47.水中寓話 (48/76)


見上げると揺蕩う水面が目に入る。
それから色とりどりの魚が視界の端から端を行き交う。

ちらりと横目で見ると、少し遠くにいるイオは自分の目の前に来た魚と睨み合っている。

「これ、食べられるのかしら…」

なんだか不穏なことを呟いていた。
それから、設置されていた説明文を読んで「食べられない…」と呟く。
自分で誘っておきながら水族館に来るのは初めてなのか、物珍しそうに上から下まで観察しながら彼女は歩く。

「水族館は初めてか?」

「ええ。
なんだか想像していたより楽しいところね。
食べ物には困らなそうだわ」

「そっちなのか…」

「あ、もちろん、綺麗で不思議で面白いわよ。
魚って調べたことなかったけど、興味が湧いてきたわ。
次があるなら調べておきたいわね」

そう言いながら、彼女は水槽のアクリル板を指でなぞった。
寄って来た魚を興味深そうに観察し、離れるとバイバイと手を振る。

会話もなく、薄暗い青い光が照らす中を歩いていく。
半歩先を行く彼女とその後を付いて行く僕。
カルガモの親子のようだなと思う。
それほど穏やかではないが。

南国の海を模した水槽の前を通ると、カラフルな魚たちが僕たちを抜き去っていく。
優雅に泳ぐ姿は踊っているようだった。

「まるで魚のお祭りみたいね。
えーと、カーニバル?」

「リオやヴェネチアのやつだな。
微妙に的外れな気もするが…」

「まあ、例えだから細かいことは気にしないで。ね?」

小さな魚影たちを追いながら、イオはぐるぐると指で水槽に円を描く。
意味のないその行動を僕も目で追う。

「ねえ、ジン。
カーニバルって、語源はcarne valeで『肉よさらば』。carnem levareで『肉を減らす』っていうことらしいわ。
カーニバルの後の四旬節で断食と苦行をしなければいけないから、その前に肉を食べて楽しく遊びましょうというのがカーニバルらしいわよ」

「謝肉祭って言うしね」と彼女は続ける。
近寄ってくる魚たちを見ながら『謝肉祭』というのはなんだかおかしなものだけれど、彼女の瞳を覗いてみるとふざけている様子は一つもないのに驚いた。

「私のやっていることは、それと同じなのよ。ジン」

「は?」

いきなり重要な話を振られる。
思わず間抜けな声が出た。

「カーニバルをしながら、復活祭が来るのを待っているの」

至極当然のように彼女は言った。
現実感のないようなふわふわとした声をしたまま、水槽に指を這わせる。

そのうち、トンネル状の水槽に辿り着く。
エイやウミガメが頭上を泳ぐ姿が目に映ったが、楽しもうとは思えなかった。

「まあ、どちらかというと、やっていることは四旬節に近いかもね。
イースターエッグって知ってる?」

「チョコレートのなら何度か見たことがある。
確か…雛が卵から孵化することを復活に結びつけたんだったか」

「そう、それ。
卵の孵化。それを私はずーっと待っていたの。
随分長く眠っているから、危うく忘れかけていたわ」

冗談交じりにそう言うと、手で卵の形を作りながら、彼女が僕に一気に近づいた。
左右を合わせた指を楽しそうに動かしながら、僕をいつものように下から覗き込む。

僕よりも身長が若干低い彼女はそうやって相手を威嚇しているんだと、今漸く気づいた。

「卵が孵化すれば、私のカーニバルも終わる。
……さて、盛大なヒントを出したのだけれど、どうかしら?」

「ちょっと待て。
距離が近い」

ぐぐっと僕に近づいてくる彼女を肩に手を置いて遠ざける。

「あらら。
いいじゃない。これぐらい。
貴方にとっては朗報でしょうに。
カーニバルが終われば、私は貴方たちの敵ではなくなるのよ」

「……今更、味方にでもなるつもりか?」

「まさか。
そこまでずうずうしくはないわ。
うーん、味方にはならない。それは確か」

「君は『イノベーター』や『シーカー』のことを知って一般人に戻るつもりなのか」

「それは大丈夫」

何が大丈夫なのか。
彼女は自信ありげに胸を張る。
その肩には僕の手が未だに置かれたままであり、お互いの顔も近い。
見ようによっては変な雰囲気に見えかねないなと思った。

「大丈夫だから。大丈夫なのよ。
心配しないで。後のことは、どうにかなるわ。
少なくとも悪いようにはならない。
それは約束してあげる。
まあ、貴方が私の正体に辿り着ければ、何か変わるかもしれないけど」

にこりと笑う。

それは全てが正しいと信じている笑みだった。
いや、僕も含めて何かを実行しようとしている人間というのは得てしてそういうものだ。
別段不思議な部分はない。

ただ…何かを復活させたいのならば、別に僕たちと敵対する理由なんて一つもなかったのではないのか?
それなら、個人でだって出来たはずだ。

「君は僕たちの敵になる必要は…本当にあったのか…」

僕がぼそりと呟くと、彼女はきょとんと目を丸くする。
何言っているんだというのと、そんなの考えてなかったというような顔をしている。

「…必要だったのよ。
必要じゃなければ、だって…私、そうしないと…え…と…」

伝えたいけど、伝えられない。
それは余程重要なことなのか、答えに近いことなのか、彼女は言い淀んでいた。

青い瞳が寂しげに揺れる。
笑顔は顔に貼りついたままで、ひどく不恰好になっていた。
近い距離が余計にそれをはっきりとさせる。

「え、と…だから…私だって、その…」

何を口走りそうになったのか、急いで自分の手で口を塞ぐ。
それから何回か深呼吸すると、いつもの自然な不敵な笑みに戻した。

「敵になるのは必要だったのよ」

それだけ、きっぱりと言う。
取り繕ったその言葉にあまり説得力はない。

「そんなことより、私の正体、わかったの?」

びしっと決めているように見えて、微妙に瞳が揺らいでいた。

弱々しいその姿に、僕は多分彼女は怒るだろうけれど、同情してしまった。

何故、同情するのか。
多分…本当の彼女は、ずっと、もっと弱くて脆い人間なのではないかと思ってしまったからだ。

「すまない。
まだ、僕にはわからない」

「こんなにヒントをあげてるのに?
本当にわからないのかしら?」

「すまない」

得るべき答えが出揃いつつある中、僕は謝ることしか出来なかった。

ふと、イオの肩に置いていた自分の手に気づく。
離すタイミングを失い置きっぱなしになっていたその手は、未だに置かれたままだ。

揺れる水面。
素知らぬ顔で気持ち良さ気に泳ぐ魚たち。
楽しむはずのその空間が、今はひどく哀しかった。


prev


- ナノ -