16.雨音にジャズを


ヨルに会うことが、怖かった。

暗い感情の滲む瞳で見つめられることが、寂しげな笑顔で微笑まれることが。

それでいて、会うことを望んでいた自分がいるのは何故か。
涼やかな優しい声で名前を呼ばれることを、澄んだ青い瞳で見つめられることを、僕は待っていた。

ヨルを助けようと決めた、あの時のような感情。
酷く居心地の良い、友達になりたいと強く思い、名前をやっと知ることが出来た時の、あの優しい空気をもう一度求めるように、自分の中で感情が絡み合う。

自分でもよく分からない感情を抱えながら、僕はヨルと向かい合っていた。

あれほど遠いと感じたはずななのに、手を伸ばせば届く距離にヨルがいることが不思議でならない自分がいる。

ヨルはくるくると白い指が亜麻色の髪を弄ぶ。
視線はリニアの窓の外に向けられ、夜の暗闇と街の明かりを見つめていた。
その姿を見ているのは僕だけだ。

バン君とユウヤは昨日から色々あったためか、シートに身を預けて眠っている。
それは向かい側に座る拓也さんとリリアさんも同じであり、起きているのは僕とヨルの二人しかいない。

視線をヨルへと向ける。

目の前にいるヨルは僕の知っている雨宮ヨルだった。

違うと言えば、腰に届くほど長かった亜麻色の髪が短くなっていることぐらいだろう。

「えっと……ね、伸ばす理由がなくなったっていうのが大きいかな。
今は髪も普通に切れるし、伸ばしておけば手間があんまりかからないってだけだったから」

何でもないように彼女は言っていた。

理由は尤もだと思う。
しかし、短くなってもヨルの髪はまだ不揃いなままだ。
不意に見えるサイドの髪が嫌に揃えられているのも、そのまま。

だから彼女の言ったことは嘘でもないが、本当でもないのだろうと思いながら、僕はヨルから視線を外す。
そして、細く長く溜め息を吐いた。

その音はしんと静まり返っていたリニアの車内ではよく響く。

「………溜め息を吐くと、幸せが逃げるよ?」

僕の溜め息に対して悪戯をするようにヨルが言った。

懐かしい響きの言葉。
懐かしさと砂を噛むような違和感を同時に思い出させるその言葉に、僕は少しだけ顔を歪めてしまった。

冗談めいた言葉だったのだろうに、彼女はそれに気づいて、苦笑する。

「ごめん。ジン」

苦笑しながら、ヨルは僕に謝った。
窓から視線を外し、僕をまっすぐに見つめながら。

僕は彼女の眼を思ったよりも簡単に見つめ返すことが出来た。

見つめることに対する恐怖は不思議とない。
空港で感じた虚しさも、彼女の言葉に感じた切なさも。

青い瞳の中に複雑に絡む暗い感情は、今は見えない。

そのことに密かに安堵した。

「ロシアで、何をしていたんだ?」

「バン君たちにも話したけど、ロシア語の勉強をしたり、テストプレイをしたり…かな。
その間、手紙を書かなかったから、詳しいことをジンは知らないんだよね。
ジンの方は、どうだった?」

自分でも間抜けな質問だなと思う。
しかし、それだけのことに少しだけ喉が震えた。

ヨルは僕の当たり障りのない会話に小さく首を傾げながら、楽しそうに話す。
さらりと肩に掛かっていた亜麻色の髪が零れ落ちた。

僕はA国での出来事を話す。

特に珍しいことはないと思ったが、ヨルは僕の話を興味深そうに聞いていた。

「なるほど、色々あったんだね。
『NICS』からのことはリリアさんから話を聞いて、知ってたけど……」

僕の話の後に、ヨルは何度も頷きながら呟いた。

そして耳によく馴染む涼やかな声で、彼女は今度は自分のことを話し出す。
ロシアのことではなく、イギリスでの事件の後、何をしていたのかを。

「それほど、変わったことはなかったよ。
何かあったとすれば、本当のことを話したら、リゼと二、三日口を聞かなかったぐらいかな。
でも、すぐにいつも通りになったよ。
……納得してくれたかどうかは、分からないけど」

そう言って、微かにヨルは顔を歪めるが、それを瞬時に押し込め、優しい笑みを浮かべた。

「他の人には……なかなか会えなくて、話せてないけど、いつか話そうと思う。
本当のことが全部話せる訳じゃないけど、迷惑を掛けたから……目的と方法くらいなら話せるから」

「……そうか」

僕にはそれしか言えなかった。
それ以上何も言えるはずがない。
僕はこのことに対する明確な答えを持ってはいないのだから。

ヨルは僕の短い相槌に小さく頷くことで応える。

その顔には笑顔が張り付いている。
優しい笑顔が、当たり前のようにべったりと。

そのことにすっと嫌な汗が背筋を伝ったような気がした。

「ヨル……君はどうして『ディテクター』と戦おうと思ったんだ?」

僕は背筋の感覚を振り払うように、そう質問した。
そして、訊きたかったことでもある。

ヨルは何を思って、ここにいるのだろうか。

「………どうしてって、」

ヨルは優しい笑みを浮かべたまま、首をことりと傾ける。
しかし、彼女は言葉を見つけられないように、一瞬だけ押し黙った。

微かに息を吸い、柔らかな声で言葉を続ける。

「助けてくれたから。
バン君たちにはお礼を言っても、言い足りないくらい迷惑を掛けたし、嘘も……たくさん吐いたから。
今度は私がバン君たちを助けたい。
そう思ったから。
ジャバウォックもほぼ完成してたし、戦わない理由が私にはない。
私にも出来ることがあるかもしれないって思えて、嬉しかったんだ。
それにね、リリアさんが、私を褒めてくれたの。
ぼそっとだけど、付いて来るって言ってくれて、ありがとうって言ってくれたんだ。
そういうことが……これからも、あるかもしれない。
バン君たちみたいに純粋な動機じゃないけど、それが今の私の精一杯だから……だから、私は『ディテクター』と戦うんだよ。
ジン」

青く暗い眼を緩ませ、ヨルは曖昧に笑う。

褒められたからと呟く、夢見るような甘い声。
それだけでいいのだと言うように。
甘い声の裏に、ほの暗い響きを潜ませて。

いつもの声とは違うその響きに嫌悪感が走る。
僕はその声が、彼女自身のものだとしても、その声で名前を呼んでほしいとは思えなかった。

そして、ヨルはぐっと小さく拳を握る。
もう覚悟は持っているとばかりの動作だった。

僕は彼女の言葉に目を細める。

彼女の言葉を飲み込み、よく考える。
イノベーター事件でのことも、イギリスでのことも思い出しながら。

その上で、彼女の言っていることは嘘ではないと思った。

だから、

「分かった。
……君が自分で決めたなら、それでいい」

僕はそう彼女を肯定した。

ヨルの青い眼には、僕の紅い瞳が映っている。
信頼していると、戒めのように僕は彼女を見つめていた。

ほう、と溜め息を零したてから、ヨルは微かに切なそうに微笑んで、頷いた。

「うん。………ありがとう」

その言葉を最後に、僕たちの会話は途切れる。

視線は交わらず、僕はシートに身を預けてしまう。
ヨルは視線を窓の外へと向け直した。

ぼんやりと、息をしていないのではないかというほどに、無機質な雰囲気。
辛うじて胸が呼吸に合わせて、微かに上下する。

沈黙が揺蕩う中、不意にヨルが空を見上げた。

「………降って来た」

ヨルの囁きの通り、リニアの窓の外を見ると、大粒の雨が降り始めていた。
最初は数滴だったのが、瞬く間に窓の全面を叩く。
水的に街の明かりが滲む。
鏡のように窓に映ったヨルの横顔にも、雨粒が零れ落ちた。

暗い色をした青色にも、雨が零れる。

雨は無表情な彼女の横顔に、涙のように、止めどなく、目的地に着くまで零れ落ち続けた。




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