短編(その他)

  夏のせいにしてほしい(海道ジン)



「どうぞー、無料でお配りしてまーす」

 そうやって絶妙な高さに差し出されたそれを、ヨルはほとんど無意識で貰ってしまっているのを、ジンは横目で見つめた。丁寧にも二つ渡されたそれは、ポケットティッシュのようなサイズの保冷剤だった。叩くと中で化学反応が起こり、冷たくなるタイプのそれには、デフォルメされた白熊が描かれ、涼しさをアピールしてくる。まるで透明な蓋を被されたように滞留する、じっとりとした湿度を纏った夏の暑さを払うには、些か心許ないのではないかとぼんやり思っていると、隣を歩くヨルは保冷剤を見ながら少しだけ瞳を輝かせていた。
 かわいい、と吐息を溢すようなヨルの独り言を拾い上げて、ジンはくすりと微かに笑う。彼女はしばらくじっと白熊と見つめ合っていたけれど、満足したのか、その一つをジンに寄越した。

「叩くと冷たくなるんだって」

 知ってた? と小首を傾げる彼女に、知っていたけれど、初めて知ったと細やかな嘘を吐いた。ヨルは、おそらく、それに気づいたのだろうけれど、すごいよねと呑気な声を出す。
 眦を下げた、やわやわとした笑みを向けられるのが心地良かった。
 突として、休日のアミューズメントパークに響いた警告音に、弛緩した空気を切り裂かれるなければ、ずっとその笑みの余韻に浸っていたかった。

 警告音の正体は、LBXの暴走事故だった。連鎖的に複数起こったそれはアミューズメントパークの内壁にいくつか皹を入れたものの、ジンとヨルが暴走したLBXをブレイクオーバーさせることで終息させた。乱雑にズボンのポケットに放り込んだ保冷剤が、衝撃を受けたことで思っていたよりも強力な冷気を放っている以外は、ジン自身にも被害はなかった。
 テロを疑ったものの、結果的にそれはテロではなかった。駆けつけた警察とタイニーオービット社経由で呼ばれたらしいマングースによって、その場でコアボックスを開かれ、パーツの欠陥であることが分かったからだ。コア部分のパーツが焦げ付いている。これが原因だろう、気温の高さも関係あるんじゃないかとマングースと話し合う。しかしパーツ自体に原因があるのは明らかなので、メーカーに連絡し、リコールをかけることになるだろうとのことだった。

「ジン、大丈夫だった?」

 ガーデンスペースに続く硝子扉から、ヨルが顔を覗かせる。屋内のLBXをジンが、ガーデンスペースに逃げたLBXをヨルが追っていたのだ。
 屋内に入ると、溜まりきった身体中の熱を逃がすように、ヨルは大きく息を吐く。短時間で対処できたとはいえ、彼女の白い肌には珠のような汗が伝っていた。ぽたりと、顎から伝った汗が胸元に吸い込まれていく。ジンはそれを思わず目で追ってしまい、慌てて視線を外す。それは女性に向けるには不躾すぎるものだった。
 ジンの傍に来たヨルは、暑い、と譫言のように呟きながら、亜麻色の髪をかき揚げる。色素の薄い、透き通るように白い項が姿を現す。照明の光を柔らかく反射する亜麻色の髪に差し込まれた白い指の輪郭を、ジンは静かに視線でなぞった。項にもまた汗が吹き出ていた。
 それも視線で、追って、ジンは何も考えられず、吸い寄せられるようにそこに舌を這わせた。僅かに、甘い匂いがする。まだ酒を嗜んだことはないが、酩酊とはこういうものかもしれないと錯覚してしまう。びくりとヨルの肩が大きく跳ね、抑えめに、けれども艶やかな色をした声が耳を擽った。舌で彼女の汗を舐め取ると、ジンは無意識に、それを嚥下する。……しょっぱい。
 ヨルは、当然ながら、信じられないものを見るようにジンを見上げた。その反応は尤もで、ジンも自分が何をしたのか、はっきりと理由が分からずにいた。身体が炉にくべられたように熱い。舌の上には、未だ、彼女の汗の感触が残っていて、自分の行ったことが眼前に突き付けられる。
 上手い言い訳が思いつかなかった。脳の機能がごっそりと抜けたように何も浮かばず、ジンはポケットに手を入れ、あの保冷剤を抜き出すと、それを苦し紛れにヨルの首筋に当てる。

「ひえっ」

 存外間抜けな声がヨルの口から発せられて、不意打ちの冷たさに彼女が身をよじる。それでも冷たさが気持ちいいのか、少し不満そうにしながらも、気の抜けたような声も漏れ聞こえてきた。首筋や耳が赤い。苦し紛れを受け入れるように、保冷剤を自分から控えめに首に押し付けた。指先が、ほんの少しだけ触れ合う。
 その姿がおかしくて、自分のことは棚に上げて、ジンは思わず、久しぶりに声を上げて笑った。


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