94.光あれ

パーティーの準備はアミとジェシカの主導で着々と進められていった。
ジェシカの発案か、いやに凝った作りの招待状まで用意され、ブルーキャッツをパーティーの開催五日前から貸切られた。
かなり期待の入ったものであることは想像に難くないが、僕とユウヤとヨルの三人があくまでも主賓であるので、準備には最低限しか関わっていない。
内装への細々とした相談と食べ物のアレルギーや好き嫌いの確認をされた程度だ。ヨルが落ち着かないのか、そわそわと肩を揺らしていたのを思い出す。
今回ばかりは彼女も主役なのだから、と手伝いたそうにしていたのを出来るだけ柔らかく制したのは、記憶に新しい。

「今回はヨル、貴女が主役なんだから、とびきり綺麗にして待ってなさい!
『アルテミス』の時は実力の半分も出せなかったから、今回は私の本気を見せてあげるわ!」

結局、ジェシカのその命令染みた言葉が決定打になった。
ヨルは「綺麗にするとは……」と果てのない命題に苦しむような顔をして、神妙に頷いた。
横にいたアミから、用意していたと思われるスキンケア商品の数々を渡され、閉口したのもほぼ同時だったが。
ついでに偶々同席していたアスカとランもアミに捕まり、女子力についての講義が始まったのには、思わず吹き出してしまった。
巻き込まれては敵わないと、僕たち男性陣は早々にその場を辞したので、後のことは詳しくは分からないが、次の日に会ったヨルの肌に微かに化粧が施されていたから、それが成果なのだろう。

とはいえ、A国へ留学する準備が大詰めではあったので、その配慮が有難くもあった。
教授との何度目かのテレビ電話を終えて、A国に行ってからのスケジュールを確認する。
ほぼ白紙に近かったそれらは、順調に埋まり出していた。
忙しくなりそうだな、と僕は言葉に反して、少しだけ笑う。それから、机に置かれたWITからの資料を指でなぞった。
ここには一年前の「アルテミス」でのユウヤのことも、一つの実験結果として書かれている。
その簡素な報告結果を、僕はもう諳じることが出来るほどに、何回も読み返していた。
世界最高峰と言われているWITで、僕はLBXの操作技術について学ぶ。「イノベーター」で行っていた研究もその一つの研究例だ。
必要なことだと分かっていても、内蔵をひとつひとつ取り出されるかのように不快で、丹念に編まれた苦しみがある。
自分で決めたことだ。これからもLBXに関わっていきたかったから。
そして、ユウヤのような思いをする人が、もう二度と現れないようにするために、僕はこの研究の道を進むのだ。
その道に苦痛を伴わないことなどないだろう。
それはヨルもユウヤも同じだ。必ず苦しみが意志をもったかのように、襲いかかってくる時がくる。
だからといって、想像だけの未来を前にして、立ち止まることは出来ず、そうしたくなかった。
LBXの未来のために、より安全に人々に遊んでもらえるように。
そして何より、僕をバン君やヨルたちと出会うきっかけをくれたLBXに、皆を幸福にする力のある、あの小さな巨人に、兵器として使われるのではない未来を描きたかった。

僕は資料から手を離すと、部屋を後にする。
今日はユウヤとの待ち合わせがあった。A国に発つ前に、行きたい場所に行っていこうと話し合い、トキオブリッジ崩壊事故の慰霊碑に行くと決めていた。
海道邸に住んでいた頃から世話を焼いてくれている執事の爺やの運転で、事故現場に向かう。
ユウヤは既に慰霊碑の前に来ていて、僕を待っていた。二人で花を手向けて、短く黙祷する。
未だこの場所には重すぎる悲しみが、怪物のように口を開けて、遺された人たちを飲み込もうとしている。
長居は無用だと、心臓の端を撫で付けてくる冷たい手に嫌気が差しながらも、もう遠い記憶の彼方に隠れそうになる両親に出会えるのも、またここなのだ。
それが分かっているから、慰霊碑を見つめて、僕はしばらく動かなかった。ユウヤも、また慰霊碑を見ている。
両親のことを思い出しているのかもしれないし、他のことを思っているのかもしれない。彼の表情からはその全てを伺い知ることは出来なかった。
沈黙を破ったのは、意外にもユウヤからだった。

「これからヨル君に会うんだよね?」

「ああ」

ヨルはここへは僕たちより先に来て、今は自分の用事を済ませている。
家族の墓参りだ。僕はそれを聞いて、同行を申し出た。
差し出がましい申し出だと自分でも思ったし、当然断られると思った。
けれども、ヨルは意外にもあっさりと、二つ返事で了解してくれた。
理由すら、彼女は聞かなかった。

そこにあるのは無機質な石の塊だとしても、僕は鳥海ユイに会ってみたかった。
雨宮ヨルの双子の姉に、おそらくは輝かしい未来が定められていたであろう人に。
柔らかな声で、残酷なことを口にする、その人に。

勿論、無駄なことだ。そして悪趣味だ。
彼女は当の昔に亡くなっている。死者との会話など、鳥海ユイの何物も残っていない今、夢物語以外あり得ないのだ。
だから、これは僕の自己満足だった。

「僕はもう少しここにいるから、ヨル君によろしくね」

「……分かった」

ユウヤの言葉に甘えて、この場を後にする。
爺やが車を出すと言ってくれたが、それを丁重に断り、ユウヤを待っていてくれるようにお願いした。
「畏まりました」と彼は恭しく礼をする。僕はそれにお礼を言ってから、駅に向かって歩き出す。
駅から出るバスに乗り、復興作業を行うその横をゆるりと走り抜ける。
鳥海ユイとその父親の墓は郊外にある。
母親の遺骨は納骨堂に納めていたが、母方の先祖代々の墓に納める運びになった、とヨルが言っていた。
いくつかの煩雑な手続きの後、既にリリアさんの手でロシアに渡っているそうだ。あちらの方が管理がしやすいから、とヨルが言っていたことを、バスに揺られながら思い出した。

窓の外にはミゼルの影響を感じさせない、長閑な風景が広がっている。
ヨルから渡されたメモ通りのバス停で降りて少し歩くと、言われていた特徴通りの墓地があり、入り口の石階段でヨルが待っていた。
静かに眼を閉じていた彼女は、ぱちりと、僕の気配に気づくと眼を開けた。海を落とし入れたような青色が姿を現す。

「遠いところまでご苦労様」

「いや、僕の方こそ、無理を言ってすまない」

「ううん、大丈夫」

ヨルは眦を下げて微笑むと、僕の半歩前を歩くようにして、墓地を歩いていく。
辿り着いたのは、綺麗に整備された小さな墓だった。「鳥海」という文字が目に入る。
一般的な銘柄の煙草と、小さな花束が供えてあった。既に線香の白い煙が、ゆっくりと空に向かって上っている。

鳥海ユイとの対面は、当たり前ではあるが、実に静かなものだった。結局のところ、墓は、ただの墓だ。何も語りはしない。
彼女は、果たして、本当はどのような人物であっただろう。
小さな墓の前に立ち、もはやどうにもならないことを考える。
明るく柔らかな声をしていたこの人が、残した傷痕は決して小さなものではなく、人を蝕むには十分すぎた。彼女が亡くなった後のことを、彼女は知らない。
それでも、隣にいる雨宮ヨルが「もう大丈夫だよ」と、夜明けを滲ませた酷く温かな声で告げるから。
僕が何か言う理由も、正当さも、全てそこで意味を失っている。だから、本当に、ただの自己満足なのだ、これは。

僕は墓の前で、持参した線香に火をつけて供えた。手を合わせ、短い黙祷の後、墓石を軽く叩いてから立ち上がった。
叩いた拳には、ほんの少しだけ、責めるような気持ちがあったのは確かだ。

けれども、隣にいるヨルは雪解けを迎えたように、穏やかな表情をしていて。
今まで胸の裡にあった言葉の違う、けれども意味の似通った感情は、砂のように器の外側に押し出されて、形を捉えられなくなっていく。
僕の自己満足は、そうやって、満たされた。正確には、ヨルがあの夜明けで妥協と諦観を口にした時に、本当は満たされていたものを、僕は再確認したのだ。
ああ、寂しいな、と自嘲するかのような笑みが零れてしまう。
もう大丈夫だということを、確認したかったのは、きっと僕だ。

「もう良いの?」

耳に馴染む、澄んだアルトが空気を震わせる。
亜麻色の髪が滑らかに肩から零れ落ちた。小首を傾げるその動きは、あどけなく、それでいて落ち着いている。
僕が「ああ」と言って頷くと、ヨルはそれならいいと、墓石に刻まれた文字を穏やかな視線で一度追ってから、墓地の間をゆっくりと抜けていく。
僕もその後を追うように、ここから離れる。なんだか、少し頼もしい背中を彼女はしていた。
ただの一度も、ヨルは、彼女の背後に眠る姉と父を、振り返ることはなかった。

門を潜り短い石階段を降りると、黒塗りの厚い作りをした車が待ち構えていた。その前には爺やが立っている。
前を歩いていたヨルが、背筋を伸ばすのがよく見えた。丁寧な所作で腰を折り、「お久しぶりです」とよく通る声を響かせる。
爺やはその声に、久しぶりに会った品の良い猫を見るような、懐かしさと感心の混じった笑みを浮かべた。

「お久しぶりです。お元気そうで何よりです」

「はい。お陰さまで」

爺やは和やかな空気のまま、僕の方に視線を向けると、「勝手ながら迎えに上がりました」と申し訳なさそうに言う。「ユウヤ様は無事に送り届けました」ということも忘れず。
僕はそれに鷹揚に頷いて、気にすることはないと言った。僕を気遣ってのことだ。彼を責める理由はどこにもない。

爺やに促されて車に乗る。彼は僕ら二人がシートベルトを締めたのをミラー越しに確認すると、車のナビを動かしてから、ゆっくりと発進させた。
バスの窓から見た風景が逆向きに流れていく。
車内には微睡むような沈黙が落ちている。不快ではなかった。お互いに、この距離感が好ましいということを理解しているが故の沈黙。

行きと違い、バス停に左右されないので、スムーズに駅まで着いてしまう。ヨルをホテルまで送る為に、爺やがハンドルを切る。
爺やは「そういえば……」と思い出したかのように口を開いた。

「パーティーの準備は順調そうですか?」

「アミちゃんとジェシカがとても張り切っていました。
主賓だからってあまり関わらせてもらえないんですが、あの二人が準備するなら、楽しいパーティーになると思います」

「ドレスのサイズも計り直していなかったか?」

パーティーをするという時点で、アミとジェシカの中で、ドレスコードを設けるというのは決定事項だったらしい。
招待状にはその記載があったし、実際彼女たちにサイズの変更はないかと訊かれた。
ヨルに至ってはサイズの計り直しをされている。アスカとランは特にそういったことをしていなかったので、不思議だった。
アミやカズならば話は分かる。しかし以前の物を使うのであれば、それは不要なことだろう。
兼ねてからの疑問を口にすると、ヨルは眉間に皺を寄せる。顎に手を当て、どこか不服そうな表情をつくった。

「『アルテミス』の時ので良いって言ったんだけど、あれは普段着に近いから新しいのを用意するって言って、ジェシカが聞かなくて。
A国で用意するから、サイズは正確に把握したいんだって」

「身体に合っていないものは見栄えが悪いから、理には適っているだろう」

「そうなんだけど、そうじゃなくて。
ジェシカのセンスは疑ってないけど、普段出さない所を出したりするから、恥ずかしい。
なるべく大人しめが良いんだけど」

ああ、と僕は思わず頷いてしまう。確かに男性はそうでもないが、女性は往々にして露出が増えるパターンが多い。
ランに至っては、普段の自分のイメージとかけ離れているので、恥ずかしいと言う。ヨルの場合はそれも多分に関係しているような気がした。

「似合わないものはジェシカが許さないだろう。彼女は他人の意見はちゃんと聞く。
前のも良く似合っていたし、心配しなくて良いんじゃないか」

ジェシカは「パーティークイーン」を自称するだけあり、目も肥えていて、他人が本当に嫌がることはしない。
型破りなようでいて、マナーはしっかり弁えているのだ。ヨルの心配はきっと杞憂に終わるだろう。
ヨルは普段はしない、我儘な子供のような、少し幼い顔で僕を見る。彼女には悪いが微笑ましいと思う。
澄んだ青い眼を思案気に揺らしていたヨルは、不意にぐっとこちらに身を乗り出してくる。
片手で拡声器をつくるように口元を覆う。僕はそれに、我知らずほんの少し笑いながら、身体を彼女の方に傾けた。

ヨルは、ほんの数秒、ゆっくりと瞬きをする。

音が耳に届くまで、少し不自然な間があった。

「あのね、」

「……ああ」

一際声を潜めて、僕だけに向けられた繊細な音が、鼓膜を震わせた。
ミラー越しに僕たちを見る爺やにさり気無く目配せをしたのは、彼女の声が密やかで、ずっと懸命だったからだ。
そして、ヨルが手の内に閉じ込めようとする囁きが、心地良かったからに他ならない。
爺やは僕の言いたいことを正確に理解してくれて、そっとミラーから視線を外した。

「もしも似合わなくても、笑わないでね」

ジェシカが選んでくれから大丈夫だと思うけど、と大袈裟に囁いてくる。
なんて下らないのだろう。似合わなくても、僕が彼女を嘲ることは、万に一つもあるはずがないだろうに。
けれども、その下らなさが、何よりも尊いのだということを分かってもいた。

「勿論」

密やかな囁きに僕は頷きを返すと、彼女と同じように、風が吹けば掻き消されてしまうような囁きを、僕たちの間に一つだけ放り投げた。


パーティーを翌日に控えたその日。
ジェシカはA国からダックシャトルに乗ってやって来た。より詳細に言うなら、ダックシャトルを自ら操縦して、やって来たのだ。無茶が過ぎる。

タイニーオービット社の敷地内に着陸させたダックシャトルから、額の汗を拭いながらジェシカが降りてくる。
その後ろからは、足元をふらつかせたジェラート中尉が這い出るように降りてきた。
察するに、カイオス長官からジェシカのお目付け役でも任されたのだろう。着地の荒々しさから、船内はジェットコースターの如くだったであろうことは、想像に難くない。

「みんなー! 元気にしてた?」

背後のジェラート中尉と反比例するように快活な声が響き渡る。
ジェシカは僕たちの方に駆け寄ってきた。ランとアスカとハイタッチを交わし、アミとヨルには軽くハグをする。
ジェシカは僕たちには軽く手を振る程度で済ませ、さて、と腰に手を当てた。なかなかに雄々しい。

「私が来たからには生半可なパーティーにはさせないわよ!
『アルテミス』の時のリベンジ! まずは会場に案内してちょうだい!」

「カメラ回して見せたじゃん」

「分かってないわね、ラン。カメラ越しと目で見るのじゃ、雲泥の差があるのよ。
照明とか広さとかちゃんと確認して、私たちも大人たちも楽しめるパーティーにしなくちゃ。
その為にパパに無理言って前日入りしたんだし」

「だからと言って、ダックシャトルを君の独断で操縦していい訳じゃないぞ……」

ジェラート中尉が青い顔をしながら、咎めるようにジェシカを睨みつけた。

「私が運転した方が速いんだもの。それに貴方だって止めなかったじゃない」

「ダックシャトルはメタモRで操縦することを前提に造ってあるんだ。
途中で止めたら、墜落も考えられる。止められなかったんだ……」

一層悲壮感を漂わせながら、彼は溜息を吐く。とはいえ、それ以上責める気はないのか、「カイオス長官には報告するぞ」と言うに留める。
ジェシカもそれは分かっていたのか、肩を竦めながら、渋々というように頷いた。
後々カイオス長官からの説教が待っていることは確実だろうということが、僕にも分かった。

「とにかく、明日のパーティーの為に準備するわよ。
ドレスは『アルテミス』の奴を持ってきたから、みんなサイズが合ってるかどうか確認して。
アミとカズ、それからヨルのはあの時と違って種類が選べないから、合わなければ遠慮なく言って。有り合わせになるけど、どうにかするわ」

「お披露目はパーティーでって話だったけど」

「それはもちろん! 三人は個別に衣装合わせするわよ。
タイニーオービットにはもう話を通してあるわ」

「話が早いなあ」

バン君が感心したような、呆れたような微妙な声を出した。
ジェシカは僕たちにA国からの荷物をそれぞれ持たせると、先頭に立って進んでいく。
こういう時のジェシカは普段より更に遠慮がない。「パーティークイーン」は健在のようだった。

ブルーキャッツにジェシカを簡単に案内した後に、スーツに袖を通す。「アルテミス」の時のスーツは問題なく着ることが出来た。
ホテルの貸し衣装だったと記憶していたが、ジェシカがカイオス長官に頼んで、今回の為に買い取ったらしい。
パーティーが終わった後は、各自で管理してくれても構わないとのことだ。
特に問題はないことを、着替え中のアミとヨルを廊下で待つジェシカに伝えると、僕とユウヤは帰るように言われた。

「準備があれば手伝うよ?」

「駄目よ、貴方たちは主賓なんだから。
それに明日が終われば、次の日にはA国よ。ヨルをイギリスに送っていかなくちゃだし、早いうちに出るわ。
しっかり準備しておきなさい」

ぴしゃりと年上らしく、諭すような口調でそう言われてしまえば、僕もユウヤも黙って頷くしかない。
荷物の少なさと今までの活動拠点が日本ではないことで、思ったよりも早く準備は終わっている。
特にすることもないが、どうしようかと二人で頭を捻っていると、アスカがタイニーオービットからLBXのテストプレイを頼まれていたので、これ幸いとそれに乗っかることにした。
彼女は慣れた様子でCCMとLBXの同期処理を始める。

「慣れてるね、アスカ君」

「暇なときはいつも来てるからな。
ヨルとのバトルも明日でしばらくお預けだから、明日はとことんバトルしてやらないとな!」

「ほどほどにな」

「大丈夫だって。あいつ、見た目と違って打たれ強いから」

何でもないことのように、そうアスカは口にする。彼女は更に「最近、遠慮がないんだよ、本当に」と面白そうに付け加えた。
遠慮がない。確かにそうかもしれない、と僕も口には出さずに、心の中で同意する。
遠慮がなくなったというよりは、切迫しなくなったというべきかもしれない。
ヨルはそうしなければ息も出来ないというように、緊張の糸を張り続けていたような気がしていた。
それがここ最近はあまり感じない。緊張感がないのだ。
へにょり、と柔らかく眦を下げることが多くなった。心臓を貫くような鋭い眼差しを、最近は見ていない。
ビー玉を太陽に透かしたような、折り重なった光を閉じ込めた青い瞳を、優しげに細めて笑うから、それはとても美しい光景のように僕には思えた。
しばらくすると、ヨルも少し疲れた様子で、僕たちに合流する。
「ジェシカに追い出された……」と肩を落としてCCMを開く彼女は、それでも、毛並みを整えられたばかりの猫のように、ふわふわとした笑みを浮かべていた。


■■■


貸し切りという看板が掲げられたブルーキャッツは普段とは違う雰囲気を醸し出している。
「アングラビシダス」の会場として使われていた地下は、バーカウンターが備え付けられ、持ち込まれたテーブルの上に料理が所狭しと並べられていた。
歓談スペースを設けつつも、最もパーティー会場の面積を占めているのはLBXバトル用のジオラマだ。パーティー参加者は、ここで好きにバトルが出来るようになっている。

「お、ここ電波入るぜ」

「本当ですね。僕たちがこの前来た時は、全然入らなかったのに」

「今日はさすがに電波入らないと不便だろうからって、郷田とジェシカがどうにかしたみたいだよ。
父さんが意見を聞きに来たって言ってた」

「気合入りすぎたろ」

シンプルなドレスシャツと黒のパンツ、それから白のニットに身を包んだカズは、CCMを見ながら呆れた声を出した。
彼のスーツはシンプルながらラインが整っていて、ジェシカのセンスが光っている。惜しむべきはジャケットがないくらいであるが、そもそも彼の体格に合うものがなかったのだろう。仕方がない。
会場には既に招待客の殆どが揃っていて、後はジェシカたちが来るのを待つばかりだ。

「いたいた。やっぱり早いよな、お前ら」

「お待たせー!」

最初に姿を現したのは、アスカとランだ。
ドレスはしっかりと着こなしていて、心なしか、以前の時よりも乗り気なように見えた。勝手が分かっているからかもしれない。
その背後から、更にアミと、ジェシカに背を押されてヨルがパーティー会場に入ってくる。

アミは黒とピンクを基調にした、フリルをふんだんにあしらったドレスで、ランのドレスとはまた違った可愛さを強調していた。よく似合っている。
対して、ヨルはAラインの瑠璃色のドレスを身に纏っている。肩やデコルテを露出させてはいるが、レースのイリュージョンカラーで上手くデコルテを隠していた。手には更にドレスグローブをすることで、全体の露出度を下げている。髪は以前の時のように、後ろで丁寧に編まれていた。
目が合うと、少し困ったように眉を下げる。

「どう? 今回のコーディネートは、さすが私って感じに仕上がったのよね!」

二人の背後でジェシカが自慢げに笑う。「そこまでドヤ顔するのか……」とカズが呟いたのが聞こえた。

「はい! さすがですね、ジェシカさん!
お二人共よく似合ってます!」

「ふふっ、ありがとう、ヒロ」

「……ありがとう」

真っ先に誉めたヒロは流石というべきか。
僕はジェシカに叱られるように迫られて、漸く「似合っている」と口にした。また、ヨルは、ゆるゆると固結びした糸をほどくように柔らかく笑う。
後に続く言葉を考えあぐねていると、携帯端末を手に持ったコブラが近づいてきたことで、視線がそちらへと向く。

「お、主役が揃ったな。
招待客は全員来たから、乾杯の音頭を頼むぜ、バン」

「え、俺?」

聞いてない! とバン君が困惑するが、コブラは手近なテーブルからグラスに入ったジュースを持ってくると、彼にそれを握らせる。
バン君の背中を押しながら会場の目立つ位置に移動させ、同時に僕たち三人のことも呼んだ。
ジェシカが手際よく僕たちにもグラスを渡す。薄い黄金色の液体の中で、小さな泡が弾ける。
僕たちに追いつこうと、慣れないヒールでふらつくヨルに、僕は何も考えず、咄嗟に支える為に手を差し出した。彼女はほんの少し瞳を揺らしてから、戸惑いがちに僕の手を取る。

バン君に続いて会場の中心に立つと、そこでヨルの手が僕からすっと離れた。

「挨拶なら俺じゃなくて、ジンたちの方が……」

「なーに言ってんだ。今回のパーティーは一連の事件の打ち上げでもあるんだぜ?
お前も主役の一人だよ。ほら、堂々としろ。
知ってる奴ばっかりだから、適当に挨拶して、乾杯で良いんだよ」

「ええー……」

頑張れー、と外野からちらほらと声援が飛ぶ。バン君はその声に恥ずかしそうに俯いてから、グラスを上に掲げた。
腹が決まったのか、ぎこちない笑顔を浮かべて、口を開く。

「えっと、今日はお忙しい中、集まっていただいてありがとうございます。
あんまりこういったことに慣れてないし、みんな早くLBXバトルしたいと思うので、手短に。
俺、最近いつも思うんですけど、LBXが無ければ、こんなにたくさんの人たちに出会えなかったと思います。一緒に笑って泣ける友達が、本当に、いっぱい出来ました。
俺、それがすっごく嬉しいです。父さんのつくったLBXが、俺を、みんなと繋げてくれたんだって。
だから、今日のパーティー、実はずっと楽しみにしてました! みんなも今日のパーティー、楽しんでください。
じゃあ、みんなが揃ったことと、俺の友達の門出を祝って、乾杯!」

乾杯、とみんなの声が重なる。カチン、とガラス同士のぶつかる軽やかな音が会場内に響く。
ランとヒロがそれと同時にバン君に駆け寄り、「お疲れ!」という言葉と「感動しました!」という言葉が彼に同時に浴びせられる。
バン君はそれに照れくさそうに頬を掻いた。
代わる代わる、彼の元を人が訪ねていくのを、僕に挨拶に来てくれる人たちの隙間から見やる。
更にその隙間から、隣のヨルとユウヤを見た。彼女たちを訪ねる人は少ないが、途切れることがなく、体感で十分程度、彼らにも労いと祝いの言葉がこれでもかと掛けられていた。

その波が去り、ヨルが遠慮がちにグラスに口を付けていると、その横からアスカが飛び出てきて、彼女を料理のあるテーブルへと引っ張っていく。料理の後はLBXバトルだそうだ。ほどほどにと、忠告はしたが、聞く気は微塵もなさそうだった。
ヨルが嫌がってはいなさそうなので、それならばそれで良いと、僕も漸くグラスに口を付ける。
それらしく味付けされたソフトドリンクの泡が、今度は口の中で弾けた。

ジオラマのあるスペースでは既にバトルが始まっていて、激しい応酬の音がここまで聞こえてくる。
ユウヤは早々にバトルに駆り出されたようで、既に仙道と一戦交えていた。
ピザを片手に、もう片手にヨルの手を掴みながら、アスカがジオラマを一つ占領し出すのが見えた。自然にそこに人が集まっていくのに、もう何度目かの微笑ましい気持ちが胸中を満たした。

「疲れた〜」

少し情けない声と共に、僕の隣にバン君が寄ってくる。やっと人の波から解放されたらしい彼は、グラスのジュースを勢いよく煽って、近いテーブルのピッチャーからひったくる様にジュースを注いだ。珍しく荒々しい手つきに、僕は苦笑する。

「だいぶ囲まれていたね」

「そうなんだよ、嬉しいんだけど、やっぱり俺はああいうのは得意じゃないな」

「バトルはしにいかなくていいのかい」

「ちょっと休憩したら行くよ」

バン君はそう言うと、またジュースを煽った。もうピッチャーごと渡したい勢いだった。自分が用意したものではないが、これだけ勢いがあると、見ている方も気分が良い。

「ジンはA国でLBXの操作技術についての研究、ユウヤは『NICS』で、ヨルは将来人工知能の研究をしたいって。
すごいな、どんどん先に進んでいく」

落ち着いたとばかりに溜め息を溢しながら、同時にバン君は心の底から感心したようにそう言った。
彼の視線の先には、楽しそうにジオラマを覗き込むヨルとユウヤの二人の姿がある。

「ヨルが人工知能の研究がしたいっていうのは、びっくりしたなあ。
ユイのことがあるから、てっきりそっちにはいかないかと思ってた」

「………そうだね。僕も聞いた時は驚いたよ」

素直に、正直な言葉を口にした。バン君の言ったことは本当にその通りで、父と姉のことを考えれば、彼女は当然同じ研究には進まないと僕も思っていた。
そして、何より、彼女が家族のことで苦しむのはもう見たくはなかった。
だからこそ、意地の悪い問いかけを彼女にしてしまった。

「でも、ヨルは、その道に進む覚悟を確かに決めていたから、僕は彼女が自分で決めたことなら尊重したい。
それに彼女の言葉を聞いて、僕もより覚悟が決まった」

ヨルの言葉には、星を撒いたかのように、覚悟が散りばめられていた。悲壮感なんて微塵もなかった。それどころか少し誇らしげですらある。

人工知能の研究は、ヨルを幸せにするのだろうか。

誰も答えられない、おそらくはヨル本人ですら答えられない疑問は、きっと答えが出るのはずっと先のことだ。
それだって、判然としない、曖昧な答えになるかもしれないが、ヨルはそれを怖れて立ち止まることはきっとしない。出せないままだって、彼女は構わないと思っているのかもしれない。
いずれにしろ、彼女は怯むことなく、足を踏み出したのだから、栓無きことだ。
答えを得ようとするかどうかも、彼女次第なのだから。

元々決めていた僕の覚悟は、彼女の言葉に少なからず後押しされた。
「後悔したくない」という言葉は何の捻りもないが、真っ直ぐで、その簡素さが覚悟の色を余計にはっきりさせる。覚悟を決めた彼女の眼差しが、僕は嫌いではない。

「うん、みんなを見てて、俺もやりたいことが決まった。
……俺はLBXの研究者になるよ。
父さんに教わって、俺がみんなと繋がったように、LBXを世界の人々を繋げる存在にしたいんだ」

「……バン君」

「世界にはまだ争いがある。傷ついている人たちがたくさんいる。
その全部を知ることは、多分、無理なんだ。でも、LBXが戦争に利用されることだけは、俺は許せない。
父さんや悠介さんたちが必死で守って来たんだ、それにレックスやミゼルにも会わせる顔がない。
だからLBXの研究者になって、LBXを守りたい。そして、もしも叶うのなら、争いのない世界にしたい」

それが到底叶わないことだということも分かっていながら、彼は歓声の湧く、少し遠い空間を優しい眼差しで見つめる。
バン君はその光景を目に焼き付けるように、ひとつ瞬いた。

「父さん、俺に教えてくれるかな……」

「大丈夫だ。山野博士にも君の思いはきっと伝わる」

少し弱気な部分を見せる彼に、僕はそう断言する。バン君は僕の言葉に照れ臭そうに笑うと、グラスの底に残っていたジュースを飲み干した。
バン君ならば、良い研究者になれるだろう。
彼と僕の進んでいく道は違う。けれども、彼に恥じない自分になりたいと、強く、そう思った。

道が、いつか、また繋がることを信じて、進んでいくしかない。

ジオラマスペースではバトルが白熱しているようで、郷田の雷鳴のような大きな声が聞こえてきた。
視線をやると、身体中で喜びを表す郷田の姿と共にヨルが神谷コウスケと向かい合っているのが見えた。特段困ったような表情はしていないが、なんとなし辟易したような様子から、彼の少しばかり回りくどい話でも聞いているのだろう。
そのうち彼がCCMを構え出し、ジオラマを指差す。ヨルもそれに応じたようだった。
僕は手に持っていたグラスに、グラスマーカーを取り付け、近くのテーブルに置く。

「先にジオラマの方に行っているよ」

「うん、俺は少しお腹に何か入れたら行くよ。ジン、俺ともバトルしてくれ」

「ああ、喜んで」

バン君が料理に興味を移したのを横目に見ながら、ジオラマの方に足を向けた。
ジオラマスペースに足を踏み入れると、やはりというか、空気が違う。息苦しいほどの熱気が身体中を包むのは、自分が戦っていなくても気分が高揚する。
神谷コウスケとヨルのバトルは一際歓声が上がっていた。とはいえ、ヨル自身はそちらには意識を向けず、目の前のルシファーの動きに注力している。
僕はその輪の中をすり抜け、観戦していたユウヤの隣に立つ。やあ、とさり気無く手を上げて挨拶してくれるユウヤに、僕は軽く頷くことで答えた。

ジャバウォックはルシファーの攻撃を正確に槍で受け止めてはいるが、決定打に欠ける。チーム戦や多数相手であれば、ジャバウォックの必殺ファンクションで隙を作り、一撃に伏すというのも手段としてはあっただろうが、パワーとスピードを兼ね備えた相手には有効打になるかどうか、微妙なところだろう。ルシファー相手ならば尚更だ。
神谷コウスケがそれに気づいていない筈がない。彼は優秀なLBXプレイヤーだ。攻めきれないことを見越して、敢えてじりじりとジャバウォックを削りに来ている。
ヨルは隙を見せれば、必ず突いて来るからだ。ルシファーも、彼の美意識に沿っているかは兎も角として、ある程度戦い方が縛られている。
その動きを読んで、切り抜けられればジャバウォックの勝ちだが、先にそこから抜け出したのはルシファーの方だった。
弾丸のように機体を突進させ、ジャバウォックをジオラマの壁まで追い詰める。ジャバウォックは抵抗しようとするが、盾で動きを押さえ込まれ、剣で胸部を一突きされ、ブレイクオーバーの音をジオラマ内に響かせた。
神谷コウスケは不満そうにCCMを閉じる。

「美しくはなかったが、まあ、最後は許容範囲か。
追い詰められるのも偶には気分が良いが、やはり勝利することは美しい」

「なるほど……」

彼の言葉にヨルは苦笑いを浮かべながら、曖昧な言葉を溢した。面倒、と控えめに顔に書いてある。
その表情に、ぴくりと、彼は眉をしかめさせた。

「この僕が誉めているんだ。少しは嬉しそうな顔をしたらどうだ」

「……きょ、恐縮です」

おずおずとした動きでヨルが、それでも丁寧に腰を折り、彼の言葉に礼を言う。
やや面倒そうではあったが、ヨルは嬉しそうでもあった。照明に当たり、蕩けそうな黄金色をした髪が、彼女が顔を上げると同時に肩からするりと落ちた。
ヨルは僕たちの姿を確認すると、ジオラマからジャバウォックを拾い上げて、神谷コウスケへの挨拶もそこそこに僕たちの元へやって来る。

「負けちゃった」

「でも良いバトルだったよ」

「ありがとう。もっと自分のペースに持っていければ良いんだけど、難しいね」

彼女はそう言って、恥ずかしそうに笑った。へにょりとした崩れた笑みは年相応であり、憂いを感じさせない。この笑みが、美しくも影が落ちた微笑みよりも、ずっと好ましいと思う。

「ヨル、次は僕とバトルしてくれないか?」

存外、柔らかい声が出た。
ヨルは青い瞳を丸くしつつも、極上の、壮絶に美しい微笑みを浮かべる。さながら、夜空にとろりとした輝きを残す月のように、それだけで十全に完成されている、そんな笑みを。

「はい、喜んで」

氷水で程よく冷やされたラムネのような、涼やかで甘い声が鼓膜を震わせた。


ヨルとのバトルと、バン君とのバトル、それから仲間とのチーム戦をいくつか終えると、さすがに集中力が切れたのか、少しばかり疲労感に襲われる。
自分のグラスに水を注いで、なるべく人気のない場所の壁にもたれ掛かった。よく冷やされた水が身体中に染み渡る。

「あ、こんなところにいた」

聞き慣れた声と、聞き慣れない靴音が、弾んだ音を立てる。
グラスから顔を上げると、鮮やかな水色の液体が入ったグラスを大事そうに抱えたヨルが、こちらに駆け寄ってきていた。

「それは?」

「ノンアルコールカクテル。拓也さんが作ってくれたんだ」

彼女のグラスを指差して質問すると、それを少し高く上げてヨルが言った。
本来ならば招待客であるはずの拓也さんは、今はここに設置されたバーカウンターでバーテンダーをしている。主催者側だから、郷田には迷惑をかけたから、と理由をいくつか並べて、自分から申し出たらしい。
バーカウンターといっても、未成年が多いこのパーティーでは、アルコールの類いは一切用意していないとジェシカが言っていた。実際、バーカウンターに並ぶボトルは、ノンアルコールのシロップや炭酸飲料ばかりだ。上手く作るものだな、と思わず感心してしまう。

「隣、良い?」と律儀に尋ねるヨルに、少し身体をずらすことで答にした。彼女は僕の横に収まると、ゆっくりとグラスを傾ける。
最初は遠慮がちに飲んでいたが、美味しいと分かったのか、徐々に口に含む量が多くなるのが、見ていて面白い。

「疲れた?」

「少しだけ」

素直にそう答える。そうだよね、とヨルは同意を示した。
しかし、ヨルは、ともすれば僕よりも連戦だったはずなのだが、けろりとした顔をして、疲労感はなさそうだった。見た目よりも体力がある。

「私もね、疲れてるんだけど、それよりも、しばらくみんなといれないと思うと、寂しくて。
今は疲れたより、楽しいが勝ってる」

彼女も興奮しているのか、普段よりも幾分早口で言う。僕もそれに、うん、と頷く。小さな子に相槌を打つような、そんな微笑ましさと気軽さがあった。

「永遠に会えなくなる訳じゃないのに、無性に、寂しいの。
知らなかった、名残惜しいって、きっとこういうことを言うんだね」

彼女はそう言って、やや熱の引いた声を出した。
ヨルは、中身が残り少なくなったグラスを、両手で大事そうに抱えている。

「僕も、君としばらく会えなくなるのは、寂しい」

思わず、ほぼ無意識に、そう口に出していた。

自分の中の酷く幼い部分が、不意に顔を出したのを認めて、妙に恥ずかしくなる。
照れ隠しに、グラスの中の水を、くるくると渦潮を作るかのように回してしまう。それが余計に、溢した言葉の幼稚さを、際立たせているような気がした。

寂しい、というのは本当だ。

ヨルとしばらく会えなくなるのは寂しい。
ただ単純にそういう思いもあったし、約束が果たされたことへの淋しさも、確かにあった。
内心、苦笑してしまう。彼女が一人でもずっと遠くまで歩いていけることが喜ばしいのに、それが寂しいとも言う。
自分の子供っぽさに多少嫌気が差しつつも、聞かれたのがヨルで良かったと思う。
彼女とは気心の知れた仲だから。

グラスの水が大人しくなるのを待ってから、隣にいるヨルを見やる。
彼女は少し俯いていて、垂れた髪から覗く頬や耳が赤くなっているのが見えた。あまり見ない反応に、僕は僅かに目を瞠る。
彼女が深く息を吐く音が、不思議と耳の中で淀んで留まり続ける。

ヨルはグラスの底を濡らしていた水色の液体を飲み干すと、赤みの引いた顔を上げ、先程彼女の喉を通っていった水色よりもずっと澄んだ色をした瞳を僕に向ける。
僕と正反対の色をしたその眼差しは、穏やかであったが、それは嵐の前の静けさのような、奥底に荒れ狂う海原を潜ませているようだった。

「私もね、ジンと離れるのは、淋しい。
でも、それは、ジンの言う『寂しい』とは違うんだよ」

憎々しげに、それでいて限りなく穏やかな口調。水と油のように決して交わらないそれらを、ひたすらにかき混ぜながら、彼女はゆっくりと言葉を紡ぐ。
僕たちに将来を話したときのように、覚悟を決めた眼をして。

「私はジンが好きだから」

その一言に、ひゅっと息が詰まる。
友人に向ける言葉にしては、それはとても切実で、けれども言葉と眼差しに反して、声音は糸をゆっくりと紡いでいくように穏やかだ。険のないそれは水のように身体の端々に沁みていく。
言うべき言葉をどうにか探すが、ヨルはその隙を僕に与えず、畳み掛ける。

「だから、ジンが感じる寂しさと違うの。好きだから、簡単には会えなくなることに、胸が切なくなるけど、安心もする。
だって、私の見えないところにいてくれた方が、ジンが幸せになれるかもしれないから。
友達としても、人間としても好きだよ。でも、一番はそうじゃなくて、そういう好きじゃなくて、本当は……」

ごめん、というヨルの囁きを、僕は確かに拾い上げた。
何に対して、彼女は謝ったのだろう。
思考の逃げ道は徐々に塞がれ、導き出される答えが少なくなっていく。

ヨル、と囁いた彼女の名前は僅かに空気を震えさせただけだ。心許ない制止を、彼女は眼差しひとつで取り払ってしまう。
大海を宿した眼差しは、目を反らすことも許してはくれない。

「私は、ジンのことが、男の人として、好きなの」

酷く穏やかな、恋を告げるにはあまりにも凪いだ声は、まるで別れを告げるかのようで、耳の奥で彼女の溢した吐息と混ざり、いつまでも淀み続けた。




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