02.あの冬を殺して
げほっと、少しだけ吐いた。
雪の上に水のような吐瀉物が広がる。
それを適当に上に雪を乗せて隠した。
吐き気で引きつる喉を押さえ、目の前の夕焼け色をした焚き火を見やる。
震える指でその火の中に、黄ばんだメモを落としていく。
自分の名前を真っ黒に塗り潰したメモ。
自分で破いて、それでもセロテープで継ぎ接ぎしたそれを手放して、赤々と燃える焚き木の中に落とした。
たくさんのメモには黒々とした感情がそのまま書かれている。
「お父さん」と言う言葉をどれだけ書いたんだろう。
もう忘れてしまったけれど、どれも心から欲しいと願って書いたのは事実で……。
あの時の暗い感情は忘れられそうになかった。
メモが燃える、微かな音を立てるのが耳に残る。
身体の内側にあるどろっとした泥が気持ち悪かった。
でもメモが他の手紙や写真、研究ノート、本やメモと一緒に真っ白な灰と真っ黒な燃え滓になった時、深く安堵しもした。
自然と細い溜め息が零れる。
最後に私の手元には、遺伝子工学の本に挟まれていた何かの設計図だけが残される。
これはあってはいけない物だ。
ぐしゃりと握りつぶしたかったけれど、それは我慢する。
ロシア語で書かれたその設計図の意味が今の私には分かる。
分かるけれど、分かりたくなかった。
「…………」
じっとしばらく見つめてから、それも火の中に入れた。
紙は呆気なく燃えて、真っ黒な燃え滓になる。
ああ、こんなものなのか。
酷く呆気なく思いながら、しばらく焚き火が燃えるのを見守った。
その間、どうしようもない想いと諦めと思い出の中の喜びが私の中でぐるりと混ざり合う。
ぶらりと天井から吊る下がる姿。
大好きな人をずっと想っている眼差し。
憐れむような焦げ茶色の瞳。
「げほっ……」
背中を丸めて、嘔吐した。
お腹の中にはもう何も残っていないのか、さっきと同じ水のような吐瀉物が雪に広がる。
それを見て、私は呟いた。
「………汚い」
■■■
ロシアの冬は美しいと思う。
雪を纏って白く凍る木々。
痛いほどに冷たく澄んでいる冬の空気。
静かに降り積もる雪の音。
数年ぶりに訪れた冬のロシアの光景を目の前にして、私は素直にそう思った。
リリアさんの申し出を受けてロシアに来たのはこれで二回目で、これがロシアで過ごす二度目の冬になる。
一度目はお祖母ちゃんと過ごして、二回目が今。
リリアさんの家で過ごす二回目のロシアの冬は、肉も骨も軋むほどに寒かった。
視界いっぱいに広がる白く染まる森はリリアさんの家の所有地で、ここで狩猟や射撃の訓練をすると教えてくれた。
リリアさんのお父さんの家は軍人を多く輩出しているというから、もしかしたら、そのための訓練用に広い土地が必要だったのかもしれない。
そう思いながら、白い森に背を向けて、家に戻るために自分の足跡を辿る。
大した距離じゃないのに、寒さで体が強張っているせいか、上手く進めない。
私の呼吸の音と雪を踏む音、それから風で木々の枝が擦れる微かな音が真っ白な世界に静かに響く。
少し立ち止まって、灰色の空を見上げながら、白い吐息を零す。
「…………寒い」
当たり前のことを呟いてから、また歩き出す。
白い吐息を零しながら歩くと、そう時間は掛からずに家が見えて来て、その裏口から少し出た場所にリリアさんが立っていた。
そして、その左右にはリリアさんの家で飼っている二匹の犬が行儀よく待っていて、私を見つけてると彼らは勢いよく私に駆け寄ってきた。
「ただいま。オリガ、シーニー」
駆け寄ってきた二匹の名前を呼びながら、その頭を撫でる。
サモエドのオリガは大人しく撫でられていたけれど、シベリアン・ハスキーのシーニーは遊びたいのか、撫でようにも撫でさせてくれない。
しばらくシーニーと格闘していると、リリアさんが溜め息を吐きながら、私に近づいてくる。
「オリガもシーニーも連れずにどこに行っていた?
狼や熊が出ないとも限らないだろう」
責めるような、でも心配していることがはっきりと分かるその口調に、委縮しながらも私はリリアさんの青が少しだけ混じるグレイの瞳を見つめる。
「……ごめんなさい」
私は何の言い訳もせずに素直に謝った。
お父さんとお母さんの遺品を燃やしていたことは、言わない。
火の処理はちゃんとしたし、燃え滓や灰は全部雪の下に埋めて来た。
一晩もすればまた雪が降って、足跡も消えてしまうだろう。
そうすれば、いくらリリアさんと言えども、燃えた遺品を見つけることは出来ないはず。
そう思って、それ以上は何も言わないでいる。
リリアさんは数秒、私の瞳をじっと見つめてから、また溜め息を吐いた。
「………まあいい。
家の中に入るぞ。ヨル。
シーニー、オリガ。いつまでもじゃれついているな」
リリアさんがぴしゃりとそう言うと、オリガとシーニーは大人しく私から離れて、リリアさんの横に付く。
そのまま家の方へと彼女は歩いて行く。
私もその後を追う。
一人と二匹の後を追いながら足を止めて灰色の空を見上げると、そこからちらちらと雪が降ってきているのが見えた。
また雪かと思いながら、肺に冷たい空気を取り込んで、吐き出す。
空に向かって白い息を吐いてから、私はまたリリアさんの後を追う。
私はその背中に向かって、彼女の名前を呼んだ。
「あの、リリアさん!」
私の呼び掛けに、リリアさんは億劫そうに振り向いてくれた。
寒さでかじかむ足をどうにか動かして追いつき、彼女を見上げる。
そして私はごくりと唾を飲み込んでから、覚悟を決めて言った。
「ハサミを貸してもらえませんか?」
「ハサミ?」
私の言葉にリリアさんは訝しげな表情をする。
私は頷いて、更に言った。
「髪を切りたいんです。
もう随分長くなっちゃったから」
本当ですよ?
そう付け足すと、リリアさんは裏口のドアノブに手を掛けながら、「へえ…」となんとも気のない声を漏らす。
更に私の髪を一瞥して、溜め息も吐く。
白い息が私の視界を少しだけ覆った。
「別にいいが、その不揃いなのは直しなさい。
みっともないから」
「…………」
……ああ、それは無理だなあ。
無言の重さを取り払うように私は満面の笑みで「はい」と返して、リリアさんの後を不恰好な歩みで追いかけた。
長い亜麻色の髪が少しだけ翻る。
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