Girl´s HOLIC!

36.幸福の味


目覚めた最初に窓の外を見ると、空は淡い紫と茜色が入り混じる美しい夜明け色をしていて、それに微かに目を細める。
もう一度眠るという気も起きず、ベッドから体を起こして着替えると、僕はなるべく音を立てないように注意しながら階段を下りた。

ヨルが犯人を捕まえると言っていたのは、今日だ。
そのために昨日家に帰って来てから、正確にはヨルがリゼに叱られた後、三人で作戦を立てた。
ヨルがそのための仕込みをしただろうし、もしもの時に…ということでリリアさんにも今度こそ正直に連絡を入れていたことも思い出す。
僕の方もそのために準備をしていた。
ヨルが手伝ってくれたため、それ程夜更かしをした訳ではないが、欠伸が零れそうになり、慌てて噛み殺す。

階下に人の気配はない。

幸い、この家にある物はある程度自由に使ってもいいと言われている。
紅茶でも淹れさせて貰おうとリビングに入ると、ふわりと甘い匂いが漂って来た。

「あ……」

甘い匂いのする方を見ると、髪を一つに纏めたヨルが目を丸くして僕を見ていた。
彼女は少し視線を手元に落としてから、僕へと微笑みかける。

「ジン。おはよう」

やや舌足らずの子供のような声で挨拶をしてくれる。
昨日の……泣き出しそうな笑顔や懇願するような瞳が嘘のように穏やかで、僕は拍子抜けしてしまった。

僕も彼女に対して同じように「おはよう」と返す。

「早いね。少し驚いた。
昨日の作業の後、眠れなかった?」

「いいや、よく眠れた。
さっき起きたばかりだ
一度起きたら、眠る気になれなかったんだ」

「なるほど。
私も今日は早起きだったんだ。
だから、昨日の続きでティンカー・ベルを整備してたんだけど……なかなか捗らないね」

ヨルのその言葉通り、テーブルの上を見ると、ティンカー・ベルとCCM、それから整備記録の書かれたノートが開いた状態で置かれていた。
その下には見覚えのある手紙が見えたが、それは見ないふりをする。
思い出して、気持ちの良いものではない。

ヨルはコポコポという音を立てながら、用意したカップに小さな鍋から白い湯気を立てる液体を淹れていく。
色からして、おそらくミルクだろう。

これから眠るつもりなのだろうかと首を傾げると、ヨルがくすりと小さく笑う。

「ホットミルクって、リラックス効果があるんだって。
ジンも飲む? それとも、紅茶の方がいい?」

「いや、僕も君と同じで良い」

僕がそう言うと、彼女はもう一つカップを用意して、そちらにもホットミルクを注いでいく。
それから、戸棚から黄金色の蜂蜜が入った瓶を取り出した。

「蜂蜜、入れても大丈夫?」

「ああ」

ヨルは僕に確認を取ると、ティースプーンで蜂蜜を掬って、ホットミルクの中に入れ、丁寧に掻き混ぜる。
ふわりと甘い匂いが再び漂い、包み込むような、柔らかな匂いに無意識に張っていた緊張の糸が緩んでいくような気がした。

彼女は危なげなくカップを二つ手に持ってやって来ると、両方ともテーブルに置く。
開いていたノートを閉じて、テーブルの端に追いやると反対側に回り、そこに座った。
僕はヨルが元々座っていた場所に腰掛ける。

「どうぞ。ジン」

そう言って、ヨルはホットミルクを一口飲んだ。

僕もそれに倣うように、じんわりと僕の手を温めるカップに口を付ける。
柔らかな甘さが口の中に広がり、腹の底に溜まっていた不安やどこか黒々とした感情が少しずつ溶けていくような感覚に陥る。

「…………」

「…………」

お互いに無言ではあったが、嫌な沈黙ではなかった。

むしろ心地の良い、微睡んでしまうような沈黙であり、僕は思わず安堵のような溜め息を吐いてしまう。
それから、彼女の喉が小さくこくんと動いて、美味しそうにホットミルクを飲んでいくのを見つめる。
彼女はカップから口を離して、青い瞳を柔らかに細めた。

小さな手で持つカップの中身は既に空であり、それが妙に子供らしく、微笑ましい。

「今日は……」

「……ん?」

沈黙を破ってしまったが、不思議と不快感はない。
ヨルが首を傾げて僕の方を見ると、一本にまとめた髪が微かに揺れる。
そこに視線を向けながら、僕は言葉を続けた。

「髪を、結んでいるんだな」

「ああ……最近はよく結んでるけど、今日は寝癖がなかなか直らなくて、だから結んでるんだ」

ヨルは苦笑し、亜麻色の髪を手で触れながら、そう答えてくれる。
僕はそういうものかとなんとなく納得し、しばらくしてからカップをテーブルに置く。
いつの間にか残り少なくなっていたミルクが揺れた。

「櫛はあるか?」

「櫛?」

僕がそう訊くと、彼女はカップをテーブルに置いて立ち上がり、手をテーブルの端の方へと伸ばした。
そこにある小物入れの中から櫛を取り出し、僕へと渡してくれる。

僕はそれを受け取り、彼女の背後へと回った。

「……ジン?」

ヨルは青い瞳で不思議そうに僕を見上げる。
僕は彼女の亜麻色の髪に触り、彼女の瞳と同じ色をしたリボンに手を伸ばした。

「髪を下ろしてもいいだろうか?」

「それは…良いけど…えっと、唐突だね」

ヨルは僕の手元の櫛を見て、少しだけ戸惑う。
自分でリボンを外そうとする彼女の手を制して、僕はゆっくりとそれを解いた。

リボンの解ける滑らかな音がした後、亜麻色の髪が静かに彼女の背中に落ちる。

「ホットミルクのお礼だ」

「……そっか。お礼ね」

僕がそう言うと、ヨルは微かに笑うように呟く。
涼しげな声が耳を撫で、それが少しばかりくすぐったい。

乱暴な持ち方にならないように注意しながら、長い亜麻色の髪を掬う。
柔らかい感触が僕の手を覆い、窓から零れる朝日で亜麻色は澄んだ金色に輝いた。

あまり寝癖があるようには思えない髪に櫛を通す。

「痛くはないか?」

慣れないことに僕が確認すると、ヨルはくすくすと普段よりもずっと澄んだ声で笑う。
その声に、空気が優しさに満ちていていくのが分かる。
さっき飲んだホットミルクのようにゆっくりと温かさが満たしていく、いつまでも浸っていたくなる空気。

お互いの呼吸の音すら、驚く程に澄んで聞こえてしまう。

「ううん。大丈夫。
それに乱暴にしても、気にしないから。
リゼが結んでくれた時ので慣れてる」

「……そうか」

とはいえ、あまり乱暴にするわけにはいかない。

寝癖が付いている箇所は丁寧に、何回も梳いていく。
難なく寝癖は治り、するりと長い髪は僕の手から零れ落ちる。

時折、僕の指がヨルの耳やうなじに触れると、彼女の肩が一瞬だけ強張る。
熱を持った吐息を零して、それを解いていた。

ヨルに触れた自分の指は微かに熱を持ったような錯覚に僕は陥る。
それを小さく深呼吸することで振り払った。

優しい沈黙が続く。

蜂蜜のようにとろりとした空気の満ちる空間。

酷く居心地がよく、それでいて…恐ろしい程に隠してはいけない何かまでも包み込む。

ヨルの横顔を、その深く優しい青い瞳を見つめる。
彼女は僕の視線に気づくと、慈しむような眼差しを僕へと向けた。

「……終わったの?」

硝子の鈴を転がしたような透明な声。

「いや、まだだ」

答えながら、手を動かす。

そうは言ったが、寝癖もだいぶ直り、あと少しだ。
朝日を浴びた亜麻色の髪は淡い光沢を放ち、素直に綺麗だと思う。

そう思いながら最後に一梳きして、僕はヨルの髪から手を離した。

手を離すことを少しだけ躊躇したが、亜麻色の髪の方がするりと僕の手から零れ落ちてしまう。

ヨルは僕を見上げ、自分の指を髪に通す。

「うん。私が梳くよりも上手だよ」

そう言って、柔らかく彼女は笑う。
椅子から立ち上がり、僕へと向き直った。

「それは……良かった」

青く澄んだ瞳が僕を見上げる。
淀みも濁りもない、綺麗な青色。
僕とは正反対の色だ。

ヨルはゆっくりと柔らかな朝日に目を細めながら、微笑む。

「ありがとう。ジン。
……それから、今日はよろしく」

「ああ。僕もよろしく頼む」

おそらくは…僕への信頼や強い意志の籠る声に、僕も同じように答える。

今は目の前のことに集中しよう。
ヨルへの疑問も全て終わった後に、本人に訊いても問題ないはずだ。

だから、僕はしっかりとヨルを見据える。

彼女は僕を見て、窓から差し込む朝日のように柔らかく微笑み、首を少しだけ傾ける。
僕が梳いた亜麻色の髪が肩から、音もなく零れ落ちた。

「大丈夫だよ。ジン。
君なら……大丈夫」

ヨルは自分に言い聞かせるように、そう呟いた。


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