09.小さな怪物
「それとも、『ベアトリス・ターナー』でいるのは楽しい?」

自分の左腕を捻り上げられているというのに、ユイは口から涎を垂らしながらも、艶やかに微笑んで私に問いかけてくる。

「どうして……」

私は自分でも馬鹿みたいに震えた声で訊いた。
ユイはそれに対して微かに渇いた笑い声を零してから、嘲るように続ける。

「『どうして』…なんて、 変なことを訊くね。
同類だからここに連れて来たくせに、暴かれるのはやっぱり怖い?
でも、怖いよね。
私も望んでいたけど、怖かったよ。
それとも、貴女はただ単に仲間が欲しかっただけなのかな?
じゃあ、悪いことをしたね」

くすくす。くすくす。

涼やかな笑い声が地下室に響き渡る。

嘲るように、憐れむように。

それに思わず手に力を込めるけれど、ユイは表情も変えず、青い瞳を私に向け続けた。
私の下にいる、この子は一体何だろう。
仲間だと思っていたのに、今は違う生きもののように感じられる。

「ねえ、折らないの?」

「………え?」

「私の腕を折らないの?
外に出たくないんでしょう。私を外に出したくないんでしょう。
私にはまだ外に出る気がある。
どうしても外に出たくないなら、それぐらいのこと、出来るよね?
本当の自分になるのが嫌なら……偽物でいたいなら、それぐらいのことはするべきなんだよ、私たちは」

そう言って、私とは全く違う…覚悟が、意志が、私とは根底から違う化け物が微笑む。

ユイの骨が軋む音がする。
彼女の腕を捻り上げているはずなのに、私の首が絞められているような、ギリギリという音がする。

私の方が絶対に優位のはずなのに。
今、追いつめられているのはどっちなの?

彼女? それとも、私?

ギチギチという骨が軋む音が聴こえ続ける。

「うるさい…」

「『うるさい』?
だって、本当のことだよね。
嘘じゃないんでしょう?
嘘じゃなければ―――」

《ヨル! それ以上、彼女を煽るな!》

鋭い声が聞こえてくる。

視線を少しだけ動かせば、目の前の三体のLBXはもう武器を下ろしている。
でも、この腕を離すわけにはいかない。
今離したら、私が負けてしまう。

負けてしまえば、あの人が何をするのか、私には解らない。

あの人…そうだ、あの人。
もうすぐあの人が来てしまう。
余計なものがあれば、あの人が怒ってしまうかもしれない。

《僕たちはもう扉を壊す意志はない!
彼女の腕を離すんだ!》

《そうよ! ヨルの腕を離しなさい!》

骨の音に混じり、「ジン」とユイに呼ばれていた男の子が叫ぶ。
その後にさっきまでとは違う女の子の声が。

頭では理解している。
理解しているのに、腕を離せない。
目の前の化け物が怖くて仕方がないから。

ユイの小さく息を吸う音が聞こえて来て、指が震えた。

「いつか、偽物の自分が本当になって、楽になれると考えてるのかな。
馬鹿だなあ。
楽になんてなれるわけがないのに。
忘れたはずなのに、本当の自分は時々腹の底や心の底から這い出て来て、暴れて、どうしようもなく気持ち悪くなるんだよ。
空っぽの中で憎いことや悲しいことと混ざって、どれがどれだか解らなくなる。
腐って、いつか暴れ出して、どうしようもなくなる。
いくら振り払っても消えてくれない。
最後には疲れ果てて、それでも…本当の自分を取り戻したいと足掻いて、呼吸の仕方も忘れだすんだよ。
当たり前のことが出来なくなる。
それはね、気持ち悪いよ。
二度と同じ視界になんて戻れない。
ここから抜け出しても、元になんて戻れないんだよ」

静かな声でゆっくりと彼女は呟く。
淡々としていて、それがどうしようもなく怖い。
青色がどこまでも暗く深く私を吸い込んで離さない。

口の端から透明な液体をぽたぽたと零れた。
鳥海ユイの透明な声が、聞きたくもないのに、私の中に入ってくる。

空虚な青い目が私を見つめている。

「そんなものにあなたはなりたいの?」

そして、小さな……本当に小さな怪物が、自分を嘲るように微笑んだ。

その瞬間、私は彼女の腕を離してしまった。

私は目の前の怪物に負けたのだ。


骨の軋む音が止む。

呆然とする私の下から、ずるりとユイが這い出た。
私は彼女の背中からずり落ちて、その場に座り込む。
時代錯誤なドレスがさらりと音を立てた。

《ヨルっ! 大丈夫!?》

「うん。大丈夫。
ギリギリだったけど…」

渾身の力で捻り上げたから、痛いのは当たり前。
彼女は一度も痛いとは言わなかったけれど、見れば微かに指が震えている。
私への恐怖からじゃない。
痛いから震えているんだ。

私はといえば、怖くて震えている。
目の前の人物が、偽物の自分が、怖くて…震えている。

あんなものにはなりたくないと心が叫んでいる。

この部屋の外に出るのは怖いのに、この部屋から出る以外は逃げる方法がない。

彼女たちの会話に耳を傾けると、今外に出るか出ないかで揉めているようだった。
ただ、この場において、主導権はユイにある。
彼女の仲間じゃなくて、私でもなくて。

「大丈夫だから」

《大丈夫じゃない。
このままの状態にすれば、君はまた彼女を挑発するだろう》

「しないよ。必要がないから」

ユイとターコイズブルーのLBXが言い争っている。
労るような、心の底から心配している男の子の声。
残りの二体からも声が聞こえて来て、それに混じるようにして、微かなベルの音がした。

それは本当に小さな音だったけれど、今日はユイの耳にも届いたらしい。

獣のように瞳を鋭くさせ、この部屋唯一の出口の方を睨む付けた。

「………ごめん。
今は無理みたい」

《え? ちょっとー! ヨル!》

誰が来るのか察したのだろう。
三体のLBXを持ち上げると、私の横を通り過ぎる。
その間もさっきの男の子と言い争っている。

私は……立ち上がって、待っていなくてはいけないのに、立ち上がることが出来ない。

そんな私に何を思ったのか、彼女は丁寧な動作で三体のLBXをクローゼットの中に入れると私に歩み寄った。

彼女は私の側に屈む。
柔らかな影が差して、視界が一気に暗くなった。

逃げたいけど逃げられない。

「……本当に外に出たくないの?」

私が腕を折ろうとしていた時とは違う、単純に私に問いかけてくる声。

他の人がどう思うかは分からないけれど、私にとっては容赦がない。

「あ…」

私が何か言う前に、彼女は小首を傾げて、まるでさっきとは違う普通の女の子みたいに笑ってクローゼットの中に隠れた。

ぱたんと扉の閉じる音。

ユイの姿が見えなくなって、心からほっとしたけれど、同時に私は負けたんだと思った。

今まで考えずにいたけれど、私はあの人を疑わずにはいられなくなる。
何も変なことはされない。
ただ遊ぶだけだけれど、それを疑わずに入れない。

重い扉の開く音。
あの人が今日もやって来た。



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