95.世界は美しく

ジンとの間に、まるで呪いのような言葉を放り投げてしまった時、足元から身体中の熱が逃げていくような錯覚がした。
熱が逃げていくと同じに、とぐろを巻いて這い上がってくる冷気に背中を撫でられる。
取り返しのつかないことをしてしまったと、這い上がる冷気に晒された脳の奥で、絶望したかのような自分の声が梵鐘のように響いてくる。
ぐるぐると、頭の中でさっき自分の言ったことが、血液に流れるようにして巡っていた。

言った。言ってしまった。

ジンの「寂しい」という、そんなありふれた言葉を浅ましくも勝手に理解した振りをして、彼への恋を告げてしまった。

せめてもの救いだったのは、恋を告げた声が穏やかだったことだ。自分から発せられたあの声は、その向こうは嵐のように荒れ狂っていたというのに、穏やかな凪のようだった。
手に握っていたグラスはとうの昔に温くなっていて、底を濡らす僅かに残った水色の液体が照明の光を反射して私に存在を主張してくる。
沈黙が長かった。
幽鬼のように重い沈黙が、私たちの間にゆっくりと広がっていく。

「ヨル」

感情の読めない、平坦な声だった。いつものジンの声だと言われてしまえば、それまでかもしれない。
けれども、その声に温かい感情が滲むことを私はもう知っていたし、だからこそ名前を呼ばれて思わず肩が震えてしまう。
顔を上げることが出来なかった。
無理だ、と瞬間的に悟った。ジンの顔を見ることが私には出来ない。

「ごめんね、ジン。私、飲み物取ってくるね。もう終わっちゃったから」

なるべく自然に、と自分に言い聞かせたつもりだったけれども、嘘を投げたしてみれば、私にしては綻びだらけの拙いものだった。
いよいよ震え出した足に力を込めて、ジンから顔を背けて足早にこの場を後にする。
ジンは何かを言いかけたかもしれない。でも、私の名前に続く次の言葉を、彼から背を背けたことでその一音節すら聞くことが出来なかった。

どうにかいつも通りに歩きながら、このパーティー会場から、ジンの目の届く範囲から、逃げ出したいと考えてしまう。けれども、今回ばかりはそうはいかない。
私は主賓の一人なので何処に行くことも、ましてや姿を消すなんてことは、到底許されることではなかった。
とはいえ、パーティー会場である「Blue Cats」の地下は、構造上外に出ない限りはどこに行っても行き詰まらずにどこかに繋がるような形になっている。故に人に会いたくないと思うなら、最大限の注意が必要になる。
自分から溢した言葉に怯えながら、私は周囲の人たちの動きをよく観察して歩みを進めた。

そのうちに、直線距離で行くよりもずっと遅く、やっと拓也さんのいるカウンターバーに辿り着く。ジンの姿が見えないことに、ほっと安堵から溜め息を吐いた。
カウンターバーには拓也さんと、それから山野博士とアミちゃんがいた。
パンドラをカウンターに置いて会話していることから、LBXの話でもしているのだろう。
アミちゃんがいるのは失敗したかもしれない。
私はのろのろと近づいていくと、カウンターにグラスを置いた。拓也さんがその音に気づいて、視線を私の方へと向ける。

「飲み終わったのか?」

「はい。美味しくて」

事実、とても美味しかったので、そう伝えると彼は嬉しそうに頷いた。
私の声で気づいたのか、ヨル、とアミちゃんが私の名前を呼んだ。
今アミちゃんと話をするのは良くないと、私の直感が警鐘を鳴らす。彼女は人をとてもよく観ているし、感情の機微に敏い。

「ヨル、楽しんでる?」

「うん、楽しんでるよ」

私は鷹揚に頷く。楽しいのは本当だ。嘘は言っていない。不自然さもない、と思っている。
私はアミちゃんから少し視線を外して、山野博士に挨拶をする。
山野博士に会うのは久しぶりだった。彼は穏やかな表情で私に挨拶を返してくれる。
ミゼルの事件が終わってから、随分と忙しくしているとバン君から聞いていたけれども、疲労の色はそれほどなく、寧ろ醸し出される雰囲気は楽しそうだった。
LBXがちゃんと玩具としてみんなに遊ばれているからかもしれない。この光景は山野博士が一番望んでいたことだろうから。

「アミちゃんと何を話してたんですか?」

「ああ。パンドラの駆動系について少し彼女から相談されていてね」

「ええ。山野博士にどうカスタマイズした方が良いか相談してたのよ。博士に見てもらえる機会なんてそうそうないもの」

そう言うと、アミちゃんは可愛らしく笑った。
アミちゃんの言うように、山野博士にLBXを見てもらう機会なんて今後はそうあるものではないだろう。
彼女の気持ちはよく分かる。

「そうなんだ。後で私ともバトルしてね」

「勿論! そういえば、まだ私とはバトルしてなかったわね。ジンたちとは随分白熱してたみたいだけど」

「色々な対戦形式でバトルしてたんだ、楽しいよ」

アミちゃんとのバトルは確かにまだだった。体力には余裕があったので、彼女ともバトルがしたい。
明日には私は今頃はイギリスに戻っている。
次いつ会えるのかという確かな保証はない。
だから悔いのないようにと思ったし、胸の奥でその事実にまた火花が散る。

「ところで……」

「?」

「さっきまでジンと話してたみたいだけど、ジンと話していた場所からここに来るまで随分時間を掛かけたわね。何かあったの?」

鋭い指摘だった。確かにジンに会わないようにと、最大限注意を払ってここまで来た。その結果として、直線距離で来るよりも遥かに時間が掛かっているのは間違いない。
どう答える、と頭の中で台詞が浮かんでは消えていく。
なにがこの場に相応しい手なのか、判断がつかない。
そもそもこの言葉選びからして、最初から見られていたのかもしれない。
視野の広いアミちゃんなら有り得る。優れた観察眼を備えた彼女にそこまで見られて、隠しだて出来るほど、今の私は嘘をつけない。

いつも張っていたあの細い糸を、私が結ぶよりも早く解いてくれたのはアミちゃんだ。

「あ………」

不格好な音が喉から漏れた。
言語の体を成さないそれを取り繕ろう間もなく、アミちゃんが目を細める。

「ヨル、貴女、何かあったわね」

きっぱりと、そう、断言されてしまった。もはや疑問の形すら持たないのが恐ろしい。
険を含みかねないその言葉は、でも優しさを孕んでいるのが分かる、アミちゃんらしい柔らかい口調をしていた。
耳に心地いいソプラノが胸の奥で私の何かを揺らす。
音楽にもならない拙い音が、耳の奥で、静かに澄んでいく。
血液に乗って巡り、最後には脳髄で響き合うそれに、私は泣きたくなるぐらい途方に暮れてしまった。
アミちゃんは有無を言わせぬ眼差しを私に向ける。
例え私が何時間黙りこもうと、絶対に折れないであろうその瞳は、けれども息苦しさを覚えるようなものでは決してなかった。
ただただ、彼女は私に優しかった。

「ねえ、ヨル、」

「ヨルー! アミー! バトルしようぜ」

アミちゃんが口を開いたとほぼ同時に、真夏の太陽のように元気な声が私たちの間に飛んでくる。アスカの声だ。
元気よく駆け寄ってこようとするアスカをアミちゃんが止めようとして、それよりも先に山野博士が椅子から立ち上がった。
彼は「私が相手をしよう」とアスカに向かって朗らかな口調で言う。
そして私の肩にほんの少し手を触れてから、アスカたちの方に向かった。
山野博士からの突然のバトルの申し出に、アスカたちが色めき立つのが分かる。
それもそうだろう。
山野博士はLBXの生みの親だ。
誰よりもLBXを分かっている、そんな人にバトルをしてもらえるなんて、またとない機会だ。
是が非でもバトルしたいと思うのがLBXプレイヤーというものだろう。
みんなの視線が山野博士に集中するのを見てから、アミちゃんが私に視線を移した。

「……さて、ヨル、話せるわね」

「……………はい」

彼女の眼差しを受けて、私は肩の力を抜いた。
アミちゃんの隣の椅子に腰掛ける。
数分考えてから、私は慎重に言葉を選んで、話し出した。

「私、ジンに、彼のことが、恋愛感情として好きだって伝えたの」

改めて言葉にすると、あの時の凪いだ感情とその奥の荒れ狂った嵐が鮮明に蘇る。
アミちゃんと拓也さんが目を瞠った。

「それで、そのまま逃げてきた。

ジンから何を言われるのか、怖くて、ジンには何も言うつもりはなかったのかもしれないけれど、弁明も何もしないでここまで彼を避けながら来た」

アミちゃんに短く吐露したことで、冷静な自分がやっと頭の中に戻ってくる。
勝手なことをしたのは私なのだ。
本来迷惑を被っているのはジンで、私は怖くてもあの場から逃げるべきではなかった。
ジンの言葉を、その響きを、何も取り零すことなく聞くべきだったのだ。

「そう、返事は訊かなかった……じゃなくて、訊けなかったのね」

「うん」

「ヨルはジンからの返事を訊きたいの?」

「どうだろう。返事が欲しいわけじゃない、と思う。
そもそも……これは詭弁にしかならないんだけど、ジンに言うつもりは微塵もなかった。
彼との関係が、今の距離感が変わってしまうのが怖くて仕方がなかったから」

本当だった。
この気持ちを告げようなんて、本当に思っていなかった。
私はジンとの間に穏やかにゆっくりと満ちているあの静寂が好きだから。
私が彼に好きだと言えば、関係が変わることは避けられない。返事を求めなくても、それは変わらない。
傲慢な考えだと思う。
関係を変えたくないというのに、告げた言葉は静寂を破り去ってしまうには、十分すぎるものだった。

「ヨルはジンとの関係が変わるのが怖いのか。でも、ジンに言ってしまったから、怖くて逃げてきたのね。
そっか、ヨルは拒絶されることも、きっと怖くて堪らないのね」

私の言葉を柔らかい声音で紐解きながら、アミちゃんは先生のように諭すような口調で言った。
その通りだと、私は頷くしかなかった。
それが全てだったからに他ならないから。
怖かった。ジンに嫌われてしまうことが、拒絶されてしまうことが、彼を傷つけてしまったのかもしれないことが。
這い上がってきた冷気が、また息を吹き返して指先の熱まで奪っていった。
肺の中を満たし始めたそれを逃がすように、細く息を吐く私を、アミちゃんはただ見つめている。
やがて彼女はゆっくりと、私を覗き込むようにしてから口を開いた。

「ヨルはジンを好きになったことを後悔してる?」

「……ううん」

それはあまりにも答えが分かりきっている問い掛けだった。
私ははっきりと首を横に振る。

「ジンを好きだって気づくまで、私は人を好きになることはもっと罪のあることだと思ってた」

私がそう呟くと、アミちゃんと拓也さんは強ばった表情をする。
その理由が今はちゃんと理解出来た。

「父も母もお互いを好きだったのに、ずっと擦れ違ってばかりで、全く幸せそうに見えなかったから。
私は両親も姉も……大好きだったけれども報われることはなかったから。
だから、ずっと………人を好きになることは罪の重い行為だと考えてた」

繰り返しになるけれども、私は、人を好きになることは絶望することに等しいと、ずっと、そう考えていた。
でも、それは、暗闇の中で温かい木漏れ日の気配を感じて、再び電源を入れられてから、私の中で静かに息絶えた。
もうその呼吸を感じることは私には出来ない。
人を好きになることと絶望することは、決して等しいことではないと、私はもう知っているから。

「でもジンを好きになって、それがとても穏やかなものであっても許されて良いんだって思えた。
だから、ジンを好きになって後悔なんて、ひとつもない」

そう思えるようになった。
だから、私と一緒にいてくれなくても構わないから、ジンがずっと幸福であってほしいと願っている。
人の幸福を望めることはとても幸せなことだ。
いくら歩けども先が見えなかった暗闇は、木漏れ日を浴びて、今は小さく影を揺らすばかりだ。
それがあれば、もう、ずっと大丈夫なような気がした。

「ヨルが後悔をしていないなら、それで良いの。
でも何も聞かずに逃げたのは、良くなかったってことは分かるわね?」

「うん、……分かってる」

言葉というものは、この世に落としてしまえば取り返しがつかない。
だからこそ謝らなければ、ジンに。
そして彼に答えはいらないと言って、許されるならお礼を言いたい。

「分かっているなら良いわ。さて、じゃあ、私から提案なんだけども……」

「……提案?」

「ジェシカにこの話をしようと思うの」

「………へ?」

「それはあまりにも事を急いてはいないか?」

私が再び間抜けな声を出した。その代わりと言うように、拓也さんが心配そうにアミちゃんに問う。
彼女は策は当然あると言うような、どこか得意気な顔をしながら、人差し指を立てた。

「だって、ヨルは明日ジンとユウヤと一緒にダックシャトルでイギリスに帰るんでしょう?
ユウヤはともかくとして、ジェシカに探りを入れられるよりも先に話しておいた方が、移動中もそこそこ楽だと思うわ。
勿論、無理にとは言わないけど」

「確かに……」

アミちゃんの言うように、イギリスへ帰るにはダックシャトルを使うことは既に決定事項で、それを曲げて普通に飛行機で帰国するにはスケジュール的に余裕がない。
なるべく然りげ無く、会場内に視線を這わせるけれども、すぐにはジンの姿を見つけることは出来なかった。
ここで謝ることが出来れば良いけれども、誰かに聞かれてしまうのは憚られる。
それならば、ジェシカに協力してもらった方が二人で話す機会は出来るような気がした。

私は数分悩んでから、アミちゃんの提案に頷いた。

CCMでジェシカに連絡すると、彼女はすぐに私たちの所に来てくれる。
私が事情を全て話すと、彼女は笑顔を浮かべて、大きく頷いた。

「なるほど、事情は分かったわ。そういうことなら協力する、私に任せなさい」

「さすが、ジェシカ。話が早いわね」

「まあね。パーティーの終わりまでにジンを捕まえられれば良いけど、そうじゃなければ、イギリスでヨルを降ろした時にでも時間をつくるわ。
私に出来るのはそこまでだけど、ヨルは言うって決めたんだから、それで大丈夫よね?」

「うん、大丈夫。本当にありがとう、ジェシカ」

「良いのよ、お礼なんて。仲間なんだから!」

ジェシカが提案に乗ってくれたことに、思わず安堵の溜息を零してしまう。
私はまた視線を彷徨わせて、ジンの姿を会場の中から探す。それに気づいたのか、ジェシカが私の肩を叩いて、視界の外から私が見ていたのとは違う場所を指差した。
指先を追っていくと、そこにジンの姿を見つける。
彼は郷田さんや仙道さんに囲まれて、ジオラマでLBXバトルをしているようだった。
さっきは見当たらなかったから、始めたばかりなのかもしれない。

「あの様子じゃ難しいかも」

「ジンとバトルしたいって人は多いものね。
ただ待っているのも時間の無駄だから、私たちもバトルする?」

「良いわね。 アスカとランも呼びましょう!」

そう言ったアミちゃんはすぐにアスカとランに声を掛けるため、ジオラマの方に向かって行った。
私とジェシカはその後を追う。
ランとアスカはバトルしようとアミちゃんが声を掛けると、空いているジオラマを陣取って、LBXをジオラマに入れる。行動が速い。
私もジオラマの前に立つと、ジャバウォックをジオラマの中に入れた。
乱戦はどちらかというと得意なので自信があった。

「絶対勝ってやるからな!」

「あたしも絶対勝つからね!」

「私だって負けないよ」

自分でも不思議な程に自然に言葉が出てくる。
パンドラとジャンヌDがジオラマの中に入ると、徐々にギャラリーも賑わってきて、まだ冷めきらない、限りなく純度の高い熱気が周囲に満ちてくるのを感じた。
指先が熱い。言えない言葉はまだ身体の中で淀んでいるけれども、私の見る世界は、それでも生まれたばかりのように輝いている。
それが心地良いと感じることが出来て、本当に嬉しかった。


■■■


「じゃあな、ヨル! またLBXバトルしようぜ!」

「うん。また、必ず」

パーティーの次の日、ダックシャトルを背にして、アスカと握手を交わす。
思っていたよりも力強く握られて、手を離すとまだアスカの手の感触が残っていた。
くすぐったくてなんだか笑ってしまう。
またアスカとバトルしたい。きっと出来ると思ったし、彼女が心からそれを望んでいてくれることが分かるから、きっとまたバトル出来ると、信じて疑わなかった。

「またバトルしような、ヨル。約束だ!」

「ま、身体壊さない程度に頑張れよ。ヨル」

「僕ともまたLBXバトルしてくださいね! お元気で!」

「今度はあたしが遊びに行くからね! その時はよろしく!」

みんなの元気な声が耳に飛び込んでくる。
それと同時に、寂しいという気持ちは際限なく心の奥から溢れてきて、身体の端々にまで行き渡る。
寂しい。また必ず会えると分かっているし、物理的な距離なんて、メールも電話もある現代では大した問題でもないのに、誰と離れるのも、仲間と離れることは寂しかった。
四人にまたね、と何だかくすぐったいような、温かいような、何だか言い難い気持ちになる別れの言葉を口にしてから、少し遠くにいる山野博士の元に向かう。
山野博士は私に気づくと、柔らかく微笑んだ。

「………考えはまとまったかな?」

「はい。ちゃんと、決めました」

はっきりと、私はそう言葉を山野博士に告げた。
私は山野博士から視線を外してジンの方を見る。
彼もまた私と同じように仲間たちから、別れの言葉を掛けられていた。山野博士も私の視線を追って、ジンの方を見やる。
結局、パーティーの時にジンと二人になる機会をつくることは叶わなかった。
もう私から話しかけられもしないのではないかという不安が、胸中にまるでインクを溢したかのように広がっていく。身勝手な不安が思考の端をゆっくりと染めていくのを、頭を振ることで拭い去った。

大丈夫、やることは決まっているのだから。

「………そうか、君のこれからが明るいことを祈っているよ」

「はい、本当にありがとうございました」

山野博士に対して、深く頭を下げる。
彼はバン君と同じ色をした目を、緩く細めて笑った。
優しげな眼差しにやっぱり親子なのだなと思う。バン君も、人を安心される優しい眼差しをよくしている。
あの眼差しが私はとても好きだ。
私が顔を上げると、ジェシカがそろそろ時間よ、と声を掛けてくれる。
その声で、私たちはダックシャトルから下ろされたタラップの前に集まり始める。
その前に進み出る途中で、アミちゃんが私を呼び止めた。
私の肩に軽く手を置いてから、彼女は優しげに私に向けて笑う。それでいて、その目は強い輝きを秘めているので、自然と背筋が伸びた。

「頑張ってね、ヨル」

「……うん、ありがとう、アミちゃん」

だから、私はしっかりと頷き返した。
それを見たアミちゃんは、最後に肩に置いた手を持ち上げ、ぽんと軽く叩いてくれた。
何度、彼女に助けられただろう。今もずっとアミちゃんに助けられている。

「それじゃあ、行きましょうか! みんな、またA国に遊びに来てよ!」

移動手段がなければ私が迎えに来るから、とジェシカが力強く言うと、ジェラート中尉が露骨に嫌そうな顔をする。
行きで披露したというジェシカのダックシャトルの操縦を思い出しているのだろう、段々と可哀想になってしまうほど顔が青くなっていく。
ちなみに今日の操縦はメタモRがしてくれるので、ジェシカのアクロバットな操縦が披露されることはない。それを聞いた時は、ユウヤと胸を撫で下ろした。
みんなに手を振って、ダックシャトルのタラップに足を掛ける。
目の前には先を歩くジンとユウヤの背中が見えた。私もその後を追う。
私たちが乗り込むと、ダックシャトルは空高く舞い上がり、スピードを上げていった。
席は私の隣にジェシカが座ってくれたことで、ジンと不自然に離れることは避けられた。
ユウヤは私たちの様子に少し訝しげにしたけれども、何も言わずにいてくれている。彼には何も言ってはいないけれども、何か察してくれているのかもしれない。

ジェシカたちがA国に戻る関係上、私を一番最初に送ると事前に話していたので、ダックシャトルは午前中にはイギリスに到着した。
空港に降り立つと、それほどイギリスを離れていた訳ではないのに、少し懐かしい感じがする。
人が行き交う騒がしさが、ミゼルの事件の前とは違い、湿っぽさがない明るさを纏っているような気がした。
ターミナルまでジンたちに送ってもらい、私は三人と向き合う。

「じゃあ、また会いましょう、ヨル! 次は観光でA国に遊びに来てね!」

「ヨル君、元気で。また会おう」

「ジェシカもユウヤも元気で。『NICS』でも頑張ってね」

手を差し出されて、ユウヤと握手をする。彼の未来が明るいといい。
私が願わなくても、ユウヤならば手を伸ばして、掴み取れる気がした。
手を離すと、ユウヤがジンを促すように彼に視線を送った。彼らにしては珍しい動作に、何か得体の知れない生き物が、喉の奥から這いずり出てくるような不快感がした。
それをどうにか飲み下して、ジンの名前を呼ぶ。

「ジン……少しでいいから、時間良いかな?」

「………僕は構わないが」

「時間なら気にしなくていいわ。
今日のスケジュールは余裕が出来るように、パパから許可は貰ってるから!」

ちらりと、ジェシカの顔を伺ったジンに、彼女は明るく答えた。
その奥で苦笑いをするジェラート中尉の姿が見えたので、私は慌てて頭を下げる。
彼は気にするなと言うように、片手を挙げて、人好きのする笑みを浮かべてくれたので、私はもう一度頭を下げた。
ジェシカとジェラート中尉はターミナルにあるカフェで休憩しているから、とジンに言うと雑踏の中に姿を消す。
事情は分からないであろうユウヤも、ジンに一言声を掛けると、ジェシカたちの後を追っていった。
後には私とジンだけが残る。

「……昨日の事だけど」

どう切り出すべきか、何が良いのか、ずっと考えていたけれども、ここに来るまでついに答えを出せなかった。
だから、何も考えずに、ジンに本題を切り出す。
向かい合って、彼をほんの少し見上げるような位置にいる私は、やっとジンの顔を見ることが出来た。
私の言葉に彼は表情を曇らせる。

「あんなことを言ったから、信じてもらえるかどうか分からないけど……。
私は、あの時の答えはいらないって思ってる」

なるべく落ち着いて、柔らかく聞こえるように、でも雑踏に消えないように彼に言う。
ジンの紅い瞳が見開かれるのを、私は上手く微笑んで、見つめられているだろうか。

「だから、私の言葉がジンにとって邪魔なら、忘れてくれて大丈夫だよ。
迷惑をかけて、ごめんなさい」

息継ぎもすることなく、私はジンにそう告げた。
真っ直ぐに、彼の冷たいとも温かいとも言い難い眼差しを、見つめ返す。
冬の霧のように、重く冴えきった沈黙が私たちの足元を恐ろしく包み込んでいくのを、ただ黙って受け入れるしかなかった。

まだ、言えてないことがある。言わなければ。

「……どうしてだ」

「……?」

「どうして、君は僕を好きになったんだ?」

「それは……」

「理由を、僕は君から訊きたい」

久しぶりに聞いたような気がするジンの声は、想像していたよりも、突き詰めたような覚悟と幽かな困惑が滲んでいた。
彼は紅い眼差しで、逸らすことなく、瞬きもせずに私を見つめている。
どうして、と問われて、私は一瞬何も言えなくなってしまう。
分かりきっていた。
ジンが好きであることと同じように、分かりきっているからこそ、言葉を選び出すのが難しい。

「………私は、私がジンを好きになったのは、偶然に過ぎないと思う。
ジンが私を助けてくれて、気にかけてくれて、名前を……もうずっと呼ばれていなかった、私の名前を呼んでくれたから、私にとってジンが特別になった。理由を並べれば、多分、そうなってしまう」

最初にジンに私が本当は誰なのかを暴いて欲しいと、賭けを仕掛けたのは、間違いようもなく、私の意志だった。
けれども、それは、彼と偶然にも再会し、偶然にもジンが勝負に乗ってくれたからに過ぎない。
これは偶然の産物だ。
ジンを好きになった理由はいくらでも思いついた。
助けてくれたから、優しくしてくれたから。それから、名前を呼んでくれたから。
全部、私にとっては特別なことだ。そして、何処にでもある、ありふれたことであることも分かっていた。

「……そうだ。僕もそう思った。
ヨル、君の僕への想いは偶然の産物だ。
どうにもならない状況が作り出した偶然の積み重ねに過ぎない。
だから、僕でなくとも……」

ジンの言っていることは尤もだった。
もしも、私が普通の、ありふれたことを当然として受け入れられる立場にいたなら、私はジンを好きになっただろうか。
もしも、助けてくれたのがジンではなく、他の人であったのなら、私はその人を好きになったのだろうか。

「確かに、状況が違えば、私は他の誰かを好きになったのかもしれない。でも……」

それは、全部もう選ぶことの出来ない、仮定の話でしかない。
だからこそ、私はそんなことはない、と否定することもまた出来なかった。
この恋は運命だと言えたら、どんなに良いだろう。それこそ彼を好きになる理由としては、これ以上ないほどに、明確な解に他ならない。
けれども、どんなに自分を誤魔化したとしても、私の中でそんな答えは微塵も出てこなかった。

「それが分かっているのなら、君の想いは親愛を錯覚しているだけだ。
だから、僕でなくても、他にヨルに相応しい人がきっといる」

ジンはそう幼子に語り掛けるように、ともすれば自分自身に言い聞かせるように、私に向かって呟いた。
柔く包まれた拒絶とも取れる言葉は、でもそこに一匙の寂しさがあるような気がして、諦めを身体中に行き渡らせることが出来なかった。
思い込みだと彼は言いたいのだ。
世界を広く見れば、私にはジンではない、他に好きになれる誰かがいると、本当にそう思っている。
それは私だってそうだ。ジンにも彼に相応しい人がきっといる。私じゃない誰かが、運命の人と呼べる人が。
それは途方もない仮定の話でしかないけれども、そうあってほしいと願う気持ちが確かに私の中にもある。ジンがその人に逢えるというのなら、私は喜んで祝福しようと思った。
けれども、この想いが錯覚だというのは、それだけは違う。違うのだ。

「でも、今、私の目の前にいるのはジンで、傍にいて欲しいって、私が選んだのは他でもないジンだよ。
他の人を知る機会も私にはあったけど、私が自分で考えて選んだのは、目の前にいるジン以外の誰でもない。
だから、ジンでなくとも、いつか現れるかもしれない誰かを好きになれるなんて、私は言えない。
………自分に嘘はもう吐けない」

ジンへの想いは、もしかしたら、私が知らないだけで、他の名前があったのかもしれない。
けれども、私はこの気持ちを、恋と名付けた。それ以外に名前を与えられなかった。
他の誰にも、この気持ちを持つことも、告げることも出来ないと、あの帰り道からずっとそう思っている。信じている。

「私ね、他の誰でもないジンを、好きになれて良かったって思ってるの。
人を好きになることは、怖がることじゃないって、知ることが出来たから。
だから、ありがとう。私、ジンを好きになれて良かった」

やっと、私はそれを言うことが出来た。

ジンが眼を瞠る。その眼に映る私は、多分、きっと笑えていると思う。そういう確信があった。
私はどんなに愛しても報われないことも、好きになることが絶望することではないということも、もう知っている。
だから、この想いがジンの手で破り去られても、答えを出さずに朽ちてしまっても、淋しいけれど、途方に暮れてしまうかもしれないけれど、それで良かった。



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