Girl´s HOLIC!

42.遠い夜明け

心細い。

鳥海ユイではなくなって、彼女になっていた時とはまた違う心細さがある。
吐き気を伴う気持ち悪さではなく、心にぽっかりと空いたような寂しさが常に付きまとう。

やっと雨宮ヨルに戻れたのに、身勝手なもので縋って来た存在が遠くなる度に言いようのない寂寥が襲ってくる。

ジンの言葉に震えそうになる指先に意識を集中して、どうにか押さえ込む。

ここで震えてはダメだ。

自分に言い聞かせる。

ジンの悲しげな震えた声が、細い銀色の雨のように静かに降ってくる。
それが痛いと感じてしまう。

「………父親にされてきたことを、アリシア・ホワイトに対して君はしたんだ。
その違いは本人にそうなれと言っていたかどうかの違いだろう。
だからこそ、君はアリシア・ホワイトを倒してしまうわけにはいかなかった。
君では『お母さん』は倒せない。
少なくとも……君が彼女を見限るまでは」

「…………」

ジンが漸くというように声を絞り出す。
膝に置かれた彼の手は白くなる程に強く握られ、そのうち血が滲んでしまうのではないかと思えた。

私はゆっくりと静かに深呼吸をしながら、彼の次の言葉を待つ。

「いつ、アリシア・ホワイトを母親に見立てた。
きっかけは何だ?
どうして……どうして、こんなことをしたんだ……っ」

強い後悔と怒りが滲む声だった。

その声に指の末端から冷えていく。
木漏れ日は温かく、風は柔らかいのに、私たちがいる場所はまるで冬のようだった。

「こんなこと」という言葉に、醜いものが全部溢れそうになって、余計に息苦しさが増した。

夕日が溶け、金色の染まる部屋の中で聞いたお姉ちゃんの声が思い出される。
あの時の言葉が忘れられない。

砂糖を無数に溶かした甘い声が告げたこと。
理解しようというお姉ちゃんの意志が、もう言い訳もしてくれない裏切りが、私に告げられる。

その中には、確かに私の求めた答えもあったのだ。
もう聞けないけれど、これだけは分かる。

私が……間違っていたことだけは。


■■■


身体の中を這いずり回る気持ち悪さをどうにか抑えつけて、僕は続けた。
背中に嫌な汗が伝う。

ヨルが「お母さん」みたいだからとアリシア・ホワイトに懐いていると聞いた時からあった違和感の正体。

そうだ。
雨宮ヨルならそんなことは言わないし、言えるはずもない。
例えそれが何気ない会話の中であったとしても、彼女が誰かを家族に例えるはずがない。
「家族」はヨルにとって、侵してはいけない醜く、神聖な領域なのだから。

それに、ヨルはAIのユイと本物の鳥海ユイを明確に区別していた。

何よりも彼女自身が鳥海ユイに成り代わっていたために、他人と自分との線引きに恐ろしい程に執着していることを僕は知っている。

ヨルはそんな僕の声をどう思って聞いていたのだろうか。
その顔は無表情で、全く感情が見えない。
ただ木漏れ日を受けて、白い肌に掛かった影がゆらゆらと動く。
影との対比で肌は余計に白く見え、青い瞳は暗い色を湛えてゆるりと鈍く輝いた。

木々のざわめきに混じるようにして、彼女の微かな呼吸の音が聞こえてくる。
深く息を吸い、吐く。
それを繰り返し、胸がゆっくりと上下する。
その当たり前の動作がそれしか知らないというような無垢な幼さを出しているのに、艶めかしい。

「……『こんなこと』じゃない」

地の底から響くような冷たい声だった。
青い瞳に確かな意志を宿しているが、その意志は黒く濁っていて、目を逸らしそうになる。
それをどうにか堪えて、僕は彼女を見つめた。

彼女は視線を下げず、その視線の先におそらくは楽しげに遊ぶ子供たちを捉えながら、言葉を続ける。

「………本当に最初のきっかけは、あのお姉ちゃんの最後の言葉だよ。
あれで私は本当は何も理解していなかったんだって、思い知らされた。
ちゃんとお別れ出来たはずだったのに、ずっと後悔してる。

私がなりたかったものって何?
私のやって来たことは?
私になりたいって、どうしてそんなことが思えるの?
私がお姉ちゃんになりたいって分かっていて、どうしてそんなことを言えたんだろう。

嘘じゃないこともたくさんあることは分かってるけど、嘘が多すぎるよね。

でも、お姉ちゃんを愛してるんだよ、私。

あの残酷なイキモノが、私のたった一人のお姉ちゃんだから」

愛憎で染まった、底が見えないような暗い声で彼女が言う。
木漏れ日を受けて輝く青色の瞳の奥には、どろどろとした黒い泥のような色が揺蕩っている。

扉越しに聞いた、くぐもった鳥海ユイの甘い声が蘇る。
それから、ヨルの透明な涙の感触が。

「お姉ちゃんは私と本当に解り合おうとしてくれたけれど、でも、そんなことはもう出来ない。
………その前に、死んじゃったんだもの。当然だよね。
死んだら、もう二度と会えない。
だから、ユイを完成させようと思ったんだから」

酷く冷めた声が響く。

心臓をその声で握られているようだった。
じわりと、ゆっくり心臓を握りつぶされていくような錯覚。

「悲しくて、寂しくて、どうしようもなくて、疲れて………でも、逢いたかった。
お姉ちゃんに逢いたかったんだよ。
お母さんにだって、お父さんにだって、私は逢いたい。
本物の家族に私は……今も逢いたくて仕方がない。

愛してくれないって分かっているのに、おかしいね」

「それならば、君がやってきたことに何の意味があるんだ」

ヨルの言葉に、そう言わずにはいれなかった。

言葉の中の憎悪が多くなると、愛しさが比重を増す。
ふらふらとバランスを保ちながら、不恰好な感情が満ちている。

死んだ人には逢えない。

僕も、ヨルも、誰だって、そうだ。

それをヨルは分かっているはずなのに、どうして過ちを犯すのか。

「……そうだね。無意味だね。
でもね、ジン。
私はアリシアさんを……あの人がソフィアさんを憎しみと恨みが混ざり合った瞳で見た時に、思ったの。思ってしまったんだよ。
私には出来なかったけれど、あの人なら出来るかもしれないって。

お母さんの気持ち、知りたかったから。
そのために遺品をリリアさんに頼んで送ってもらったけれど、まだ足りなくて、お母さん自身から聞きたくて……あの人を利用した」

ヨルが自嘲するように微かに笑いながら言う言葉に、ぐっと唇を噛む。

彼女の渇いた笑みが、苦しい。

分かりたいと言うのなら、彼女は母親からのあの手紙を読んだのだろう。
自分のことが何一つも書かれていない、あの手紙を。

あれを読んでも、彼女は未だ母親を求めるのか。

その心の内が僕には分からない。
透明だったはずのその場所に愛しさや憎しみが注がれ、見つめようとするたびに色や形が変わるそれを分かりたくて、分かりたくない。

「利用して、途中までは上手くいったんだよ?
あの人は本当にお母さんとそっくりだったから、少し誘導するだけで良かったから。
アリシアさんに褒められた時ね、お母さんに褒められてるみたいだった。
私、お母さんに褒められたことがないから、分からないけど、嬉しかったよ」

「………っ」

心臓を一気に締め上げられる。

当たり前のような笑顔が辛い。
まだその笑顔を浮かべられることも、辛い。

ヨルのしたことは簡単に許されていいことじゃない。

でも、僕にはその理由が酷くどうしようもなくて、その先には暗い絶望しかないことを知っている。
だからこそ、無闇に責めることが出来ない。

「なら、どうして、アリシア・ホワイトを見限ったんだ……」

僕が辛うじてそう訊くと、ヨルは一際冷たい笑みを浮かべた。
その笑顔に背筋が凍り、言いようのない恐怖が襲ってくる。

彼女はそんな僕に気づかないのか、無慈悲に淡々と言葉を続けていく。

「私を、助けてくれたから」

何の躊躇もない、当然と言うような口調だった。

僕は思わず目を丸くしてしまう。

頭の中をぐるぐると彼女の言葉が巡り、その意味が分からなかった。
何故、助けてくれたから見限るのか。
不可解過ぎると思わずにはいられない。

そして、ヨルは僕に何度目か分からない微笑みを向ける。

色々な感情が溶け込み過ぎている深海の暗闇を湛えた瞳。

この瞳が、僕は怖くて仕方がない。

「あの人、私たちがソフィアさんのLBXに襲われた時、その攻撃が当たりそうになった時、私を助けようとして突き飛ばしたんだ。
こう……横から、ね。
あれは私の操作を撹乱させようとしたのかな。
それでもね、あそこで私は気づいたの。

お母さんなら、こんなことしないって。

お母さんはお父さんしか見えてなかったから」

手で軽く突き飛ばすような動きをしながら、楽しそうにヨルは言った。
当たり前で金色に柔らかく輝く日常を語るようなその口ぶりは、僕の中の気持ち悪さを助長させる。

いや、彼女にとっては日常だったのだろう。
すぐそばにあった日常を思い出して、取り出しているだけのだ。

「そう思ったら、もう『お母さん』なんて思えなくなった。
自分で最低だと分かっても、夢から醒めていく感覚がよく分かったよ。
あの人はお母さんよりも、ずっと正常でねじ曲がってなくて、保身的だった。
お母さんの方がずっと烈しかった。
お母さんとは全く違う」

「お母さん」とヨルが言うと、胸に痛みが広がっていく。
冷たい手が握る心臓はぎちりと嫌な音を立てる。

子供たちの楽しげな声が、透明な壁で遮られたように聞こえてくる。
どうしようもない気持ち悪さに苛まれながら、ヨルの静かで冷たい声に耳を澄ませる。

音が遠くなっていく中で、彼女の声だけがはっきりと聞こえるのが不思議だった。

「だから、見限った。
最低のことをした。
あの人は、私にとって『お母さん』には成り得なかった。
私でもダメだった。あの人でも、ダメだった。
その時に気づいていたはずなのに、でも、私は……もう私を止められなかったんだ。
どうしても、後には戻れなかったんだ。ジン」


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