05.亡霊の秘密

夕食を済ますと、私はさっき読んでいた本を傾けたり、引っくり返したりして、どうにか文字を読もうとした。
けれど、やっぱり文字は掠れていて、読むことは出来ない。

少し気になるけど、仕方がない。

私は諦めて、今度はガラクタの山に近づいた。

一番上には可愛らしくもなんともない顔をしたピエロがじいっと、私を黒い目で見つめている。
ピエロから視線を外して、私はガラクタの山に手を突っ込む。

猫のぬいぐるみに木で出来た列車、アルファベットの積み木に電池で動くロボット。

どれも一昔前のものというか、電子機器が使っているものがほとんどない気がする。
電子機器も何故か基盤が取られている物が多く、ここから出ることに使えそうなものはない。

「ねえー。遊びましょー」

「うん…後でね」

「後って、いつなのかしらー。
退屈で死んでしまうわー。
所有物の癖に私を死なせるのねー。
薄情だわ!」

「………前はひとりだったんだから、その時と同じことをすればいいんじゃないかな」

「馬鹿ね!
目の前に遊び相手がいるのに、なんで私が一人遊びしなきゃならないの!
私が滑稽なだけじゃない」

「滑稽ってほどでも、ないと思うけど…」

ただ単に、以前の状態に戻るだけなのだから。

「あーそーびーまーしょっ!
遊ぶの!」

彼女は遂に体全体で駄々をこね始めて、綺麗に整った白いシーツの上を転がり始める。
私と同じぐらいの身長だけど、彼女はいくつなのだろう。
私より年上なのだろうか。

そんなことを考えつつ、ガラクタの山を崩していく。
後ろではジタバタと彼女の転がる音がしていたけれど、しばらくして唐突にそれが止んだ。
諦めたのかなと思ったけれど、今度は彼女の軽い足音が私に迫ってくる。

「ユイ。こっちに来なさい」

有無を言わせぬ絶対的な響きがあった。

振り向くよりも先に、肩を掴まれて、ズルズルと引き摺ろうとする。
するけれど、途中で「ふう、ふう」と辛そうな声が聞こえて来たので、私の方が立ち上がった。

「あの人が来るわ。
ここに入ってなさい」

彼女は小さなクローゼットの扉を開けると、私を無理矢理そこに押し込んだ。
たくさんのレースとフリルまみれの服の中に入れられたけれど、体が小さいからか、そんなに苦も無く服と服の間に収まってしまう。
というか、クローゼットの端の方は意外と服がなく、ぽっかりと空間が出来ている。
私はそこに収まる形になった。

「……どうして?」

「どうしてもよ。
良いって言うまで、そこから出ては駄目」

彼女はそう言うと、ピエロのぬいぐるみを含めて、ガラクタをいくつか放り込んだ。
最後にクリーム色の毛布を私に被せて、もう一度言い聞かせる。

「絶対にこの扉を開いては駄目。
眠くなったら、寝ていなさい。
絶対に、絶対によ。
開いたら、どうなるかは分からないわよ」

チョコレート色の目を鋭く細め、私が頷くのを彼女は待っている。
私は状況が飲み込めず、それでも有無を言わせぬその瞳に対して、頷いた。
その時に思い出したのは、何だったのだろう。
懐かしいような、苦しいような……気持ちの悪いような、何か。

それを確認してから、彼女はゆっくり、ゆっくりと扉を閉じていく。

扉から入ってくる橙色の光が細くなり、最後には柔らかい暗闇がやって来る。

「……なんなんだろう」

私はクリーム色の毛布を頭から被りながら、そう呟いた。

暗闇に段々と目が慣れて来たので、私と一緒に放り込まれたガラクタを触ってみる。

そういえば、ほとんど玩具なんて触ったことなかったなあ。
他にやることもないので、小さな頃に戻ったようにガラクタを弄る。
基盤が抜かれている玩具は遊べないので、適当に放って、胡乱な目をしたピエロを握ってみたり、振ってみたりした。

ピエロで遊びながら、外の音に耳を澄ませる。

何か音はするけれど、それは微かで、何をしているかまでは分からない。

あの人というのは、誰なんだろう。
なんだか、とても恐れているようではあったけれど…。

「…………」

私は少しだけ、手でクローゼットの扉を押した。
微かな音を立てて、扉が少しだけ開く。
それを何回か繰り返して、五センチぐらいの隙間を作った。

思い出すのはずっと昔、息を潜めて お父さんとお姉ちゃんの姿を盗み見た時のこと。

「良い子にしなさい」というお母さんの言葉が、透明な手になって、私の首を締め上げる。

ギリギリと、私の首を。
視線を感じて、吐き気が込み上げてくる。
視界が一段と暗くなったような気がした。

息苦しくなって、浅い呼吸を繰り返す。

これは錯覚だ。
そもそも、私にはお母さんに首を絞められた記憶はない。
お母さんは暴力なんて振るわなかった。

そう解っていても、息苦しいのは治らない。

「………」

嘔吐しないように口を押えながら、ゆっくりと隙間から外の様子を盗み見る。

角度的に姿は見えなくて、声もくぐもって聞こえてくる。
見えるのは影。
二つの影が仲良さそうにしている。

違う声が二つ。
微かに聞こえて来て、腹の底から黒い何かが這い出ようとしている気がした。

懐かしい、慣れ親しんだ何か。

余計に息苦しくなって、それでも目が離せない。

髪を梳かしているような影。
本を取り出して、読み聞かせているような影。
くすくす、くすくすという甘い笑い声が耳から離れない。

どれも見たことがあると、思った。

だから、余計に吐き気が込み上げてくる。

ここにいると懐かしくて、居心地が良くて、そして…気持ちが悪い。

「………そうか。そういうことか」

小さな声で呟く。
声を出さないと、ここでは自分を忘れてしまう。

ここは私とお母さんが暮らしていたあの家と、とても似ているのだ。
広さも調度品も質も、何もかもが違うけれど、空気が似ている。

微睡み、停滞し、柔らかく、淀んで、濁った…空気。

お母さんの空気。
お母さんがそのまま溶け出したような、過去を夢見るような、過去を取り戻したいと願うような。
息をするたびに、過去が蘇ってくる。
懐かしい、優しい、愛しい、憎い。
ドロドロとした黒いものが溢れて止まらない。

息が出来ない。
でも、吐き気は収まらない。
視界がチカチカと明滅して、自分が何処にいるのか、解らなくなる。

呼吸の仕方を忘れそうになる。

忘れるな、忘れるな。

隙間から影をもう一度見る。

あの影、あの動き…気持ち悪い、ぎこちないあの動作。
何かを真似ているみたいだ。
まるで、私みたいに。

あの影はお母さんじゃない。

「……早く…しないと…」

だから、でも…早くここから出ないと、過去に巻き戻ってしまう。
今の時間を生きる人たちのいる場所に戻らないと、本当に戻れなくなってしまう。

戻りたい。戻りたくないはずがない。

戻るにはどうしたらいいか、必死で考える。

手にはまだ虚ろな目をしたピエロが、私の手で首を絞められている。

ぐにぐにと気を紛らわすように触っていると、違和感に気づいた。
ピエロの身体の中心が綿にしては固い。
隙間から入る光に当てて、縫い目の部分を見てみる。
背中の部分の糸が少しだけ色が違う。

「…………」

そこの糸を小指で少しだけ持ち上げて、歯で噛み切った。
糸をそこから解いて、綿の中を探る。
綿の中から出て来たのは……

「……CCM?」

拙い形をしたCCMのようなものだった。
所々基盤が剥き出しになっていて、手作りなのが分かる。
そういえば、ガラクタの山の中にいくつか玩具の基盤がなくなっていたのを思い出す。

「ピエロの中に隠すって、自虐なのかな……?」

そう言いながら、消音のためにクリーム色の毛布でCCMを包んでから、電源らしきボタンを長押しする。
電源が入るのを待っている間、寒さで息が白くなるような気がした。
吐き気は、どうにか抑え込む。

毛布越しに画面が光るのが分かる。
画面を覗き込むと、電波はちゃんとしているし、多分使えると思う。

アドレス帳、メールボックスと順々に中を調べていく。
アドレス帳には何もない。メールボックスには未送信のメールがいくつも残っていた。
その題名の部分を見て、私はやっぱりかと思う。

吐き気が強まる。
同類を見ているようで。

メールは開かず、電話も掛けずに、私はCCMを閉じた。

クローゼットの扉の向こうから、人の足音が聞こえてくる。
私は扉の下側を少し引っ張って、隙間を小さくした。
CCMは服のポケットに。

軽い足音は扉の前でピタリと止まると、不機嫌そうに、勢いよく扉を開いた。

「ユイ!」

「……うん」

「つーかーれーたー!
寝る!
寝る寝る寝る寝る!」

「えっと、何をしたら、そんなに疲れるのかな?」

クローゼットの中から這い出ながら、聞いてみる。
吐き気はまだするけれど、普通に話していれば、気が張るから嘔吐することはないはず。

「あの人と遊んでたの。
今日は遅いとは聞いてたけど、疲れたわ。
もう寝る。お風呂は明日!
ユイも寝るわよ。
貴女はそっちの本棚の間で寝なさい。
電気のスイッチはそこ。
私が寝たら、消して」

そう言うと、ぶうぶうと頬を膨らませて、白いベッドに飛び込んだ。

寝そべったまま、ごそごそとベッドの下から厚手の毛布と枕を二つ引っ張りだして、私に投げる。

「えっと…ありがとう」

「どういたしまして。私の所有物。
おやすみ。おやすみ。
また明日〜」

ひらひらと手を振って、あっという間に寝息を立ててしまう。

「………」

その様子を見て、私は言いつけられたように電気のスイッチを下にスライドさせる。
橙色の光は暗さを増したけれど、完全な闇は訪れない。

彼女の様子を確認すると、狸寝入りじゃなくて、本当に寝ているらしい。

私はそれを確認してから、本棚の間に厚手の毛布を敷いて、枕を二つ置いた。
そして、口を手で押さえながら、トイレの方に向かう。

音を立てないように、声を潜めて、喉に指を入れて、黒い泥も吐き出すように、嘔吐した。
固形物と液体の混ざる吐瀉物の上に、生理的に流れた涙がぽたりと数滴落ちる。
ひりひりとする喉を更に胃液が通過し、それも吐いた。

吸い込む空気すらピリピリと喉を刺激する。
吐瀉物の味が口の中で煩い。

「…………気持ち悪い」

口元を水で洗ってから、バスルームを出る。

すぴーという気持ちよさそうな寝息が聞こえる中、クリーム色の毛布を縋りつくように被った。
枕に埋もれながら、ポケットからあの手作りと思しきCCMを取り出す。
私の手に渡るべきではないCCM。

でも、これを使わないとここから出られる可能性は限りなく低くなると思う。
出られるような手段がこれ以外は思いつかない。

「………」

CCMを開く。
電話番号を打ち込もうとして、少しだけ考える。

戻りたい。戻りたいはず。

そう信じて、そっと番号を押した。




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