52.深海の真実 (53/76)
ノートを布団の上へと戻す。
見てしまった罪悪感はあったが、それがここに来てより強くなる。
「でも…、多分イオはわかっている」
玄関の鍵が開いていたのはわざとに違いない。
彼女は全てわかっていて、鳥海ユイが家を空けると僕たちがわかるこの瞬間に家の鍵を開けておいたのだろう。
行動に無駄があるようでない、それが多分…彼女だ。
僕の認識が本当に正しいのか。どんどんわからなくなっていく。
本当の彼女はなんだ。
僕はその答えを、おそらく持っている。
「ジン様…」
「!」
小さな写真立てからメモリーを取り出した時だった。
背後から声を掛けられ、思わず肩をびくつかせてしまう。
そこにいたのはじいやだ。
「どうした?」
「……地下の方を調べていたのですが、その…鳥海様のお父上を見つけました」
「父親が、いたのか?」
「はい」
鳥海ユイと出掛けていたのではないのか。
嘘だとは思っていたが、まさか父親がいたとは…。
「会わせてくれ。話が聞きたい」
「そう言うと思いましたが…ジン様。
私はあえて言います。
貴方様はあれを見るべきではありません」
随分と真剣な顔でそんなことを言われた。
余程なのか、その顔には余裕がない。
「体調や精神状態の問題か?」
「いいえ。それは問題ではありません。
それ以前の問題です」
「…?
すまない。わかるように説明してくれ」
僕がそう頼むと、じいやは珍しく顔を歪めた。
更に余裕をなくした顔で、意を決したように口を開いた。
「鳥海様のお父上は――――」
■■■
地下室への道は地上に比べて、より寒かった。
そして暗い。
この家に来た時よりも深い闇と心臓まで凍らすような寒さ。
足が震えた。
一歩踏み出すたびに、進みたくないと思ってしまう。
ここから先を見たくない。
そうは思っても足を進めれば辿り着くのは当たり前で、『開放厳禁』と書かれた扉の前に僕は立った。
扉には厳重なロックがかけられていたが、じいやはロックを難なく解除する。
「鍵と暗証番号は扉の前に置いてありました」
じいやは僕にその手にあったメモと鍵を見せてくれる。
端正な文字で書かれた八桁の数字。
鈍く輝く銀色の鍵。
「ここまで、全て鳥海様の策略でしょう」
「ああ。そうだろうな」
平常心だ、と自分に言い聞かせる。
そうしないと立っていられない。
この扉の向こうにあるものを知っているから。知ってしまったから。
じいやを制して、自分からドアノブに手を掛ける。
重い扉が音もなく開かれる。
隙間からはパソコンの稼働音と青白い画面の光が見えた。
覚悟を決めて、それが打ち砕かれるのを知っていながら、僕は扉を僕たちが入れるぐらいに開ける。
そうするとわかる。
数台のモニターが並び、その光が小さな部屋を青く照らす。
チカチカと光って見えるのは壁際のスーパーコンピュータの点滅。
まるで海のようだ。
イオの青い瞳、公園で見た青い空、水族館…少ない彼女の思い出がその色から蘇る。
ああ…でも、僕は蛍光色のような青よりも彼女の瞳の青の方が好きだ、と不意に思った。
そして、その中央。
海の中にそれはいた。
雨の日に晴れを願うてるてる坊主…のように、人間がぶらりぶらりと吊るされていた。
エアコンの風を受ける度にそれが揺れる。
「……はっ…」
呼吸が途端に難しくなる。
死体を見慣れている訳ではない。
それでも、人よりも多く見てきたつもりだった。
「大丈夫ですか!?」
「…問題ない」
拒絶と嫌悪感。
抱えた感情が混ざり合って、泣きそうになった。
悠介さんの死を見た時とはまた違う吐き気が込み上げる。
それをどうにか、深呼吸をしながら我慢する。
目の前のかつては父親だったのであろう人物は、今は静かに揺れている。
そこにあったはずの命はもうない。
父親の前には封筒とメモと、それからコンビニのお菓子。
封筒にはミミズがのたうつ様な文字で『遺書』と書かれていた。
メモには端正な文字で、こう書かれていた。
『20××年 ××月 ××日に死亡したと思われます。
名前は鳥海――といいます。
事情があり、私の方では然るべき対処を行うことができません。
どうか発見した方、勝手ではありますが父をよろしくお願いします』
感情が籠っていないともいえる文章。
文字に一つの乱れもない。
僕がメモを読み終わるタイミングで、じいやが『遺書』の方を開いて見せてくれる。
『ごめんなさい。しっぱいが…たくさんつづいて、もうゲンカイです。サキにいきます。
あとはよろしくおねがいします』
それだけだった。
残していく娘に対して、たったこれだけ。
その娘のことも一つも書かれていない。
『遺書』と同じような読みにくい文字だった。
最後の方はぐにゃりとした文字とも思えない形をしている。
「日付からして、死亡してから三ヶ月は立っていますね。
エアコンのせいで死体が腐敗しなかったのでしょう」
「三ヶ月…」
つまり、イオが楽しそうに父親や母親のことを語っているとき、もうその誰もこの世にはいなかったのだ。
なんて滑稽な話なのだろう。
まるで、生きているように振る舞って…幸せな家族を演じて…。
とんだ一人芝居。
それも観客も誰もいない、本当にたった一人だけの自分の為だけの芝居。
滑稽にもほどがある。
「…これは…」
顔を上げると、壁の大きなコルクボードに大量の紙が貼ってあるのに気付いた。
人工知能についての研究資料。
予算表に、予定表。
『計算違い』『失敗』等の走り書きが大量に。
そして、ところどころで『ユイ』と書かれたメモを見つける。
懐中電灯で照らしながら確認していく。
『ごはん食べてね ユイ』
『洗濯しておいたよ ユイ』
何でもないことしか書かれていなかった。
それでも、必死に精一杯にコミュニケーションをしようとした痕跡なのかもしれない。
メモを追っていくと、単語だけの短いものもあることに気づいた。
『お父さん』『お父さん』『心配です』『お父さん』……
「『お父さん』……」
この家に溢れるその言葉を反芻してみる。
呟きはするりと闇に消えるだけで、何も残らなかった。
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