短編(その他)

  思い知れ(堀川国広×審神者)


1.
 それは信頼から来る驕りなのかもしれないと、考え至ったのは、青緑色の瞳から逃げるように踵を返す自分が、まるで光を嫌う怪物みたいで、逃げ惑っているように感じられたからかもしれない。
 自らの記憶と寸分変わらぬその姿を、雑踏の中で見つけた時、彼女は瞬時に彼に背を向けた。なるべく自然に、ありふれた光景のように、彼の視界に極力入らないように、細心の注意を払いながら。
 彼には幸福になって欲しかったから。
 酷く独り善がりな思いだということは分かっていたけれど、脚は自然と自分を彼の人生に踏み込ませないために動いた。彼の幸せがどこにあるのか、どんな形をしているのか、それは全く判然としなかったが、彼女は自分がそれに近づいてはいけないのだ、と理解していた。彼は自分で幸せになれるはずだから、仮に自分が知っている彼でなくても、生まれた場所が同じであるなら、幸福を願わない理由はないから。
 そして、彼女はその直感を信じた。背後の気配を探りつつ、後を付いてこられていないことにほっとした。用心の為、普段使いしない駅や店をいくつか中継してから、家路に着く。長く生きるものではないな、という言葉が久方ぶりに頭を過ったが、もはやそれは彼女だけでどうにか出来る問題ではない。
 これで正しかったのだ、と自分に言い聞かせながら。酷く懐かしい記憶を、共有することが叶わぬことが少し寂しかったけど、彼の幸いを願ったのは、事実だから。
 けれども、敢えて、彼女の間違いを指摘するのであれば、彼…堀川国広に背を向けたことがそもそもの間違いだったことに他ならないのだ。

2.
 所謂二つ目の人生というものを、堀川国広は、ずっと夢のようなものだと思っていた。よく出来た明晰夢だと。こんなものもあるのかな、とどこか冷めた思いで。常に腰に佩いていた自身がそこにないことと、かつて「主」と呼んだ人がいない以外には、実に良く出来た夢だった。
 夢から醒めたのは、大海を泳ぐ魚の群れのような人の雑踏の中に、よく見知った、記憶の底でいつまでも澱のように留まり続ける、彼女を見つけた時だった。肩口で短く切り揃えられた黒髪に、砕いた月の欠片を埋め込んだような黄金色の眼を、堀川国広が見間違えるはずがなかった。彼女はそのままだった。記憶通りに、寸分違わぬ姿で、若返っても老いてもいない、愕然とした。目の前の信号は青だというのに、足が地面に縫い付けられたように動くことが出来なかった。これは現実だと、脳髄の奥から警告が飛んでくる。彼女は、ずっと、長く長く生きる人だから、これが過去から脈々と続く地続きの現在であることを、漸く思い知った。
 心臓から押し出される血液に乗って、澱の中から這い上がってくるように、薄汚れた黄金色の恋が身体中に流れ始める。衝動的に手を伸ばそうとして、彼女が自分の姿を認識すると、くるりと堀川に背を向けた。その瞬間、夢が崩れ落ち、現実が身体の端々から洪水のように押し寄せて来る、絶望的な音がした。
 堀川は暫くその場から動くことが出来なかった。

3.
 地獄の底を浚って歩くような重い足取りで、堀川はどうにか家に帰った。血液が鉛になったかのようで、自分の身体だというのに、ドアノブを握ることすら億劫だった。やっとの思いで玄関を開けると、今現在は本物の兄弟として暮らしている山姥切国広が「……どうかしたのか」と聞いてくる。「主」に会ったことを言うべきか、ひどく喉が渇いた。結局、何の言葉も発することが出来ず、曖昧な笑みを浮かべるに留まる。堀川はなるべく平気そうな顔をして首を横に振ると、学生らしく勉強があるからと断りを入れて、逃げるように自室へと籠った。
 扉を閉じると、堀川はそれに寄りかかって、ずるずると座り込む。両手で顔を覆った。ひたひたと忍び寄ってくる、恋という絶望に、深く息を吐く。
 見つけてしまった、彼女を。
 夢だと思っていたのに、現実として、沈めたはずの恋と共に現れた。
 堀川国広は「主」に恋をしていた。きっかけは、正直なところ、もうあまり憶えていない。穏やかな声が心地良かったからかもしれないし、金色の眼差しが美味しそうで食べてしまいたかったからかもしれない。どちらにしろ、気づいた時にはもう手遅れで、恋は堀川の中に取り込まれ、切り離すことは難しくなっていた。
 けれども、あの戦争の最中、終ぞ堀川国広は彼女に恋を伝えたことはなかった。優先することは他にあったし、尊敬する和泉守兼定がすぐ傍にあったから、彼女を追うよりも彼の相棒として共に過ごした。指に熱を孕むのも、眼差しに恋慕が混じるのも、上手く隠して、与えられた一つ目の命を終えた筈だった。最期まで折れることなく、光に溶けるようにして、お別れをしたと堀川は思い込んでいた。
 それなのに出逢ってしまったものだから、堀川は這い上がってきた恋の、そのどうしようもなさに叫び出しそうだった。まだ何も、手を伸ばせてすらいないのに、訪れるかどうか分からない、終わりの恐怖に打ちひしがれる。堀川国広はただ恋を告げることで、彼女の手で恋に終止符を打たれてしまうことが堪らなく怖かっただけなのだ。それで動けなくなり、彼女の過去や未来を護れないことが怖かった。そのことを今になって、目の前に突き付けられた。
しかし、今はどうだろう。恋を諦めるための理由が、ここには不足していた。故に、詭弁ではあるが、諦めることこそ、間違っているような気がしてならなかった。
 堀川は顔から手を退け、ふと彼女はどうして自分に背を向けたのかを考える。彼女は優しい人だから、おそらく、自分のことを慮って、堀川から背を向けたのではないかということは、容易に想像が出来た。それはとんだ勘違いであり、堀川は不意に自分の恋が蔑ろにされたような、そんな理不尽な怒りがはらわたから滲み出てくるのを感じた。夏の日の入道雲のように、それはもくもくと青空を白く塗りつぶしていく。
彼女が自分から逃げるように背を背けた事実に、堀川の暗く押し潰された欲が、喉元までせり上がってくる。息が詰まった。自分の中に、こんな欲があるなんて、知りたくかった。知りたくないのに、それはとめどなく腹の底から這い上がり、心の臓を食い荒らしていく。
 呼吸が荒くなる。まるで独り宇宙の果てに置いて行かれたように、さみしくて、肺が悲鳴を上げた。自分の中の浅ましい欲がおそろしかった。おそろしかったけれど、堀川はそのおそろしさを、押し殺そうとはしなかった。形の分からぬ獣を宥めて大人しくさせる手段を、堀川は知っていたけれど、彼はそれを止めた。
 次に彼女を見つけた時、堀川国広がすることは決まった。
 彼女を捕まえて、逃がさないことだ。
 未だ光の灯らない暗い室内で、青緑色の美しい瞳だけが、別の生き物のように爛々と輝いていた。

4.
 しかしあれ以来、堀川は彼女に会うことが出来ずにいる。それは彼女自身が細心の注意を払って行動していた為でもあったし、堀川自身学生という身分である以上、行動できる範囲に限りがあった為でもあった。今日だって、本当は彼女を捜しにいきたかった。騒がしい飲み屋の扉を潜りながら、堀川は食器の触れ合う甲高い音に隠れるようにして溜息を吐く。
 彼女を探すために、ある程度の自由がゆるされるために、人とそれなりに付き合っていく必要があった。例えば、噂好きの級友に彼女を血眼になって探している事実の端をつつかれ、詮索されないため、とか。煩わしくも、普段断っている飲みの席に渋々顔を出したのは、そういう事情からだった。
級友に誘われた飲みの席は、大方の予想通り、ありがちな合コンで、堀川は特に好みでもない女性陣に代わる代わる質問をされ辟易した。彼女たちに愛想笑いを振り撒きつつ、「主」について探りを入れる。女性の情報網というのは、意外に侮れない為少しばかり期待したのだが、大した成果は得られなかった。
 とはいえ、料理の方は堀川の守備範囲から程好く外れた、好奇心を擽る品ばかりで、それに関しては来てよかったと思えた。ラクレットチーズを使った料理が有名らしく、ぷつぷつと気泡を弾けさせるチーズがまろやかで、どの食材とも合う。パリパリに焼いたチーズも、味が濃くて美味しかった。そうやって料理に舌鼓を打ちつつ、時間が過ぎるのを待つ。酒には強かったが、この後、少しだけ彼女を探したかったから、乾杯の時の一杯だけで済ませるつもりだった。
 飲みに来なければいけない時、堀川はいつも出入り口が観察できる席を陣取るようにしている。もしも「主」が入ってきた場合、瞬時に動けるようにするためだ。彼女はフットワークが軽い。初動を早めなければ、追い付けない可能性の方が高かった。そして、今日もそういうふうに、ワイングラスを控え目に傾けつつ、出入り口を観察していた堀川は目を瞠った。美しいロイヤルブルーが視界の端で翻る。
 指先が震えた。堀川はワイングラスをやや乱暴にテーブルに置くと、財布から何枚か紙幣を取り出して、隣の級友の前に置く。明らかに動揺している彼に、鞄を掴みながら、語気を強めて言い放った。
「ごめん。用を思い出したから、僕、先に帰るよ」
 言い終わる前に、既に堀川は歩き出していた。足音を立てないように注意を払う。店内の無秩序なざわめきは、あの日の雑踏を思い起こさせた。遠い昔のように、堀川にはもうその無数の人の中から、たった一人の人を蜘蛛の糸を辿るように見つける力は残っていない。だからその後ろ姿を必死に追う。ロングスカートとは思えないほど素早い動きをする彼女は、それでも記憶の中よりも動きにくそうだ。彼女は動きは素早く軽いが、体力には必ず限界がある。それまで地面を這いずってでも見失わない覚悟があったが、状況が堀川に味方した。
 あの時、二人を分かつようにしていた信号が、今度は彼女の歩みを止めるように赤に変わったのだ。スカートが翻り、彼女の動きが止まった。
「主さん」
 主に従っていた一つの刀として彼女を呼ぶ。そうすると、頭上の月をそのまま映したような、黄金色の瞳で彼女は堀川を見据えた。ひどく剣呑なそれは明らかな拒絶だった。けれども、その視線に僅かばかり絹のように柔らかな感情が混ざっているのに気づいて、堀川のはらわたからはまた怒りのようなものが込み上げてきた。そんな中途半端なもので、自分を遠ざけようとするのが、身勝手にも許せなかった。脳随の奥が熱した鉄をくべられたかのように熱くなる。
 一歩彼女に近づくごとに、きゅうっと視界が急激に狭まるのを感じた。かつて敵を追い詰める時ですら、これほど視野が狭くなることはなかったのに。
そうして、堀川は漸く彼女に手を伸ばした。手を引っ込められてしまうよりも先に、堀川に許される力の限り、彼女の手首を握る。細い手首は少し汗ばんでいて、自分の体温と彼女の体温がない交ぜになり熱を持つ。とくとくと血液が身体に巡る音を薄い皮膚越しに聞くと、何とも言えない優越感に襲われた。くらくらする。アルコールがやっと回ってきたように。吐息が熱に犯されたように熱かったが、それを隠そうとは思わなかった。
「堀川」
五月雨のように細い拒絶で濡れた、穏やかな声が鼓膜を震わせた。
「離して」
 と。逃れようとするが、堀川は意地でも離してやるつもりはなかった。彼女の声に彼はうっそりと微笑んで、痕が付いてしまうのではないかというほどに、彼女の手首を強く握り直す。離して、なんて言うだけ無駄なのだ。二人の間には、沈黙が夜闇に立ち込める霧のように重く横たわっている。
 往来ということもあり、彼女は堀川の拘束に対して、必要以上に抵抗出来ずにいる。知らない仲ではないというのもあるのだろう。そんなことなど気にせず、大声を上げて抵抗すれば良いのに、と堀川の冷静な部分が呆れるような吐息を漏らした。
 おかしくて、堀川はくつくつと笑う。彼女が不満げに自分を見上げてくる。それも自分の掌中に焦がれるように思い続けた人がいるから、ちっとも怖くなかったし、寧ろいじらしくて堪らない。常とは違う雰囲気を醸し出しているからか、通りがかる人たちが煩わしそうに視線を寄越してくるがそれだけで、誰も二人の間に介入してこようとはしなかった。痴話喧嘩とでも思われているのかもしれない。邪魔しないのであればそれでいい。
 ここには和泉守も山姥切も、他の刀たちもいないから、心地良くも堀川を重く縛っていた存在理由は、鋭く磨いた刃で切ってしまっても構わない筈だ。
堀川はまた「主さん」と彼女を呼んで、立ち込めていた沈黙の中を進み始める。堀川国広は脇差だ、気配を探ることには長けていた。青緑色の美しい瞳は深い霧の中でも彼女を捉えている。
 美しい獣の眼差しをして、堀川は柔らかく、その実、抵抗を許さない絡めとるような強い力で彼女の手を引いた。彼女の剣呑な眼差しが更に鋭さを増す。そういえば、怯えた表情を見たことがないな、と堀川は思い至る。だからといって、怯えさせたいわけではないのだけれど。
 信号機はもう何度目か分からない明滅を繰り返す。視界の端に映る人の数が、幾分か少なくなったような気がした。夜が、深く深くなって、はっきりしていた彼女の輪郭も少しあいまいだ。指先に刻まれる確かな血潮の音が、自分の心音と少しずつ重なっていくのが、音楽を奏でていくようで気分が良かった。堀川は彼女と元より狭かった距離をより狭めて、肺に金木犀のような甘い香りを、ゆっくりと紫煙が広がっていくように満たしていく。
 彼女は未だ鋭く、それでいて致命傷を与えるには柔い眼差しを堀川に向け、手首に力を込める。隙を見て、逃げるつもりであることは明白だった。そしてこの手を離したら、次はないということを彼はよく理解していた。だから堀川は、夜が深くなるように、底の見えない、けれども肥大したいとおしさだけはありありと見える笑みを浮かべて、噛みつくように彼女と唇を重ねた。
 黄金色の瞳が途端に見開かれるのが、まるで何も知らない少女のようで可愛らしい。「堀川っ」と声にもならない声が漏れ聞こえたものだから、その間から自分の唾液を流し込んで、舌を割って入らせた。自らの薄汚れた恋も熱を孕む呼吸も、何もかも全て教えたくて、耳にいつまでも残るように水音を何度も響かせる。彼女は堀川から離れようとするけれども、彼がそれをさせなかった。手首を強く握って、もう片手を彼女の後頭部に当ててやる。舌でも噛み千切ってやればいいのに、と他人事のように思いながら、彼女の舌と自分の舌を絡ませて、また唾液を流し込んだ。捕まえていない方の手が堀川から逃れようと胸板を押しているけれども、無駄なことだと堀川は思う。だって、それが余計に酔いを巡らせてしまうから。
 息苦しそうに、こくりと、彼女が嘔吐きながら、唾液を呑み込むのを見て、堀川は喉の奥で笑う。呑み込んだ彼女の吐息は熱くて、自分のものとない交ぜになった唾液は甘露のように甘かった。全て呑み込ませてから、そうして堀川国広は漸く彼女から少しだけ唇を離す。細い銀の糸が二人の間に垂れた。存外こういったことに慣れていないのか、彼女は苦しそうに肩を上下させながら、漸くというように息を吸う。自分がそうさせたというのに、堀川は雲の上を歩いているかのような奇妙に満たされた心地になりながら、落ち着かせるように後頭部を押さえつけていた手で背中を擦ってやる。金色の眼差しは熱に浮かされたように潤んでいて、水面の月のように揺らいでいた。それを、飲み込んでやりたいと、咽が鳴る。
「……好きです」
 教え込むように、堀川は彼女にしか聞こえない、凪いだ海のような穏やかな声で囁いた。潮のように、ひたひたとそれが心の臓に沁みて、彼女の身体の端々にまで満ちればいい。どこを切っても、彼女の中に自分が融けているなんて、あり得ない夢だとしても、その甘美さに胸が震えた。肉と骨を断ち切る一太刀と刀を滑る血潮の熱さを久方ぶりに思い出した。
「主さん、貴女が好きです」
 分かってますよね、と。また唇を塞ぎながら、呼吸と共に教えてやる。彼女が自らの呼吸で、今、息をしているという事実が堪らない。
 青緑色の眼を細めて、堀川国広は笑った。



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