03.地下の国
私はあの後、どうしたんだろう。


暗闇の中、私を呼ぶ声や声にもならない囁きを聴いた。

それはお姉ちゃんの甘い声だったり、お母さんの微かな寝息であったり、お父さんの細く長い吐息であったり。
肩に置かれた手の感触や頭を撫でる温かい手であったり。

過去の色々なものたちが、私に降り落ちてくる。

私は眠っているのだろうか。
まさか、死んではいないと思うけれど、どうだろうか。
暗闇の中では何もわからない。

でも、とにかく色々なものが降ってくる。
声が、視線が、感触が、音が、光が。
私にとって心地の良いもので構成された全てが。

ああ、ここはとても居心地が良い。

もうしばらく眠っていよう。

幸い、私に向けられた声は少ない。
起きろとも言われないし、このまま眠っていても問題はないはずだ。
……死んでいたら、嫌だけど。

「ヨルちゃん、ヨルちゃん」

私を絡め取るような、お姉ちゃんの呼ぶ声がする。

私を呼ぶ声は、起きろとは言わない。

起きなければいい。
しばらくは懐かしい声が聴けるから、このままでいい。

目が開けられない。起き上がれない。逃げられない。
目を開けなくていい。眠ったままでいい。捕らわれたままでいい。


「ヨル…」


そうは思っていたけれど、そのままにはさせてくれないらしい。

ジンの声がする。
紅い視線や私の腕を掴む感触が、降ってくる。

続いて、バンやヒロ、ランにジェシカにユウヤ…仲間たちの声が。

どうやら、起きなければいけないらしい。

私は億劫になりながらも、ゆっくりと瞼を開いた。


■■■


目を開けると、飛び込んできたのはチョコレート色の瞳だった。
それから、暖色の光が怪しく揺れているのが視界の端に映る。

今にも溶けてしまいそうな瞳が私を覗き込んでいる。

「あー! やっと起きたわ!」

次に元気な声が。
悪意はないように感じられるけれど、ソプラノの甲高い声は起き抜けの頭にはなかなかに堪える。

「待ってたのよ! 私の所有物のくせに、なんで私よりも先に起きないのかしら!
役立たずね!」

酷い言われようだった。

私はその声を聞きながら、ゆっくりと起き上がる。
スタンガンが当てられた首が少しだけ痛い。

「初めて会った人にそう言われましても…」

一応は言い返してみる。
私が言い返したのが気に食わないのか、その子は頬を赤く染め、ぷくっと可愛らしく膨らませた。

動きにくそうなフリルとレースが使われた服。

絹のように艶やかな長いブロンドの髪。陽の光を浴びたことのないかのように白い肌。チョコレート色の瞳。

甘い色が私を見つめている。

「いや、会ったこと、あるよね。
デパートで私と目が合った」

そうだ。
デパートで会ったあの子。
今は橙色の光が当てられ、色が違うように見えてしまうけれど、間違いない。

他の人なら忘れたかもしれないけれど、彼女ならば忘れない。

「そうね。目が合ったわ。
あれは、本当に、ほんとーに! 久しぶりのお出かけだったの。必死にごねて、行ったんだから!
久しぶりのお出かけで、目が合ったの! だから、欲しいって言ったのよ!
おねだりしたの!
早く私のベッドから退きなさい!
私と遊ぶのよ!」

彼女にそう言われて気づいた。

私が眠っていた場所。
上を見ると上品なレースの天蓋。下を見ると清潔で、ふかふかのベッド。
童話の中のお姫様が眠るようなベッドの上に私はいたのだ。

これは失礼なことをしたなと思い、急いでベッドから退いた。
靴は脱がされていて、ベッドのすぐ横に置かれている。

立ち上がり、靴を履いて、改めて彼女の目の前に立つ。

首を動かさなくとも視線が交わった。

「小さいわね!」

「お互い様だと思うけど…」

その子と私は身長があまり変わらなかった。
ほとんど同じ。
年齢はどうかは知らないけれど、久々に同じような身長の子に会った。
どことなく親近感が湧いてしまう。

「私の方がちょっと大きいわ!」

彼女はぐぐっと背伸びして、私よりも少しだけ身長を高くする。
足がぷるぷると震えているのは、見なかったフリをしておこう。

私は彼女に対して「そうだね」と返してから、ぐるりと室内を見渡す。

暖色の光で照らされた部屋。
天井が高く、円の形をした広い部屋だ。見える場所に窓は一つもない。
ここは地下にでもあるのだろうか。少し寒い。

中央の少しせり上がった場所にこの白いベッドが、その横に上品な細工の施された小さなテーブルが一つと椅子が二つ。
それを囲むようにして半円状の大きな本棚が左右に二つずつ並んでいる。
ベッドの枕が置かれている方に何かたくさんのガラクタの山。
ガラクタの山の右に扉。左にキッチンのような小さな部屋が見える。
そして、その反対側に大人が一人通れるぐらいの大きさの扉があった。

空気は冷たく、停滞し、酷く時間がゆっくりなように感じられた。

なんだろう。この部屋は。
見たことも入ったこともない部屋なのに、少し懐かしい。
居心地が良いとも感じてしまうし、気持ち悪いとも感じる。

「……ここは、どこ?」

私は漸くその疑問に辿り着いた。

ここはどこだろう。
気絶した後、私はどうしたんだろう。

私はさっきの彼女の言葉を思い出す。

「欲しいって言ったのよ!」という言葉から察するに、もしかして誘拐されたのだろうか。

「ここは私のお城よ。私の部屋。
貴女は私の所有物! 貴女はここで私と遊ぶのよ。
ずーっと遊ぶのよ」

「遊ぶって言われても、私には色々とやることが…。
というか、立派な誘拐事件だよ。これは」

「そんなのいいの。だって、貴女はもうここから出られないんだから。
扉は絶対に開かない。
あの人とセシリーにしか開けられない。
だから、ここで遊ぶのよ。
誘拐なんて、見つからなければ、そこにいるしかないんだから!」

チョコレート色の瞳を輝かせ、彼女が私の腕を引く。
その動作を懐かしいと感じた。

この懐かしさはなんだろう。

自分で自分を見ているような気持ち悪さと、過去の中から大切な何かが顔を出したような嬉しさが混ざり合う。

この子は知らないけれど、この子を創り出す何かを私は知っている。

「何して遊ぼうかしら?
お絵かき? 本でも読んでもらおうかしら?
ガラクタの山を崩させるのもいいわね。
あ、髪を梳かしてちょうだい!」

そう言って、パタパタと忙しく室内を動き回り、どこからか櫛を持ってきて、私の前でぴょんぴょんと跳ねた。
子供っぽいなと思いつつも、私も同じような動作をしたらそう見えるのだろうか。

「誘拐した相手に頼むの?」

「そうよ。
だって、私の所有物だもの。
私の言うことを聞くのよ!」

言っている割には行動に強制力がない。

なんだろう。このちぐはぐ。
慣れ親しんだ感覚に思えるのも不思議。

チョコレート色の瞳の中に、喜びと諦めの色があるのも見える。
それもどこかで見たと脳が叫ぶ。

「そうだわ!
名前を教えてなかったわね。
私はベアトリス・ターナーよ!」

彼女は元気よく自分の名前を言った。
堂々と、鮮やかな声で。

その鮮やかな声を私は知らない。
知らないけれど、聞いたことがある。感じたことがある。

この感覚を私は知っている。
酷い既視感。

「素敵な名前だね」

そう言うしかなかった。

目の前の彼女は私の返しにとびきりの笑顔で答える。
可愛らしい、無邪気な少女の笑みだった。

「貴女のお名前はなんて言うのかしら?
せっかく手に入れた私の所有物なんですもの。名前ぐらい憶えてやろうじゃない!」

「物扱いに変わりはないんだ…」

冷たい視線をされるより良いかと思ってしまうけれど。

「それで、貴女のお名前は?」

「私は…」

どうしたものかと思ってしまう。
ここで雨宮ヨルと名乗るべきか。

停滞した空気が、橙色の光が、目の前のチョコレート色の瞳が私をどこかに絡め取っていく。

この空間で、私が私である必要は本当にあるの?

「お・な・ま・え!」

「ああ。うん。名前だよね。名前。
名乗るから」

迫って来ていた彼女をちょっと引き剥がし、こういうこともあったなと思い出す。
あの時は、私の方が肩を押された方だったけれど。

私はその瞳を見ながら、数秒考えて、唇が震えるのを耐えながら口を開く。

「私は……鳥海ユイっていうんだ。
よろしく」

するりと、当たり前のようにその名前が私の口から零れ落ちた。

目の前の彼女は私の名前を口の中で何度も反芻しながら、最後ににこりと笑った。

「そう! 貧相な名前ね!」

彼女はそう言って、自分の名前の方が豪華よ、綺麗よと自慢げに言う。

私も「鳥海ユイ」の方が良い名前だと思うので、自慢したいような気持ちは解る。
だから、否定はせずに、こくりと頷いた。

さて、と天井を見上げて、溜め息を吐く。

この空間から、私は本当に抜け出すべきなのだろうか。



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