短編(その他)

  弾ける氷菓(鯰尾+審神者)


からん、という涼しげな音を聞いた。

外から吹いた弱い風が簾を揺らす。
つうっと汗が顎を伝い、書類に一滴落ちたのを見届けると彼女は書類の一番下に自分の名前と印鑑を押して、「処理済み」の箱に放り込んだ。
持っていたペンを放り投げて、伸びを一つ。

それから背中から勢いよく畳に転がる。
視界が逆さまになって、肺の中を真新しい井草の香りが満たす。
春の時は井草の香りはそれほどでもなかったような気がするが、夏になって井草の香りが濃くなったような気がする。
どうしてだろうかと考えて、錯覚だろうと味気ない答えを出す。残念ながら、畳は去年から代えていない。
夏の景趣と一緒についてきた硝子の風鈴が弱々しい音を出す。
ちっとも涼しげではないその音に彼女は耳を傾けながら、よっこらせと立ち上がった。

「あっつ〜……」

ぷはっと息を吐きながら、部屋の外に出て、簾越しではない風を浴びる。
少女よりも少しだけ大人びた顔立ちをした彼女の頬に汗が伝い、風の流れに従って後ろに流れ、肩に落ちた。
金色の瞳で彼女は周囲をきょきょろと見回し、書類整理に付き合わせてしまった近侍の姿を探す。
遠くから短刀たちの楽しげな声が聞こえ、元気だなあと思った。

書類整理や作成は昼間ではなく、多少は涼しい夜に行うべきとは分かっていた。
普段はその通りにしているけれども、今回は目算を誤って明日提出の書類を終わらせるのが遅れてしまった。
それ故に真夏の昼間に小難しい書類と顔を突き合わせることになってしまったのだ。不覚である。

風を通す造りと立地上都会よりも涼しい気候に助けられてどうにかなっているが、本丸の夏もそこそこに厳しい。
熱中症や脱水症にいまいち疎い刀たちに、とにかく辛くなくても水分と塩分を摂れと水筒と塩分タブレットを渡したのは記憶に新しい。
そのおかげか、今年は熱中症で倒れた者はいない。
世界がぐるっと回るような朦朧とした気持ち悪さを知らないのは良いことだ。

書類申請が面倒だけれども、そろそろクーラーでも導入しようかと頭の中で予算とにらめっこする。
去年は「必要ないだろう、予算はどこから引っ張ってくるんだ」と近侍だった山姥切に言われて流したが、その近侍自身がその直後熱中症で倒れたのだから元も子もない。

導入を検討していたが、予算の壁にぶち当たり、結局見送ってしまった。
しかし「気持ち悪い、吐き気がする、世界が回る」と繰り返していた近侍のためにも、今年こそは入れるべきだろうと思ってはいる。

「設備費用からどうにか引っ張って来れないもんかなあ」

本丸は広い。
クーラーを入れるとすれば一台、二台程度の話ではなくなる。
ポケットマネーで賄えれば良いが、いざという時のために貯金はしておきたいし、修理の際に業者を入れる手続きが面倒だ。
政府を通した方が後の煩雑な手続きが半分で済む。
こんのすけの知恵を借りてでも、本丸の予算から捻出したい。さて、どうしようか。

「鯰尾ー? 書類書き終わったから、万屋にアイスでも買いに行こー?」

廊下を広間の方に向かって歩きながら、近侍の名前を呼ぶ。

今日の近侍は鯰尾藤四郎。
極修行に出ていたが、彼は髪を高い位置で結び直し、戦装束を新たに整え、記憶を取り戻して本丸へと帰ってきた。

最初はその口調の変化に面食らったが、話してみれば以前とそれほど変わらないような気がした。
少なくとも彼女は以前と変わらない態度で接しているつもりだ。

からん、とまた涼しげな音が聞こえて、彼女は首を傾げた。
次に不満げに頬を膨らませる。

「……むう」

探していた近侍は縁側ですやすやと寝息を立てていて、その足元からまた涼しい音がする。
彼女が身を乗り出して縁側の下を見ると、水を満たした金たらいが見えた。
鯰尾の足はそこに浸かっていて、ゆらゆらと肌色が揺れる。

水と氷が太陽の光を反射する。
短刀たちの笑い声が遠くから聞こえた。
硝子の風鈴が弱々しい音を立てる。

髪の先から汗が床に落ちた。

彼女は手を伸ばすと冷えた水の中から氷を手に取る。
氷はもちろん冷たかった。

彼女は徐に、問題にならない程度に鯰尾のシャツの胸元を開いて、氷を放り込んだ。

突然の冷たさに鯰尾が飛び起きる。
鯰尾の頭が起きる際に彼女に当たりそうになったが、ひょいっとそれを避けた。

極になったばかりの、微妙に自分の性能を理解しかねている鯰尾の目がその動きを捉える。

相変わらず動きが素早い。

「な、何するんだよ!?」
「理由が分かってるはずなのに、それを聞くかね。鯰尾君」

氷を掴んだ手の水を払いながら、彼女は言う。
鯰尾はその言葉に「うぐっ…」と自分の状況を考え直して、ぐうの音を出すので精一杯だったようだ。

「だって暑いし、暇だし、書類整理手伝わせてはくれないしさ」
「名前書かなきゃだったしね。
近侍は付けるけど、名前は、ほら、見せちゃいけないし」
「俺たちにそんなこと簡単に出来ないこと、知ってるくせに」
「政府が決めたことに文句言うなら、嘆願書でどうぞ」
「面倒だなあ」

それ書いたら、クーラーの設置許可と予算引っ張ってこれる?

無邪気な顔で鯰尾が言う。
彼女は肩をすくめた。
その動作で無理なことを鯰尾は悟るのだった。

「まあ、氷の件は悪かったよ。気持ちよさそうだったから魔が差した。
付き合ってくれて、ありがとうね。
万屋に行って、こっそりアイス食べて来よう」
「あ! 良いね、それ!」

鯰尾が嬉しそうに立ち上がる。
主の前に出ると他の皆に気づかれないように忍び足になる。
そんな鯰尾に主である彼女も倣った。

抜き足、差し足、忍び足。

くすくすと二人して、どちらからともなく笑い声が零れた。

「鯰尾は何のアイスが好き?」
「そうだなあ。俺はソーダの、さっぱりしたやつが好きかなあ。
でもこんなに暑いと冷たい物なら何でもいい気がしない?」
「それもそうか」

何のアイスを食べようか。
山姥切や前田あたりには賄賂として何か握らせた方が良いだろうか。

庭の木々の濃い影が熱気を孕んだ風で揺れる。
それを横目で見ながら、彼女は目の前の鯰尾の後を追った。

本丸は二度目の夏を迎える。


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