51.瑠璃の黙 (52/76)
端的に言おう。そこは地獄だ。
「ここか」
「はい」
乗って来た車を近くのパーキングに置き、僕は鳥海ユイの家の目の前にいた。
そこは普通の一軒家だった。
表札には『鳥海』の文字。
部屋に明かりは灯っておらず、他の家に比べて寂しい印象を受ける。
家の敷地に入る。
横目に庭を見ると手入れが行き届いているが、家の雨戸が一つも開いていない。
「………」
緊張しながら、一応チャイムを鳴らす。
ピンポーンという一般的なチャイムの音が響く。
応答はない。
ゆっくり、ゆっくりとドアノブに手を掛ける。
「…開いている」
期待はしていなかったが、あっさりとドアは開いた。
そのまま息を殺しながら、家の中へと足を踏み入れる。
最初に感じたのは、底知れない暗闇と凍えるような寒さ。
吐く息が白くなるのではないかと錯覚するほどに、その家は寒かった。
エアコンが点けたままになっているのか、まるで氷の中に放り出されたように感じられる。
せめて暗闇だけでもどうにかしようと思ったが、電気を点けると近所の人が見に来る可能性があるので無理だった。
じいやから用意してきた懐中電灯を受け取り、辺りを照らす。
玄関には靴が丁寧に二足並べられ、壁にはメモがいくつも貼られたコルクボード。
『今日は大学 父』
『午後から友達と遊びに行きます ユイ』
『友達の家に泊まります ユイ』
『11時〜 健康診断 帰り遅い 父』
親子二人の用事が貼ってある。
黄ばんだ紙も混じっているが、新しいものもある。
新しいものはほとんど『ユイ』という名前が添えられていて、父親の予定は全くと言っていいほどなかった。
下駄箱の上には、外されたメモが丁寧に積まれている。
手に取って見てみるが、別段変わったところはない。
何枚か捲った後そのまま戻そうとして、気づいた。
一枚だけ感触の違う紙が混ざっている。
それを引き抜いて取ってみると、一度破いたのかセロテープで必死に継ぎ接ぎされ、メモの内容は黒くボールペンで塗りつぶされている。
「……?」
意味はわからなかったが、何故か悲痛に感じた。
知らずメモを握る手に力が入り、黄ばんだセロテープが少しだけ破ける。
「ジン様? ご気分が優れないのですか?
それならば、私だけで家の中を捜索しますが…」
「いや、いい。
これは僕が受けた勝負だ」
メモを置くと、僕はこちらで用意したスリッパに履き替え、一階を捜索する。
すぐ手前の部屋がリビングとそれに繋がるようにしてダイニングがある。
その向かいの部屋は和室。目の前をまっすぐ進むとトイレ。その横の部屋はバスルーム。
一つ一つ確認していく。
リビングは…おそらく一般的だ。
テレビがあり、ソファーがある。
テレビの横には写真立てが飾られているが、どれも電源が切られているのか、液晶画面には何も写っていない。
試しにスイッチを押してみると、問題なく写真がスライドショーを始める。
家族写真が主であるが、家族全員が揃っている写真は少ない。
父親と娘の写真が目立つ。それも入学式や七五三といった行事的なものばかりだった。
あまり写真は撮らないのだろうか。
行儀よく笑う鳥海ユイとあまり身だしなみに頓着しないらしい彼女の父親ばかりの写真が続く。
最初に戻ってきたところで、電源を切って元の場所に戻した。
「………」
かじかみ始めた手を開いたり閉じたりしながら、じいやが先に調べていたダイニングの方を調べる。
灰皿には煙草がいくつも放置されている。
余程のヘビースモーカーなのか、山のように積まれたそれらは埃を被っていて、もう長い間吸っても片付けてもいないようだった。
その後もいろいろ探したが、特に何も見つからなかった。
一階のことはじいやに任せて、僕は二階へと上がる。
二階も寒い。
そろそろ本当に吐く息が白くなりそうだ。
部屋は三つと少ない気がしないでもないが、僕が育てられた環境も他人と比較するべきではないのだろう。
女性の部屋を探すというのは気が引けたが、ここまで来て躊躇するのもどうかと思うので考えるよりも先に扉を開けていく。
すぐ手前が彼女の部屋だった。
学習机にベッド、箪笥…普通のありふれた子供部屋。
違うのは部屋の中央に布団が敷かれていることだ。
ベッドは綺麗にされているというのに、そちらを使っている様子はない。
むしろ布団の上以外は生活している様子がどこにもなかった。
まるで時が止まったかのように。
布団の上には本やノートが平積みにされ、LBXのパーツが散らばっている。
中にはリビングにあったような写真立ても転がっている。
近づいて、ノートを一冊持ち上げた。
光を当てながらぺらぺらと捲ると、市販のLBXの特徴や得意なフィールドについてが書かれている。
改良すべき点、相性のいい武器、細かな構造について…。
「……努力、してるじゃないか…」
努力していないというのは、やはり嘘だったのか。
端正な綺麗な文字の羅列。
膨大な量の情報がそこには書かれていた。
何冊も続いて、ところどころ日付と一緒に赤ペンで情報の修正もされている。
別のノートには遺伝子工学や人工知能についての研究。
特に人工知能については布団の上の資料の中でも一番多い。
およそ彼女の年齢で読むべきものではない本にも、書き込みが大量にあった。
「………」
次に手に取ったノートは今までとは違っていた。
日付と、それから一文の短い…感想?
日記か何かか。
『失敗』『残念』『わからない』『ちょっと痛い』『お母さん』…
震える小さな文字だった。
文字に不慣れな小さい子が書いたような、不恰好で自信のない文字。
「……『お父さん』」
それが一番多く書かれている。
『お父さん』とそれだけ。
ノートの中で必死に、父親を呼んでいる。
『お父さん』『お父さん』と何度も何度も…。
それから、しばらくは…最後のページまで『さみしい』『あいたい』という文字が続く。
時折『お父さん』と『お母さん』も入ってくる。
一番新しい、二日前の日付の後には『あいたい』。
それに続いて、あの玄関のメモのように黒く塗り潰された跡。
何が書かれていたのか、そっと読み取るようにその黒をなぞる。
当たり前だが何もわからない。わかるはずがない。
わかるのは、ただ…これは見てはいけないものだったんだということだけだ。
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