80.雨宮ヨルT

ぐらりと、暗い記憶に脳が揺れた。
ミゼルの言葉に記憶の奥底に追いやっていた光景が蘇る。

真冬のように凍った部屋。
パソコンの青白いライトがゆらゆらと揺れる。
その中心に吊るされた、ヨルの父親の姿。

記憶が波のように押し寄せ、脳を揺さぶった。

気持ち悪い。

込み上げてくる吐き気に思わず口元を押さえた。

画面の向こう側のヨルを見上げるような形で見つめる。
いくつかノイズの走る画面にはCCMを持ったまま、手負いの獣のような鋭い眼差しでCCMの向こう側にいるであろうミゼルを睨んでいた。

その様子に少しだけ安堵する。

ヨルはまだ…動揺の色を見せていない。

《君の父親は既に亡くなっている。
彼がもうこの世にいないのならば、その責任は彼の子供である君が取るべきだろう》

当然のことのようにミゼルはそう言った。
彼の無機質な声にヨルが僅かに目を伏せたのが僕には見えた。

深海の色を湛えた瞳の奥がゆらゆらと揺れたような気がした。

唇が微かに動き、胸が小さく上下する。
深呼吸、彼女は肺に酸素を静かに送り込んでいた。

儀式のような、慎重な深呼吸は一度だけ。
次の瞬間には、ヨルはゆっくりと視線を上げていた。

手負いの獣の目がより鋭さを増す。
びくりとジェシカが僅かにたじろいだのが視界に入る。

《私に……》

ヨルがゆっくりと口を開いた。
平坦な声はいつも通りのようでいて、動揺を隠すためにわざとそうしているようにも思えた。

蘇る記憶とミゼルの有無を言わせない言葉の圧迫感に自分の感覚が少しずつ狂っていくような気がする。
普段は考えないことが頭を過ぎる。

ヨルを信じていないわけではない。

今の彼女は一年前の彼女じゃない。
そんなことは解り切っていたけれども、拭い切れない不安がある。

「遺伝子研究所」「ヨルの父親」「クローン技術」。

言葉が、心の底に沈んでは這いずり出て来る。
嫌な想像が頭を巡る。

ヨルの目の前にこれから差し出されるかもしれない言葉が、僕の視界を歪ませた。

でも、ミゼルが遺伝子研究所の目的とヨルの父親の名前を出した時点で、全ては決まっていたことなのだとも思う。

ミゼルはふっと端正な笑みを浮かべると、その右手をヨルに向かって差し出した。
そして、僕が望んでいない、想像していた通りの言葉がその口から紡がれる。

《取引しようじゃないか、雨宮ヨル》


■■■


ミゼルの言葉にヨル君はジリっと片足を半歩下げた。
無意識なのか、少しばかり体が傾くけれど、手に握ったCCMを見つめたまま、視線はそこから動かさない。

視線の鋭さは普段の彼女では想像出来ないほど鋭くて、その眼が氷で出来ていると言われても今なら信じてしまえそうだった。
それぐらい青い瞳は凍っていた。

日本の「シーカー」本部ではホログラムのミゼルが異様な姿で映し出されているけれど、僕たちのいる「オメガダイン」ではその姿はCCMで見るしかない。
ベクターがいないことは逐一確認しているけれど、その姿は見つけれられない。
でも、ミゼルは淀みない動作でヨル君に対して言葉を続ける。

全部分かっているんじゃないのかな?

ミゼルはそう訳知り顔で話し出す。
ヨル君の様子を見守りながらも握られたカズ君の拳が震えているのが見えた。

《君だって、可能性を考えなかったわけじゃないだろう。
クローン技術は一つの個体から遺伝的に同一の存在をつくり出す技術だ。
その意味が分からないほど、君は子供かい》

嘲るような笑みを浮かべて、ミゼルが言う。
違うだろう、と言葉が重なる。

僕には…多分、この場ではヨル君とカズ君以外はその言葉の意味が良く分からない。

ただヨル君や、それに今は「シーカー」にいるジン君たちはその言葉の意味が分かっているんだと直感する。

ヨル君の眉が微かに動いたからだ。
些細な動作だけれども、動揺しているのが分かる。

《最初に僕が協力を頼んだ時は、話を聞いてももらえなかったけどね。
父親の責任を君が果たしてくれると言うのなら、》

ミゼルがヨル君の様子など気にせず、言葉を続けていく。

その余裕の笑みと頭から僕たちを押さえつけようとする威圧感にドッと身体中の血液が一気に流れるような錯覚に襲われ、不安が増していく。

「………」

どこか饒舌なミゼルに対して、ヨル君の瞳はどんどんと冴えていく。
言葉を受ける度にまるでそぎ落とされるように、余分な物がなくなっていく。

最後に何が残るのか。

少しばかり僕が恐ろしく思っていると、ヨル君がCCMを握っていない方の手、左手の拳を開いたり、閉じたりしているのが見えた。
強い力で握られていたらしい拳は白くなっていて、まるで病人みたいだった。

その動作に、際限なく白くなっていく指先を視界に入れて、僕は次に続く言葉がヨル君にとって望ましくない言葉だと言うことを知る。

友達が苦しむなら、それを止めなくちゃ。

そうは思うけれど、一方的な通信を止める手段を僕たちは持っていない。


《僕が君の家族を蘇らせてあげるよ》


言葉は針のように鋭く細く、ヨル君の体を貫いた。


■■■


ミゼルの言葉は僕の中では予想された範疇の、そして最悪の言葉だった。

悪い夢を見ているようだった。

《同じ個体をつくり出せるのが、クローン技術の利点だ。
それを利用すれば、人間をつくることは容易い。
それと同じで死者を蘇らせることも可能だよ》

本当は遺体が残っていれば、もう少し効率的なやり方があるんだけどね。

そう何でもないことのように彼は言う。
少しばかりの笑みを零して紡がれる言葉は異様であるのに、それを感じさせない程すんなりと僕の耳に馴染む。

ミゼルからの威圧と数々のテロ行為。
辛うじて退けているとはいえ、それらが積もり積もって僕たちに今のしかかっている。

ミゼルが以前、個人的にヨルに接触したこと。
そもそもミゼルがヨルの家庭事情について、何故それほど詳しいのか。

疑問は山ほどあるが、今言及するべきはそこではない。

ヨルの目の前に吊りさげられた一つの提案に彼女はどう答えるのか。

《………質問が二つある》

CCMの画面、その向こう側にいるであろうミゼルにヨルが話し掛ける。

平坦な、冷たい声だった。
一切の隙のない声音は向けられる分には恐怖を伴いかねないものだが、そうでなければ異常なまでの安堵感を伴っていた。

それを向けられていたのは、一年前は僕だった。

一年前、ヨルの大切な記憶を全て粉々に砕いたのは紛れもない僕だ。
だから、傍にいると決めた。
答えを出すまで傍にいることは出来るからと、その責任を果たすことを自分で決めた。

《いいよ。
疑問があるなら解消するべきだ。
疑問を提示し、解を求めるのは僕『たち』の得意とするところだよ》

《そう、どうもありがとう》

ミゼルの返答に対して、ヨルの言葉は素っ気ない。

《一つ目の質問だけど、ミゼル、君は私にお父さんのどんな責任を果たせって言うの》

《それについては簡単さ。
君が父親から受け取ったであろう『鍵』を僕に渡して欲しい》

少しばかりのノイズを走らせて、画面にミゼルの言う鍵の画像が出る。
それは設計図段階のもので、3Dデータのような灰色の鍵だった。

厳めしい形をした鍵は四つの面に別の形の歯を持っていて、複雑な構造していることが分かる。
しかし、設計図があるのなら……

「設計図があれば、自分で作ればいいじゃん!
ヨルに協力しろっていう必要ないでしょ!」

ランが噛みつくかのように叫んだ。
その発言はどうかとは思うが、言葉はその通りである。

設計図があるのなら、自分で作ればいい。
わざわざヨルに協力するように言う必要性はないのだ。
彼の力があれば、新たに鍵を作ることは何でもないことのはずだ。

《それが出来れば、こんな非効率的なことはしないね。
問題は材質さ。
僕はこれがどんな材質で出来ているかを知らない》

設計図を手にしているにも関わらず、ミゼルはそんなことを言う。

《セキュリティの中で使われていなかった機能と言うのはね、鍵の材質の登録だよ。
雨宮ヨルの父親は本当に面倒なことをしてくれたよ。
彼がセキュリティを解かずに死んでしまったせいで、遺伝子研究所の扉を安全に開ける方法は彼が用意した鍵をどうにかして手に入れる以外になくなってしまった》

どんな色をしているのかも知らないと言うように、ミゼルが肩を竦めた。
その様子をヨルは深く青い、怜悧な瞳で見ている。

一つ目の質問の答えは貰ったと判断したのか、無言だったヨルがゆっくりと口を開く。

《……もう一つ質問。
お父さんは……遺伝子研究所のセキュリティを変えて、遺伝子研究所を動かしたの?》

そう質問した彼女の瞳に怒りの感情はない。
ただ静かにミゼルの答えを待っている。

《君の父親はそこまで出来る程の人物だったかい?》

ミゼルはヨルの質問に質問で返す。

その問い掛けにヨルは、

《……そう。分かった。それが答えだね》

全て把握したと言うようにか細く息を吐いて、ヨルは目を閉じた。
その表情は場違いではあるが、ミゼルの言葉に安堵したというようだった。

ミゼルはそんなことが出来る人物ではなかっただろうと、ヨルに同意を求めたのだ。

つまりはその程度であるとヨルの父親を断じたのだが、ヨルはそれを否定しない。

自分の中で答えが出ていたことに他者から肯定を貰う、ということはままあることだ。

ヨルはそれをミゼルに求めた。
今この世界中で、最もこの世界のことを理解しているであろう人物に。

ヨルが閉じていた目をゆっくりと開き、顔を上げた。

覚悟を決めた、強い瞳を彼女はミゼルに向けた。




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