84.夜かける星


ゆっくりと上昇していく意識と同時に、喉や肺を湿った空気が満たした。

朝の空気だ、と瞬間的に思った。

僅かに痙攣する瞼を開ける。
見えたのはぼんやりとした暗闇で、部屋を照らす筈の朝陽はまだない。

枕元のCCMを探って、時刻を確認する。
なるべく音を立てないように開いたCCMの画面には「3:40」とあるのが見えた。
深夜と言うには朝に近く、早朝というには早すぎる時間だった。

身体を起こして、何度か瞬きをする。
暗闇に慣れてきた目で周囲を見ると、同室のユウヤとカズはまだ寝息を立てていて、それをまだ醒めきらない頭でぼうっと見つめてしまう。

寝直そうかと思ったが、ふつふつと蘇ってくる不安に眠気が呑み込まれていくのを感じ、目が醒めていく。

今日、僕たちは遺伝子研究所に行かなければならない。

起こるかもしれない出来事を想像し、僕の口から溜め息が零れた。
二度寝は諦めて、のろのろとした動きでベッドから這い出る。
夜明け前の冷めた空気に眉間に皺を寄せながら、朝陽で気温が上がることに期待して、ベストは着ずにCCMとトリトーンを掴んだ。

足音を殺し、部屋の扉が開く音だけはどうにもならないなと意味のない悪態を吐きながら、部屋を出る。

廊下は夜の気配と朝の空気が同居した、不思議な匂いがした。

タイニーオービットの中でも仮眠室や休憩室が並ぶこのフロアは静かなものだ。
防音を重視した造りをしているからか寝息の一つも聴こえない。
大きく取られた窓の外を見ると、濃紺色の夜が広がっている。

どこに行こうかと、窓の外の夜空を見ながら思う。

「……寒いな」

眉を顰めながら呟く。

何か温かいものでも飲もう。
このフロアよりも何階か下のフロアに気に入った味の飲み物がある自販機があることを思い出し、僕はエレベーターに向かって歩いた。

エレベーターはこの下の階で留まっていて、僕がボタンを押すよりも先に矢印が下に向かって動いた。
この上の階は女性専用の仮眠室や休憩室があるフロアだ。

こんな時間に起きている人がいるのか、とボタンを押しながら思う。

とはいえ、山野博士や大空博士は睡眠時間もそこそこに作業を続けている筈だ。
そういう人が乗っているのかもしれない。

ポーンという気の抜けた音がして、エレベーターの扉が開く。

暗闇に慣れた目には少し明るすぎる光がエレベーターの扉の隙間から漏れて、それに目を細めた。
中にいる人物の姿が滲む。

小柄な体格、目元の位置にある青い色、不揃いな亜麻色。

よく見知った人物の特徴に僕は思わず目を瞠った。
滲んだ視界が明るさに慣れ始めるより先に、目を凝らしてエレベーターの中の人物を見る。

エレベーターの中にいたのはヨルだった。

彼女はすっと横にあるパネルに手を伸ばし、開閉ボタンを押す。
橙色に光る開閉ボタン。閉じかけていた扉が再び開く。ガシャンという音が耳に届いた。

光に慣れ始めた目が漸くヨルの輪郭を捉える。

彼女は少しばかりきょとんとした顔をしていながらも、柔らかい眼差しをその瞳に湛えていた。
数時間前、困ったように微笑んでいたヨルを思い出す。
あの時の瞳の色を、僕の心臓を撫でた冷たい感情を、思い出した。

「……乗らないの?」

くすりと笑いながら、ヨルが言う。
僕は一度どうしようかと迷ってから、何度も頷いて、エレベーターに乗る。

僕が乗るのを確認すると、ヨルがボタンから指を離した。

ゆっくりと閉じる扉を何故か視線で追っていると、閉じた室内にヨルの声が響く。

「何階?」

短い言葉は状況を鑑みれば十分に意味の通じるものだったが、何故かそれが突然のことのように感じられてしまって、僕は狼狽えてしまった。
不自然な無言の時間にヨルは特に疑問を口に出すこともなく、優しい目をして待っている。

僕は視線を彷徨わせた。

エレベーターが動いている。ケーブルを伝い、下へと動く鈍い音がする。
僕はパネルに並ぶボタン群に目をやった。

数字が書かれたボタンは一つだけ煌々と輝いている。

それは「1」と書かれたボタンだった。
目的のフロアはそれよりも下にある。
当初の目的を果たすならば、そのフロアを指定すればいい。

そうは思いながらも、僕は時間にして数秒考え込む。

「一階で頼めるか」

僕にしては、やけにおどおどとした声になってしまったと我ながら頭を抱えたくなった。

「じゃあ、私と一緒だね」

そう言って、ヨルは笑った。
青い眼差しと同じ、柔らかな雰囲気をした笑みだった。
笑みと同じように声も柔らかさと帯びている。

その柔らかさとは反対にヨルの笑みは子供のそれではなかった。
時折見せる大人びたそれとも違う。
全てを呑み込んだように強気に笑う時とも違う。

家族を呼ぶ時の甘い笑みとも、もちろん違う。
全て諦めたように、途方に暮れて困り果てた笑みも、そこにはなかった。

雰囲気が、全く違うのだ。

穏やかな声音と眼差しは数時間前に聞いて、見ていたはずだけれど、その時のヨルよりも違った穏やかさを彼女に感じた。

地に足を着けた、とでも言うべきか。
今までの彼女がそうでなかったとは言わないが、どこか演技染みたものを感じる瞬間が多かった。
穏やかさのふりをしていると言うべきなのだろう。

それが、ない。

ないのだ、今のヨルには、全く。

ヨルが一人で行動しようとして、僕がそこに居合わせることはままあった。
その時、ヨルはいつも少し困ったように笑っていたと思う。
水の膜から涙を出すことが出来なくて、いつもどうしようもないという笑みを浮かべていた。

恐らくは思い詰めて、どうしようもない時に他人から離れたいと思って、そういう行動に出るのだろうと僕は考えていた。

それは概ね間違っていなかったと思っているけれど、今のヨルはそうではないような気がした。

ヨルを盗み見る。

彼女は濃紺色のブランケットを手に持って、それを暖を取るように胸に押し付ける。
ブランケットは休憩室に置かれている物で、そこから拝借してきたのだろうとは察しが着いた。

僕の視線に気づいたのか、ヨルはブランケットを少し持ち上げて、にこりと笑う。

「寒いかと思って」

そう言うヨルの出で立ちは、確かに朝の空気に触れるには肌寒いかもしれない。
動きやすさを重視して、あまり厚さのない服に視線をやる。

「ジンも寒かったら使って良いよ」

「いや、大丈夫だ」

あまり良い顔をしないだろうが、肉の付き方が違うのだ。
僕よりもヨルの方が寒さに弱いだろうし、彼女が風邪を引いては堪らない。

これでもロシア育ちなんだけどなあ、と亜麻色の髪を指で弄りながら、ヨルは言った。

寒さに耐性はあるだろうが、それが風邪にならないという理由にはならないだろうと僕が言うと、恨めしげな視線がヨルから向けられた。
それをくすぐったいような気持ちで受け止める。

気の抜けるような音を立てて、エレベーターは一階に着いた。
エレベーターの扉を手で制して、ヨルを先に出して、僕もその後に続く。

一階は建物の構造上窓がない。
空調が効いているのか、僕たちが寝泊まりに使っていたフロアよりも寒さを感じなかった。

この後どうするのだろうかと首を傾げていると、ヨルは軽い足取りで研究室の方に向かって歩いて行く。
ちらりとヨルが彼女の後を付いて行く僕を訝しげに見てくる。

「………?」

見て来るだけでとりあえずは何も言わずに、ヨルは歩を進める。

研究室の前の扉には拓也さんと霧野さんの姿があった。
ヨルは二人の姿を見つけると、近づいていく。

足音に気づいたのか、二人が手元の資料から顔を上げる。

「おはようございます」

少しばかり声を潜めて、ヨルは二人に挨拶をする。
僕もそれに続けて声を出した。

「二人共、どうしたんだ? こんな朝早くに」

拓也さんが時計を確かめながら、そう言った。
ヨルはその言葉に「目が醒めてしまって…」と典型文のようなことを言う。

「だから夜明けが見たいなと思って、外に出ても良いですか?」

ヨルはそう言って、二人の様子を窺う。

僕はヨルの提案になるほど、と思わず頷いてしまう。
だからブランケットを持っていたのか。

「LBXとCCMは持ったのか?」

「もちろん」

ヨルと共に僕も頷く。
当初の自分の目的とは違ったが、別に特に拘りがあった訳ではないので、ヨルの提案にそのまま乗っかる。

ヨルは僕が付いて行くことを拒否しないだろうという確信がどこかにあった。

それは多分ヨルに対する僕の甘えなのだと思う。

それも今は少し分からなくなってしまった。
僕は僕とヨルの距離を適切に計れているだろうか。

「二人で?」

霧野さんの問い掛けにヨルがちらりと僕を見上げる。
数秒黙り込んだ後に、彼女はゆるりと頷いた。

「はい。二人で」

「……なら、大丈夫だな」

ヨルの頷きを見て、拓也さんは僕たちが外に出ることを了承してくれた。
霧野さんから暗証番号を教えてもらい、僕たちが正面玄関に向かおうとしたところで拓也さんが僕を呼び止めた。

「お前の格好は寒そうだからな。
着ていくと良い」

拓也さんは自分の着ていたスーツのジャケットを脱ぐと、それを無造作に僕の肩に掛けてくれた。
洗い立ての洗剤の香りがした。

確かにシャツ一枚では寒い。
「ありがとうございます」とお礼を言って、僕はそのジャケットに袖を通した。

当然のことながら袖が余ったので、跡が付かないように注意しつつ袖を捲る。

「ちょっと不恰好だね」

暗証番号を打ち込みながら、僕を見てヨルが笑う。
ガチャン、と鍵の開く音を確認してから、僕は正面玄関の扉を開く。

冷えて、湿った朝の空気が肌を刺す。
視線の先、高いビルとビルの間の地平線が白く霞み始めているのが見えた。

星が輝いているのが見えるのに、朝陽が顔を出そうとしているのがとても新鮮に感じた。

「やっぱり寒いね」

ヨルはそう言いながら、持ってきたブランケットを広げて、肩から羽織る。
身を縮み込ませて淡い紫色に染まっていく空を見ながら、ビルとビルの間、遮蔽物の少ない場所を選んで正面玄関前の階段に座った。

僕もその横に座らせてもらう。

地平線には白が薄く広がり、橙色の光が滲んでいく。
暗闇と混ざり合い、淡い紫色が広がっていくのをただ黙って見つめる。

肺の中を冷たい空気が満たした。

建物内にいた時よりも気温が下がっているような気がする。

夜明けが近い証拠だ。
この時間が一番冷え込む。

「……あのね、」

広がり始めた夜明けから目を離さずにヨルが口を開いた。
僕はその声に耳を傾ける。

彼女はそれを了承と取り、今度は僕の方を向いて言葉を続ける。

「ジンに謝りたいことがあるの」

その言葉に僕は目を丸くしてしまった。
何か謝られるようなことがあっただろうかと思ってしまう。

ヨルは僕の反応に「そうだよね」と仕方がないというように笑う。

「一年前にここでジンに答えを教えてって、縋りついたでしょう。
何も言ってくれなかった理由がやっと分かったの。
……どうしようもなかったんだね、ジンも」

僕はヨルのその言葉に目を瞠る。

あの時どうしようもなかったのは確かにそうだ。
でも、それをヨルに言ったことはない。

そしてヨルの口からそのことを聞いたこともなかった。

橙色の光が夜空に溶け出す。淡い紫がその色を広げ始めた。

「理不尽だったんだよ」

そうでしょう? と寂しげに青い瞳を揺らす。

「全部、それで片付いてしまっても、おかしくなかったんでしょう?
みんなきっと分かってたんだろうけど、私が見えてなかったから、黙っててくれたんじゃあないかな。
だからね……」

どこか困ったようにヨルは微笑んだ。
亜麻色の髪がさらりと肩から零れ落ちた。

青い瞳が橙色の光を受けて、ゆっくりと色を変える。
澄んだ眼差しは寂しさを湛えていたが、後悔はないと語っているような気がした。

だから、僕は何も口を挟むことが出来ない。

ヨルが納得しているならば、それで良いと、そう言って来たのは他でもない僕だったからだ。
ここで何か言うことなど、到底出来なかった。

彼女がまっすぐに僕を見つめているのならば、尚更。

「ごめんね、ジン。
どうしようもないことを訊いて。誰も答えが出せないことを訊いて。
でも、ジンがそこで全部言わずに、待っていてくれて、傍にいてくれるって言ってくれて……友達になってくれて、本当に、嬉しかったんだよ。
ありがとう、助けてくれて。
全部、全部…ちゃんと分かったよ」

分かっているふりをした演技は、もう彼女のどこにもなかった。
全て受け入れていた。両親や姉のことを、自分の身に起こったことを、その理不尽さを。
寸分の狂いなく。

ありがとう、助けてくれて。

その言葉を僕はイギリスでヨルと別れる時に聞いた言葉とそっくりで、そして纏った意味が全く違うことを知る。
全てを理解した上で言われたその言葉は僕の心にすとんと落ちて、存在を主張する。

嬉しい、と心臓が鳴った。

「私はちゃんと答えを出したから」

ヨルが息を吸う。
深呼吸にしては浅く、それでいて長い呼吸。

ヨルは僕に向かって、笑みを浮かべる。
彼女が言うところの完璧な笑みはきっとこれなのだろう。

それぐらい美しい形をした笑みだった。

深海の色をした瞳は朝陽を浴びて、淡い紫色へと移ろい始める。

夜明けの色だ、と頭の片隅で思った。

その色を見た時、僕は不意にあの日の雨宮ヨルはもういないのだ、と理解してしまった。


「だから、もう、本当に大丈夫だよ」


太陽の光を受けて、ヨルの青色の瞳は夜明け色に輝いた。





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