93.君が幸いでありますように

ブルーキャッツの扉を開ける時はいつも緊張していたことを思い出す。

ブルーキャッツは今郷田さんが切り盛りしている。「アングラビシダス」をそのまま引き継いで、運営しているからだ。
かつてはルール無用の荒れた場所だったけれども、今は至って健全な運営を行っていて、参加者のレベルに合わせてレギュレーションの調整もしっかり行っている。
「アングラビシダス」の運営が主で、ブルーキャッツは半分ついでのようなものみたいだけど、案外彼は楽しげにお店をやっている。
大空博士と別れて、私はアミちゃんがブルーキャッツにいるという情報をカズ君から聞き付けて、ここに来た。
扉を開けると、中にいたのは四人。
カウンターの内側には郷田さん、テーブルを二つくっつけたテーブル席にアミちゃんとユウヤとジンがいる。
視線が一気に注がれて、居たたまれなくなり、一度扉を閉めてしまう。
一秒、二秒、三秒。しばらく待ってから、また扉を開ける。

再び扉を開けた時、目の前にいたのは、私とは正反対の紅い色をした瞳だった。それから所在なさげに掲げられた手。
多分、私が扉を閉めたから、開けようとしてくれたのだと思う。その前より私が開けたから、どうにも出来なくなったのだろう。なんだか申し訳ない。
私が扉の隙間から店内に体を滑り込ませようとすると、ジンが扉を支えてくれる。
それが逆に、余所余所しく店内に入ることの原因になる。
アミちゃんのくすくすという、細めくような笑い声が鼓膜を震わせる。恥ずかしい。
ジンが所在なさげにしていた手で、私の頭を慰めるように撫でたのは、ほぼ同時だった。置き場所を見つけた、とばかりに。髪を数度梳いただけで、その手は離れる。

ありがとう、と恥ずかしくなりながらジンに言うと彼は「ああ」と素っ気なく頷いた。

「よく来たな、ヨル」

明るい声で迎えてくれたのは郷田さんだ。
いつもの学ランではなく、檜山さんが着ていたようなバーテンダーの服を着ている。
彼のイメージとちぐはぐで、変な感じだ。

「いらっしゃい、カズの言ったとおりね」

「カズ君から連絡があったの?」

「ええ、お前たちがいることを言ったから、来るかもしれないって。
予想通りね」

「なるほど」

アミちゃんとカズ君の間では報連相が徹底している。
カズ君にはさりげなくみんなの予定を聞いただけなんだけど、思ったよりも行動が読まれていて、ふむ、と神妙に頷いてしまった。

「何してたの? 告白?」

アミちゃんは茶化すようにそう言った。
私はそれに目を丸くしかけて、慌てて、出来るだけ彼女には分からないように、意識して口角を上げた。不敵な笑みと人から称される、その表情をつくる。
意趣返しをしてみよう。私は頭の中で小さく笑う。

「うん、そうだよ。でも、振られちゃった」

少し悲し気な声でそう言うと、アミちゃんと郷田さんが目を丸くした。
ぶふっと、飲んでいたコーヒーを吹いたのはユウヤだ。咳込みはしなかったけれど、左手で口元を押えて、小刻みに震えている。
そんなに驚くことだろうか。
ひどく疑問に思いながらも、駆け寄って背中を撫でると、カウンターから出てきた郷田さんから新しい布巾が差し出される。
有難く受け取って、零してしまったコーヒーをそれで拭き取った。

テーブルの上に広げられていた書類やノートに、コーヒーの染みがないことを横目で確認する。
私がそれを見たことはアミちゃんが驚きながらも、目敏く見ていたが、特に何も咎められなかった。

「ニュースタンダード」「海道義光」「クリスタ―イングラム社」

単語だけほんの少し拾い出す。

「え? 本当に?」

アミちゃんにしては珍しく、声が動揺で震えている。
その声だけで、意趣返しは十分に成功しているのが分かった。

背後のジンを見やる。彼は考え込むように、顎に手を当てていた。
お互いの視線が絡むと、私はなるべく強気で微笑む。
然して驚いている素振りはない。予想の範囲内だ。そろそろネタ晴らしをしなければ。

「冗談だよ。大空博士に、これからのことを相談してたんだ」

ユウヤの咳が治まってきたので、彼の背中から手を離した。
「ごめんね」とユウヤが謝ってくれるけれど、元はといえば私のせいなので、気にしないでと言った。
後ろから近付いてきたジンが、元々座っていた椅子に座り直す。

アミちゃんが手招きしてくれたので、彼女の隣に腰を下ろした。
視界の端で郷田さんが武骨な手には似合わない、ティープレスを手にしているのが見える。

「大空博士に?」

「うん、大空博士に」

頷くと、ジンとユウヤも少しだけ不思議そうな顔をした。
さて、何から話そう。アミちゃんたちが私が来る前に話していたことも途中そうだから、それを待ってからの方が良いだろうか。
数秒考えていると、視界の端から品の良いカップが姿を現し、私の前に置かれる。
癖のない香りが鼻をくすぐる。白い湯気の向こうに琥珀色の液体が、カップに満たされているのが見えた。

「俺の奢りだ、遠慮すんなよ」

ついでに感想聞かせてくれ。

その言葉で彼が、私が想像しているよりも、ずっとブルーキャッツのことを考えているらしいことが分かった。
くん、と鼻をひくつかせて、紅茶の香りを確かめる。
ブルーキャッツでは嗅いだことがない香りだ。柑橘系の爽やかさがはっきりと感じられる。
砂糖やミルクを付けなかったのは、多分ストレートで飲むのが美味しいお茶だからだ。

「はい、いただきます」

私の手には少しばかり余るカップを両手で持って、紅茶に口を付けた。
爽やかな香りとレモンの甘酸っぱさが口から喉にまで、すうっと広がる。あ、すごく美味しい。
夏の景色をそのまま拾い上げたような味。

フレーバーティーとは随分と洒落ている。
檜山さんがここにいた時でも、紅茶といえばダージリンかアールグレイのオーソドックスな茶葉だった。
とはいえ、私も味の違いが分かるようになったのはつい最近のことで、あの頃は味つきのお湯ぐらいの認識だった。
渋みや甘さの細かい違いが徐々に分かるようになるのは、なんだか心が豊かになったような気にさせてくれる。

「美味しいです。レモンピールが爽やかですね」

「そうだろう、そうだろう!
仙道から茶葉には拘りを持て、種類を用意しろって説教されてな」

「ああ、なるほど……それで」

アミちゃんが納得したという顔で頷いた。
彼女の手には、からからと氷が揺れるアイスティーが握られている。

「郷田にしては気が利いてるのを入れるなあ、と思ってたのよ。
謎が解けたわ。仙道の入れ知恵だったのね。美味しいわ、これ」

「茶葉選んだのは俺だぞ!」

「入れ方が上手いですね、郷田さん」

「仙道にみっちり鍛えられたからな!」

フォローしたつもりが然り気無く仙道さんがすごいのでは……? という話になってしまった。
しまったと思ったけれど、当の本人がそれを気にした様子がないので、そのままで良いかと思う。
どちらにしろ、茶葉選びも紅茶の提供も郷田さんが決めてやっていくことで、仙道さんはヒントを与えたのみに留まっているのだし、今この場に彼はいないのだから。

アミちゃんと二人、目を合わせて、仕方がないと笑った。

「アミちゃんたちはさっきまで何を話してたの?」

多少強引に話を引き戻させる。
私の話は最後の方が良い。そう判断する。

「今回の事件を踏まえて、ここに至るまでの世界史上で重要なターニングポイントを、洗い出していたところだ」

教えてくれたのは、私の前でコーヒーを飲んでいたジンだ。
テーブルに置かれていたノートやプリントが、私の前に引き寄せられる。

「ターニングポイント?」

「うん、今回の事件は決して突発的に起こったことじゃないから。
流れを整理して、どうしてこういうことが起こったのかっていう部分を、もう少し追及してみようって話になったんだ」

更に言葉を引き継いだのはユウヤだ。話はもう纏まっていたのか、話す言葉に淀みがなかった。
ノートはアミちゃんの物だろう。彼女らしい丸いけれども、癖の少ない綺麗な文字が並んでいる。
温かい紅茶を口に含みながら、なるほど、と頷く。
ミゼルの事件は確かに表面的なものだ。それだけ取り出してしまえば、人工知能の暴走とだけ取られてもおかしくはない。
そして広義の意味では、それも当てはまるということが、少しややこしい。
これは一年前の「イノベーター」事件から、もっとずっと前から続いている、地続きの出来事なのだ。
今になってみれば、これは突然に起こったことではないと分かる。

バンたちにも後で話そうと思うんだけど、とアミちゃんが前置きする。

「『イノベーター』について、改めて考えてみることにしたの。
一連の事件は海道義光の思惑が絡んでいるのは、間違いがないから。
そして、それがなければ、レックスは復讐を決意しなかった」

アミちゃんの言葉は透明でいて、鋭い。骨や肉を的確に避け、心臓を貫こうとする。
私はジンに視線をやる。彼は特段気にした様子はなかった。
アミちゃんは話を続ける。

「昔、世界的なエネルギー危機があったことは、ヨルも知ってるわよね」

彼女の問い掛けに私は頷いた。
その話は授業でも習うものだ。

昔はエネルギーというのは化石燃料が主流だったそうだ。
石油や石炭がそれに当たる。それらは今でも存在しているけれども、はっきり言ってしまえば、嗜好品だ。クラシックカーやレトロな暖房器具でも使わない限りは、現代では不要である。
そして現在では、エネルギーはタイラントプレイスでの一括管理となっている。
頭の中の歴史の教科書を捲り、暗記した年表を引っ張り出した。

「確か『エネルギー構造改革準備委員会』による会議で決定された、世界のエネルギー事情を変えた出来事……」

「そうだ。それによって、現在のタイラントプレイスは設置、運営されている。
世界のエネルギー事情は一新した。
……これに倣って、『エネルギー構造改革準備委員会』は別名『ニュースタンダード』とも呼ばれていた」

コーヒーカップを置いたジンがテーブルの上から、一枚の写真を拾い上げる。
私に向かって差し出されたそれを受け取る。
印刷したばかりなのだろう、つるりと光を反射するそれを見ると、その中に見知った顔がいくつかあるのを見つけた。
アラン・ウォーゼン、海道義光、それから…こちらは分かりにくいが、神谷藤吾郎の姿も確認が出来る。皆、私が初めて見た時よりもずっと若い。
写真を持ったまま考え込んでいると、ユウヤがカップの淵を指でなぞりながら、口を開いた。

「その写真を見ると、『イノベーター』のことも『オメガダイン』のことも、繋がっていないとする方が無理がある気がするよね……」

「……ええ、海道義光は『イノベーター』を組織し、アラン・ウォーゼンは『オメガダイン』の総帥になった。
そして、ここにはもう一人、今回の事件で重要な人物がいるわ。
ジョージ・F・ジョンソン、当時のA国大統領で、アルフェルド・ガーダインの父親であるロナルド・ガーダインを失脚させた人物よ。
この会議のすぐ後に病気で亡くなったのだけれど」

彼女が指さしたのは、人の良さそうなご老人だった。仕立ての良さそうなスーツ姿は、彼がそれなりの地位にいることをさり気無く示している。
彼もまた一連の事件のきっかけをつくった人物。

「お祖父様はこの会議の後に『イノベーター』を組織している。
当時のお祖父様は一介の新人議員だ。それほどの力があったとは到底思えない。
……『ニュースタンダード』にはそれだけの力があったのだろう」

「神谷重工もこの頃から、急に業績が伸びたって親父から聞いたな」

神谷藤吾郎氏の姿をとんとんと指で叩き、郷田さんが言う。
彼はプロメテウス社の御曹司だ。そう言ったことには、私たちよりもずっと精通している。

「そうね。多分レックスの言うところの、一部の権力者と言うのは、確実に彼らのことを指していたのだと思うわ。
それだけ絶大な権力があったというのは想像は難しくないわね。
それからね、アラン・ウォーゼンの経歴が妙なの。
オタクロスに頼んで、A国のネット掲示板にまで手を出したんだけど、石油会社役員の後、ある軍事メーカーに務めたけれど、特に功績らしいものは見当たらなかったわ。
『オメガダイン』発足当時、LBX開発や重要ポスト
を経験していない彼の総帥就任は、A国でもかなり疑問視されたみたい。
おそらくは誰かの意向があったのでしょう。
……これを見て」

出てきたのは新聞記事だ。「A国国務長官来日」という文字と「A国と日本、国防軍装備導入の提携交渉開始」という文字が飛び込んでくる。
そして記事の見出しに貼られた写真を見て、目を瞠る。

そこにいたのはアルフェルド・ガーダイン氏と海道義光氏だ。
ガーダイン氏はまだ分かる。しかし海道氏にはそこにいる理由がない。彼はずっとエネルギー開発に注力してきた人物だ。軍事関係は門外漢の筈。

「……注目すべきは、もう一人の人物なんだ。
この人は拓也さんのお父さん、宇崎彰一郎さんだ。
この頃既に宇崎さんの会社、タイニーオービット社は山野博士の主導の元、LBXの基礎研究を始めている。
ただの玩具メーカーがこの場に呼ばれる理由があるとすれば、それは……」

「LBXの軍事利用……」

私はユウヤの言葉を引き継いだ。点と線が繋がる。

「……そして、A国へのLBXの兵器としての技術提供だ。
宇崎氏はそれを断り、『イノベーター』によって殺害された。
だが、彼がその時断らなければ、LBXはホビーとして僕らが遊ぶようなことはなかったはずだ」

立派な人だったのだろう、とジンが言葉を零す。

「そうね。LBXはその時は軍事利用はされなかった。
ただ後にMチップや『オメガダイン』を創設したことから、彼らはLBXの軍事利用を諦めてはいなかったのね。
そして『オメガダイン』の総帥だったアラン・ウォーゼンは、軍事メーカー…セントラル・インテリジェンス・サービス、通称CISという会社の役員を務めていた。
この会社はLBXメーカー、クリスタ―イングラム社の親会社よ。
きっとそこから何らかの圧力で、彼は『オメガダイン』総帥になったんだと思うわ」

「バンの親父さんは悔しかったろうな、本来はホビーだったってのにさ。
色んな奴に利用されて」

「うん、山野博士が『ディテクター』として活動しようとした理由、僕は少しだけ分かるよ」

だからと言って、スレイブプレイヤーという手段を使っていい訳がないけれど。

山野博士の行動は理解は出来る。でも、全面的な肯定は、私もすることが出来ない。
人を利用して良い理由も、傷つけていい理由も、正当なものはこの世の何処にもないから。
そして、それを一番よく分かっているのは、多分山野博士自身だ。

だから、LBXは存在するべきではないと、思ったのだろう。

どんな葛藤がそこにあったのか、彼の言葉を聞いた今でも、私にはその奥底までは分からない。
ただ絶望があったであろう場所から、山野博士を救い上げた人がいて、それがバン君であったことは、幸福なことだと思った。

「まだ調べなくちゃいけないことが、たくさんあるわ。
LBXを戦争の道具なんかにしない為に。
ミゼルに人類は先を見てみる価値があるって、証明しなくちゃ」

永遠に、人間が人間である限り、きっと完全にはなれない。不完全だから完全を目指す、完全を目指して進化する。
バン君の言葉が記憶の端から、じわりと心臓に染み込んでいく。
ミゼルにそれを証明出来る日が、私にも来るのだろうか。まだ、私には、分からなかった。

アミちゃんがノートを閉じたことで、彼女たちが調べたことはここまでということを知らせる。
彼女はまた調べるのだろう、LBXのこれからの為に。
涼やかな音を立てる氷をかき混ぜながら、彼女はアイスティーを口に含む。
それから私ににこりと微笑む。美人だなあ、と他人事のように思った。

「ヨルは大空博士に何を相談してたの?」

「……将来のことを。
大空博士の元で、人工知能を学びたいってお願いした」

言葉は喉の奥から、詰まることなく、空気に溶けることも紅茶に零れ落ちることもなく、真っ直ぐに放り出すことが出来た。
意外だった。
自分でもはっきりと覚悟が滲んでいるのが解ったから。私は微塵も、あの選択に後悔をしていないのだ。
心臓を通って血液が体中に流れるように、覚悟が身体を巡っていく。心地良かった。諦めが流れていくのとは、違う感覚がする。
私を私たらしめるものが、漸く定まったような気がした。

私の目の前に座るジンは紅い眼差しで私を見る。
気遣わし気な眼差しは、優しさと慈しみが混じっているのが分かって、私は彼に微笑んだ。

「それはヨルが自分で決めたことか?」

意志を確認するように、ジンが私に問い掛ける。
アミちゃんもユウヤも郷田さんも私の答えを待ってくれている。

「自分で決めた。後悔をしたくないから」

「……姉や父親への当てつけではなく?」

心臓の柔らかい部分を、銀の針が刺していく。
質問を投げ掛けてきたジンこそ、自分が傷ついたような顔をする。

そんな質問をさせたのは、紛れもない私だった。
目の前の優しい人が、悲痛そうにしているのが、酷く不幸せなことのように感じられて、たえられなかった。

「それも、きっとあると思う。
でも父にも姉にもなれないから、それがちゃんと分かったから、その上で自分のやりたいことをしたい。
私にしか出来ないことは限られているし、一つもないかもしれない。
それでも挑んでみたいと思ったから、人工知能の研究がしたいの。
そして、それでLBXに報いることが出来たら良い」

私は正直にそう答える。父と姉が関係ないなんて、頭の中をどう引っ繰り返しても、言うことは出来なかった。薄衣の向こうの記憶が、悲鳴のような声を上げる。遠い国の歌のようなそれを、細く息を吐くことで、撫でつけて、大人しくさせた。

もう私は背後に流れるあの川を渡ってしまった。その先に何があるのか、苦しみが、喜びが、どんな形をしているのか、想像もつかない。
でも後戻りは出来ないし、するつもりもない。境界線を越えたのは、疑いようもなく、私の意志だ。

「……そうか、それならいい」

ジンははらわたから押し出すように嘆息すると、眦を柔く細めて微かに笑う。いつもより、ほんの少し深い笑みだった。
短い同意にも関わらず、私は何かすくわれたような気がした。

思えば、彼は決して、私が自分から行動したことを、否定しようとはしなかった。否定したいことも、止めろと言いたいことも、あっただろう。けれども、彼はそれをしなかった。しないでいてくれた。
どうしようもない結果が待っていると知って、私が答えを出すのを、ただ待っていてくれた。

それらはとても尊いことだ。

「大空博士は了承してくれたの?」

「自分の為に研究するなら、良いって言ってくれた。
最後に必要なのは自分で考えて、納得して、楽しむことだからって。
でも……」

「でも?」

「ちゃんと学校は終えてから来なさいって、今は教えないって言われた。
それからもう一度考えて、それでも気持ちが変わらなかったら、来なさいって。
だから、振られちゃった」

時間をくれると大空博士は言った。考えが変わっても決して責めないし、好きに生きれば良い。でも私の覚悟が変わらなかったなら、容赦なく教えると約束してくれた。
その為にとくれた連絡先は、ミゼルの時に貰ったものとは番号が違う。仕事用ではなく、プライベート用の番号をくれたのだ。

「それで振られた……」

ユウヤが納得したように頷く。
故に、今は学校を卒業することが先決だ。イギリスの学校の方はそろそろ授業を開始するという。あっちから授業開始予定日のメールが来ていたのを思い出す。

「そっか、ヨル君は研究者になるんだ」

「……うん」

まだ入り口にも立っていないのに、なんだか気恥しい。
ユウヤは微笑むと口を開いた。

「僕はね、『NICS』に行こうと思うんだ。
『NICS』に入れば色々な世界が見れるはずだから、ジェシカ君もカイオス長官も僕を受け入れてくれると言ってくれたんだ。
あそこで僕は宇宙開発や情報技術を学びたい」

はっきりとした声で、ユウヤは瞳をきらきらと輝かせた。
そうか、それでジェシカに相談をしていたのかと、合点がいく。
彼がそこに行きたいと言うのなら、私が反対する理由も、無理な理由を並べる必要もなかった。
ジンが私にそうしてくれたように、応援するだけだ。彼がどうしても困った時に力になれれば、それで良い。

「……僕はもう一度A国に留学しようと思っている」

ユウヤの言葉に促されるようにして、ジンはそう私たちに告げた。

「お前、もう高校は卒業してるだろ?」

「WIT……ウェストサイド工科大学で、LBXの操作技術に関する研究が進められているんだ。
高校は卒業しているし、入学資格は満たしている。
WITでその技術研究に参加したい。既に参加する手筈は整えてあるんだ」

ウェストサイド工科大学といえば、世界最高峰の大学の一つだ。おじさんやリゼの口から聞いたことがある。
ジンの言葉からも、また覚悟が滲んでいた。私とは違う色をしたそれは、例え暗い泥の底にいたとしても、見失うことはないだろうと思った。

彼らも自分自身の背後にある境界線を越えた。

「日本はいつ発つの?」

「来週には。A国で準備したいこともあるんだ」

「僕もそれに付いていくんだ、ヨル君は?」

「私も来週にはイギリスに戻るよ」

「……意外と時間がないわね」

アミちゃんがCCMを操作する。横目で見ると、誰かにメッセージを送信しているところだった。

「目出度いじゃねえか、うちでパーティーでも開くか?
地下も好きに使って良いぜ、貸し切りだ」

「いいわね、それ。ジェシカが喜ぶわ」

郷田さんの提案に賛成したのはアミちゃんだ。

「ジェシカ君が?」

「ええ。『アルテミス』の後のパーティーの話を聞いて、やりたいってジェシカと話してたのよ。
三人が日本を離れるっていうなら、理由としては十分でしょ?」

彼女はそう言うと、にこりと可愛らしい笑顔を浮かべる。
ジェシカ、パーティーという単語が並べば、必然的に付属されるものが分かる。ドレスだ。あの着せ替えがまた来るということが、容易に想像できた。
ドレスを着るのは良いけれど、着る過程に問題があるのだ。主にジェシカのやる気なのだけれど。

「ジェシカも乗り気よ」

ほら、とアミちゃんが見せてくれたCCMの画面には、ジェシカからのメールが写っていた。文面とスタンプからやる気が伝わってくる。

「きっと楽しいわよ、ヨル」

彼女が殊更楽しげな声をするものだから、私も釣られるようにして、頷いてしまう。
すっかり温くなってしまった紅茶を口に含むと、レモンの香りが肺をゆっくりと撫でた。

ふと、琥珀色の小さな水面から視線を上げる。
目の前で座るジンと目が合うと、彼はゆるゆると夕焼けがほどけるように柔らかに笑う。

私はいつもまでも、許される限り、それを見ていたかった。


■■■


ブルーキャッツを出ると、空は薄く暗くなり始めていた。
雲の流れは速く、目を離すとすぐに形を変えてしまう。白い雲の端が陽の光を浴びて、黄金色に輝いていた。

送っていくと、当たり前のように私の隣に並んだジンと、私が泊っているホテルへの道を歩き始める。
彼が今滞在している場所とはまるで真逆だというから、なんだか申し訳ない。一人でも帰れるからと辞退しようと思ったら、もう先を歩いていて、半ば強引に送ってもらうことになってしまった。

「一人でも帰れるよ」

「二人の方が安全だろう」

「帰りはジンが一人になるけど」

「タクシーでも拾って帰るさ」

ジンを見上げるようにしながら、私が軽く拗ねたように言うと、彼は然して気にするふうもなく言った。
ゆっくりと、お互いに慣れた様子で歩調を合わせる。
身長の差が生み出す歩幅の差は、いつもジンが緩やかに私に合わせてくれることで、埋めてくれる。
歩き出してから、少しずつ彼との距離がいつも通りになっていくのが、妙にくすぐったい。

河川敷を通ると、ジオラマを広げて、LBXバトルをしている姿を見かけた。
ミゼルの事件が終わってすぐは見られなかった光景だ。私たちの姿を見つけると、楽しそうに手を振ってくれる人もいる。小さく振り返すけれど、少し恥ずかしい。

「段々LBXをプレイする人が増えて来たね」

「ああ。拓也さんたちが尽力しているからな」

やはり安全面への課題を残しつつも、世界の人々の理解を得ながら、LBXはまた遊ばれ始めている。
自粛していた大会も、もうしばらくすれば復活すると拓也さん経由で知らされていた。一回ぐらいはもしかしたら、アスカに引っ張り出されるかもしれない。

ほんの少しだけ未来のことを考えながら、お互いに言葉もなく歩く。無言なのは、別に苦ではなかった。
足音と呼吸の音。薄闇に差し掛かる世界でそれらが溶けて、その中に彼と私がいる。穏やかだった。私が与えられたものの中で、最も穏やかで満ち足りた時間のように感じられた。
彼はいつまで私の傍にいてくれるのだろう。いつまで、あの約束は有効なのだろうか。不意に過った淋しさに、心臓が抉られるようだった。

私は諦めて、妥協することで、彼の腕を掴んで縋った答えを得た。

ジンは私が答えを出すまで、傍にいてくれると言ってくれた。
嬉しかった。行き止まりの、もう何処にも行くことの出来ない場所で、たった一つ灯りを見つけられたみたいに。
彼は、海道ジンは、まだ私の隣にいてくれる。

あの夜明けの日、漠然と、彼が私が答えを得ても、傍にいてくれれば良いと思っていた。
それが私の中で形を持ち始める。

私はジンに傍にいてほしい。

友達だから。
心の中で良く似た何かが、その気持ちをちりちりと焦がしていく。そうではないだろうと、脳髄の奥から祈るような声がした。
彼が、大切だから。私が、淋しいから。……ジンが好きだから。
その感情に目を瞠った。独りよがりな感情が、潮のように身体の端々を浸していく。息が、詰まった。

ジンが大切だ。その大切は、友達への大切とは違う。
彼以外には、きっとこの大切は、抱くことは出来ないと、私は唐突に理解した。
細波の音が耳の奥で反響する。あの時彼に告げた言葉とは、比重のまるで違う感情が心臓に爪を立てた。

私は彼が好きなのだ。

気づいて、視界が明滅する。一瞬電源が全て落ちてしまったかのように、目の前が真っ暗になった。足が止まる。しかし地を這うような重い暗闇は、長く続かなかった。
訪れたのは、木漏れ日のような淡い光と、しんとした影。顔を上げれば、その中にジンがいるんだ。幸福そうで、それは幻なのだけれども、幸福で良かったと安堵した。

好きになることは、絶望することと等しいと、そう、ずっと思っていた。

私は、ジンのことが好きだ。
声を聞きたい、目を合わせてほしい、一緒にいてほしい。私に触れてほしい、彼に撫でられる指先や掌の感覚を思い出した。何度でも触れてほしい。
でも、それと同じくらい、ジンには幸せになってほしいと思った。
必ず夜が明けるように、当たり前にその気持ちは私の中で存在を主張する。君が幸福でありますように、と。私の幸いを全て君に渡しても、構わないから、君が幸福であればいい。

私がそこにいなくてもいいから、優しく微笑んでいて。どうか、幸せになって。
木漏れ日の中にいてほしい。もしも出来るなら、世界中の優しさをあげたい程に好きでいさせてほしい、そう思う、私の唯一の人。

「……ヨル?」

名前を呼ばれた。ジンとの距離はいつの間にか、随分と離れている。
電源がやっと入って、私は彼に追いつく為に歩幅を広げて歩いた。気遣わしげな眼差しを受け、私は大丈夫だよと言うように、微笑む。
そうすると、彼は安堵したように息を吐いた。さっきよりも殊更ゆっくりとした歩調で、私の隣に立つ。

この優しい人はまだ私の傍にいてくれている。
幸いだった。ジンが隣にいてくれることが、私を見つけてくれたことが、名前を呼んでくれることが、奇跡のようなさいわいだ。
だから、私はそっと目を伏せて、祈った。

幸福になって。そして、もしも、叶うなら。

私を好きになって。





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