92.雨宮ヨルV

ミゼルとの戦いは終わった。

戦いの爪痕は世界中に色濃く残っているけれども、すぐに復興が始まった。
街が今まで掛けてきた時間を上から降らせるように、瞬く間に街は元通りになっていく。

私たちもしばらくはトキオシティに残っていたけど、もうミゼルの脅威はない。
もちろん復興は残っているし、LBXの地位回復という大きな仕事は残っているけど、それはもう少し落ち着いてから対応することになった。
他に細かい用事はあるものの、ジンやジェシカ、私は生活の拠点が海外にある。
学校があって、長く不在にしていたので……成績が危ない。それもかなり危ない。

とはいえ、長い間留守にしていたので急に学校に戻るのは憚られる。
事前に学校に連絡をいれたのだけれども、私が通っていた学校はゴーストジャックによって損害を受け、まともに授業を受けられる状態ではなくなってしまったそうだ。
私は日本での滞在を余儀なくされた。
加えて、おじさんとリゼはミゼルの件の事後処理の真っ最中だ。
面倒は見られないので、早急に戻る必要がないならそのまま落ち着くまで日本に滞在してほしいと言われた。
ご丁寧に、その連絡の次の日には、リリアさんからある程度の金額が口座に振り込まれていて、その手際の早さに舌を巻いてしまう。生活費の問題が一瞬にして消えた。
お礼を言うためにリリアさんに電話したところ、「世界を救ったにしては少ないくらいだろう」と当然のように返される。
私はそれに対して適切な言葉を持っていなくて、「ありがとうございます」と他人行儀にお礼を述べるに留まった。

世界を救ったといわれると、少し胸が痛い。それは遺伝子研究所のことでたくさんの人に迷惑を掛けているからだと自分で分かっていて、だから世界を救ったのだからと言われると、仰々しくて恥ずかしくなる。
私は自分の過ちに自分で決着をつけたに過ぎないのだ。
振り切った気でいても、時折見えない銀の針が内臓をじわりと刺す。
吐いた嘘は取り返しがつかず、過去にはどうやっても戻れない。
私は、ずっと、生きている限り、その極当たり前の事実に足を浸して、時折現れるあの冷たく細い針に刺されるのだろう。
傷口から血液も黒く濁った泥も、何も溢さずに刺さり続けるそれを、私は、でもほんの少しだけ大切にしたかった。
ミゼルを倒した後にアスカやランたちには一年前に起こった私の全てをもう話終えていて、なんだか少しだけ気が楽になっている。
誰かに話すということは、簡単ではないけれども、胸の内を軽くするには十分だった。
アスカたちに話しながら、再び諦めと妥協がとくとくと体の中を巡るのが、私は嫌いではなかったのだ。

でも重荷が降りたと同時に、私はいつも持っていた警戒心にも似たあの脆く鋭い何かを、持て余していた。
まだそれが少し怖くて、糸を結び直そうとしている。
そのたびに仲間の誰かが、敢えて名前を出すとすればジンかアミちゃんが特に、私を小突いて、それを緩くほどいてしまうので、あの時切れた緊張の糸はまだ結び目もはっきりしていない。
演技というか、そういうものを隠すのが得意ではあっただけに、実は少し動揺している部分もある。
ランに言わせると「接しやすくなった」らしい。なるほど。
ちなみにジェシカからは「少し生意気になった」と言われた。……なるほど。そちらは実感がない。
ただアミちゃんから「遠慮がなくなってきた気がする」と言われたので、そういうところかなと思う。

私からすれば、それは秘密を持たなくなった、ただそれだけに過ぎないのだ。
でも、それが何よりも難しかった。

そのことを私は多少しどろもどろになりながらアスカに話していると、彼女は難解な数式を前にしたような複雑な顔をした後、トマトジュースの缶を放り投げて来た。
受け止めた私の掌の中で中身がゆるりと揺れる。
難しいことはわかんねえけど、とアスカは前置きする。

「堂々としてろよ。
オレたちは世界を救ったんだからさ。
遺伝子研究所のことは確かに黙ってたお前にも悪いところあるけど、オレからすれば、あれはしなくてもいいことだし。
遠慮がないっていうのも、良いことだろ。
大丈夫、慣れだ、慣れ」

だから、それでも飲んで元気出せ。

自分も勢いよくトマトジュースを煽りながら、アスカは私に言った。
元気がないわけではないのだけれども、私はそれに倣ってぐっと缶を傾ける。
酸味の効いた、刺激的な味がする。今度は前ほどその味が嫌いではなかった。

「それよりも家探した方がいいだろ。どうするんだよ、本当に」

「……そうだよね。どうしよう」

アスカの言葉が刺さる。そう、家である。今、私には家がない。
アスカだって、本来は私の…所謂難しい話を聞くためにではなく、日本での滞在をどうするのかをわざわざ聞きに来てくれたのである。
決して、弟のタケル君に口喧嘩で負けたからではない。彼女の名誉のために。

私が元々住んでいた家は、私がイギリスに移り住んだ少し後に建物を壊して、売りに出されている。
少し前までは日本国内から出ることは一生ないだろうなと漠然と思っていたと言うのに、今では海外暮らしが少しだけ板に付いてきた。
……というか、ダックシャトルに乗って世界中を飛び回っていたのだから、なんとはなし、その事実に笑ってしまう。
目の前には、日本での滞在をどうするかという問題が残っていたけれど。

神妙な顔で思案していると、幸運は、文字通り上から降ってきた。

「ヨルが構わないなら、ホテル暮らしはどうだ?」

やや疲労の滲んだ声で私たちにそう話しかけて来たのは、拓也さんだ。
片手にはコーヒーと思われる黒い液体が入った紙コップを持っている。
私たちがいるのはタイニーオービットの社内なので拓也さんと会うのはまったく不思議ではないのだけれど、彼とは随分久々に会う。
「LBXバトルでもしに来たのか?」と問われ、私たちは頷いた。
いつでも遊びに来てくれという彼や結城さんの言葉に甘えて、私とアスカはここに入り浸っている。
遂には開発部にテストプレイをしてくれと声を掛けられるまでになった。今や日本を代表する一流企業に出入りしすぎである。いつ摘まみ出されても文句は言えないかもしれない。
今はタイニーオービットの休憩室に二人でトマトジュースを飲んでいる。ここにもあまりの頻度で来るから自販機の並びを憶え始めた。

ホテル暮らしと不意打ちの言葉を口の中で反芻する私に対して、アスカは何故か私より呆れたような顔をする。

「金かかるじゃん!」

身も蓋もない一言だった。
拓也さんはそれを軽く笑っただけで済ませた。携帯端末を取り出して、その画面を私たちに見せる。
そこには豪奢な建物が写っていた。
高そうという感想しか頭の中に浮かばなくなる。思わず口座の金額を頭の中で確認した。
いくらなんでもここは無理だ。

「うちの資本が入っているホテルでな。ミゼルトラウザーの爆心地に近いこともあって、今は閑古鳥が鳴いている。
ここで良ければ、俺が口添えしよう。今ならかなり安く泊まれるぞ。
……というか、お前たちは世界の恩人だ。これぐらいタイニーオービットで出すさ」

拓也さんはそう言うと、私の髪をかき混ぜるように頭を撫でた。
大人の手で頭を撫でられるのは久しぶりだ。

「わわっ」

素っ頓狂な声を上げてしまう私に拓也さんは満足気に頷いた。
さては疲れているな、この人。

「これで家はどうにかなったな」

彼は笑って言う。良かったな、と私の肩をアスカが叩いた。乱れた髪を手櫛で整えながら、私も「良かったです」と頷く。
拓也さんは紙コップに口を付けると、少しだけ視線を彷徨わせてから、すいっとその眼差しを私たちに向けた。

「ヨルとアスカはこれからどうするんだ?」

それは近所の優しいお兄さんのような、子供に手を焼いている父親のような、そんな不思議な声音だった。
私たちは顔を見合わせる。
これからというのは、この後何をするという文字通りの言葉を差すものじゃないのだろう。
もっとずっと先の、きっと私たちの将来のことを言っている。
それが分かったから、私は安易にはその質問に答えられなかった。
答えたら、どんな反応をされるのか、少しだけ怖かったからだ。

まあ、難しいよな、と拓也さんは独りごちた。俺も難しいよ、と。

「あのさ、あと何年かしたらLBXプレイヤーのプロ資格が出来るって聞いたんだけど」

「ああ、その話か。今、各団体と調整しているところだ。
年内には実現したいと思っているんだが」

「そっか! じゃあ、オレは当然それを目指すぜ!
っていうか、絶対なるし、なれる! 『アルテミス』優勝者のオレがなれないことはない!」

アスカは高らかにそう言った。
実際アスカならば、問題なくプロ資格が取れると私も思う。彼女は別段学力面で問題があるわけでもないし、筆記試験があっても難なく熟すだろう。
アスカは将来のことを語るキラキラとした目で私を見た。じっと見られると居心地が悪い。

「ヨルもプロ資格取ろうぜ!」

「ええっ…」

ある意味予想していた誘いだったけれども、私の口からは戸惑いとも拒絶ともつかない声が漏れた。
プロともなれば、それ相応の実力が求められる。当然だ。そうでなくては意味がないだろう。
私は自分の実力が人に劣ることを、良く分かっているつもりだ。
LBXは特に顕著で、才能が何よりも重要になってくる。
どうにかこうにか、みんなの後ろを付いて行っているのが今の私だ。
そんな私がプロになれるなんて到底思えなかった。

でもそれを真正面からアスカに言うのは憚られる。

「実力なら十分だろ」

アスカが私が言い淀んだ理由を的確に突いてくる。鋭い、久方ぶりの冷や汗が背中を伝う。

「オレはソロでも大会出たいけど、チームで出ろとかチームで出たいって時に、お前と組みたい。
その方が連携が取れるし、お前、基本的にオレが急な動きしても怒らないで付いてきてくれるだろ?」

「それはアスカのプレイスタイルだし、サポートメンバーなんだから、合わせるよ」

前衛を主軸にして攻撃を組み立てるのは基礎中の基礎だと思う。
当然のことを突然褒められて、びっくりした。

私と組みたいというアスカの真っ直ぐな言葉が身体を刺す。
「熱烈だな」と拓也さんが茶化すように言った。
そう言われても、微塵も照れがないのがアスカの凄いところだと思う。
彼女の言葉はきっと本心だ。そして本人は当然のことを言っているに過ぎない。照れる必要がないのだ。

けれども、私は素直にアスカの誘いに頷けない。
繰り返すが、実力の部分に目を瞑ることは出来ないのを、私は知っているからだ。

きっと彼女たちに追いつけなくなる日が来る。
それは厳然たる事実だ。

「……実力のことで忌避しているのであれば」

私とアスカの間に言葉を放ったのは拓也さんだ。
紙コップの底を覆い尽くすコーヒーを見つめていた視線を上げ、彼は私にその穏やかな眼差しを向けた。
その眼差しは彼の兄を思い出させる。あの人も眼差しと同じように優しい人だった。

「俺は、必ずしも、プロになるのに強さだけがすべてではないと考えている。
プロのサッカー選手も野球選手も、全ての人がカリスマ性に優れている訳じゃあない。
ヨル、お前はサポートが上手い。メインで前衛を張るよりもそちらの方が、多分、お前のプレイスタイルには合っている。
それを伸ばせばいい。
LBXのプロ資格は強さを証明するためのものじゃない。
正しくLBXを使うことが出来て、それをみんなに証明するためのものだ。間違った使い方を、今度こそさせないために。
LBXのプロ資格はそういうふうにしたい。誰もが夢を持てるように。
あとは……そうだな、金銭のやり取りをスムーズにするためというのもあるな。
この国では、賭け事はご法度だから」

「………でも」

言い淀む。
拓也さんの言葉は嬉しい。強くなくても良いと言ってもらえているような気がした。
アスカの言葉もまたそうだ。

「決めるのはお前さ。
プロになってくれと言ってるんじゃない。
欲を言えばプロになってうちの広告塔にでもなってらいたいが、それは強要するものじゃない。
俺はお前たちがLBXを楽しんでくれれば、それでいいんだ。
楽しむために少し離れても、プロになっても、バトルせずに見る方に回っても、LBXを楽しいと思ってくれれば良い。
お前たちには道がまだたくさんある。好きに選んで、悩めば良い。
中学生の頃なんて、俺はなにも考えてなかったしな」

「じゃあ、オレたちに将来のことを聞くのはフェアじゃないぜ。拓也さん」

「ははっ、違いない。
意地の悪い質問だった。悪かったな。
まあ、経験則として、考えておいて損はないぞ。
人生において、遅すぎるってことは確かに存在するんだ。可能性は狭まる。
狭めないための準備は早めにした方が良い 」

拓也さんは優しいお兄さんの顔をしてそう言うと、残っていたコーヒーを一気に煽った。
「帰りは送っていくから霧野に連絡してくれ」と告げると、休憩室を出ていく。
出ていく直前に見た横顔は仕事用の顔だ。少し険しい。あまり良い案件を抱えてはいなそうだった。

「あ、ありがとうございました。
お仕事頑張ってください」

「頑張れよー、拓也さん」

拓也さんの背中に向かって言うと、彼はひらひらと手を振ってくれる。
休憩室には私とアスカが残された。

「将来」

呟いてみる。全く実感が湧かない。
目を背けて来た訳ではない、と自分に言い訳をする。

「……プロかあ」

「良いじゃん、プロ。LBXしてお金が稼げる。
プロリーグだって出来るだろ、強い奴と戦えるんだぜ」

「アスカは楽しそうだね」

「想像するだけで楽しいだろ!」

「そうだねえ…」

気のない返事をする。
スプーンでかき混ぜたように、頭の中を未来のことが巡る。

アスカはプロになりたいと言う。

私は……やりたいことはもう決まっている。
あとは話すべき人に交渉をしてみるだけだ。

問題は交渉する機会が、今の私にとって、極端に少なくなってしまったことである。
それから、反対されたら、どうしようという思い。

「とりあえず、バトルしようぜ!」」

黙り込んだ私に、ヴァンパイアキャットを取り出しながらアスカが言う。

「そうだね。そうしようか」

私も立ち上がる。アスカとバトルすると、とにかく連戦で疲れるけれど、楽しい。

トマトジュースの缶を空にすると、手首のスナップを利かせて、ごみ箱に投げた。
缶よりも少しだけ余裕を持って作られた穴に、綺麗に吸い込まれる。
力加減が上手くいったのか、缶は大きな音も立てずに、底に落ちたみたいだ。

我ながらこういうことは上手い。

「今オレが何勝してたっけ?」

「25勝15敗17引き分け」

「細けえ……」

「自分で聞いてきたんだよ」

いつもの、と言えるぐらいには慣れたトレーニングルームに足を向ける。

バトル結果は、最終的に引き分けが勝ちを上回って、少しだけアスカが拗ねた。

霧野さんにアスカ共々送ってもらって、途中でアスカとは別れた。
私はそのまま件のホテルへ。
大きい荷物はダックシャトルで飛び回っていた時から持ってないから、CCMとLBXを持ってそのまま向かう。

「上の階がいいですか?」

「えっと、適当で」

上の階である利点も下の階である利点も上手く理解出来なくて、そう答えた。
霧野さんは私の返答にくすりと微笑むと、ハンドルを切った。
確認したホテルの位置とは方向がちょっと違う。

「私としたことが、生活必需品の買い出しを忘れていました」

「……急ハンドルは車に悪いと思います」

若干座席からずり落ちた私はそれしか言えなかった。
彼女は意外とお茶目らしい。可愛らしいと思う。運転技術は少し可愛くないけれども。


■■■


日本での生活に不安はなくなったけれども、私がここでやれることは少ない。
精々学校から出された課題を熟すぐらいである。
課題は時間を掛ければどうにかこうにか終わるものなので、時間を掛けつつも、暇が十分に出来る程度にはやることが出来た。

「暇人だなあ」と恨めしそうにカズ君に言われた。
直らない私の学校にそういうことは言ってほしい。
とはいえ、順調に工事は進んでいるようで、そう遠くないうちにイギリスには戻ることが出来そうだった。

ジェシカは少し前にA国に戻っていて、みんなは学校が始まっている。
ヒロなんて課題の多さに四苦八苦していた。
彼の通う学校は進学校だそうで、ブレインジャックから始まった事件から随分と授業が進んでいると言っていた。
学ランの袖を余らせながら、ヒロが疲れたように言っていたのを思い出す。

ジンとユウヤはまだ日本に留まっている。
ジンに関しては既にA国での留学がひと段落しているから、日本に留まっていても問題ない。
ユウヤはそもそも学校に通っていないから、半分今の私のような生活をしていた。
ただ彼には彼でやりたいことがあって、ジンやジェシカを通して方々に手を回しているようである。

「やりたいことがあるんだ」

そう囁くように教えてくれたのは、ユウヤ本人だ。

「僕は外の世界を知らない。学校にもほとんど行ったことはないんだ。
『ディテクター』やミゼルを追って、世界中を飛び回って、不謹慎かもしれないけど、色々な世界があることが分かってワクワクした。
だから、違う世界をもっと見てみたい。
そのために今は準備してるんだ」

その準備が具体的にどういうものなのかは、とびきりの秘密だからと今は教えてくれなかったけれども、それでも良い気がした。
いつか教えてくれれば、それで良いのだ。
ユウヤの瞳が未来への羨望で輝くのを、鮮やかな視界で見ることが出来て、どうしようもなく嬉しい。
ひそひそと会話する私たちを、微笑ましそうに見守るジンをよく憶えている。
彼の眼差しがくすぐったくて、でも上等な蜂蜜を垂らしたようなその甘さを、ずっと、少しでも長く享受してみたかった。

みんなで集まれるというのは滅多にないが、数人で集まってというのは意外と頻度が高く、アスカやアミちゃん、ジンやユウヤとは特に良く会う。
逆にジェシカは頻度が最も低くくて、専らメールかカメラ通信で画面越しに会うに留まっている。
国を跨いでいるのだから仕方がない。
それにジェシカはメディア露出が多くて、彼女の様子を確認するのはそんなに難しいことではない。
元気な彼女の姿を見るのは好きだった。

「そういえば、お母さん、今度タイニーオービットに顔を出すみたいです」

ヒロから思いがけず情報が飛び込んできたのは、彼と対戦ゲームをしていて、カメラワークに気を取られている時だった。
彼とはランやアスカも交えて、時折LBX以外のゲームをするようになった。
センシマンが出ているゲームが主だけれども、気分転換には丁度良い。
LBXで場がどうにもならない時にすることもあれば、これ目的で集まることもある。
そして、大抵はヒロかアスカが勝ちを拐っていくのだ。

「研究のため?」

「いえ、何でもミゼルの件で報告書に追加で記載したいことがあるから、その確認だそうです。
人工知能の研究は、でもそろそろ始めたいって言ってました」

ヒロの言葉にランは「ふーん」と頷いた。
聞いてはみたものの、然して興味はなさそうだった。

「なんでそれを今言うんだよ?」

「あー、いえ、ヨルさんがそういえばお母さんに話したいことがあるって言ってたなあって、思い出して。
タイニーオービットに行くなら、そこでお話する機会が出来るんじゃないかなと思ったんです」

「そうなの? ヨル」

「うん、少し相談したいことがあって」

「いつでもうちに来てくれて良いって言ったんですけど」

「家族水入らずなのに行けないよ」

大空博士が家に帰られたのは、実に一年ぶりのことだと聞いている。
家族といれる時間は大事にした方がいい。

「うちは気にしませんよー。
お母さんなんて、暇で暇で仕方ないって感じですし、最近は料理に少し目覚めたみたいで、レトルトカレーから本格カレーを作ると言ってました」

「それは多分カレー粉から作った方が早い」

ランがツッコミを入れる。ついでにゲームの中でも拳が決まる。
吹き飛ばされたキャラクターの巻き添えにならないように、私とアスカは左右に散開した。
その行動の甲斐なく、私の操作キャラクターはヒロの蹴り技に沈んでいったけれども。

「……ヒロ、大空博士に予定を開けてくれるように言ってもらってもいい?」

ゲーム機から視線を上げると、ぱちりとヒロと目が合う。
彼は人好きのする、屈託のない笑みを浮かべた。
ちょっとへにょっとして不格好なのが、あどけなくて小さな子供みたいだ。

「もちろん。お母さんも喜びます」

「タイニーオービットに行く日に合わせますね」とヒロは言ってくれる。
特に異存はないのでその通りで良いと頷いた。

ヒロから大空博士からの了承を得られたことを知らされたのは、それから二日後のことだった。


待ち合わせ場所はタイニーオービットのカフェスペース。
カウンターで今まで頼んだことのないティーラテを頼んでみる。
ミルクのコクが思ったよりも舌に馴染んだ。美味しい。

「待たせたわね」

背後から声を掛けられて、びくりと肩を震わせてしまう。
急いで立ち上がって、頭を下げた。
大空博士はいつもよりも綺麗な白衣を着て、寝癖はそのまま、トレードマークと言えなくもないであろう厚いレンズの眼鏡をしている。

「大空博士、こんにちは。
今日は予定を空けて頂いて、ありがとうございます」

「ヒロから聞いたでしょ。今の私は暇人なのよ。
コーヒーを頼んでくるから、ちょっと待ってて」

そう言うと、彼女はカウンターへ向かう。
コーヒー片手に戻ってきた彼女は私の向かい側に座る。座ると少し背が丸まる、猫背。
眼鏡から少しだけ覗く瞳が私を観察している。

大空博士と会うのは、父に会うよりも、姉に会う感覚に似ている。
姉もまた人をよく観察してから話す人だった。
観察して、自分と人とのチャンネルをカチカチと合わせてから話すのが癖だったような気がする。
ジンと夜明けを見て以来、記憶は薄衣で包まれるように見えなくなって来ていて、確信はないけれど。

「それで、今日は何の用?」

単刀直入だ。良かった。

「これからのことで相談があって来ました」

「……見当違いね」

「いいえ、大空博士だから相談に来ました」

大空博士が眉間に皺を寄せる。私には向かない、と顔に書いてあった。

「よく考えてここに来ました。だから、見当違いではないです」

念を押すようにもう一度言うと、大空博士は姿勢を正した。私もそれに倣う。

「……将来、やりたいことがあって」

話の切り出しは私からだ。
大空博士はカップに口を付けながら、沈黙で次を促す。

「人工知能の研究がしたいんです」

なるべく平坦な声を用意して言うと、大空博士は顔を顰めた。
コーヒーから口を離して、テーブルの上に置く。
真剣な目をしている。自然ともう一度姿勢を正した。

沈黙が長い。

「……………貴女の、経歴は知ってるわ」

「はい」

「それを踏まえて言うなら、止めた方が良いわ。
大人として、貴女が辛くなってしまうかもしれないことに、自分から足を突っ込んでくるのは容認しかねる」

「……はい」

「どうして、人工知能を研究したいの?」

その声音で瞬間的に思ったのは、彼女が母親だという事実だ。
ヒロに向けられるべき声を、今、私は受け止めている。

「……自分の為に。
私は………あの、そんなに出来が良くないんです」

「学力は時間を掛ければどうにでもなるわ」

「要領が良くないんです。
別に卑下しているわけではなくて、LBXの実力とか頭の回転とかそういったところが、その、なんて言うんでしょう。
多分、天井が近いんです、みんなと違って」

「天井?」

大空博士が首を傾げた。私も言われたらそうなる。
慎重に、言葉を選ぶ。

「限界っていう言葉の方が合ってるかもしれません。なんだろう、なんとなくその言葉は使いたくないんですけど。
私は多分LBXに関しては……きっと近いうちに、これ以上強くなれない、そういう天井に辿り着きます。
私、人よりその天井が低いんです、悔しいけど。
LBXは続けます。楽しいから。工夫すれば、きっと負けないように戦える。
………拓也さんにサポートが上手いと褒められました。嬉しかった。それを伸ばせばいいと言ってもらえて、後押しになりました。
無理に強くなくても良いと言われた気がしました。それが分かって、本当に、良かった。
LBXは大切なことと私を結び付けてくれました。
だから、私はLBXに報いたいんです。強くなる以外の手段で。別の道から、関わっていきたい。
自己満足で良いから、自分の為に」

本当は、私は、強くなりたかったんだと思う。
強くなりたかったけれど、強くなれないことはよく分かっている。

強くなれなくても、結びついていたい。
それは自己満足で、本心だ。
そして自分が出来ることでLBXに報いることが出来れば良い。

「……私が頑張ってきたのは、みんな良い顔はしないんですけど、人工知能についてです。
嘘に聞こえるかもしれませんが、人生を賭けていました。
私は、その技術で悪いことを沢山しました。
LBXもそのために利用しました」

「それは……いえ、続けて」

大空博士は何か言おうとして、コーヒーと一緒に呑み込んでくれた。
その言葉に私は甘えた。

「今度は、良いことに人工知能の技術を使いたい。
今から他のことを学ぶことも出来ます。
でも役立てるなら、この技術と知識が良いって思いました。
父と姉の研究を引き継ぐんじゃなくて、自分のしたいことをしたいんです。
沢山のことを学びたいんです。
だから………」

頭を下げる。声に、言葉に、誠意を込める。
私は大空博士の研究の凄まじさに少なからず絶望した。絶望したからこそ、彼女の凄さが分かる。
彼女の元であの絶望に私は向き合ってみたかった。

「大空博士の元で人工知能について学ばせてください。お願いします」

「…………人工知能の研究はね」

沈黙は私が想像していたよりも、ずっと短かった。
そろりと私は顔を上げる。
彼女は母親ではなく、研究者の顔をして私を見る。

「きっと貴女の思い通りにはいかないわ。
外の人間と私たち研究者の求める結果は違う。それで苛つくこともある。
金銭の問題だってついて回るでしょう。
結果だって、必ずついて来るとは限らない。
……貴女の父親のように、研究の成果に絶望することもあるわ、成功するために目が眩むことも。
それでも、人工知能の研究がしたい?」

彼女の言葉は私に鋭く切り込んでくる。ナイフというよりもメスだ。
腹を割かれてはいないが、内臓を隈なく見分されているような気分に陥る。
不快ではなかった。
それが興味でも嫌悪からでもなく、相手を慮って行われていることだから。

「………それでも、その道を進みたいです」

「間違いを犯してしまうかもしれないのに?」

「その時は過ちを認めます。正しい方法を探します」

「辞めたくなる時もきっとあるわ。
それでも、自分の為に研究者の道を進めるかしら」

大空博士の眼差しはヒロの眼差しによく似ている……いや、親子なのだから、ヒロが彼女に似ているのだろう。
人の心の奥を探る、深い眼差し。
彼女は私の言葉を、解答を、見定めている。

私の目の前に横たわっている境界線。
あちらとこちらを隔てている、目には見えない、でも確かにある。

ここはルビコン川だ。滔々と流れるあの川を、渡ってしまえば後戻りは出来ない。
足を止めれば流れに浚われてしまう。

視線を上げる。大空博士の濃い琥珀の瞳とかちりと見つめあった。
その中に複雑な色をした青色をみつける。

息を吸う。ミルクの底にある紅茶の香りがふわりと口の中に広がった。

「私は苦しくても、辛くても良いから、この道を進みます。
私が、後悔をしたくないから」




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