86.故郷
床に広がる水がくるぶしまで達し、少し錆びついた潮の匂いがつんと鼻を刺激する。
どぼどぼと割れた水槽から水が流れ落ちる。
埃も一緒に流していく水は薄汚れていて、あまり体に良くない気配がした。
水飛沫を吸って、服が僅かに重くなる。
はあ、と息を吐く。
夜明けの気配をした空気を吐き出して、私は顔を上げた。
■■■
遺伝子研究所の内部は誰も立ち入ることが出来なかったからだろう。
入り口を少しばかり開けただけでぶわっと埃が舞った。
「うへえ…」
アスカの嫌そうな声が聞こえる。
入り口から入ってくる光を頼りに目を凝らせば、暗い室内には分厚く埃が積もっていて、本来は白いはずの床が灰色に汚れているのが見えた。
ヨルが隠して来た鈍色の厳めしい鍵で開けた扉の先は、大切に隠し通してきたにしては汚れている。
まるで幽霊屋敷のようだった。
外にいる軍人たちや要塞染みた扉さえなければ、それなりに有名な心霊スポットになったのではないだろうか。
ジャバウォックとヴァンパイアキャットの二体で抉じ開けた扉の隙間から中を見ながら、僕たちの案内役としてロシア政府から派遣された…リリア・エイゼンシュタイン、その人は背後の部下たちに指示を出す。
「電気を通せ」
その指示通り、廊下の下部分に備え付けられた緑色の非常灯がぼうっと光り出す。
「おいおい、電圧もっと上げろよ。
これじゃあ、足元もよく見えないぜ」
「突貫工事なんだから我慢しなさい」
心許ない照明に文句を垂らすコブラをリリアさんが一蹴する。
鶴の一声、蛇に睨まれた蛙。
合っているようで焦点のずれたような慣用句が頭に浮かぶ。
リリアさんの声は威圧的で、腹に響く。
それでいて人を嘲るような雰囲気を出さないように出来るのは、なかなか才能だと思った。
コブラは一瞬怯んだものの、すぐにばつの悪そうな顔をしながらも渋々と言うように頭を掻いた。
夜が明けて、ダックシャトルでロシアに入り、その自然公園の奥にある…遺伝子研究所にやって来た。
当然ではあるが、全員がここに来られた訳ではない。
バン君とヒロはそれぞれオーディーンMk-2とアキレスD9の特訓がある。
オーディーンMk-2はオーディーンの後継機に当たる機体で、山野博士が今までの技術の粋を集めて造り出した機体だ。
オーレギオンがミゼルに奪われた今、あの二体のLBXは僕たちの最大戦力に当たる。
バン君もヒロも優れたLBXプレイヤーだが、あのハイスペックなLBXを訓練なしで操作することは不可能に近い。
そのため二人には特訓に専念してもらい、万が一のための戦力をタイニーオービットに残しつつ、遺伝子研究所に注力することになった。
遺伝子研究所の方には関わって来た本人であるためヨルが行くことになり、彼女を心配するようにしてアミとアスカが名乗りを上げた。
同じような理由で僕も同行を希望し、ユウヤがそれに続いた形になった。
情報分析役としてコブラも同行している。
僕たちのやることは遺伝子研究所に潜入し、内部データを持ち帰ること、それから施設自体を使えなくすることだ。
施設を使えなくすることは当然のことのように思えるが、内部データを持ち帰ることというのがどうも腑に落ちなかったが、こちらはロシア政府からの直々の依頼らしい。
施設が使えなくなれば、データがあってもミゼルは狙わないだろうという若干楽観的な考えではあるが、ここはロシア国内だ。
「NICS」が手を出せる領分ではない。
「敵影は?」
「特になーし」
「ジャバウォックの方も確認出来ません」
偵察に出していた二体を入り口近くに戻しつつ、アスカとヨルが答える。
それにリリアさんはよし、と頷くと、無線機を付けたことを確認してから、自分自身も遺伝子研究所に足を踏み入れた。
僕たちもその後に続く。
足を一歩踏み出す度に埃が舞う。
けほっとヨルとアスカが二人揃って咳き込んだ。
「やっぱり、背が低いと埃が届きやすいのかしら」
「今聞きたくない話だぞ、それ」
「もうちょっとだけ欲しいんだけどねえ」
けほけほといくつか咳をしてから、アスカとヨルがアミに言った。
アミはお詫びとばかりに二人の背中を擦ろうとしたが、アスカはそれをさっと躱してしまい、アミはヨルの背中を擦るだけに留める。
非常灯の灯りに照らされて、濃い埃の群れが見えた。
僕やユウヤはまだ咳き込むほどではないが、これだけで気が滅入る。
構造上の関係で採光用の窓が全く見当たらない室内は敵の侵入を防ぐ分、挟み込まれたら逃げ場がない。
警戒し、張り詰め続けるのは骨が折れる。
適度に気を抜く分にはリリアさんは特に僕たちを咎めなかった。
「ヨル君もアスカ君も成長期なんだから、その内、ちゃんと身長伸びると思うよ」
「今、欲しいんだよ!」
アスカの声が廊下に反響するが、特に敵影らしきものは見えてこない。
「アスカ君、声が大きいよ」
「あー…ごめん」
ユウヤが苦笑混じりにアスカを注意する。
彼女も今回ばかりはそれを受け入れた。バツの悪そうな顔をする。
敵影がないのは有り難いが、攻めて来るとすればオーレギオンかベクターか。
あれだけあっさり開いた扉は今度は厳重にロシア政府の手によって護られているのだから、そう簡単に侵入されては困るが、ミゼルがここを諦めるとも思えない。
LBXが侵入出来そうな経路は塞いでいるが、ベクターに対抗出来るかと言えば、首を横に振るしかないのだ。
「それらしい実験施設も資料もないな…。地上部分は張りぼてか?」
「張りぼてって訳じゃねーだろ。
少なくとも研究自体はしてただろうさ。
まあ、常識的な範囲内の研究は、だけどな」
データの保管場所を探すため、目に付いた扉を片っ端から開けていくが、リリアさんの言うようにそれらしい部屋がない。
割れた試験管や埃の積まれた薬瓶、旧式の計測装置などがある部屋は存在するが、僕たちが聞いていた「人間のクローン」をつくれるような研究室は見当たらない。
リリアさんは手元のタブレットの画面を縮小してみたり拡大してみたりする。
見当違いの部屋をマーカー機能でバツを付けて潰していく。
「入った時に思ったけど、もっと詳しい地図ないのかよ。
見取り図だけじゃ埒が明かないって」
次の部屋を開けたアスカが舌打ちをする。
どうやらそこも外れだったらしい。
低い電圧では非常灯を点けるだけで精一杯らしく、自動扉を作動させるだけの電気はない。
そこそこ分厚い扉をLBXの力でこじ開けて一つ一つ確認するのは、なかなかに手間だ。
僕もアスカの意見には賛成で、出来るならば正確な地図が欲しいと思った。
その次の扉をヨルがジャバウォックの一撃で折り曲げて開いた。
「ここもなし…」
埃を巻き上げながら、ヨルとアミ君が室内に入り、粗方検分したところで部屋を出る。
やはり特に新たな発見はなかったようだ。
ヨルたちが調べた部屋で一階の部屋は全て見たことになる。
「どうするんだ?
もう一時間は探してるぞ?」
「一時間ぐらいで根を上げられても困るが、確かに埒が明かないな。
あるとすれば、やはり地下か」
「二階は見ないで良いんですか?」
ヨルが上を指差しながら言った。
タブレットを操作して、リリアさんは僕たちに設計図のような、見取り図のようなものを見せた。
それに既視感があるような気がしたが、どこで見たのか思い出せない。
「外から見た限りだが、手に入れたクローン用の施設の図だと二階に造るには床の厚みが足りない。
そのまま造れば、自重に耐えられずに床が抜け落ちる。
前にここにいた奴にも話を聞いたが、確実に二階に施設はないと言っていた。
そいつは研究所が完成する前にここを離れているから、詳しい構造までは分からないとも言っていたな」
「……となると、リリアさんの言うように下を探すのが良さそうですね」
「下を探すって言っても、特にそれらしい階段とかはなかったわ。
エレベーターも一階からだったし…」
「真っ当な施設ではないんだから、どこかに仕掛けがあるとか」
「どこにだよ?」
何よりもまずそれが問題なのだ。
仕掛けがあれば良いが、見つからないからこそ虱潰しに研究所内を探すしかない。
「私ならば、まずエレベーターに仕掛けは施さない」
リリアさんがそう口を開く。
「階数を誤魔化してるかもしれないだろ?」
コブラが当然の疑問を口にする。
リリアさんはその疑問に無慈悲にも首を横に振る。
すうっと細められたヨルとよく似た青い瞳で僕たちを見据えた。
「多くの人間がそう考える。
専用のカードキーやセキュリティーシステムを導入すれば機械を細工することは難しくないが、システムに侵入されてしまえばすぐにバレる」
「イノベーター研究所の緊急脱出口と同じような考えね」
「イノベーター研究所の時は脱出口が研究所とは離れた場所にありましたが、自然公園内だと人が立ち入る万が一の場合があります。
遺伝子研究所はどうにか誤魔化せても、中を見られてしまえば、弁明は出来ない」
僕の言葉にリリアさんは頷く。
「その通り。加えて、この施設には庭となる部分はない。
研究所の建物から離れた場所に出入り口を造っているとは考えにくい。
元々秘匿されていたものだ。
見取り図には書かないだろうな」
「それって……要はまた手当たり次第ってことじゃ…」
「そうなるな。
あまり時間もない。二手に分かれよう」
書き込みをした見取り図をコブラのタブレットにコピーさせながら、リリアさんが素早く僕たちを二チームに分ける。
コブラとアスカにヨル、ユウヤ。
リリアさんと僕とアミでチーム分けをする。
「とりあえず見取り図と比べて、違和感があれば無線で報告するように。
CCMとは違う仕組みだから、そうそうなことがなければミゼルからの妨害はない。
あとは……」
言葉で説明するのが面倒になったのか、ガンっと勢いよく壁を蹴った。
突然のことに僕たちは目を丸くする。
音は鈍い音をさせ、反響することなかった。
靴の溝に付いた乾いた泥がパラパラと落ちる。
「このように反響が違う場所を探すように。
空洞がある可能性が高い。
よくドラマとかで見るだろう? 意外と有効な手段の一つだ」
ヨルと同じような色彩をした人物がそう言って、にこりと美しく微笑む姿に酷い違和感を憶える。
その笑みを見たアスカがぼそりと呟いた。
「おっかねえ…」
■■■
一階部分を手分けして調べようという話も出たが、念には念を押して、僕とコブラとヨル君とアスカ君のチームは二階部分をざっと調べてみることにした。
二階は何と言うか、生活スペースという感じで、食堂だとか仮眠スペースだとかが集まっていた。
調べる部屋数が全体から見れば少ないのは正直有り難い。
手当たり次第に、虱潰しは確かに有効だけれど、さすがに疲れる。
「さすがに食堂は広いんだなー」
他の扉よりも少しばかり薄い造りの扉を開けて、埃にまみれた食堂に足を踏み入れる。
古くガタつきの目立つテーブルと椅子が並び、調理室らしきスペースがあるのが見えた。
コブラの手元のタブレットを覗き込みながら、見取り図とは違う箇所がないか探す。
アスカ君とヨル君が壁伝いに歩き、異音がする場所がないか探したけど、特にそれらしい箇所は見つけられなかったらしい。
残念そうに埃を被るテーブルの間を縫ってこちらに向かってきた二人は、しかし僕たちの所に来る前にヨル君が先にはて? と言うように首を傾げた。
次にアスカ君もん? と首を傾げる。
「アスカ、一階の部屋を調べた時、何歩ぐらい歩いた?」
「あー…十一か十二だったような」
「じゃあ、十二で」
ヨル君はくるりと方向転換して、「一、二…」と数えながら食堂を縦断する。
「十二」
十二歩歩いたところで、ヨル君はぴたりと止まった。
壁際に立ちながらも、壁に到達するにはあと…多分六、七歩足りない。
僕もそこであれ? と思った。
タブレットの見取り図を覗き込む。
一階の部屋を思い浮かべて、僕は疑問に思った。
見取り図ではこの食堂と下の実験室や資料室の縦の長さは同じとなっている。
でも、一階の部屋はそんなに大きかったかな?
アスカ君がヨル君の傍に行き、ガンガンと床を足で蹴る。
特に異音はしなかった。
「気のせいじゃないのかあ?」
「気のせいじゃねーって!
壁だとしても厚すぎるだろ、これ。
それにここらへんにはテーブルがないじゃねえか。
食堂とかだともっと奥までテーブル入れるだろ」
床が不憫に思えるほどガンガンという音が響き、そこにカンカンという控えめな音が響く。
ヨル君が控えめに床を叩く音だ。
言われてみれば、確かに奥のスペースにはテーブルや椅子がない。
置く気があればもう少し物を置けるだろうし、自販機を置くという手段もある。
言われてみれば、言われてみなければ…気のせいで済ませても良いけれど、調べてみるぐらいは良いかもしれない。
僕も床をガンガンと叩いていると、背後でガチッという何かを押したような、踏んだような音がした。
僕は首を傾げながら、背後を見ると無線に手を掛けようとしていたコブラの足元が不自然に凹んでいるのが見えた。
続いて、視界の端で床が動くのが見える。
急いでそっちに視線を動かすと、ヨル君が乗っている床が横にスライドしていた。
「わっ」
短い声を上げて、ヨル君がそこから動いていない床の方へと飛び移った。
床のスライド自体は数十秒もかからなかったのではないか。
ほう、と溜め息を吐いたのは誰だっただろう。
僕たちはそこを覗き込む。
開いた床の下、底の見えない長い階段がそこにはあった。