96.After Rain

ヨルの凪いだ声と吐息が耳の奥で淀み続けていた時、僕は心臓から何か形容し難い、純度の高い熱が押し出され、指先の細い血管にまで行き渡るかのような心地がした。
好き、と言われた。他でもないヨルに、そう告げられた。
彼女のそれは恋の告白に違いなかった。
「アルテミス」の後で波の音と共に聞いた、親愛の言葉とはまるで違う響きをしていたのを聞き逃すことが、僕には出来なかった。
それが冗談ではないことは、ヨルの眼を見れば明らかで、彼女は僕にそれが違う何かであると、愚かしくも誤解することすら許してくれなかった。
吸い込まれるように見つめるしかなかった、荒れ狂う嵐を宿した青い瞳は、今は伏せられ見ることは出来ない。
淡い色の光に照らされて、亜麻色の髪が黄金色に輝いている。その隙間から彼女の表情を窺い知ることも、また出来なかった。
身体中の熱を持て余して、手を伸ばすことも戸惑われて、僕は苦し紛れにその後に続く言葉を用意できていないにも関わらず、彼女の名前を呼んだ。

「ヨル」

思っていたよりも、ずっと淡白な声が出た。びくりと、怖がらせたい訳ではないのに、ヨルの肩が小さく震える。
僕がヨルの名前を呼ぶと、飲み物を取ってくるから、と彼女にしては綻びだらけの言い訳をしながら、僕の前から彼女は立ち去ってしまった。

「……………」

一人取り残された僕は、身体の中の熱をどうすることも出来ず、冷たい壁に背中を預けた。
パーティー会場に響くざわめきが、潮騒のように周期的に打ち付けてくるのが今は有り難い。
パーティー開始直後ならばいざ知らず、パーティーも中盤に差し掛かり、参加者の意識は僕たちよりもLBXバトルの方に向いている。
僕がこうして一人でいても、ちらりと視線を送ってくることはあれ、話しかけてくる人はいなかった。
掌の中のグラスはすっかり温くなっている。中の水も同様だろう。

未だ、ヨルの言葉が耳の奥で淀み、隙間から溢れては血液に乗って脳の中を巡り続けている。
穏やかに凪いだ声を思い出す。ヨルの表情も、否応無く突き付けてくる青い眼差しも。

何も答えられなかった。
彼女から向けられる好意に嫌悪感を抱いた訳ではない。それだけは確かだ。それは自分の中で疑いようがなかった。
けれども、あの言葉を受け入れられるかと問われれば、曖昧に濁す以外の選択肢を、今の僕は持ち合わせていない。

僕はあの時どう答えれば良かったのだろうか。

寂しい、という僕自身が吐露した、酷く幼さの残る響きを思い返す。
ヨルと簡単に会うことが出来なくなってしまうことが僕は寂しい。
僕とヨルの間にあったあの約束は、彼女が大丈夫だと、諦念と妥協を幾重にも折り重ねたあの言葉を口にした時に、もう果たされてしまった。そのことを僕はよく分かっている。誰でもないヨル自身がそれを証明してくれたのだから。
けれども、それを僕は淋しいと思った。
喜ばしいことであると同時に、胸に去来する言い様のない感情は随分と身勝手で切実な色をしている。
それは仲間に、友人に向けるものにしては、不相応な仄暗い気配を感じて、僕は静かに瞠目した。押し寄せるざわめきに紛れて、堰を切ったかのように血液が心臓を駆け巡り、一際大きく鳴る。
自分の中の血管という血管に、あの純度の高い熱を流し込まれたような気がした。

「あれ、ジン。どうしたんだ?」

秩序立っていない音の中で、自分の名前を呼ばれ、僕は顔を上げた。そこには不思議そうな顔をしたバン君とユウヤがいた。

「バトルしないのかい、ジン君」

「少し疲れてしまったから休憩していたんだ。ユウヤたちは?」

「父さんがバトルに参加し始めたから、俺たちもバトルしてもらおうと思ってさ。ほら、あそこ」

バン君が指差した方を見ると、山野博士を囲んで大きな円が出来ているのが見えた。彼の手にはCCMが握られていて、バン君の言うように、本当にあの山野博士がLBXバトルをしているらしい。
既に山野博士とのバトルは順番待ちが発生しているような状態で、例えバン君であっても容易にはバトルすることは出来なそうだった。

「出遅れてしまったようだな」

「あれじゃあ、今すぐにバトルはちょっと無理かな」

ユウヤが困ったように笑う。バン君もそれに頷き、仕方がないよ、と呟いた。彼の表情は言葉の割に明るく、負の感情を感じさせない。
山野博士とのLBXバトルはLBXプレイヤーとしてはかなり魅力的だが、今はどうにも少しばかり億劫になっていた。

「俺たちもちょっと休憩してから行こうか」

「そうだね。あ、僕、何か飲み物取ってくるよ」

ユウヤが飲み物を取りに行くのを見送ると、バン君は僕の隣に収まり、疲労を滲ませた溜め息を吐いた。見ていた限り、彼は前回「アルテミス」優勝者というのもあってか、僕よりもずっと多くの人にバトルを挑まれていたから、さすがに彼も集中力を切らしたのだろう。
僕は自分の裡に見つけてしまった感情から目を逸らして、バン君に視線を向けた。

「ヨルと一緒じゃないんだな、ジン」

バン君は特に何か考えがあるふうもなく、僕にそう投げ掛けてきた。

「僕とヨルはいつも一緒というわけじゃないさ、バン君」

「それはそうなんだけど、ユウヤと話してたんだよ。さっきまで一緒にいたみたいだし、二人も誘って父さんとバトルしてもらおうって」

ああ、と僕は自嘲気味に納得する。おそらくは僕とヨルが話している姿を見ていたのだろう。
視界の端では、山野博士とのバトルが一層熱を持ち始めていた。CCMを嬉しそうに持つ山野博士が僕たちに向かって、微笑んだような気がした。気のせいだろうか。
更に視界の反対から、ユウヤが両手に並々とジュースが注がれたグラスを持って駆け寄ってくる。

「お待たせ」

ユウヤが差し出したグラスを、ありがとう、と言ってバン君は受け取る。黄金色の気泡が上品に弾けるのが見えた。
自分自身もグラスを手にしながら、ユウヤはバン君とは反対側に、僕を挟むようにして隣に収まると壁に背中を預ける。

「すごい熱狂ぶりだよね」

「パーティーが終わるまでに一回でいいからバトル出来ると良いんだけどなあ」

「……難しいかもしれないね」

「まあ、そうしたら、三人でバトルしようよ!」

殊更明るい声でバン君が言う。それには賛成だったので、僕も鷹揚に頷いた。
しばらく山野博士たちの様子を伺っていると、不意にユウヤが、あ、と声を上げた。

「そういえば、さっきヨル君を見かけたけど、深刻そうな顔をしてたよ。何かあったのかい?」

「……それは、」

ユウヤの不意の言葉に、仄暗い感情の端を捉えられたような気がした。僕は彼の質問に、瞬時に答えることが出来ず、内心で自分に舌打ちする。
あれをどう説明すればいいのだろう。そもそもとして、彼らに話をして、何か折り合いがつくのだろうか。バン君たちに迷惑をかけるだけではないのか。
思考がまとまらず、また意味もなく、手の中のグラスの水面に渦をつくる。次に言う言葉を考えあぐねている僕を見て、二人は心配そうに表情を曇らせた。

ヨルから向けられた好意と自分の中に存在を見つけた感情が、ぐるぐると脳髄の奥で未だ巡り続けている。

ヨルはあの言葉をどんな気持ちで僕に投げ掛けたのだろう。返答を欲していたのだろうか。それならば、今度こそは僕が答えを彼女に提示しなければいけない。あの時、彼女に答えられなかったのだから。
このまま、さっきのようにヨルとすれ違ったままなのは嫌だ。それは自分の中で不思議なほどに確固たるものだった。
これが敵に立ち向かうようなことであったなら、どんなに良かっただろう。戦うことは簡単なことではないが目的は明瞭だ。
こんなところで持ち出して良い例えではないが、行き着く場所が深い霧に遮られたように見えない中、そういうことの方が今は望ましかった。

「……僕はヨルのことをどう思っているのだろう」

僕の口から漸く零れ落ちたのは、呟きとも呻きとも取れるような、そんな思慮の欠片もない言葉だった。
僕の言葉にバン君とユウヤは呆然としたように僕を見た。両隣から送られてきた視線で、僕は自分の言ったことの浅はかさに気づいて、頭を抱えたくなった。
僕はなんてことを口に出してしまったのだろう。
バン君は僕の言葉に目を丸くしながらも、それからグラスに少し口を付けて、まるで砂漠の中から一本の針を探すような慎重さでゆっくりと口を開いた。

「ジンはさ、優しいよね」

唐突にそんなことを言われたものだから、僕は何も言うことが出来なかった。バン君は僕のその反応に、あ、という単語にもならない音を溢しながら、更に悩みながら続ける。
視界の端では、ユウヤが考えるように顎に指を当てながら、やがて得心したようになるほど、と頷いた。僕にはその理由に検討がつかず、じっとバン君か、或いはユウヤが話してくれるのを待つしかなかった。
先に口を開いたのはユウヤだった。

「ジン君が優しいのは、勿論みんな分かってるよ。だけど、そうじゃなくて、僕が思うにジン君はヨル君にほんの少し優しすぎるんだ。
……僕たちに対するより、ほんの少しだけだけど」

ユウヤは淀みなくそう言うと、なんでもないふうにグラスを傾けた。まるで当然のことを言ったとばかりに、彼はけろりとした表情をしている。
指先が熱かった。血管に流されたあの熱がまた息を吹き返したようだった。

「ああ、それだよ! うん、確かに。
ジンはヨルに特に優しいよね。だからさ、ジンはヨルのことが大切なんじゃないか?」

バン君はユウヤの言葉に飛びつくと、元気に声を上げた。その声はあまりにもまっすぐで、受け止める準備を何もしていなかった僕は、そのまっすぐさに目眩がした。
胸中に影を落としていた感情が溜息を吐いたような音を立てる。早鐘を打つ心臓の音にそれはよく似ていた。

僕はヨルに優しいのだ。目の前の彼らに向けるよりも、ほんの少しだけ。
それが、内臓の底に、まるで誂えたかのように据えられてしまう。
彼らの目を通してそう見えているのであれば、疑いようもないのだろう。そう思える程に彼らのことを信頼していたし、僕はそれを実に自然に受け止めてしまっていた。

僕にとって雨宮ヨルは特別なんだ。

腑に落ちてしまった。そうとしか言いようがなかった。
まるでフラッシュバックのように、脳裡に蘇るヨルとの記憶には、あの仄暗い感情の気配があちこちに滲んでいる。認めてしまえば、ひたひたと指先から、その感情に体が晒されていくのが分かった。僕はそれが身体中を巡るのを自覚すると、ゆっくりと肩の力を抜いて、それを受け入れるしかなかった。
友人に向けるにしては影の濃い感情は、さっきよりも色をはっきりとさせている。
我ながら分かりやすいな、と自嘲した。

血管に流し込まれ、心臓が鼓動する度に体の端々に押し出される純度の高い熱の正体に、僕は漸く気づいた。名前はもう知っていた。敢えて、その名を呼ぶ必要はないだろう。

「えっと……ジン、俺、もしかしてすごく的外れなこと言った?」

「……いや、ありがとう。バン君、ユウヤ」

僕は不安そうなバン君に首を横に振り、彼らにお礼を言った。
それなら良かった、とバン君とユウヤは未だに対戦者の列が絶えない山野博士の方に視線を向けながら、またグラスを傾ける。
彼らは僕とヨルに何があったのか、判然としない言葉だけを溢しただけの僕に対して、それ以上のことは聞かないでいてくれた。それがとても有難い。

「ヨル君とは話が出来そうかい?」

「……努力する」

ユウヤの言葉に、今は曖昧にそう答えるしかなかった。
バン君が僕に、おそらくは僕とここにはいないヨルに、気遣わしげに眼差しを向けてくる。彼にもまた僕は完璧とは言い難い笑みを返した。

ヨルと僕の感じる寂しさは違うのだ、と彼女は吐き出すように言った。
今ならば、僕はその言葉に、首を横に振ることが出来る。
同じなのだ。例え完全に一致することはなくとも、その中身はヨルが感じた寂しさと、然して違いはないだろう。
僕はヨルがもう大丈夫だと分かって、本当に嬉しかった。けれども、友人関係とは違う結びつきを持った、彼女の隣にいることが出来る正当な理由を失い、それでも彼女に寄り添って良いのか分からなかった。望めば触れられる距離にいて、それが許される関係を僕は手離したくない。

脳裡を暗い考えが掠める。ヨルに選択肢はあったのだろうか、と。

それは夢物語のような可能性の話であり、最早選ぶことの叶わない過去の話に過ぎない。
全くの無意味だ。そんなことは分かっていたけれども、僕が彼女の、ヨルの幸福に据えられるのは何か間違っているのではないかという気がしてならなかった。

彼女には僕ではない誰かを選ぶ選択肢が本当にあったのだろうか。

酷い自惚れだ。しかし、本当にそう思ったしまった。
ヨルの歩んできた道のりを不幸だと、一方的に断じることは僕には出来ない。けれども、彼女が歩いてきた道のりは、理不尽で決して平坦ではなかったことは確かだろう。
ヨルの助けになりたいと、友達になろうと手を差し伸べたのは、僕の意思で、そうしたいと思ったからそうしたのだ。呆れる程にもう何度となくそう考えて、何度となく正しいと信じ続けてきた。
しかし、彼女の置かれた環境は、彼女の目の前に選択肢を提示することを許したのだろうか。それは彼女の可能性を狭めていることに、他ならないのではないのか。
そもそもヨルの僕への感情は本当に恋慕から来るものなのだろうか。それに切り込んでしまうのは、彼女の気持ちを蔑ろにすることに違いなかったが、それでもその思考を止めることが自分では出来なかった。
裡から止めどなく溢れてくる疑問は、まるで底なし沼のように先が見えず、抜け出し難い。砂漠の砂でも飲み干したかのように、喉はからからに乾いていた。

ヨルとの出会いは全て偶然の産物だ。
そう言ってしまえば、この世界のほとんどの出来事は偶然の上で成り立っているのだろうから、身も蓋もない一言だろう。
彼女との間に、運命と呼べるような、絶対的な何かはきっと存在しない。そこには偶然の積み重ねがあるだけだ。
たまたま、偶然に、僕がヨルに手を差し伸べただけで、それは本来であれば、当たり前に誰にでも与えられるべきものであるということも僕はよく理解していた。
けれども当然のことをその通りに受け入れて許される環境は、彼女の前には用意されていなかった。そんな環境にいて、親愛と恋慕を勘違いしても不思議はないのではないか。

その背中を押すことが出来るように、僕はヨルを離したかった。でも、離したくなかった。
愚かしいほどの矛盾が身の裡で首をもたげている。自分では手離すことが出来ないと分かっているから、知ってしまったから、理由を並べ立てて、ヨルが彼女に相応しい人に出会うことを、仄暗い感情の気配を押さえつけながら祈っている。

けれども、それですら都合の良い詭弁なのだろう。
結局のところ、僕はヨルとの間に築いてきた関係性を壊してまで踏み出したとして、どこに辿り着くとも分からないということが恐ろしいだけなのだ。
彼女には幸せになって欲しいから。

「父さんとバトルするのは難しいかな? あっちで俺たちでバトルしようよ!」

「うん、そうだね。ヒロ君たちも暇そうにしてるし、誘ってみようか」

ユウヤが山野博士の向こう側を指差す。そこにはヒロと郷田たちがいて、僕たちと同じように山野博士のバトルを見守りながら、そわそわと体を揺らしていた。
二人の僕を気遣うような眼差しを感じながら、僕は冷たい壁から背を離す。

「ああ、そうだね」

事務的に僕は頷き、グラスの中の水を勢いよく煽る。
想像通り温くなった水はするりと喉を通り過ぎて、胃の中に落ちていく。
ユウヤの後を付きながら、僕は然り気無く会場を見渡して、ヨルの姿を探した。
彼女の容姿は正直に言えばかなり目立つ。僕は難なくヨルを見つけることが出来た。
彼女はバーカウンターでアミと話をしているようだった。横顔がどこか困惑を滲ませているような気がして、僕は思わず声をかけそうになり、止めた。
喉元まで出掛かっていた、彼女の名前をどうにか呑み込む。
苦笑するしかなかった。

僕は雨宮ヨルが好きなのだ。

■■■

「私ね、他の誰でもないジンを、好きになれて良かったって思ってるの。
人を好きになることは、怖がることじゃないって、知ることが出来たから。
だから、ありがとう。私、ジンを好きになれて良かった」

その言葉は空港の高い天井に反響する雑踏の中でも、はっきりと僕の耳に届いた。
ヨルは最後の一音まで言い終えると、やっとというように息を吐き出す。けれども、その口許には笑みを浮かべていた。

ヨルは僕への思いは偶然の産物であると肯定し、それでも選択肢が彼女にはあったのだと言う。
それは安全な場所に漸く辿り着けたかのように安堵して、けれども同じくらいにこれで良かったのだろうかという後悔が這いずり回っていた僕の脳内にゆっくりと沁みていく。
僕もヨルも、二人の間にある関係性が、感情が、偶然の産物であると理解している。
理解しているから僕は遠ざけたかったし、理解しているから彼女はそれが錯覚ではないとはっきりと口にしたのだ。
そこに良いも悪いもない。お互いに考えた末の行動だからだ。

彼女の眼差しの奥に深い青がゆらゆらと揺れているのが見える。
ああ、彼女も不安なんだと不意に思い至った。
それと同時に、眼差しには覚悟と称しても差し支えない、星にも似た輝きが見える。
複雑に編み込まれた色の瞳は、ヨルの僕への気持ちだけは錯覚だと言わないでほしいと訴えてくる。
その眼差しを前にして、僕はもうヨルにその色を湛えさせた感情を錯覚だと言うことが出来なかった。いや、誰も明確に否定することは出来ないのかもしれない。
指先に酷く純度の高いあの熱が蘇る。

「そろそろ時間みたいだね」

ヨルは僅かに僕の背後に視線をやると、ロビーに設置された時計を見上げた。
彼女に倣って僕も背後を確認すると、時計を指差して冷や汗をかくジェラート中尉と彼を制するジェシカの姿が見えた。二人の様子にヨルは苦笑する。
一歩、彼女は足を後ろに引いた。この場を離れるための動作。亜麻色の髪が僅かに肩から滑り落ちる。

「さっきも言ったけど、本当に返事はいらないから。……じゃあ、またね、ジン」

祈りにも似た響きで包まれた別れの言葉を口にすると、ヨルは爪先を出入口の方へと向ける。しゃんとした背中と翻る亜麻色が視界に映る。
その姿がすぐに雑踏に紛れてしまうことは目に見えていた。
反射的に、手を伸ばす。

「うわっ」

僕に片腕を取られた彼女の口からはなんとも形容し難い声が漏れる。バランスが崩れて浮いた体を咄嗟に支えた。

「すまない、怪我はないか」

「大丈夫。少し驚いただけだから、ありがとう」

本当に驚いたのか、胸を押さえて力なく笑う。ヨルは僕から体を離そうとするが、僕はその腕だけは離そうとは思わなかった。
自分の内側を流れる血液が、煩いほどにどくどくと音を立て始めるのが分かる。
ヨルが不思議なものを見るように目を丸くする。
困ったような視線を僕の背後に送っているが、僕の視界の端ではジェシカが渋るジェラート中尉を説得し終えて引っ張っていく姿が見えた。いつの間にかユウヤも混ざっている。今度は僕が苦笑する番だった。

「えっと、その……」

あれほど雄弁な眼差しを向けていたというのに、今の彼女は少しばかり弱々しい。
その姿に、僕はバン君とユウヤに言われた、ヨルが僕にとって特別なんだという事実をまた突きつけられる。
彼女に僕はほんの少し優しすぎる。
ほんの少しだけ、けれどもそれは明確な差異に他ならない。
ヨル以外にそのほんの少しを与えられるかと問われれば、僕は首を横に降るだろう。彼女以外に与えたくないというのが正しいのかもしれない。

僕はヨルに優しくありたい。
そして、望めるのであれば、彼女に僕を好きでいてほしい。

傲慢であり、自惚れだ。
でも脳髄の奥を這っていた後悔が、血管にまた送り出された熱が、漸くというようにおさまるべき場所におさまってしまった。
だから、それをヨルの隣にいない理由にはもう僕には出来ない。
ヨルの腕を掴んでいた手を、その腕の輪郭をなぞるようにして離していくと、最後に彼女の手を取る。
彼女の指先は微かに震えていた。
絞り出すように息を吐く。

「ヨル、聞いてほしい」

僕のその言葉にヨルの指先に力が籠る。彼女は顔を強ばらせながらも、勿論、とはっきりと頷いた。
不安が彼女の瞳の奥でまだ揺蕩っている。
僕は一度目を閉じてからヨルを見据えた。

「君が好きだ」

喉に張り付くこともなく当然のように出てきた言葉の明朗さに、ヨルへ向ける自分の柔らかな声音に、僕の方が瞠目してしまう。
好きなのだ、と。隠しようもないほどに。
いつの間にか彼女の指先の震えは止まっていた。その代わりとでもいうように、触れあう指先からヨルの熱も伝わってくる。熱い。

ヨルはどこか呆然と僕を見上げながらも、思案するような眼差しをそろりと僕に向ける。何か言おうとして、口を開いては閉じてを繰り返した。
しばらくそうしてから、ヨルは顔を伏せ、そっと目を閉じる。
密やかな呼吸の音。指先の熱を感じながら、僕はじっと彼女が顔を上げてくれるのを待った。
ヨルの僕への思いは知っている。
凪いだ声も、言葉の全ても、立ち込めた沈黙の冷たさも、あの時のことは欠けることなく思い出すことが出来た。
そして、さっきもヨルは僕への気持ちをはっきりと告げてくれた。
知っているけれども、それでも彼女が頷いてくれなければ、これはただ朽ち果てていくだけの想いだ。
伏せられた瞼の奥、覚悟と不安の折り重なった青色を想う。祈るように。

どうか僕のほんの少しをヨルだけに受け取ってほしい。

「……ありがとう、私を好きになってくれて。私もジンのことが好きだよ」

耳朶を打ったのは今にも泣き出しそうで、それでいて長く降っていた雨がやっと上がったかのような喜びの気配の滲んだ声だった。
ヨルが顔を上げる。亜麻色の髪が滑らかに彼女の頬を撫でた。
見えたのは、眦を柔らかく下げた、木漏れ日を思わせるような子供らしくも美しい笑み。
ずっと見ていたいと思える、僕はその笑みがとても好きだ。

ヨルが恐々とまるで現実かどうかを確かめるように、僕の手を握り返してくれる。その微笑ましさに、我知らず笑みが溢れた。
彼女はそんな僕に一瞬不服そうに頬を膨らませたが、すぐに仕方がないというように顔を綻ばせる。その光景に温かいようなくすぐったいような、言い様のない、けれども不快ではない何かで胸の裡が満たされていく。
僕はヨルの下ろされていたもう一方の手も、掬うようにして握った。

愛おしかった。

胸の裡に降る木漏れ日の気配も、じわじわと潮のように広がる指先の熱も。
だから僕はもう一度囁くように、二人の間に言葉を落とした。

「君が好きだ、ヨル」


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