58.そして、小鳥は声を捨てる (59/76)


室内を沈黙が満たしていた。

沈黙があの底冷えのする暗い部屋を思い出させる。

室内を青白く照らすパソコンのライト。
コルクボードの大量のメモ。
埃を被った高い本棚に…それから、

エアコンの風で揺れるロープで吊るされた死体。

目の前の鳥海ユイは、僕の言葉をどう飲み込んだのか。
僕を見つめるその瞳からは感情が読めない。
笑顔が張り付いているのはわかる。
彼女の感情の動きが読めないのが、怖い。
焦げ茶の瞳は無感情で、底知れなくて、記憶の中のあの室内をそのまま収めたようにも見える。

「父親が死んでいる以上、父親との用事というのが嘘だということは明らかだ。
『アキハバラキングダム』の時も、そうだな。
君がイオだから、鳥海ユイは現れなかった。いや、現れることが出来なかったと言うべきか」

「……なるほど。そっかあ。そっかあ。
私でもそれはわかるよ。ジン君。
一緒にいた人が……もういないんじゃ、確かにそれは嘘だよね」

彼女は曖昧に笑いながら、自分の嘘を認めた。
その目はぞっとするほど冷え切っている。

「ああ。そうだな。
…父親の死を隠したのは、身内に君のことを隠したかったからか?」

「ジン君が言うなら、そうなんじゃないのかな。
ジン君の言う通りなら、私は妹の…この場合はイオかな。
イオのフリをしてて、本当は皆の敵で、嘘つきなんだね」

「……ああ」

「ねえ、なんで私が妹のフリをしなきゃいけないのかな?」

現実感の薄い声で、自分が一番わかっているはずのことを訊く。

張り付いた笑顔がイオに似ている。
同一人物がから当たり前なのだけれど、柔らかな笑みと不敵な笑みがやはり重ならない。
表情一つで知人が他人になるのかと、改めて驚いた。
印象が違う。
それだけで、僕たちは騙されていたんだ。

真実を探そうとする周囲の視線を受けながら、僕は震えを隠して口を開く。

「ここにいる人たちが知らなければ、誰でも良かったんじゃないのか。
一番知っているから、妹のフリをした。
同じ顔で、それでいて特徴的な容姿がある。
仲間に妹の存在を言わないでいたなら、それが好都合だったんだろう…と思う」

「…そっかあ。
うん。確かに青い目は特徴的だったね。
あれはあんまり真似できるものじゃないかな。
嘘を吐くのには、いいかもしれない。
私たち、双子なのによく考えるとあんまり似てないんだよ。うん。
似てないなあ。もう少し似ていれば良かったのに。
あの色、すごく憧れたんだよ。
欲しいなあって、何度も思ったんだよ?」

自分に言い聞かせるように、ゆっくりと鳥海ユイは喋る。
その声は夢を見るかのようであり、寂しげでどこか遠くにある気がした。
死んだ妹を思い出しているのかもしれない。

「君は鳥海ユイで、イオだ」

「………」

無言の彼女に対して、僕は言う。

「それが、僕の答えだ。
だから、教えてくれないか。

君は、誰なんだ?」

おそらくは、彼女が一番欲しかったであろう言葉を。


■■■


私の青い瞳に映るアーモンド色の甘い瞳。

そう。私は「あれ」が欲しかったんだよ。

ジン君。


■■■


渇いた笑いが聞こえてくる。

くすくす。くすくす。くすくす。

何が楽しいのか。面白いのか。
顔を伏せ、口元に手を当て、鳥海ユイは笑っている。

「…ユイ?」

声を掛けたのは誰だったのか。

くすくす。くすくす。

笑い声は治まらない。
髪の隙間から少しだけその瞳が見える。

鈍く光るその瞳は獣のようだ。

声が段々と現実味の薄い声から涼やかな声へと変わっていく。
それが蜂蜜のように甘く優しい声にもなるのだと僕は知っているというのに、今は鋭く彼女以外の全て威嚇している。

「もう少しぐらい、時間を稼げると思ったんだけどなあ」

白く大きな帽子に手を掛ける。
それを無造作に引っ張ると、その中から長い黒髪が零れた。
やはり先が不揃いで長かったり短かったりする髪は、サイドだけが嫌に整っている。

「貴女…。本当に、イオだったの?」

「んー?
どうだろうね」

アミ君の疑問に答えず、彼女はふるりと一度頭を振り、肩に掛かった髪を後ろに流す。
帽子から手を離し、音もなく床に落ちた。

そうして上げられたその顔は、鳥海ユイのものではなくイオだった。

「イオなんじゃないのかしら。
ああ。それだとこの状況、うん。やばいわね」

疑問に漸く答えると、周囲を見回して気だるげに言う。
肩を数回回し、伸びをし、最後に溜め息を吐く。
明らかに今の状況を飲み込めていないような動作を終えると、その表情はよりイオに近づいた。

「…お前はスパイだったのか…」

拓也さんの驚愕した声に、彼女は視線を彼に移すとにたりと不敵に笑った。

「まさか。スパイなんかじゃありませんよ。
どこにも密告してませんもの。する必要もないし。
私の目的とも合いませんから。適任は別にいることですものね」

「目的? 目的とはなんだ!?」

「大したものじゃありませんよー。
少なくとも『シーカー』には関係ないですよ。
ただ単に記録通りに戻すだけですもの。
ああ、でも、私が関わってる以上…関係はあるのかもしれませんね。
まあ、そんなことより、ウィルスチェックの一つでもした方がいいんじゃないんですか?」

聞き慣れた人を嘲るような声が静かに響く。
ここは彼女にとって敵地であるというのに、その余裕はなんだ。
謙虚にするという気はないらしく、それどころかCCMを構える様子もない。

「何も仕込んでないなんて、思ってませんよね?」

地の底から響くように、不穏な言葉が続く。
拓也さんはその言葉にすぐに周囲に指示を出す。
八神さんも同じで、真野さんたちに彼女を捕えるように命令した。

「本当にイオがユイなのか?」

「…」

「イオなら、俺たちとのバトルでなんで…負けたんだ?」

「……別に」

「別にって…!
負けるのは悔しいのに、なんで負け続けたんだ?」

「それは実力。
私は実力不足だったってことね。
私はそれほど強くないもの」

バン君の反応は…カズ君と同じで少し意外だった。
彼は怒るには怒っているが、それは彼女が敵であることに怒っているんじゃない。
彼が長く気にしていたこと。
実力を出していないことに怒っている。
彼女は顔を上げない。
バン君の顔を見ようとしない。
その腕はぶらりと垂れ下がったままで、未だ何も抵抗しようとしていない。

ただ何を思ったのか、

「まあ、ユイだったら勝てたでしょうね」

ぽつりと不思議なことを呟いた。
弱々しい声で。今にも泣きだしそうな子供みたいな声で。
それに疑問を持ったのはこの空間に何人いたのか。

僕はその言葉を聞いて、自分の中に何か齟齬が…違和感があるような気がしてきた。
違和感…もしくは、僕の中の鳥海ユイの印象が漸く合致していくかのような奇妙な感覚。
今目の前にいる人物こそが、僕にとっての本当の鳥海ユイのような…。

「ジン」

唐突に名前を呼ばれた。

「子供部屋の写真立ての写真は見たのかしら?」

子供部屋の写真立て。
あのベッドがあるのに布団が敷かれた奇妙な子供部屋で見つけた写真立ての中身は、見ていない。
実際はメモリーだけはその時、僕のポケットの中に入っていたのだがそんなことは失念していた。

「……そう。
まあ、賭けだったから、こればっかりはしょうがないわね」

真野さんたちに拘束されかけながら、彼女は諦めたように言った。
拘束と言っても子供相手にそんなに手荒な真似は出来ないので、「ごめんよ」と言い、彼女を囲むだけになる。

その隙間から、彼女は僕に微笑んだ。

「ジン。
お父さんのことは申し訳なかったわ。
嫌なものを見せたわね。
ごめんなさい。本当にごめんなさい」

謝った。
微笑みを崩さぬまま、それでも精一杯に気持ちの籠った言葉で謝った。
場違いな微笑みは、それだけ彼女に余裕があることを意味する。

「……いや、勝手に見たのは僕の方だ」

謝罪に動揺した僕は遅れてそう返す。

そのまま固まる僕の代わりに、一貫して傍観者となっていたカズ君が口を開いた。

「お前、どうしてそんなに余裕なんだよ?
ここはお前にとって敵の本拠地だぞ? 独りなんだぞ?
もっと抵抗しようとか、思わないのかよ。
いくらなんでも捨て身過ぎるだろ……」

どこか後悔が滲んでいる声だった。

それは僕も思っていたことで、実に的確だ。
彼女の行動は、まるでこれからなんてないような行動だった。
保身をする気ははじめからないとでも言うかのようである。

彼女は…何を考えている?





prev


- ナノ -