殻の中のお化け
私は、私だけを見れば、それなりに幸福な方だと思う。
小学校三年の私は本当にそう思っていた。
普通の父子家庭で、成績も困る程ではなくて、悪くても怒られる歳じゃないし、欲しい物も程々に貰えて、興味を持てる対象もあるし、お母さんには好きな時に会えて、私のことを理解して信じてくれる妹がいて……まあ、幸福じゃないかなあ。
学校の校庭で遊んでいる友達に手を振って、学校を後にする。
途中で模型店の前を通るのは習慣で、そこの中にいる仲の良い三人組を見てから、いつもの公園に向かう。
小さな公園にはカラフルな色をした遊具があって、その中の一つであるブランコにぽつんと一人、日本人らしくない女の子が遊んでいた。
適当に切り揃えてある亜麻色の髪に、鮮やかな青色の目をした小さな女の子。
「おーい。ヨルちゃーん!」
私がその子の名前を呼ぶと、パッと顔を上げた。
ぴょんとブランコから飛び降りて、私に駆け寄ってくる。
目の前に来ると、その小ささがよくわかる。
クラスの中でも小さい私よりも小さいのだ。
この前本で見た低身長症とか疑ってしまう小ささなんだけど、これから成長するのかなあ。
「お待たせ。今日は何して遊ぼっか?」
私が少しだけ背を屈めて話し掛けると、じいっと私を見つめて、小さな声で言った。
「……なんでもいいよ。お姉ちゃんと遊べれば」
「そこは、友達と遊べなくて、悔しいなあとかが良いなあ」
「友達は…あんまりいないから」
「うーん…」
それはいつものやり取りで、私がここで首を傾げるのもいつものことだった。
ヨルちゃんに友達がいないのは、もちろん知ってる。
要は確認作業であり、毎日…ではないけれど、こうやって会う日はいつも確認する。
早く、彼女に友達が出来ないかな、と。
「じゃあ、ジャングルジムでも登ろうか?」
「うん。登る」
こくんとヨルちゃんが頷く。
でも、彼女はその場を動かないで、私が先を歩くのを待っていた。
私はそれに対して、ちょっと苦笑しながらもヨルちゃんの前を歩く。
彼女はいつも私の後を付いて来る。
カルガモの親子みたいと言うと聞こえはいいけれど、多分、これはそんな生易しいものじゃないと思う。
お母さんに付いていけない反動みたいに、私に付いて来るのだ。
金曜日は背中から危なげな足音を聞きながら、過ごす。
それは楽しみで、嬉しくて、どこからか優越感のような気味の悪い感情が湧いて来る日。
毎週金曜日の放課後は、双子の妹であるヨルちゃんと遊ぶ。
それが私とヨルちゃんとの約束。
待ち合わせ場所はどちらの家からもちょっと遠い公園。
そこで遊具で遊んだり、お話したりするのだ。
「今日は学校行ったー?」
「………行った」
「そっかあ。偉い、偉い」
ヨルちゃんが学校に行くのは、本当に珍しい。
入学したての頃は登校していたけれど、お母さんのことで何か言われたらしく、あまり行かなくなった。
最近は家にいるか、こうやって公園で遊んでいるかのどちらかだ。
ヨルちゃんは学校に行かない代わりのように、私と公園で遊んで、学校の話を聞いてくれる。
ジャングルジムに辿り着くまで、いつものように学校の話を聞いてもらう。
給食が美味しかったとか、友達とどんな話をしたとか、多分下らないこと。
それを熱心に耳を傾けて、じいっと観察するように私を見る。
その青い目がちょっと怖い時もあるけれど、話を聞いてくれる人がいて嬉しいのも確かなのだ。
お父さんは話を聞いているようで、聞いていないからなあ。
「天辺まで競争だよ!」
ジャングルジムの前で天辺を指差して、高らかに宣言する。
「わかった」
ヨルちゃんは静かに頷くと、ジャングルジムに手を掛ける。
難しそうな顔をしながら、無言で上る。
私も手を伸ばして、ジャングルジムを上り始めた。
少し上っただけなのに、体が小さいからか、随分高い所にいる気がする。
この位置から下を見ると、ちょっとだけ気分が良い。
私よりも下の方でヨルちゃんが一生懸命に手を伸ばしている。
一生懸命なその姿はいつでも私しか見ていないのだ。
本当に見て欲しいお母さんは、見ていないことがほとんどだ。
ヨルちゃんとお母さんは仲が悪いとか、そんな次元じゃない。
ヨルちゃんは懸命にお母さんに手を伸ばすけど、お母さんはそれが見えないのだ。
存在を認識しているのかなというぐらいに、無視ばかりする。
怒るとか悲しむとか、そんなこともない。
原因は…なんなのかな。
綺麗な言い方をすれば「恋」なんだろうけど、それは子供をないがしろにしていい理由に成り得るのかな。
私は何か言うべきなんだろうけど、何も言えない。
当のヨルちゃんが文句も何も言わないから。
彼女が本当は何を考えているのか、私はよく解らない時がある。
愛されたいというのは、解る。
でも、それ以外のことがどうしても解らない。
そんなことを考えながら、下にいるヨルちゃんを待つ。
待ちながら、上がってくる気配のない彼女が心配になって、下を見た。
ヨルちゃんはどこか違う所を、私とは違う青い瞳でじいっと見つめている。
その冷たい目に少しだけぞっとした。
青い目が何を考えているのか、ちっとも読み取れない。
読み取れないけれど、こういう目をする状況は限られている。
視線の先に誰がいるのかはすぐにわかった。
「……お父さん」
普段家にいるはずのお父さんが、公園の入り口にいた。
気分転換に散歩だと思うけれど、ここはお父さんの散歩コースからは外れている。
だから、ここを選んだのに。
今度からは別の公園にしなくちゃ…。
お父さんに何か声を掛けた方が良いだろうか。
私はそう思ったけれど、ヨルちゃんは何を考えているんだろう。
彼女は一生懸命にお父さんを見つめて、ゆっくりと私を見上げた。
私の中学校から見える海をそのまま詰めたような、真っ青な瞳。
何を考えているのかよくわからない目に、思わずたじろいでしまう。
怖かったのだ。
私は双子の妹である彼女のことが解らなくて、すごく怖かった。
彼女はそんな私に気づかないかのように、首を傾げた。
そして、もう一回お父さんの方を向いて……そのままジャングルジムから手を離した。
「あっ…!」
それは明らかにわざとだ。
微塵の躊躇もない、自然な動作で、まるで本当に足を滑らせたみたいにジャングルジムから落ちたのだ。
重力に従って、背中から地面に落下する。
ドスンという嫌な音。
「けほっ!?」という息を吐き出す音もした。
ヨルちゃんが落ちたのに気づいて、「大丈夫!?」と言いながら、近くにいた主婦の人たちが駆け寄ってくる。
はっとして、私も急いでジャングルジムから降りた。
落下したヨルちゃんは、落ちた衝撃でフラフラとしながらも体勢を変えて、お父さんの方を見た。
じいっと。
一生懸命に、痛いだろうに、涙も浮かべずに。
お父さんの嫌いな、どこかお母さんの面影がある青い目で、いつまでも。
お父さんはそんなヨルちゃんに目もくれずに、スタスタと歩いて行ってしまう。
「お父さん…!」
叫ぶけれど、止まってはくれない。
家では呼べば、いつでも来てくれるのに。
なんで、私は良くて、双子で私の妹で自分の娘のヨルちゃんは駄目なのだろう。
お父さんを追うのは諦めて、私はヨルちゃんの方に駆け寄る。
主婦の人たちが心配して助け起こそうとしてくれている中、彼女は顔を伏せて、動かずにいた。
「救急車を呼んだ方がいいかしら?」
一人の人がそう言ってくれたけれど、ヨルちゃんの方が首を横に振った。
「大丈夫です」と、か細い声で答える。
私はヨルちゃんの近くに膝を付いて、「本当に大丈夫?」と声を掛ける。
「………」
彼女は顔を伏せたままで、何も喋ろうとしない。
これは本当に救急車を呼んだ方がいいかなと思って、もう一度彼女の名前を呼ぶ。
「ヨルちゃん?」
「………お父さん」
寂しそうな、冷たい声だった。
たった一言、そう言ってから彼女は立ち上がる。
ぐっと拳を握り、震えながら顔を上げた。
服は土で汚れていたけれど、落ちた割には目立った怪我はない。
駆け寄ってくれた人たちに、ヨルちゃんは「ご迷惑をお掛けしました」と丁寧に頭を下げる。
私もヨルちゃんと一緒に頭を下げた。
「今日はもう帰ろっか」
「うん」
さすがに今日はもう遊べない。
ヨルちゃんの手を引っ張って、公園を出る。
今日は送って行こう。
そう思って、私はヨルちゃんの家に向かって歩き出した。
「ねえ。ヨルちゃん」
「……うん」
私が名前を呼ぶと、機械的に返事をする。
まっすぐに前を見つめていて、青い瞳が何を考えているのか、小さく揺れていた。
「どうして、自分から落ちたの?」
私は少し躊躇してから、気になったことを訊いてみる。
どうして、わざとあんな高い所から落ちたんだろう。
下手をすれば、大怪我だ。
それでも、落ちなければいけなかったのか。
「………心配して、くれるかなって。
それに泥まみれになれば、お母さん、怒ってくれるかもしれないから。
それだけ」
解らないのと言うように、実際はそんなことは一つもないのだろう澄んだ目をして、彼女は言った。
心配してくれ、というのは理解出来るけれど、怒られるのを望むのはとても珍しいことだと思う。
だけれど、ヨルちゃんはそれを望んでいるのだ。
怒られるというよりも、感情を向けられることを望んでいるのだ。
お母さんに自分を見て欲しいんだ。
ただ、それだけのために、彼女はわざと落ちたのだ。
自分を犠牲にしてでも、お母さんとお父さんに存在を認めて欲しいから。
私にそんな願望はあまりない。
私はお母さんにもお父さんにも見てもらえているから、そんな願望は持ちようがないとも言える。
同じお母さんのお腹の中から出て来た双子なのに、どうして、こんなに違うんだろう。
私の何が良くて、彼女の何が悪かったんだろう。
彼女は何も悪いことをしてないはずなのに。
鮮やかなオレンジ色に目を細める。
ヨルちゃんとお母さんの住むアパートが見えて来て、その前にはお母さんがちょうど階段に手を掛けたところだった。
「あ、お母さん!」
私が呼ぶと、お母さんが顔を傾けた。
青みがかった黒い瞳が私とヨルちゃんに向けられる。
隣のヨルちゃんが私の手を少しだけ強く握った。
「………ただいま。お母さん」
「………」
ヨルちゃんの言葉が聞こえていないかのように、お母さんはそのまま階段を上ってしまう。
ヨルちゃんも急いでその後を追う。
彼女は少し体を傾けて、私に手を振った。
その唇が少しだけ動いて、「また金曜日」と呟いた。
「またね」
私はそれに手を振り返して、この場を後にした。
家に帰ると、お父さんがもう帰って来ていた。
ローファーを抜いで、お父さんの靴の横に揃える。
お父さんはリビングで本とにらめっこしながら、煙草を吸っている。
「ただいまー」
「おかえり…」
素っ気ない返事と共に、お父さんが顔を上げる。
私を咎めるような視線。
きっとヨルちゃんと遊ぶのを咎めているんだろう。
お父さんは彼女とお母さんが本当に嫌いだから。
「……あんまり変なことをするな。ユイ」
煙草を吸いながら、お父さんが何でもなさそうに言った。
「変なこと」というのはヨルちゃんとのことだろう。
本当ならここで言い返すべきだ。
「変なことじゃない」と一言、言い返せばいい。
そうすれば、お父さんのヨルちゃんへの言葉も少しは収まるかもしれない。
そうだというのに、私は一言も返すことが出来なかった。
代わりに…
「………うん」
お父さんを肯定するような一言しか言えなかった。
私の幸せを、守りたくて。
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