44.Before Red
おそらくはお互いに訊くべきことを、語るべきことを終え、僕も木漏れ日が降り注ぐベンチから立ち上がる。
ヨルは歩み寄る僕を柔らかな寂しい微笑みで迎え、亜麻色の髪を翻して、光の下へ一歩踏み出す。
遮るものが何もない光はより眩しく彼女を照らした。
仄暗い視界は色を取り戻し、僕にとってはいつも通りの視界が戻ってくる。
「行こうか」
ヨルは僕が彼女と同じように木陰から出ると、そう言って僕の先を歩いた。
■■■
首都の西部に位置するこの空港は、昔は使い勝手の悪いあまり評判の良くない空港の一つだったらしい。
今は色々と対策をしているらしいからそうでもないと私は思うけれど、どこの空港にも付きものの人の多さにはどうしても慣れなかった。
空港の敷地内にある駅に発着するシャトル列車を降りて、私たちはそのまま搭乗手続きに向かう。
目の前を歩くジンは私の歩調に合わせて、ゆっくりと歩いてくれているので、人が多い中彼に追いつくのは思ったほど難しくはない。
でも、私たちに流れる空気は滞留していて、居心地が悪い。
それも当然で、昨日の会話がそうさせていることは明白だった。
心が冷めていくのを感じながら、木漏れ日の下で全てを告白した。
私はあれ以上のことをする気もないし、したいとも思わない。
もう答えは得たから。
誰も他人になれない、なることなんて出来ない。
答えを得たと同時に私はやはり間違っていたことも知った。
それから、お父さんとお母さんのことも、おそらくは認識が間違っていなかったことをまた解ってしまった。
『大切な人たちを間違ってるって言う勇気をちゃんと持たなくちゃ、ダメだよ』
「サヨナラ」の前、ユイに言われた言葉を思い出す。
そのために必要なことが分かっただけで十分で、分かってしまったことが堪らなく虚しくて、憎くて、信じられなくて、それでいて驚くほどに納得して心が抉られるようだった。
このまま進めば、自分で自分に勝手な言い訳を考えて、今度こそ本当に取り返しのつかないことになる。
そうすれば、リゼたちをまた傷つける。
何よりもジンに迷惑を掛ける。
私は彼が私のことを忘れていたことを盾にして、私を助けてくれることを望んでいる。
それはとてもずるいことで、これ以上してはいけないことだ。
私がそう考えているとジンが不意に歩みを止めて、私の方を向く。
痛みを伴った紅い瞳で私を見つめながら、彼は口を開いた。
「君は、これからどうするんだ?」
「………えっと、多分一旦ロシアに帰ると思う」
「帰る」という言い方が正しいのかどうかは分からないけれど、そう答えるとジンは驚いたように目を丸くした。
「『帰る』? どうしてだ?」
「元々長期でロシアの方に来ないかって、リリアさんに呼ばれてたんだ。
ロシア語の勉強のやり直しとか、LBXのテストプレイとか……そういうことをしないかって。
今回のことでリリアさんにはたくさん迷惑を掛けたから、協力しようと思うんだ」
なるべく明るい声を出すように意識しながら言うと、ジンは色々な感情が混じり合い、最後には何かを堪えるような色を湛えた眼差しで私を見る。
それが申し訳なくて、俯きそうになって、私は無理矢理笑った。
「リリアさんからの申し出だから、大変そうだけどね」
苦笑に近い笑みだったけれど、上手く笑えたとは思う。
大変そうなのは事実だけれど。
これはどっちに近い笑みなんだろうか。
私よりもユイっぽいかもしれないけれど、自分では分からなくて、でも確認したら余計に虚しくなってしまいそうで、微笑んでいるしか私にはなかった。
苦しそうに私を見つめるジンの右腕が上がる。
上がるけれど、それが何かを掴むとかどこかに伸びるとか、そんなことはなかった。
ただぎゅっと拳を握り、辛そうに腕を下ろしただけだった。
「…………」
私はその一連の動作を目で追い、苦しみの浮かぶ瞳を見つめて、少しだけ考える。
それから、ジンに代わるようにして、私の方が右手を上げた。
身長差から普段私が誰かにされるように頭を撫でるわけにはいかず、少しだけ躊躇してから彼の頬に手を伸ばした。
そこなら、私でもまだ簡単に手を伸ばせたから。
温かいような、冷たいような彼の頬に触れて、力加減を間違わないように撫でる。
ジンはまた驚いたように私を見るけれど、私の手を退けようとはしなかった。
ジンを撫でている私の指先の方がくすぐったい。
「私のことは、気にしなくていいよ。
大丈夫、だから」
自分の言った言葉が正しいのかは解らないけれど、私はジンに向かってそう言った。
「大丈夫」という言葉はあまり使いたくはなかったけれど、この場合は仕方がないと思うことにする。
出来るだけ柔らかく微笑みながら、撫でる。
悲しい時に泣くことや理不尽なことに怒ることは大変だけれど、笑うことはそんなに難しいことじゃない。
それは多分おかしいことなのだろうけれど、それでも私の日常だった。
彼を撫でる手は私が欲しかったものに似ているようで、似ているかもしれないということが気持ち悪い。
似ていないといいと、そんなことを思った。
「…………っ」
ジンの頬を撫でる私を見て、彼は苦しそうな表情をする。
苦しくて、泣きそうで、どうしようもないというように。
彼は静かに何回か深呼吸をしてから、私の手を取る。
そして、ゆっくりと彼の手が私の手を頬から離した。
私の手を取ったまま、同じようにゆっくりとその腕を私の手と一緒に下ろして、最後に私の手を離してくれる。
私の手を離す時、彼は葛藤しながらも小さく呟いた。
「……僕は大丈夫だ」
そこには無理をした笑顔があり、どろりとしたものが胸の内に広がる。
私にとってその笑顔は酷く既視感に溢れたもので、吐いた後のように身体が重くなった。
「うん。それは良いことだね」
気持ち悪さを抑え込み、私は頷いた。
彼の手から離れた私の手が重い。
自分の拳を握ることも叶わないんじゃないかと言うほどに重かった。
だらりと腕が垂れ下がる。
「見送りはここまでで良い。
ありがとう、ヨル」
やっぱりまだ泣きそうな顔のまま、ジンは私から距離を取る。
私は空港でジンが私を見送ってくれたのとは全く正反対の立場でそれを受け入れた。
おそらくは気持ちも全く正反対で、あの時のくすぐったいような誇らしい感情が今はない。
くすんだ色々な感情の奥に眠っているような気がした。
彼は男の子だけれど、儚いという表現の似合う笑みを私に向ける。
「ヨル。それじゃあ、また」
そう言って、さよならと言うように片手を挙げ、私に背を向けて、人混みの中に消えていこうとする。
私はその背中に手を伸ばして、掴んでしまいたいような衝動に駆られて、でもそれは出来ないことのように感じられて、代わりに……私はその背中に向かって叫んだ。
「ジン!」
私の大きな声にジンだけではなく、周りの人たちも振り返る。
私はその他のたくさんの視線なんて気にせず、目の前で驚いたような顔をするジンの目をまっすぐに見て、指が微かに震えるのを抑えながら、今度は彼にだけ聞こえるように囁いた。
「助けてくれて、ありがとう」
それは本当の言葉だったけれど、ジンは儚い笑みを崩して、泣きそうな紅い瞳をした。
紅色の中に揺蕩う感情。
その感情を私は知っている気がした。
酷く懐かしい、突き放されたような、どこか絶望した感情。
でも、その中に澄んだ小さな希望が沈んでいる。
「………ああ」
ジンは小さくそう呟いて、今度こそ人混みに紛れて、消えてしまう。
私はその背中が見えなくなっても、その背中を探すように彼が消えた方を見つめていた。
視界は仄暗い。
感情は果てしなく重く、冷めていく。
ジンに掴まれていた手も重かった。
「………」
心細い。
ジンと私の間の空気は停滞していて、まるで冬のように冷たかったのに、彼が消えた途端心細くて仕方がなかった。
冷めた木漏れ日の下で感じた、ユイがいなくなった時の寂寥とは違う寂しさが訪れる。
でも、それではいけないと思って、もう一度深く長く深呼吸をしてから、ふっと不敵に微笑んでみる。
そうすると、心の中で黒く重い泥で透明な膜をがりがりと打ち破ろうとする感覚が襲ってくる。
なんだか酸素の薄い場所に放り出されたような、深い海の底に置き去りにされたような錯覚に陥った。
心細い。息苦しい。寒い。
「『大丈夫だよ。ヨルちゃん』」
心細さを消したいがための戯れに、そんなことを呟く。
ほんの少し前まで私を救って、絶望の淵に落とした言葉はただ虚しいだけで、私の心細さを消してなんてくれなかった。
俯いた視線の先にある足元の影が不意に少しだけ気になって、私は硝子の向こう側に見えた青い空を見上げる。
明るく真っ青な空が不気味なほどに高く澄んでいて、まるで高い空の中に突き落とされたかのようで、気持ち悪かった。
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