クローゼットの中はむせ返るような闇が支配している。
息苦しい。
さっきまでは確認のために少しだけ開けていたけれど、今は閉めてしまった。
どうせ声は聞こえないし、開けていても気持ちが悪くなるだけだ。
さっきのこともあってか、余計に呼吸が浅い。
闇を飲み込みながら、何度も何度も息をするのに失敗する。
本当に呼吸の仕方も忘れるのだから、どうしようもない。
「有言実行は……違うか」
苦し紛れに独り言。
さっきまで動いていたLBXたちはバッテリーや操作範囲の関係で、今は動きを止めている。
気紛れにトリトーンの頭を指で小突くと、カシャリと音を立てた。
あれから、だいぶ時間が経っている。
もう「あの人」との遊びは終わっているだろう。
前は外から開けてくれたけれど、今日はそんなことはないようなので、自分からクローゼットの扉を開く。
一緒にLBXたちも連れ出す。
暖色の明かりはほの暗く、視界は余計に暗くなっていた。
彼女はベッドで今度こそちゃんと眠っているようだ。
すうすうと規則正しい寝息。
「…………」
私も出来れば寝ておいた方が良いとは思った。
思ったけれど、それが出来るかどうかは、また別問題で……。
LBXを私が常に見ていられる位置に置く。
あるかどうか分からない探し物はまだ終わっていないので、さっきの続きで本を手に取る。
内容はほとんど見ずに、隅にある落書きを目で追う。
幼い文字が余白を泳ぎ回る。
本当の「ベアトリス・ターナー」はどんな子だったのだろう。
元気で明るい、お転婆な女の子だったのだろか。
誰かを困らせるのが好きな女の子だったのかもしれない。
寂しがり屋の女の子だったのかもしれない。
ひたすらに考える。
本物の彼女はどこに行ってしまったのか。
どうして、ここに閉じ込められなければならなかったのか。
偽物を作り出さなければいけなかった理由は何か。
ほの暗い橙色の明かりを頼りに読み進める。
「………眠くならないな」
睡魔は依然としてやってこない。
込み上げてくるのは、慣れ親しんだ吐き気。
あと何年、この吐き気や焦燥感と一緒にいなければならないんだろう。
あと何年、この懐かしさや罪悪感に助けられなければならないんだろう。
吐き気と懐かしさに包まれながら、私はまたページを捲った。
■■■
捲る。
ページを次へ。
見つからなければ、次の本へ。
何年も読まれていないのか、埃が溜まっていたので、それを息を吹きかけて落とした。
埃がぶわりと舞う。
《――》
目的の物はないので、次の本。
もしかしたら、実は全部勘違いでそんなものはないんじゃないだろうかと思いながら、黄ばんだ紙を捲る。
名前。
名前がもう一つありさえすれば、そこから推察は出来る。
合っているか、合っていないかはともかくとして、ヒントがないと何も出来ない。
もどかしい。
分からないことに焦って、間違えてしまうかもしれない。
《――》
私が勿体ぶるようにジンにヒントを出していた時、彼もこんな気持ちだったのか。
それとも私の行動に怒っていたのか。
今度聞いてみたいような気もするけれど、聞いたら怒られるかな。
《ヨルっ!》
そこで漸く音が戻ってきたような気がした。
名前を呼ばれていたらしい。
「えっと…うん、何かな?」
《『何かな?』じゃない!
ずっと呼んでたじゃん!》
見れば、ミネルバの位置が移動している。
ということは、もう朝か。
ちらりと彼女の方に視線を移動させると、まだベッドの方ですやすやと眠っているようだった。
「ごめん。
集中してたから…」
《集中してたって……ちゃんと眠ったの?》
ミネルバからジェシカの声が聞こえてくる。
私はその質問に首を左右に振った。
眠っている訳がない。
あれからずっと調べものだ。
《寝不足で出られないなんてこと、ないでしょうね?》
「ないと思うよ。
一年前はいつもこんな感じだったし、大丈夫。
それよりも昨日の話をして欲しいかな。
私、まだ聞いてないから」
このまま話を続けると、私が不利だなと思ったので昨日の話の方にすり替える。
ジェシカは「あのね…」と呆れたように呟くが、ちゃんと話してくれる。
この家の奥さんという人が家を案内してくれたこと。
その人が部屋の位置を何回も間違っていたこと。
ここは屋敷の敷地内の元食糧庫の下にあること。
部屋の間取りも詳しく教えてくれる。
それを聞いて、ふむと私は頷く。
「その家の人たちのことは調べられたの?」
《確実にヨルが閉じ込められてるって分かったから、パパが許可を取ってくれたわ。
二人とも特に変な所はないけれど、奥さんの方は一回名前が変わってるわね。
どこかの社長か誰かに引き取られたみたいで……前の名前はミーナだったわね》
「……へえ」
思わず、曖昧な返事をしてしまう。
ふむふむと何回も頷きつつも、次の本を手に取ろうとすると肩が少しだけ重くなった。
トリトーンが私の肩に飛び乗ったのだ。
反対側の肩にはエルシオンも乗っている。
《ちゃんと聞いていたのか?》
「聞いてたよ。
うん。聞いて納得もした。
それから、ちゃんと見つけた」
やっと見つけた。
本の中の落書きの一つ。
斜めに書かれたそれを指でなぞる。
この子は本当にどんな子だったのだろう。
一体、どこに行ってしまったのだろうか。
《今も外で待機してるから出れるけど、どうする?》
バンが探るように私に訊いてくる。
昨日の私の行動が気になるのか、慎重そうな声。
可能性がないわけではないけど、そこまで慎重にならなくていいのに。
「外に出るよ。
今からでも大丈夫。
………まあ、問題があるとしたら…」
「私って訳ね。
ユイ」
高らかに声が響いた。
サラリと上等なドレスの落ちる音がする。
トリトーンたちは身構えるけれど、私は特に身構えようとは思わなかった。
ベッドからむくりと起き上がり、チョコレート色の目で私を睨んだ。
私はそれに対して、出来るだけ自然に微笑んでみせる。
「おはよう」と言うのも忘れない。
彼女の纏う空気は刺々しかったけれど、別段怖がることはない。
何故なら、彼女は少しだけ嫌そうな顔をしたから。
「昨日よりも早起きだね」
「そのピンクの奴の声で起きたわ。
外に出るなんて、馬鹿なこと考えてるわね?」
余裕そうに彼女は手を動かしながら、そう言った。
《またヨルさんの腕を折ろうとする気ですか?》
肩のエルシオンからヒロの声が聞こえた。
体格は同じだけど、体力差は大きい。
それなりに距離もあるから、今度は捕まらない。
「必要ならね。そうするわ。
貴女が外に出るってことは、私の不始末だもの」
「そこまでして、外には出たくないんだね」
「ええ。良いことなんて一つもないから」
《自分だって閉じ込められてるくせに、何言ってるんだか…》
ランがそう口を挟む。
それはその通りなのだけれど、私は向こう側のランに見えるように唇に人差し指を当てて、「しー…」と声を潜めた。
ミネルバから声が聞こえなくなったところで、彼女に質問を投げかける。
「なんでそう思うのかな?
外に出てみなければ、分からないことはたくさんあるよ。
良いことも悪いことも。
それに外に出なければ、貴女の本当の両親にも会えないと思うけど?」
「…………」
「お父さんとお母さん、いるんだよね?」
冷静に、語りかけるように言う。
彼女は黙ったままだ。
視線は下げたまま、動かそうとしない。
彼女の返答をただ待ち続ける。
「今更、どんな顔をして会えっていうのよ…」
たっぷりと時間を掛けて、漸く出て来たのは絞り出すようなか細い声だった。
「外に出てもただの晒し者よ。
誘拐されて、こんな生活をして、状況だけ見れば良い生活だもの。
誰にも分かってなんてもらえないわ。
理解してもらえないから、貴女をここに連れ込んだのよ。
こんなことになるのは誤算だったけどね」
彼女は滑らかに話し出す。
もうどうでもいいのか、話し相手が漸く出来たという喜びかは分からないけれど、とにかく饒舌に。
「それに……『ベアトリス・ターナー』でいれば、ここでは幸せになれるもの」
仕方がないというような笑顔で彼女は言う。
私ならば、そこはもっと良い笑顔だったろう。
我ながらおかしいとは思うけど、私の常識では未だにそうなのだ。
吐き気が、せり上がってくる。
「ここで偽物のフリをしていれば、幸せになれるのよ。
ここではね、本当の私に大した意味はないの。
私なんて存在してない。
本当に私は外にいたのかしら?
そんな疑問すら湧いてくるわ。
貴女だって、分かるでしょう?」
そう問われれば、私は頷くしかない。
全く同じとは言わないまでも、そう思っているのは事実だから。
そして、ここに来て、鳥海ユイと名乗ったのも事実だから。
チョコレート色の瞳が妖しく細められる。
その動作が似ているなと思った。
私に。
「ここでは私は『ベアトリス・ターナー』。
貴女は『鳥海ユイ』。
他の誰でもない自分でいれば、ここは楽園よ。
辛いこともない。
悲しいこともない。
痛いこともない。
苦しいことたちとは無縁でいられる。
人を憎むこともない。
変化も何もない代わりに、幸せでいられるのよ。
ここは私たちに許された楽園。
嘘を吐いても許される。
だって外のことを知りさえしなければ、嘘かどうかも分からない。
本当のことだって分からないわ。
嘘が本当に、本当が嘘に。
まるで鏡の中ね」
嘘が本当に、本当が嘘に。
本当にそうなら、どれだけ良いだろう。
それならば、私は鳥海ユイになれるということで、お姉ちゃんそのものになれるのだ。
名前を呼んでもらえる。
褒めてもらえる。
この空間ならば、それが出来る。
ここは過去の部屋でもあるから。
過去にいれば、幸せでいられる。
少なくともお母さんといた過去は、鳥海ユイでいた時よりも幸せではあったはずで、もしも本当に戻れるのならと願わずにはいられない。
「………そうだね」
同意してしまった。
視線を少しだけ動かすと、肩のトリトーンとエルシオンが目に入る。
本棚にいるミネルバも。
私の友達がそこにいる。
「そうでしょう?
だったら、ここにいるのが、正しいのよ。
だから、ここにいましょう?」
彼女が私に詰め寄る。
チョコレート色の目を濡らし、誘うように私を見つめた。
ブロンドの髪が小首を傾げるのと合わせて揺れる。
彼女の瞳は雄弁に語る。
その目は私を恐れていて、同時に自分自身を怖がっている。
本当の自分が嘘になるのを。
結局、私たちは本当の自分から逃れられはしないのだ。
そして、彼女はまだ間に合う。
私は自分から底なし沼に嵌まっているけれど、彼女はまだ抜け出せる。
「ううん。残念だけど、私は遠慮する。
今はちゃんと名前を呼んでくれる人たちがいるから、例え元には戻れなくても、ここから出るよ。
……私は原因が違うからどうにもならないけど、貴女はまだ戻れる。
だから、ここから出よう。
それに、前の『ベアトリス・ターナー』もそれを望んでる」
「……え?」
私は服のポケットからあのCCMを取り出す。
あれから開いていなかったメールボックスを開き、その中からタイトル以外は何も書いていないメールを開く。
私はそれを彼女に見せた。
「『どうして』と貴女は聞いたね。
その答えでもある。半分以上は勘だけれど、確信を持ったのはこれがあったから」
そのメールには《次のベアトリス・ターナーへ》と書いてある。
これは本来、私が使うべき物じゃない。
本当は彼女が使うべき物だったのだ。
私はCCMを彼女に差し出す。
「NICS」には繋がっていたけれど、LBXがここにいるなら問題ないだろう。
通話を切って、彼女にCCMを返す。
「この子がどうなったかは分からないけど、あまり良い結末ではなかったんじゃないかな。
それでも、貴女はここにいる?」
「…………」
彼女は震える指でCCMを受け取ってくれた。
そのままたったの一文を凝視する。
瞳も震えている。
彼女の中では色々な想像が巡っているのかもしれない。
私への恐怖もごちゃまぜに。
「………どうする?」
もう一度彼女に訊く。
見上げなくてもいい、同じ目線で。
「…………」
彼女は震えながらも私を見る。
怖いかもしれないけれど、私はにこりと微笑む。
精いっぱいの親愛を込めて。
そして、彼女は静かに口を開いた。
「………出ても、いいわ。ここから」
弱々しいけれど、確かな声だった。
「そっか。
じゃあ、改めて自己紹介。
私は雨宮ヨル。よろしく」
本当の名前を名乗る。
私の名前は声に出して言ってみると、吐き気が溢れて来て、それでもやっと言えたと安堵するのだ。
彼女はいつかの私よりもずっと容易に自分の名前を呟いた。
「私は………イレーナ」
私よりも感慨はないようで、少し恥ずかしそうにしている。
これなら、きっとすぐに元に戻れるはずだ。
きっと私みたいにはならない。
「うん。良い名前だね。
よろしく、イレーナ」