン。ポンポン。

意味がわからない。
もしかしたら、いつも無視していたことへの腹いせだったのかもしれない。
しばらくそうやって叩いていて、僕はそれが止みそうにないなと判断した。
寝よう。
ぎゅっと目を閉じる。
すぐに睡魔はやってきた。
遠のかせていく意識の中で、ぼくはそういえばと気づいた。

僕は彼女が泣いているところを見たことがない、と。

三日目。
僕と彼女の別れの日。
随分と早い時間から帰る準備をしていたらしい彼女は、僕が起きた時にはベッドの淵に腰掛け足をブラブラとさせていた。
その顔は嬉しそうで、幸せそうだ。
母親が彼女を迎えに来たのは、夕方になってからだった。

母親は、綺麗な黒髪に少し青みがかった黒い瞳を持った美しい人だった。
彼女は母親の特徴をよく受け継いでいる。
間違いなく血の繋がった母娘だ。

『おかあさん!』

ベッドから飛び降り、嬉々として母親の白い手を握ろうと手を伸ばす。
母親はそれをさり気なく避けた。

『…お父さんは、来たの?』

静かで威圧すら感じる声。
ただし、そのお父さんという言葉には確かに愛がある。
その言葉には愛しかなかった。
鳥海ユイが家族に使うものとも違う雰囲気。
家族愛とか慈愛とかそんなものではなくて、もっと確かな恋慕のような何か。
恋に盲目な少女のような感情が含まれている。

『…ううん』

『…………そう』

ひどく落胆した様子の母親は娘がまとめた荷物を無言で持ち上げると、無言で病室から出て行った。
子供を置いて。
彼女がその後を必死で追っていく。

『まってよ! おかあさん!』

荷物を持っていない方の手を握ろうとするものの、背が足りずに少し指がかすめる程度だ。

『あ、あのね、おかあさん。
お、おねえちゃんがね、おばあちゃんのお葬式にくるっていってね――』

話題を必死で探して、母親を引き留めようとする姿が痛々しい。

『あの子のことは言わないでっ!』

母親は病院中に響くんじゃないかという大きな声で、子供みたいに怒った。
キンキンとした声に顔をしかめてしまう。
隣のユウヤもさすがに何事かとうっすらと目を開いていた。

『ご、ごめんなさい!
おいていかないで。おかあさん、おかあさん』

「おかあさん」とひたすら繰り返しながら、その背中を追いかける。
青い瞳が涙をためいてるのが見えた。
今にも落ちそうなそれを必死で堪えている。

その青い瞳が僕を捉える。

『あ…』

小さく声を上げて、涙をもう一度ぐっと堪えた。

『прощание。
バイバイ。ジン君』

ぎこちなく、手を振った。
僕は振り返さなかった。

それが僕と彼女のあっけない別れ。

目の前の母娘の光景を見たことがなかった僕は、こういうものかと疑問を飲み込んだ。
飲み込んで、それからの忙しい日々に流されて忘れていた。
忘れ去っていた。
忘れずにいたら、何かを変えられたかもしれないのに。

事故から間もない記憶だ。
嫌なものには違いない。普通なら忘れる。
あれから九年だ。子供が忘れるには十分な時間のはずだったのに…。

「…彼女は、覚えていたんだ…」

家族との記憶の一部として。

メモリーにある最後の写真は家族の写真だ。
まだ首も座っていない双子の赤ん坊を両親が愛しそうに抱いている。
仲のいい家族の写真。
彼女の大事な家族の記憶。

メモリーを差し込んだまま、僕はアドレス帳からイオの名前を探す。
あの優しい時間の一片。
僕は震える手で通話ボタンを押す。

「おい! 今、電話なんて通じねーって…」

そんなのわかっている。
それでも…。
数回の無機質なコール音の後、ジジ…っという音がした。

呼吸の音がする。
その音は知っている。
病室で彼女からの勝負を受けた時のことが、そんなに時間は経っていないはずなのに懐かしく感じられた。

《この忙しい時に、何か御用かしら?

ジン》

微かに震えた不敵な声が通話口から聴こえた。



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