08.怪物のお目覚め
CCMの向こうから、くぐもった笑い声が聞こえてくる。
二つの子供の声。
一方は楽しそうだが、もう一方は困ったような声を出している。
話の内容は聞き取れないが、それほど本気で困った様子はないので、そのことにほっとする。

「楽しそうだな。二人とも」

バン君が呆れたように言ったのに対して、「ああ」と僕も静かに同意した。
彼の手にはユウヤと通話状態にしたままのCCMが握られていて、ついさっきそれらしい通気口を見つけたと連絡が入った。
これで助けられるはずだ。

それにしても……と思う。
昨日の過去に戻ったような感覚は錯覚だったのだろうか。
もしも、あの感覚が本当だったのならば、それはとてもマズイことになる気がする。

あそこから、抜け出す気が失せてしまう前に助けなければ。
勘ではあるが、そう思った。

しばらくそうやって考え込んでいると、それは大きな声で遮られた。

「たっだいまー」

明るい声でランが車のドアを勢いよく開ける。
その顔は満足げであり、手応えを感じている顔だった。

「おう。よくやったな」

コブラがそう言うと、「へへー」っと得意げに笑った。
それに続いて、ヒロとジェシカ、ユウヤ、最後に拓也さんが車に乗り込む。
とりあえずは用が済んだのに家の周りにいるのは怪しまれるので、一旦この場から離れる。

「それで、いつ侵入するの?
今から?」

「いや、昼間ではいくらLBXと言えども目立つ。
侵入は夜だ。それまでは『NICS』で待機だ」

拓也さんの指示にランは不満げに頬を膨らませるが、この場合は仕方があるまい。
「ベアトリス・ターナー」が起きている時間に侵入するのも危険だ。

「それまでに私は家の詳しい間取りを纏めておくわね」

ジェシカがそう言って、ユウヤやヒロにも手伝うように言う。

換気口も見つかった。
おそらくはそこからLBXで地下に侵入できる。
そうなれば、ヨルを助ける足掛かりにはなるはずであり、それを言えればいいのだが、生憎ヨルがCCMを手に取る気配はない。

呑気なものだと思うが、地価の主導権はあちらにあると考えていい。
逆らうのは危険と考えるべきか。

そう考えていると、ユウヤが近寄ってきて尋ねてくる。

「ヨル君から連絡は?」

「ない。
相手と遊んでいるみたいだ」

「遊んでって…大丈夫なんですか? それ」

「……ヨルはそこに関しての勘は鋭いはずだ。
彼女が大丈夫と思ったら、大丈夫だろう」

悪意に関しては僕たちよりもヨルの方が敏感だろう。
今のところはそれで上手くいっているから、そのままで問題ないはずだ。

「はあ…」

多少は納得できたのか、ヒロが曖昧に頷く。

車は発進し、拓也さんの言うように「NICS」へと道を戻っていく。
その際、家の外壁を僕は見上げる。

古い建物を買い取ったというその壁は本来ならば家と相応の美しいもののはずであるのに、今は過去からの亡霊のようにそこにそびえ立っていた。


■■■


「ユイー。あ・そ・び・ま・しょー!」

「……追いかけっこじゃ、勝てないと思うよ」

十回以上したけど、すぐに捕まえられたから。
疲れてはいないけど、足を捻っても困るので、もう走るのは勘弁してほしい。

そう思いながら、今は何時ぐらいだろうかと思いつつ、本棚の本を物色する。
夕食は食べたし、七時か八時ぐらいかなと思って、青色の表紙をした本を手に取る。
海についての本かな、これ。

「もう! ユイが足が速いのがいけないのよ!
私が本当は勝ってたんだから!」

「じゃあ、それでいいよ。
大人しく本でも読んでよう」

「あーきーたー!
あーそーぶーの!!」

「この量の本を全部読んでからいいなよ。その台詞」

そう言う私も内容は飛ばして、ページの端やそこにある落書きだけを確認して本棚に本を戻していく。
ベッドの上でじたばたしている彼女は放っておいて、上の方の本を取ろうと思って、端の方にあった梯子をスライドさせる。

「読書はいーやー!
読んで欲しければ、話して聞かせて!」

「…………してもらったことがないから、多分、無理だよ。
『あの人』にでも読んでもらえば?」

いや、今の私はユイだから出来るかな。
出来るとは思うけど、模倣にしかならなそうだなと思ってしまう。
吐いてしまうと面倒だ。

「……いっつも同じ本だから、飽きた」

彼女はそう言って、ぶうっと頬を膨らませる。

まあ、そうだろうなと思う。
結局のところ、この部屋に漂う空気を作り出しているものと同じ、過去の焼き直しなのだろうから。
本人が分かっているかどうかは疑問が残るけれど。

「いいよーだ。
寝るもん! 不貞寝だもん!」

ぼふりと小さくベッドに沈み込む音がする。
その行動も半日一緒に遊んだことで慣れてしまって、特に問題はないと判断する。
彼女が機嫌を損ねたぐらいで、私に何か危害を加えてくるわけじゃない。

でも、眠れるのはいいなと羨ましく思う。
私は…昔の習慣が戻ったかのように、眠るのが辛くなっている気がする。
胃がピリピリして眠れない。
眠るにはもう少し体を酷使したいけれど、こっそりあのCCMで連絡を取ったら今夜ぐらいに侵入するということなので、そうするわけにはいかない。

本のページを捲る。

古いインクの匂い。
紙のザラザラとした感触。
暖色の明かりに照らされ、視界はセピア色に染まる。

それを不思議と懐かしいと感じながら、私は長い天蓋が付いたベッドを見やる。
ごろんごろんとのた打ち回っている小さな体。

それと同時に換気口も見えて、目を細めた。

「ねえ」

「何よ。所有物」

相変わらず酷い言われようだ。
ユイよりマシかと言われれば、自分で名乗っておきながら、答えようがないけれど。

「ここから出たいって思わないの?」

いざとなれば、冗談で流せるように明るい声を心掛けて訊いてみる。

どう答えるのだろう。

ベッドの上の彼女は、ごろろんと滑り台から落ちるようにベッドから出た。
整えられたシーツが彼女の体に巻き付いていた。

「思わないわ」

彼女はチョコレート色の瞳を不満そうに細めた。
威圧感すら感じるのかもしれないその瞳は、私からすればなんてことはない。
黒い瞳よりもずっと良い。

「だって、外に出ても良いことは一つもないもの。
この家の娘の私が、わざわざ良いこともないくせに外に出る必要はないわ」

「良いことはない外から、私を呼んだのはどうして?」

理由は解り切っている気がするけれども。

私がそう訊くと、彼女は床に広がったシーツの上で寝転がりながら頬杖をつく。
心底面白そうな笑顔。
艶やかに、唇が弧を描く。

「一目惚れ」

きっぱりと彼女は言う。

からかうような視線からして、恥ずかしがってでも欲しいのかもしれない。

まあ、私の方も「惚れ」の部分はどうであれ、「一目」見て同類だと思ったのは事実だから、決して間違いではない。
否定もせず、顔も赤らめず、次の本を手に取る。

やっぱり、児童書の方が可能性は高いだろうか。

「ああっ!
私の所有物の癖に私を喜ばせることも出来ないの?
顔、真っ赤にしなさいよ。
面白味がないわね!
もう、寝る!
お風呂は起きたら!」

「はい、おやすみ。
電気は消しておくから」

適当に手を挙げて、そう答える。
寝つきは本当に良いようで、静かな寝息が聞こえてきた。
本を閉じて、電気のスイッチを下げるついでに本当に寝ているのかを確認する。

「………」

「…狸寝入り…じゃないよね」

小声で呟く。
起きる気配はないので、私は彼女から離れて、この地下室に一つしかない出口に向かって移動する。
その前に毛布にくるんでおいたCCMを取り出した。
閉じてはあるけれど、「NICS」とはちゃんと繋がっているはずだ。

そして、換気口に向かって私は言った。

「いいよ。下りて来て」

あまり大きい声ではなかったけれど、気づいてくれたらしい。
機械の人形が落ちてくるような音がして、それらが上手く私の側に着地する。
コントロールが上手い。
私ではこうはいかないだろう。

《ヨルーっ! 無事で良かったー!
助けに来たよ!》

ミネルバから元気な声が聞こえてくる。
それに対して、「しー…」と静かにのポーズを取りつつ、視線を合わせるように屈みこんだ。

「無事で良かった。
ごめんね。昼間は連絡取れなくて。
それから抵抗も出来ずに捕まって、本当にごめんなさい」

声を潜めて、私はまず謝る。

情けない私。
あの時抵抗していれば、こんなことにはならなかったかもしれない。
今更ながら後悔する。

《ヨルは何も悪くないよ。
悪いのはヨルを攫った奴さ》

そう声を掛けてくれたのはバン。
目の前のエルシオンが気にするなというような素振りを見せる。
その両隣のミネルバとトリトーンも同意するように頷く。

《ああ。君は何も悪くない》

聞き慣れた声がトリトーンから響く。
トリトーンは私の肩に飛び乗ると、大丈夫だと言うようにもう一度頷いてみせた。

肩のトリトーンも含めて、ここにいるのはエルシオン、ミネルバの三体。
他のみんなは外で待機しているのだろうか。
そのことを尋ねると、バンが「そうだよ」と声を潜めて答えてくれた。

《地下だと跳弾とかあるから、ジャンヌDじゃ行けないって、残念がってたよ》

残念がるジェシカの姿が目に浮かぶ…と思っていたら、微かに彼女の叫び声のようなものが聞こえた気がした。

《ヒロとユウヤと一緒に外で待機してくれてるよ。
それよりも、早くここから出よう》

バンが声を潜めつつ、そう言う。

《……っ。出口はどこだ?》

肩からジンの声が聞こえてくる。
言い淀んだのは私の名前を呼ぼうとしたからか。
彼は律儀に言ってはいけないというのを守ってくれたようだ。

私は頷くと立ち上がって、出口の方を指差す。

「あそこが唯一の出口…だと思う。
言った通り、扉が強化ダンボールで出来てるんだけど、壊せるかな?」

《なるほど……分かった。
君は下がっていろ。
バン君、ラン。
三人同時に「必殺ファンクション」だ》

《分かったよ。ジン。
ラン、準備は良いな?》

《まかせて。バン、ジン》

トリトーンが私の肩から飛び降りる。
三体が武器を構え、私は少し後ろに下がる。

少し気になったのでベッドの方を見てみると、シーツがさっきよりも乱れている気がした。
彼女の寝相が悪いのかと思ったけれど、違った。

《「必殺――…》

「むぎゃっ!」

なんとも恥ずかしい声が出てしまう。
倒れ込んで、鼻を強打してしまった。
足の部分が嫌に重い…というか、この重さには覚えがある。

それから、背中に鈍い痛みが走り、一瞬息が出来なくなった。

《どうしたんだっ!?》

「動かないで!」

バンの声に続いて、背中から聞こえて来たのは高いソプラノ。
それが耳に響いて痛い。

続いて、腕にも引きつるような痛みが走る。

「動いたら、この子の腕、折るわ」

地下室に反響する声。
酷く焦っているようでいて、それが本気であるというのが伝わってくる冷静な声だった。

《………「ベアトリス・ターナー」》

慎重なジンの声。
その声と一緒にギリギリと腕があらぬ方向に曲げられていく。

「そうよ。この子の所有者。
ユイから教わったのかしら?」

《……ユイ?》

疑問を口にしたのは誰なのだろう。
骨が軋む音ばかりが聞こえて来て、判断がつかない。

ギチギチ、ギチギチ。

小さなその体のどこにこんな力があったのか、と問い質したい。
いや、それほどまでに外に出したくないのかと問うべきか。

《……彼女を離すんだ》

「貴方たちが武器を下ろしたらね。
外に出ようとなんてしなければ、この腕を離してあげる。
そんな馬鹿なこと、する必要なんてないんだから」

《そっちが誘拐したんじゃない!
それにヨルはあたしたちの仲間だよ!》

「黙りなさい」

ギリっと骨が軋む。
痛みに声を出しそうになるけれど、それはどうにか抑える。
声なんて出したら、思考がどこかに行ってしまう。
この場でそうなることは最善じゃない。

私は腕からの痛みと重さに耐えながら、曲げられていない方の腕でどうにか上半身を支える。

「……そんなに、外に出るのは、嫌なの?」

「嫌よ。外には良いことなんて、何もないわ」

「……それはっ、嘘だよ」

そもそも、貴女は嘘が吐くのが下手過ぎる。

私が呟いた言葉と共に腕が締め上げられる。

「嘘じゃないわ!」

彼女が声を荒げる。
彼女を見上げると、怒ったような悲しんでいるような複雑な顔をしていた。
裏切られた顔と言うべきかもしれない。
怪しげにブロンドの髪が背中に広がっている。

深呼吸は出来ないけれど、体重で押しつぶされる肺にぎこちなくも酸素を取り込んだ。
苦しくて、口の端から透明な涎が一筋零れた。

それでも、私は彼女のチョコレート色の瞳を見上げる。

骨の軋む音。
チョコレート色の冷たい目。
蛇のようにうねるブロンドの髪。

本物の鳥海ユイだったなら、この状況で泣いて、苦しいと言えたのかもしれない。
もしくは、強く跳ねのけられたのかもしれない。
本物の鳥海ユイのことなんて、もう私に知りようはないけれど。

今でもなりたい。
この瞬間でも、なりたい。
本物の鳥海ユイになって、満たされたい。
それでいて、私はそんなことでは本当に満たされなどしないのだ。

私はこんなのだから、この空間が懐かしくて、どうしようもなく気持ちが悪い。

そう考えて、笑い出しそうなのを私はどうにか堪えた。
堪えて、それでも唇の端がどうしようもなく歪むのを感じながら、私は彼女に言葉を吐いた。


「ねえ、どうして、本当の自分に戻りたくないの?」




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