33.銀の雨
バケツを引っくり返したような激しい雨の音が、手に握ったナイフから零れる血の音がうるさい。
「はあ…っ…はあ……」
自分の呼吸の音も、信じられないほどにうるさかった。
身体中の血が沸騰したように熱くて、それでいてナイフを握っている部分は驚くぐらいに冷めている。
目の前には、ついこの前まで友人だった人物が転がっている。
その手元にはCCMが開かれたまま落ちていて、今さっき通話が切れた。
通話口から漏れる音が、嫌に耳につく。
■■■
激しい雨が窓に打ち付ける。
久々の激しい雨は予想以上に長く続いて、街中が灰色に煙って見える。
雨粒が無数に窓を叩き、それが流れ落ちる前に次が降ってきて、まるで滝のようだ。
雨音が癒されるという話は良く聞くが、これじゃあ、耳障りなだけな気がする。
目の前のソファにはヨルが膝を立てて座っていて、その横ではジンが通り魔事件のファイルを見ている。
ヨルはジンの手元を覗き込み、何か訊かれれば答えていた。
私は通り魔事件のファイル、正確にはヨルから貰った情報を書き加えたファイルを見ながら、二人の様子を観察する。
特に険悪な雰囲気ということはなく、比較的和やかだと思う。
まあ、ジンがヨルの部屋を漁っていたことは本人は知らないだろうから、当然なのだけれど。
通り魔事件のLBXへの対策を話し合い始めた二人を見ながら、私は自分の手元に視線を移す。
私が気になっていたヨルがファイルに書き足していた情報は、意外にもすんなりと彼女は私とジンに見せた。
それは地方新聞の小さな記事で、LBXによる傷害事件についてのものだった。
事件が起きたのは昼間、被害者は学生。
よくよく読めば、状況は首都で起こっているものと似通っていて、LBXの特徴からもほぼ同一犯としていいだろう。
ただ単体で見ると、事件の期間もだいぶ離れているし、何より傷も軽度で大きくは扱われていないから、これを事件と結びつけるのは難しい。
問題はどうしてこの情報をヨルが隠していたかであり、これだけなら別に隠す必要性がないよなと首を傾げてしまう。
「どうして、隠してたの?」
新聞記事を見せてくれた時にそう訊いたら、ヨルは困ったような顔をしながらも答えた。
「ソフィアさんのスクラップ帳に載ってたから」
たったそれだけのことで、随分と隠していたなと思ったけれど、スクラップ帳という言葉でそれを隠していた理由になんとなく思い当たる。
私も寮にいた時に、ソフィアのスクラップ帳を何度か見たことがある。
あれを一緒に作っていたのは誰なのかを思い出し、それならば、ヨルが隠していたことも納得が出来る。
そもそも、あの自殺未遂をした人とソフィア・アッシュと……もう一人、同じ条件を持つ人物がいる。
もしかしたら、ヨルはずっと前からこのことに気づいていたのか?
ヨルが犯人を「止めたい」と言った時、怒りの籠っていない、とても澄んだ瞳と声をしていたのはそういう理由だったからか。
LBXを利用されたことへの怒りはないのか…とは思うけれど、なんだろう。
妙に不気味だ。
普段通りの笑顔。
普段通りの声と眼差し。
無理に平静を保っているというよりも、すごく自然で無理がない。
笑うし、困ったような顔もするし、少し拗ねてもみるし、年相応な感じがする。
いつも通りなのに、なんとなく不気味だ。
目の前でヨルが自然な表情で、ジンの言ったことに相槌を打つ。
彼もそれに頷きながら、優しさと疑いの宿る紅い目を彼女に向けている。
それを気づいているのか、いないのか、ヨルは彼に柔らかに微笑んでいる。
噛み合ってないなと思いながら、通り魔事件のファイルを仕舞って、ネットの情報を拾おうとする。
最近御用達のニュースサイトにアクセスしようとして、CCMの着信音が鳴った。
ヨルの物でもジンの物でもなく、私のだ。
「おっと…」
テーブルに置いておいたCCMを手に取って、相手を確認する。
「げっ……」
「シエラ」という名前に思わず、そんな声が漏れた。
私のその声にヨルとジンの視線がこちらに向く。
「どうかした?」
「あはは……なんでもない、なんでもない。
ちょっと電話に出て来る」
私は適当に愛想笑いをしてから、通話ボタンに指を置いたまま、リビングから出る。
部屋まで行ってもいいけど、そこまでする相手でもないし、そもそも静かな部屋であいつの声を聞くとか遠慮したいので、少し考えてから玄関の方に向かう。
その間に通話ボタンを押して、CCMを耳に押し付けた。
「もしもし?」
《……………》
電話は繋がっているはずなのに、微かな雨の音しか聞こえてこない。
少しだけ音量を上げてみるけれど、あまり変わらない。
「うーん」と首を傾げつつ、玄関の扉を開けて外に出る。
滝の中にそのままいるかのような雨は、朝から比べれば、幾分か小降りになったようだ。
それでも玄関の屋根に当たる雨音は、なかなかの轟音。
音量を最大にしつつ、再びCCMの向こう側の音に耳を澄ます。
「おーい。シエラ?」
《………はあ……はあ…》
聞こえて来たのは、まるで走っているかのように荒い呼吸。
髪の毛が擦れたのか、ざりっという音も聞こえてくる。
更に首を傾げると、突然背中に硬い感触が当たる。
「いてっ!」
「あ、ごめん。リゼ」
小さく開かれた玄関の扉から顔を出したのは、ヨルだった。
長い亜麻色の髪を垂らし、私を見上げている。
彼女は扉の隙間から体を滑り込ませて私の右横にやって来ると、手で私に体勢を下げるように合図した。
私は中腰…はきついので、両膝を突くような体勢になって、ヨルの身長に合わせる。
ヨルは「ありがとう」と柔らかな笑顔で言ってから、中腰で私のCCMに耳を近づけた。
CCMから相変わらず、荒い呼吸が聞こえるだけ。
でも、よく耳を澄ませると、雨の中を走っているような音も聞こえてくる。
「シエラー?」
私がもう一度彼女の名前を呼ぶと、何か喉に詰まらせたような音をさせてから、やっとシエラの声らしきものが聞こえた。
《……っ…た、》
「……シエラ?」
《た……す、はあ…っけ…》
そう絞り出すような声が聞こえた時、ヨルがまるで弾かれたように立ち上がる。
そして、そのまま雨の中に飛び出した。
雨に打たれ、途端に服が濡れ、長い髪が肌に張り付いたのまでは見えた。
「ちょっと待って! ヨル!
どこに行くの!?」
私も玄関の屋根から出て、彼女の後を追おうとする。
けれど、雨に視界を遮られて、ヨルの姿は灰色の煙った景色の中に隠れて、すぐに見えなくなる。
「ああっ! もう!」
すぐさまCCMを確認するとシエラとの通話は切れていて、彼女には悪いけれど、先にヨルに電話する。
無機質なコール音が続いた後、留守電のアナウンスが聞こえて来て、私は乱暴に通話を切った。
どこだ? どこに行った?
状況的に考えて、シエラの元に向かったのは明らかだ。
なら、どこに向かった?
聞こえてきた音から推測するに、寮の方はありえない。
「助けて」と言っていたのだろうし、それなら寮の中に逃げればいい。
そもそも行くなら、反対だ。
こっちだとしたら、ヨルがシエラに色々と吹き込まれた場所か…!
「リゼ!」
近道を頭の中に思い浮かべていたところで、背後から鋭い声がした。
振り向くと、私と同じようにずぶ濡れのジンが立っている。
紅い目は声と同じように鋭く私を見ていた。
「何があった?」
「……シエラから電話が来て、そうしたらヨルが飛び出して行った。
場所の目星は付けたから、今から後を追う。
ジンはどうする?」
「僕も行く」
間髪入れず、彼は言った。
拳を強く握り、私をまっすぐに見据える。
私は彼に頷いて、ヨルが走っていたであろう方を見る。
金髪が服に、肌にくっついて、気持ち悪い。
それを手で払って、横で留めていたリボンで一本に結び直す。
「行こう!」
そして、私たちはヨルの後を追った。
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