83.Re:Carnival

「正直、もうへとへとだったので」

その言葉に偽りはなくて、一生懸命作った笑顔は多分疲れ果てて、途方に暮れていたと思う。

鍵がこちらの手の中にあるのなら、話は早い。
ロシア政府からも要請が出ているらしく、明日にはメンバーを絞ってロシアに向かうことがカイオス長官から告げられた。

今日のところは作戦を立てるよりも体を休めるように言われ、私たちは解散になる。

私はなんとなく身構えていたけれど、仲間たちから特にこれと言って何か言われることはなかった。

ランとアスカには背中を小突かれて、ジェシカには呆れた顔をされた。
ユウヤとヒロは「すごかったよ」と賛辞を受けて、カズ君とバン君には仕方がないと言う顔をされる。
そして、アミちゃんからはぐっと鼻を摘ままれて、「何も言ってくれないと寂しいって言ったわよね」と言われた。

「ランたちはヨルの事情を知らないけど、とりあえず全部終わってから全部話してもらうってことで、納得してもらったわ。
今は目の前のことに集中しなさい」

鼻を摘まんだまま、アミちゃんは私にそう言った。
その背後で親指を立てるランとアスカの姿が見えて、それが本当なんだと知る。

お姉さんみたいなことをするなあ、と私は思った。

ジンとも視線が交わる。
彼は私たちよりも少し離れた場所にいた。

ジンはそんな私の様子をじっと見つめた後、目を逸らした。

ジンのその行動に私はまた途方に暮れたように笑うしかなかった。

アミちゃんがぎゅっと私の鼻を摘まむ。
察しが早くて、ますますお姉さんだなあと思った。


■■■


細く長く、深呼吸するように息を吐いた。
ソファにぐでっと横たわると、窓からは月と星が見えた。

深夜、私はタイニーオービット社から与えられた部屋ではなくて、休憩室にいた。

元々眠りが浅いのと昼間の反動で眠れなくなってしまったのだ。

ミゼルと対峙した時の緊張感と得体の知れない興奮が脳裏に蘇る。
指先が震えているのが目に入った。

これじゃあ、しばらくは眠れないなあとぼんやり思う。
ベッドに入るだけ入って、目を瞑っておくべきだっただろうか。

身体を起こして、息を吐く。
ソファの背もたれに身体を預けて、片手で両目を覆った。

そうして、漸く私は肩に入れていた力を抜いた。
指先の震えは案外簡単に抜けていって、そこから熱が冷めていく。

緊張感も興奮も全部抜けていくのを待った。

はあ、と今度は溜め息が零れた。
私の手の中にはもう鈍く光る鍵もクイーンも、何もなくなった。

「………やっとだ」

誰に言うでもなく、自分に対して私は口を開いた。
喉は渇いていて、言葉はやっと空気の中に放り出せた。

今日は雨が降っていないから、自分の声がよく聞こえる。

少し疲れたなあ、と思う。
もちろんミゼルのこともあったけれど、それよりも前からあった緊張の糸がぷっつりと、修復不可能なまでに切れたのが大きい。

まだ全部じゃない、と頭の中の誰かが囁いたけれど、そんなことは今は放っておいて欲しい。

私の手の中にあった秘密は全部なくなってしまった。
もう誰との秘密も私は持っていなかった。

最後の秘密を暴いたのがアンドロイドというのはなんて皮肉だろう。

姉のような微笑みを最期に浮かべたあのAIの彼女を思い出す。
お望み通りの結果になった? と皮肉めいた言葉が浮かぶ。
何にしても詮無きことだ。

もうどうしようもない。

「理不尽だったよ…」

独り言だ。

そして、私が欲しかった答えのほとんどがそこに集約されてしまうような気がしてならなかった。

ミゼルに言ったことだけでなく、たくさんの「どうして」は私の中で答えが出た。
もうきっと…本当のお父さんとお母さんに会ったとしても、答えは変わらないだろう。
心の中の愛憎はかっちりと平等になり、一度ばらばらに壊れた思い出は別の視点と知識を持って再構成される。

月の綺麗な夜だった。
全てを受け入れるなら、こんな夜が良いと密かに思っていた。

私の話を聞いた誰かに「馬鹿だねえ」と笑われれば、完璧な笑みで「そうだね」と返そうと思う。
その後に続く言葉も決めている。

大丈夫、私が一番解ってるよ。

私は馬鹿だったけど、でも同時にどうしようもないほど一生懸命だったのだ。
目の前の人参に手を伸ばしても届かないと知っていたけれど、追わずにはいられなかった。
絶妙に計算された距離にぶら下げられたそれは食べられないって知っていたのにね。

どうしようもなかったんだよ。
仕方がなかったんだよ。

ずっと受け入れられなかったものが漸く心臓から血液に乗って、体中に巡っていくのを感じた。
脳がぐらぐらと揺れた。
腹に溜まった黒く淀んだ泥を吐き出した代わりに、じんわりとしみ込んでいくそれもまた薄汚れた泥の色をしている。

憎しみや愛情を棄てて、そこに降り積もったのは寂しさや悲しさで、そして妥協と諦めだった。

妥協するには全部が遅すぎる夜だった。
諦めるには明るすぎる夜だった。

目の前がちかちかした。
人間の目には良く見えたり、悪く見えたりするフィルターが確かに存在していて、それは私の目にもあった。
くすんで見えた景色は今は微かな月明かりに照らされて、ありのままの色をしている。
月に雲がかかり、薄ぼんやりとした光輪が見えた。虹のような色をしたそれを綺麗だと思う。

ずっと憶えていた姉の声が急速に輪郭を失っていく。
鼓膜を震わせていた声は温もりを失くして、言葉だけがぽっかりと浮いた。
それで良いよ、と自分の声がする。
今度はユイに同意を求めなかった。そんなものはいらないと思った。

薄汚れた泥の色をした感情が体中に行き渡る。

目の前が明滅し、耳鳴りがした。
堂々巡りが終わる、ちっぽけな音が脳髄に響いている。
祝福の鐘にはひどく遠い音だった。
それでもこれが一つの終わりで始まりの合図なんだと私は受け入れる。

タイニーオービットのヘリポートでジンが謝ることしか出来なかった理由が今なら分かる。
ジンもどうしようもなかったのだ。
彼の言葉に途方もない絶望を抱いたけれど、答えが出るまで傍にいると言ってくれたことが嬉しかったのを憶えている。
あの約束がなくても、彼が傍にいてくれればいいなあと漠然と思った。

頭の中に響き渡る音を聞きながら、私は息を吐いて、両目を手で覆う。

振り向いてもらえなかったことは苦しかったよね。
期待して裏切られるのは、辛かったよね。
もういいよ、疲れたでしょう。

苦しかったよ。
辛かったよ。
幸福なんて嘘だったね。どこにもなかったよ。

自分の声で今までずっと避けてきた問い掛けに肯定する。

認めてしまうことが怖かった。

認めてしまったら、そこで私は家族と断絶してしまうと、ずっと思っていた。
誰に否定されても、ずっとそう思っていた。

きっと後悔する。解り切っていた。だって好きだから。

諦めなければ、その先に何か別の答えがあると根拠もなく信じていた。
妥協してはいけないと、意味もなく思っていた。

でも私は諦めと妥協を受け入れた。
もう良いと結論を出した。
もうどこまで答えを探しても、これ以上の答えは求められないと分かったからだ。

詭弁だった。
努力し続けられるならば、死ぬまで答えを求めることは出来た筈だった。
それでも、私は諦めて、妥協することを選んだ。

諦観がじわりと内臓を満たしていく。

本物でないと意味がない。
けれども、もう本物の両親や姉に何かを訊きたいとは思わなかった。
記憶の中の態度や言葉で十分だと思った。

そこに本当のことを見つけたから、もう良いのだ。
だから……もう、良いのだ。

愛憎がそこにあったのは確かで、でも、もう灰色の雲の下で叫んだ時のように烈しい想いは抱かないのだろう。

身体中に細い針のように刺さっていた愛憎が抜けていく。
泥で塞いだ傷口は熱も持っていなければ、血の一滴も流れない。

何かを期待するように目元を拭う。

涙は出なかった。



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