85.夜明け前が一番暗い


「だから、もう、本当に大丈夫だよ」

そしてヨルは眦を下げ、ふにゃりと微笑むと、夜明けの静けさに消えてしまいそうな小さな声で呟いた。

「本当は、そんな色をしてたんだね」

一瞬、何のことを言っているのか分からなかった。

僕が答えに窮していることに気づいたヨルはブランケットから手を離すと、自分の眼を指差す。

「ジンの眼はそんな色だったんだね」

やっと分かったよ、とヨルが囁く。

僕はその行動と言葉でやっとその意味に気づいた。

それは他の何よりも雄弁な答えだった。

もうヨルの見る風景はくすんではいない。
だから、彼女は本当に、もう大丈夫なのだ。

「君は本当に……もう大丈夫なんだな」

自分が思っていたよりも寂しさを孕んだ声が僕の鼓膜を揺さぶった。

喜ばしいと思うと同時に、寂しいと僕は思った。
大丈夫であると言うことは、僕はヨルの傍にいる必要性はなくなってしまったということだ。

それがとても寂しい。

夜明けの空気が肺に沁みた。
湿った空気を閉じ込めるように深く息をする。

ヨルもまた僕の言葉を聞いてから、ゆっくりと深く息を吐いた。

彼女は僕の言葉にゆっくりと目を細めて、仕方がないなと言うように笑う。

「そうだよ。
……諦めて、妥協して、それがほんの少しだけ恥ずかしいけど、でもこれで良かったんだよ。
本当のことは過去の中にちゃんとあるから、それが答えで良いの。
気づくまですごく時間が掛かっちゃった。
馬鹿でごめんね」

僕はヨルの言葉に首を横に振ろうかと思って、止めた。

「ああ、君は馬鹿だな」

僕の肯定に「そうだね」と頷き、ヨルは目を細めて、悪戯っ子のような無邪気な笑みを浮かべる。

「うん、知ってる」

自信ありげにそう言った。
最初からそうしようと決めていたかのように。

それからヨルは自分の結論を端的に僕に話し始めた。

それをなんでもないことのように話すのは半分ぐらいは演技が入っているようにも思えたが、それぐらいは見逃すべきだと僕は思った。
きっとそれもそう遠くないうちに、消えてゆくのだろう。

そんな予感がした。

「……ヨルはこれから何がしたい?」

それは以前にも僕がヨルに訊いたことだった。

もう一度、僕は彼女に問いかけてみる。

夜明けが過ぎゆき、青が段々と広がっていく空を見上げながら、ヨルは「うーん…」と考え込む。
空の色を映した瞳がゆらゆらと揺れる。

「漠然としてるけど、」

彼女はぱっと僕に向き直ると、そう前置きをしてから、穏やかな声で僕の質問に答えようとする。

「何か、幸せな方を目指そうと思って。
両親や姉よりも幸せになるんじゃなくて、私は私なりの幸せを目指そうと思う。
私は、幸せになるの」

亜麻色の髪をさらさらと肩から零し、青い瞳にどこか好奇心に似た耀きを見せながら、ヨルはそう言った。
その言葉はとてもヨルらしい言葉だった。
どこか盲目的で、こうと決めたらそれに忠実に行動しようとする。

でも、今はそれで良いのではないかと僕は思う。

そう思うのは僕がヨルの幸福を望んだからかもしれないが、ヨルが自分からそちらに向かってくれると言うのであれば、僕がそれを否定する理由はない。

そうか、と僕は頷いて、ヨルの言葉を肯定する。

ヨルは頷く僕の顔を見て、柔らかく笑った…と思えば、彼女はブランケットごと自分の腕を抱えて、膝に顔を埋める。

ぽすっと膝上に垂れたブランケットに顔が落ちて、はらりと亜麻色の髪が落ちる音がする。
小さな音も環境音の少ない中ではよく響いた。

ブランケットから顔を少しだけ上げたヨルの見慣れた青い瞳は、水の膜を張ったようにゆらりと揺れる。
彼女ははあ、と息を吐くと、彼女はそのまま微動だにしなくなった。

瞳だけは夜明けの空を見ている。

微かに肩が動いているが、呼吸の音もあまり聞こえない。

「…………」

無言の時間が続く。
それが辛いとは微塵も思わなかったが。

時折吹く風に煽られる亜麻色の髪は太陽の光を受けて、金色に輝いていた。
その隙間から青色の瞳が見える。

僕は徐に腕を上げると、ヨルの髪へと手を伸ばす。
煽れらた髪を押さえつけるようにして、その頭に手を置いた。

亜麻色の髪を指に絡ませるようにして頭を撫でると、ヨルは視線を僕に少しだけ向ける。
視線を少しだけ彷徨わせてから、何かを言いたげに口を開いたが、すぐに閉じた。

何を言いかけたのだろうか。

まだ柔らかい感触の残る髪を一定の間隔で撫でる。
そうしていると、ヨルはうとうとと舟を漕ぎ出した。

眠いのか、と問う前にヨルがぱっと顔を上げる。
髪を撫でていた手がするりと零れ落ちた。

「少しだけ寝る」

短くそう言うと、ヨルはぽすりと僕の肩に頭を預けた。
同意する間もなく肩に軽い感触がしたかと思うと、彼女は一度だけ息を深く吐くと、目を閉じた。

肩の重みが増す。
僕は彼女を起こさないように体勢を少しだけ直した。

ヨルの胸がゆっくりと上下する。

僕はそれを確認してから、空を見上げた。

気づけば、夜は明けていた。
青い色が頭上に広がり、太陽は地平線から顔を出す。

眠ったとしても、あと数十分が精々だろう。

眠りから醒めれば、遺伝子研究所に行かなければならない。
そこに何が待っているのかは判然としないが、それでも今は静かにしていよう。

僕は大きく息を吸って、肺の中の夜明けを吐き出した。




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