43.アマオト ヒビケ (44/76)


僕が入院していたのは、トキオブリッジの倒壊事故しかない。
それ以降はお祖父様に引き取られ、彼女の姿も以降の記憶にはない。

出会っているとすれば、四歳かその前後一、二年のはずなのだが…。

「病室にもう一人…」

いた気がする。

記憶があまり鮮明ではないのは、それほど長い間一緒にはいなかったからか。
だからと言って、ユウヤのように連れ去られたというのではなく、家族が迎えに来て自然に去っていったような気もする。

「…わからない」

思わず、空を仰ぐ。
青空が広がり、どこまでも続いている。
周囲からは子供の声や犬の鳴き声が聞こえてくる。

僕が座っているのは、それなりの規模の公園のベンチ。
僕には…随分と疎遠になってしまった家族が、お互いに笑いあっている声を聞いた。

穏やかで、幸せそうだ。

しばらくそうして、空を仰ぎながら耳を澄ませていると、すっと手が見えた。

「…?」

水を掬うような形をした手が開かれ、そこからバラバラと何かが落とされる。

何個かは僕に当たり、多くはそのままベンチにぶつかり、地面に転がったものもある。
僕はその一つを手に取ってみると、アメだった。
他にもチョコレートに煎餅、マシュマロに…色々とお菓子が転がっている。

「こんにちは。元気? ジン」

ひょっこりと陽の光を遮るように、僕の頭上に姿を現したイオは僕を覗き込んでいた。

自分の表情が強張るのがわかる。
にこにことした笑顔はいつも通り。僕の知っているイオだ。

彼女の長い黒髪が零れ、僕の頬を撫でる。
少しだけくすぐったい。

「…食べ物を粗末にするな」

「えっと…、ごめんなさい?」

注意すると、面喰ったような表情をする。

その顔は初めて見たな…。

言おうかと思って、止めた。
また何か言われそうな気がしたので、面倒なのが僕の中で勝った。

「何の用だ。
答えなら、まだ出ていないぞ」

「うん。悩んでたね。
大丈夫。ただ単に、見つけたから声を掛けてみただけよ。
答えなんて聞かない、聞かない」

イオはそう言いながら、僕の手からアメを奪うと、包装を取って口に放り投げた。

もごもごとした口の動きがいつもよりも子供に見える。
彼女は僕の横に落ちていたお菓子を拾い、それから回り込んで地面に落ちた分も拾うと、そのまま僕の隣に腰を下ろす。

「お一ついかが?」

「………本当に、何をしに来たんだ」

「ただの散歩。
あ、チョコレートよりマシュマロの方がいい?」

僕などお構いなしに勝手に話を進めていく彼女に僕はため息を吐きながら、その手の中から適当なお菓子を手に取る。

口に入れてみると、案の定甘かった。
あまり甘いものは得意ではないので、顔をしかめてしまった。

その様子をイオはにこにこと笑いながら、見つめている。
青い瞳が興味深そうに輝いている。

「今日はいい天気ね」

「そうだな」

「人がいっぱいだわ。
公園で遊んでいる親子って、ちょっと憧れないかしら」

「…そうだな」

「私、あんまり親子で遊んだことないの。
あれって、普通?」

指差す方向に視線を合わせると、そこには一組の親子。
転んだのか泣いている子供を母親があやし、父親は「大丈夫だ」とその頭を乱暴に撫でる。
ごくありふれた家族の光景。
僕も昔ああいうような、似たように穏やかな時間を過ごした思い出がある。

「そうだな。…あれは、普通だろう」

だから、僕は彼女の質問に肯定した。

「そっか。
あれ、普通なのね」

ぼそりと呟くような、一言。

「私の家、お父さんが研究者だったから、あんまり外に遊びに行く機会がなかったの。
遊びには行けなかったけど、でも、とても家族思いの人なのよ。
お母さんもとても…愛情深い人なの」

一転して明るい口調で、彼女は饒舌に家族のことを話す。
ふんわりとした優しい笑顔を僕は初めて見た。

その表情からは、嘘が全く感じられなかった。

「……珍しいな」

「え?」

「君が、自分のことをぼかさずに言うのは、珍しいなと思ったんだ」

「あらら。私としたことが。
ではでは、ヒントということで一つ」

「なるはずがないだろう」

「えー…。
どこかで役に立つわよ、きっと」

表情をコロコロと変えながら、ふざけたような声をしながら、まだ優しい雰囲気が言葉に残っている。
それを彼女も自覚しているのか、少し困ったような顔をしてから、「あっ!」と声を上げた。

「あっちにね、迷路があるのよ。
生垣で出来た大きな、えーと、迷路園っていうのかしら。
それがあるの。
脱出に一、二時間かかるらしいわ。
暇つぶしにどう?」

「どうって…――」

呼吸が止まるかと思った。
驚いた。驚いたのだ。

彼女の誘いが、苦し紛れなのは一目瞭然。
でも、そこじゃない。
その笑顔は鳥海ユイとそっくりだった。

何も考えていないような、間抜けな笑顔。
瞬時に連想できる僕が余程彼女を観察していたのか、それとも…。

「ジン?」

「あっ…いや、その…」

「んー…あ、ごめんなさい。
私の方が油断してたわ」

その言葉と共に、いつものイオらしい笑顔に戻した。
当たり前みたいな顔をして、表情を作った。

言葉もなかった。
そんなに簡単に表情を作れるものなのか、と。

途端に罪悪感が湧いてくる。
本当の彼女を、一番見てはいけない彼女を見た気がしてならなかった。
一番の秘密を無造作に放り投げられたかのように、僕は驚いて固まってしまった。

そして、頭の中に嫌な想像が…浮かびだす。
それは最初は霧のようにもやもやと曖昧な姿で。
段々とはっきりとした形を帯びてくる。

「おーい。ジーン。
どうかした?
もしかして、心の底から嫌なの?」

「そうじゃない。
…迷路だったか。
僕も行こう。どうせ、今日は暇だ」

「おおー。
ジンが妙に乗り気なのはいいけど、顔色悪いよ。
大丈夫?」

「大丈夫だ。
それよりも聞きたいことがある」

「?
いいよ。
迷路でも解きながら、のんびりお話でもしましょう」

僕よりも一歩先に歩き出す。

猫のしっぽのように長い髪が動く。
振り向きながら、僕と視線を合わせると、心底嬉しそうに彼女は笑った。

「うん。
貴方はそうじゃなくちゃ。
まっすぐ進みなよ。
そうすれば、私をちゃんと倒せるから」

まるで、討ち取ってくれとばかりに妖しく、艶やかに彼女は笑う。

瞳には確かな覚悟が静かに深く青く揺らめいていた。


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