12.子供の夢

常に見られている気がする。
この屋敷に戻って来てから、ずっと…。
幼い視線が何処までも付いて来る。

私は何も悪いことはしていないのに。
寧ろ、私は良いことをしているはずなのに。

そう思っているからこそ、この状況に体が無意識に震える。

眼下ではうず高く積んでいた布の山から、亜麻色の髪をした少女が赤い目をした少年に助けられているところだった。
少女は少年に困ったように笑いかける。
何か話しているようだけれど、この位置からは遠くて聞こえない。

ただ、気のせいだろうけれど、少女が一瞬だけ私を見た気がした。
さして珍しくもない青い瞳が信じられないぐらいに冷たく睨みつけてくる。
思わず、一歩後ろに下がってしまった。

怖い。
あのイキモノが怖い。

でも、それよりももっと恐ろしいのは、その後ろにいるもの。

布の山から抜け出た少女の背中に隠れるようにして、長いブロンドの髪が見え隠れしている。
毎夜聞いていた声が、金髪の少女と言い争う。
その声に重なるようにして、背後から名前を呼ばれたような気がした。

『―――』

違う。
その名前は違う。
今の私はそうではない。

視線を眼下に戻すと、青い瞳をした少女がその背中に張り付いているものに何か耳打ちをしている。

私は震える足をどうにかして動かし、階段を下りる。
木で出来た階段はぎしりと嫌な音を立てた。
一歩、また一歩と足を動かす。

青い瞳をした少女の背後にいるものに向かって。

その背後からブロンドの髪とチョコレート色の瞳が姿を現す。
困惑したようにちらちらと少女に視線を送る。
少女はその視線を受け止めて頷いてから、あの子を前に押しやる。

さらりとドレスを引きずって少女の背中から出て来ると、あの子は近づく私を見つめると、小さくその口を開く。

「どうしたの?
『お節介でそそっかしいお馬鹿なミーナ』」

今まで一つも教えたことがないというのに、何故かその名前を呼ばれる。

そして、私の方にゆっくりと近づいてきた。
ゆっくりと、無垢な目をして私に。
近付いてくる分だけ、私の足は後ろに下がってしまう。

私の背後からは幼い視線。

それに近づくのも嫌で、私は立ち止まるしかなかった。

近付いてくる。近付いてくる。近づいてくる!


「………あなたは本当に私を殺してしまったの?」

か細い震えた声で私に尋ねる。
背後から同じような声が響いてくる。
もちろん、幻覚。
だけれども、もう一つは確実に現実で。

ギョロギョロと目を動かして、あの子を見る。
重そうにドレスを引きずって、私へと怯えながらも近づいてくる。

「あそこから、私を突き落としたんでしょう?」

成長し切っていない小さな指で、地下室の入り口を指差す。
その奥には深い闇が広がっていて、その下に私は何があったのかを知っている。

でも、もうあそこにないはずなのに、なんで分かってしまうの?

「あ…あ、あああ…」

口から声が零れる。

私のその声に大半は困惑したような顔をしたけれど、あの子のすぐ後ろで控えている少女だけが冷静な目をして私を見ている。

全部予想していたかのように。

そして、その視線が私の背後にも向けられていることに気づいた。
何処を見ているの…と思って、思い至る。

私の背後には未だに私の名前を呼ぶ、あの子がいるじゃないか。

「違う……違うわ…」

私はふらりと足を動かす。
目の前にいる子供の首に向かって腕を伸ばした。

それに気づいて、少女があの子の腕を引っ張り、自分の方が前に出る。

青い目は私よりもその背後に向いているようにも見えて、先に少女の方をどうにかしなれば、と思った。


「私は、私は……殺してないわ!!
あの子が勝手に足を滑らせて、死んでしまったのよ!」


そう叫んだ私の背中に、もう少しで少女に届くというところで、鈍い衝撃が背中に走った。


■■■


「ヨルっ! 大丈夫!?」

倒れ込むエミリア・オルコットの背中の上から、ランがそう叫んだ。

子供とはいえ人一人の重さは相当なものだろう、ランの下で微かな呻き声が聴こえてくる。

「大丈夫だから。
ラン。危ないから、そこから退いて」

「でも…」

ランが言い淀む。

彼女の下で呻いている人物は、さっきヨルに向かって歩いてきた。
それだけならいい。
問題はその手が、明らかにヨルの首に向けられていたことで。
それに……。

僕はヨルの方を見る。
彼女はどうして、本物の「ベアトリス・ターナー」が亡くなっていることに気づいたのか。
青い瞳を鋭く細めながら、彼女は目の前の人物を蔑むでもなく、罵るでもなく、憐れむように見つめている。

「どうして、『あの人』がこの人だって……。
それに『ベアトリス・ターナー』を殺したってどういうことなのよ?」

ヨルの背中からブロンドの髪を揺らしながらイレーナが呟く。
その手はヨルの服を強く握っていて、なんとなくではあるが、随分とヨルを信頼しているように感じる。

「ほぼ勘だけど、気づいたのはクローゼットの中に入れられた時かな」

「クローゼット?」

「ああ。そっか。ジンたちには話してなかったかな。
最初の夜ね、『あの人』が来るからって地下室のクローゼットの中に閉じ込められたんだよ。
その時に見た影の動きが、妙だったから」

彼女はそう言いつつ、もう一度ランにエミリア・オルコットの上から退くように指示する。
ランは渋りながらも、ゆっくりとその上から退く。
CCMを構え、後ろにいたバン君やヒロの方に下がった。

それを見てから、ヨルは服のポケットから紙切れを取り出す。
黄ばんだ紙切れ。
綺麗に印字された英字が見えるが、その他にもペンで書かれたらしい落書きが見えた。

「最初は母親かなと思ったんだけれど、どうにもおかしいなって。
母親の動きってあんなものだったかなと思ったんだ。
髪を梳く動きや本を読む動作、一つ一つの動きに母親らしさって出るんだけど、それがないから他の何かかなあと思ったんだ。
まあ、死んだ我が子の代わりとかなら理由は単純だけど、他は思いつかなかったな。
外の話を聞くまでは、確信も持てなかった」

どこか懐かしむように彼女は言った。
その青い眼差しは目の前の人物を見ているようでもあり、別の場所を見つめているようにも思える。
彼女が何を見ているのか、僕には分からない。

「でも、本の中で『ベアトリス・ターナー』の名前を見つけた。
本の状態やインクの色から見て、明らかに古い。
それに違和感を持って、更に地下室で見つけたCCMもどきで確信を持ったんだ。
《次のベアトリス・ターナー》へという文章から考えて、私が思いつくのは一つ。
ここにいる『ベアトリス・ターナー』は本当に偽物で、イレーナはその代わりをさせられているって。
それから、何人か前任者がいる」

ゆっくりと、ヨルは誰かに語り聞かせるようにそう言った。

事も無げに言っているが、その推察に至ったのは雨宮ヨルだからだろう。
自分からか他人からかの違いがあるとはいえ、そう考えれば、確かにヨルとイレーナは同類だ。

僕は彼女から視線を逸らしそうになり、どうにか堪えた。

「ちょっと待って!
たくさんの『ベアトリス・ターナー』がいたのは……理解は出来ないし、意味が分からないけど、とりあえずはいいとして!
それでどうして閉じ込めるのよ?
それに、なんで何人も『ベアトリス・ターナー』がいなきゃいけなかったのよ?」

「それは……怖かったからと、同じでなければ意味がなかったから、かな。
ジェシカはこの落書きを見て、どういう印象を受ける?」

未だに床に伏したままのエミリア・オルコットは小刻みに震え、何かに恐怖しているようだった。
意味の分からない呻き声は今は止んでいる。

ヨルはその様子を捉えながらもにこりと微笑み、持っていた紙切れをジェシカに渡す。
ジェシカはそれを受け取ると、改めて落書きを観察する。
僕とユウヤもそれを覗き込んだ。

落書きは随分と幼い文字で、難しい言い回しもなく、僕たちよりも小さな子供が書いたように思える。

「小さい子が書いたみたい、かしら?」

「うん。私もそう思った。
本物の『ベアトリス・ターナー』は多分、その文字に見合うぐらいの小さな女の子だったんだろうね。
ここにいる彼女は本物の『ベアトリス・ターナー』と同じぐらいの年齢の同じような容姿の女の子を『ベアトリス・ターナー』に見立てて、成長してしまったら次の女の子を探して、攫って来るんじゃないかな。
そして、地下室に閉じ込める。
そこから出て来れないようにする。
本物が化けて出て来て、自分のしたことをばらされてしまうことが怖くて、かな。
どうですか? 合ってます?」

彼女は青い瞳を悪戯っぽく細め、目の前にいるエミリア・オルコットに訊く。
自然に、世間話でもするようであり、その光景はただ恐ろしい。
人を責めているのに、その瞳には恐怖も自責もない。
いや、実際には隠すのが極端に上手いだけなのだろうが。

本当に彼女が敵に回らなくて良かったと思う。
あの時、彼女の手を離さなくて良かったと思う。

そのまま生きていたら、本当に化け物になっていたかもしれない。

「化けて出て来るって……まさか、幽霊ってことですか?」

「そうだよ。ヒロ。
多分、それがすごく怖くて仕方がない」

「ええ〜…幽霊なんているわけないじゃん。
第一、この人、いい大人だよ?」

「あはは。大人かどうかは関係ないと思うよ、ラン。
普通はいないはず。
でも、後ろめたいことや秘密があると見える時はあるから。
幻覚みたいなものだけどね。
本当にそこにいるかのように錯覚する。息苦しくもなるし、恐ろしくもなる。
それが責めて来るんじゃないんですか?
例えば、背後から『どうして、私を殺したの?』って」

ヨルはなるべく明るい声を出しているが、色々なことが見え隠れする。
明るい声が甘く冷たく余韻を残す。
その中には姉や両親に対する思いや自分への嫌悪が滲み出ている。

足元に伏せる人物を見ながら、ヨルは静かに地下室へ続く階段を見やった。

彼女が纏う空気が一気に冷えていくのを感じた。

彼女の背中に隠れているイレーナが少しだけ、服を握る手を緩めてしまう。

「………この階段の下の踊り場に、古い血だまりの跡みたいなものがあった。
小さかったけど、多分頭からの出血だと思う。
それが私が『ベアトリス・ターナー』が亡くなっていると思った理由。
おそらくは……」

彼女は布の山を押しのけ、その場に立つ。
小さい体が段差のギリギリの位置で止まり、その下を見つめる。
手はゆっくりと石の壁を撫で、一つだけ沈んだ石へと伸ばされる。

「ここから、落とされた」

「―――っ」

声にならない叫びが床から聞こえてくる。
エミリア・オルコットの震えは増し、まともに目の焦点が合っているかすら怪しい。

「では、どうして落とされることになったのか。
そこでジェシカの話とそこの紙切れとイレーナへの態度が、その答えを出せると思う。
落書きのほとんどが父親が教育熱心で煩いとか、母親に着せ替え人形にされて面倒だとか、そんなことばかりだったけど……」

青い目が小さく、本当に小さく揺らいだ。
でも、それも一瞬だ。
彼女はすぐに何事もなかったかのように、先ほどの続きのように微笑む。

「私が見つけた紙切れには正確には『お節介でそそっかしいお馬鹿なミーナ。せっかく雇ってあげてるのに! 私の後ろに付いて、命令に従っていればいいのに。お馬鹿な子』と書いてあった。
母親というのは私の主観だけど、その線はなしの方向で。
ならば、姉妹?
それもこの『雇ってあげたのに』で違うと言えるはず。
そうだとすると、私はエミリア・オルコットさんは使用人だと考えられると思う。
クローゼットの中から見た二人も、どこか主従めいていた。
使用人だと考えると、ジェシカから聞いた話が私としては腑に落ちる」

「ジェシカ君の話って、そんなに珍しい話はなかったと思うけど…」

「私も心当たりがないわ。
ヨルに話したのって、エミリアさんが部屋をよく間違える…ぐら、い…?
ん?」

ジェシカが首を傾げる。
僕も彼女達から話を聞いただけだが、ヨルの話をそこまで聞いて腑に落ちはするのではないかと思った。

ジェシカの話ではエミリア・オルコットが部屋を間違えた時、元はその部屋だったのではないかという話を聞いた。
元はその部屋だったということは、彼女は元の部屋の位置を知っていたことになる。
屋敷を買った時に憶えていたということも考えられなくはないが、普通なら憶えていないはずだ。

ただ問題なのは、ヨルがこの推測を完全に自身の勘とエミリア・オルコットを犯人として考えているからこそ成り立つことで、本人がここから持ち直して否定されれば元も子もない。
否定材料は少ないかもしれないが、単にヨルの妄言ということにも成り得る。

「使用人なら主人に文句を言いたくもなるでしょう。
ましてや、彼女は随分と我儘だったようだし……。
それが元で突き落とした…で、合ってますよね?」

「違うわ……違う…。
私は本当に殺してない…!
そこの壁のスイッチを押して、滑って落ちてしまっただけなのよ!
なのに、いつまでも声や視線が止まなくて……だから、地下室に閉じ込めて出て来られないようにしたのに!
なんで、出て来てしまったの?
なんでも与えてあげたのに!
言うことを聞いてあげたのに!
私はただ今の生活を守りたかっただけなのに!
亡霊のくせに! 亡霊のくせに!
いつまで私に付きまとうの!
あの頃だって、私はなんだってしたのに!」

頭を掻きむしり、目を充血させながら、気が狂ったように彼女は叫び続ける。
ヨルはその様子を見て、分からないぐらいに小さく溜め息を吐く。
その溜め息は安堵したというようで、僕は不思議に思った。

彼女はエミリア・オルコットに対してあれだけ「殺したのだろう」と問うのに、その言葉には憎悪が籠っていない。
憐れむようであるのに、怒りがないように感じる。

「私は本当に殺していない!
それに……私が殺したなんて証拠はどこにもないわ!
貴女が言っているのは、ただの妄想よ!」

「でも、イレーナを閉じ込めたのは本当のことではないですか。
そのことは妄想ではありません。
イレーナがその証拠です。
そもそも、どうして貴女は『ベアトリス・ターナー』を地下室に閉じ込めるという選択をしたのですか?
地下室に閉じ込めることで、どうして逃れられると思ったのですか?
貴女は『ベアトリス・ターナー』が落ちた時に、何もしないで、そのままあそこに放置したんじゃないんですか?
だからこそ、貴女は地下室に偽物を閉じ込めておきさえすれば、その声や視線が止むんだと思いこんだんじゃありませんか?」

ヨルは冷静に、淡々とそう続ける。

それも彼女の想像に過ぎない。
そうであるのに、まるで本当にそうだったように聞こえてしまう。

「放っておいたなら、じゃあ、死体がそこにあったとでも言うのかしら?
無かったでしょう?
何もないくせに、そこにいる子供だけで私を犯人にしたてあげるのかしら?」

尤もな言い分だった。

イレーナの件については彼女自身が証拠になる。
しかし、「ベアトリス・ターナー」については証拠がない。

どうするんだとヨルに視線を送ると、彼女は何でもないことのように笑っていた。
青い視線はエミリア・オルコットを見ているようで、その背後に向いている気もする。
微笑み、そして彼女は嫌に実感の籠った言い方をする。

「じゃあ、死体を見つければいいんですね?
死体の処理は、こう言ってはなんですが、色々と困りますから。
大丈夫ですよ。私、ちゃんと見つけますから」

そう言って、場違いに彼女はもう一度微笑んでみせた。



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