44.遠く遥かなトロイメライ (45/76)


それは巨大な迷路だった。
入り口が何か所もあり、生垣は僕たちの身長よりも高い。
解くのにかかる時間が一、二時間というのは頷けた。

「ねえ。勝負しましょう」

イオは笑顔でそう言うと、目の前の入り口ではなく、少し右の入り口の前に立つ。

「先にゴール出来た方の勝ち。
負けた方が勝った方の言うことを聞くというのは、どうかしら。
あ。あんまり非道徳的な命令はなしよ」

突然、そんなことを言ってきた彼女は子犬のような無邪気な目を僕に向ける。
少し下から僕を覗き込む動作。

ああ、いつものイオだなとどこかで安堵した。

「待て。
僕の話を聞いていたのか。
君に聞きたいことがあるのに、別々に行動してどうする」

「それは、ほら。
CCMがあるじゃない。
これで連絡し合いながら、ネットとかで反則出来ないように監視の役割もするの。
ほらほら。番号、交換しましょう」

彼女は半ば強引に、僕と番号を交換する。
少ないアドレスの中に『イオ』の名前が登録される。

彼女の真意はなんだろう。
何故、敵対しているのにこんな…より繋がりを濃くするようなことをするのだろう。
後悔が強くなるだけなのに。

「眉間に皺寄ってるわよ。
あんまり深く考えない、考えない。
どうせ、ただの暇つぶしなんだから。
ほら、スタート!」

一際明るい声が響き、彼女は迷路へと突入していく。
計算などいうものはないのか、直後「わひゅん!」という訳のわからない叫び声と生垣の揺れる音が聞こえてきた。

「はあ…」

溜め息を吐きながらも、聞かなければいけないことがある僕は迷路へと足を踏み入れた。

「確か…迷路は壁沿いに進むんだったか」

ひたすら壁に沿って歩けば入り口か出口に辿り着けるという方法であるが…。
とりあえず、道が分かれるまで進んで、そこから先はその時に考えよう。

どこかでイオか、あるいは鳥海ユイの癖でも移ったのか、随分楽観的な考えだなと思ってしまう。
毒されていると言うべきか…。

「はあ…」

溜め息が出たところで、CCMから無機質な音が鳴る。
静かに開き、通話ボタンを押して耳に当てると、息遣いだけが聴こえた。

《良かった!
着信拒否されるかと思ったわ》

「…君は変なところで心配性だな」

《そうかしら?
自分では自覚はないわね》

「…そうか」

《そうそう。
ねえ、そんなことよりもお話ししましょう。
私、誰かとこうやって遊ぶのって本当に久しぶりだわ》

「遊んでいる訳じゃない。
僕は君に重大なことをだな…」

《ねえ、ねえ。
ジンは普段どんな本を読むのかしら?》

「………人の話はちゃんと聞け」

《大丈夫よ。ジン。
私、忘れてないから。
多分、それを言ったら、ここでの会話なんて一瞬で終わってしまうだろうから…今は少しだけ、ね?》

全てをわかっているかのように、彼女は慎重に言葉を選んだようだった。
いつもとは雰囲気が違うのがわかる。

クスクスという笑い声が少しだけ暗い。

「……LBX関係の本はよく読む。
それから、古典文学は多いな。
課題になる場合も考えて、普段から読むようにしている」

飲まれるように、諦めの感情も吐き出しながら僕は答えた。

イオは嬉しそうな声で続ける。

《へえ。
なんだか、イメージ通りね》

「真面目ね」と柔らかに優しく、声が僕の耳に届く。
なんだか少しくすぐったい気持ちになる。

迷路は少しずつ深くなっていく。
誰ともすれ違わない。
まるで僕とイオの二人しかいないような空間。

お互いの声だけが、世界の全てのようだった。

「君は、どんな本を読むんだ?」

《私?
うーん…、私はそうね、童話をよく読むかな。
ピーター・パン、スノーホワイト、シンデレラ、ヘンゼルとグレーテル…他にも色々。
なんだか楽しいじゃない。
それに親子の話は面白いわ》

「君の上げる童話の親子はそれほど愉快とは思えないんだが…」

《え? そうかしら?
結構一般的じゃない》

「君の頭の中の常識はどうなっているんだ…」

《ジンとそうそう変わらないと思うけど…。
そういえば、昔、なんで白雪姫をスノーホワイトっていうんだって言われたことがあるわね》

そういえば、日本人は白雪姫の方が一般的だ。
彼女が言ったときは気づかなかったが、言われてみれば確かに変だ。

「君が外国育ちだからか?」

《うーん…。
ロシアにいたのはせいぜい一年ぐらいだけど、お母さんが絵本を読む時「スノーホワイト。スノーホワイト」ってよく言ってたのよ。
お母さんは留学経験もあるっていうから、そのせいかもね。
英語の発音がすごく良くって、自慢のお母さんのなのよ!》

「そうなのか…」

家族の話になると饒舌になるのは癖なのか、彼女はそれから両親についてを楽しそうに話した。
家族への愛が滲み出ている。
良い家族なのだなと話だけでもわかった。

その優しい声音が、僕の警戒心を溶かしていく。
偽りのない、純粋な温かいその感情は僕には毒そのものだ。
完全な敵として見られなくなる。

《そうね。
次はジンの好きな食べ物は何?》

「…紅茶、コーヒー…」

《ふふっ。
それ、飲み物じゃない》

本に始まり、好きな食べ物、得意な運動、好きな音楽、自分で気づいた癖…彼女が思いつくままに、お互いのことを教えあう。

迷路はどんどんと進んでいるが、出口に近づいているのかはわからなかった。
ゆっくりと時間が流れている。
僕には…多分、僕たちにはそれは良いことで、敵と会話しているはずなのに、穏やかな空気がここにはある。

壊したくないと思った。
蜂蜜に溶けているようなこの甘く優しい空間を、壊したくないと僕は思った。

それでも、聞かなければ。
僕の中にはこの空間に反した想いがある。
生温かくて、どす黒い想い。

《ジン?
どうかした?》

僕の反応がないのを訝しんだのか、イオの声にも疑問が滲んでいるのがわかる。

下唇を噛みしめ、一回だけ深呼吸する。
覚悟を決めて、僕は言葉を紡いだ。

「聞きたいことが、あるんだ」

それだけの言葉が酷く、重かった。

《うん。
何かな?》

素っ頓狂な声。
これはわざとだなと、僕は瞬時に気づいた。

「一度聞いたことがあるな。君は鳥海ユイと関係があるのか、と」

《ええ。
私はそれに対して、明確な答えを言わなかったわね。
…って、それが聞きたいこと?》

「いいや。違う。
イオ。君は…さっき、公園のベンチで笑ったな」

《んー。うん。笑った。
でも、自分で言うのも変だけど、私はいつも笑っているわ》

「そうだな。
君はいつも笑っている。
本当にいつも笑っているな。
君の笑顔以外の表情を僕はあまり見たことがない。

でも…イオ、君のあの時の笑顔は、違ったんだ。

あの笑顔は…鳥海ユイとそっくりだったんだ」

思ったことをそのまま口に出す。
喉は渇いて、自分で吐き出したはずの言葉が貼りついて、次の言葉が上手く出てこない。

「鳥海ユイと君は『アルテミス』の会場に二人共いたな。
あの頃から、思ってはいたんだ。
君たち二人は似ている、と。
君の笑顔を見て、余計にそう思った。いや、思わざるを得なかった。
だから、僕は単純に答えを出した。
どちらが上か下かは分からないが、君たちは双子なんだな」

他にも答えは幾通りもあっただろうに、僕は『双子』という答えを出す。
安直だと自嘲するが、それでも正解だと僕は勝手に仮定した。

《……へえ。
それで?》

短い沈黙があっただけだった。
ただし、否定はされていない。

「君たちは…何かしら、二人で仕組んでいるんじゃないのか?
敵対しているように見せかけているだけで、お互いに協力して…」

《協力して…何かしら?》

「僕たちを……裏切ろうとしているんじゃないのか…?」

あの無邪気な笑顔で君たちは何をしようとしているんだ、と。

長い沈黙が訪れる。
吐息だけが聞こえてきて、それが余計に沈黙を深くする。

彼女は今、どんな表情で僕の言葉を聞いていたのだろう。
笑っていたのだろうか。

《……ふーん。
じゃあ、ジン。
私と彼女が貴方たちを裏切っているとして、貴方はどうするの?》

「………僕は…」

《僕は?》



「僕は、君たちを、君を、イオを……一生ゆるさない」


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