31.痛みが消えるまで
私は彼らに近づきたいと、追いつきたいと思っている。
せめてその背中が見えるところまで、近づきたいと。
そして、彼らの役に立てれば、嬉しい。
そう思っていたから、私はジンの手を握ることが出来たのか。
それとも、微かな痛みを宿すその紅い目を見ていられなかったからか。
どちらにしても、今の私が彼の手を引くというのは、おかしな話だと思う。
でも、今は……強く手を握る。
お互いの体温が不思議に混ざり合って、少しだけ気持ち悪さが収まったような気がした。
■■■
ヨルに手を引かれて、彼女の先導で水の中を泳ぐ魚のように人混みを抜けながら、僕たちは一際大きな公園へと辿り着いた。
子供や老人、親子連れが楽しそうに笑っている中、ヨルは空いているベンチまで僕を連れてくると、僕を座らせて「待ってて」と言ってからどこかへと行ってしまう。
ヨルの背中が遠ざかっていくのを見ながら、自分の掌を見つめる。
さっきまでヨルの手と繋がっていた僕の手には微かな熱が残り、それが余計に申し訳ないような気持ちになる。
彼女は僕に気を遣ってくれたのだろう。
その手に持っていたDキューブも僕に見せないように、即座に鞄の中に仕舞っていた。
重苦しい溜め息を零しそうになった時、頬に何か冷たいものが押し付けられる。
その感触に視線を上げると、ヨルが右手に持っていたコーヒーらしきものを差し出した。
「ブラックで大丈夫?」
「ああ。ありがとう」
お礼を言って受け取ると、その冷たさに掌に残った僅かな熱が霧散していく。
それに寂しさを覚えながらも、ストローに口を付ける。
ヨルの方を見れば、彼女もミルク色になりかけたコーヒーを飲んでいる。
「ちゃんとプロが入れてるから、美味しい…のかな。
コーヒーってあんまり飲まないから、解らないね」
「砂糖とミルクをそんなに入れていれば、味も解らなくなるだろう」
「解るよ。
砂糖とミルクの奥にあるコーヒーの香りを、集中して拾い上げるんだよ。
ちょっとコツがいるんだよ」
それはどういう理屈なんだと言いたくなったが、代わりに溜め息が零れた。
ヨルはそれに対して、くすくすと笑い出す。
「なんだか、少しだけ前に戻ったみたい。
あの時は私はジンに溜め息ばっかり吐かせてたね。
文句もたくさん言われた」
「そうだったな…」
懐かしそうに、いくらかの痛みを含んだ声で彼女は言った。
ヨルがまだ本当の名前ではなかった時。
あの時、彼女はどんな気持ちで僕にヒントを出し、接し続けていたのだろうか。
「楽しかった」と彼女は言っていた。
イオでいることは鳥海ユイでいることよりも楽しかった、と。
でも、本当はヨルはどれほど絶望しながら、イオを演じていたのだろう。
……訊いたところで、教えてくれはしないだろうが。
そう思いながらヨルを見ていると、彼女はストローから口を離し、僕を見上げた。
その青色の瞳を静かに細める。
「………ジン。何かあった?」
「…………」
分かっていたことだが、そう訊かれた。
僕はそれにどう答えればいいか、分からない。
ヨルは僕をじっと見つめながら、僕の答えを待っている。
深く澄んだ瞳に見つめられ、心の奥底まで見透かされているような錯覚に陥る。
「………A国に留学してから、ずっと考えていた」
「……うん」
僕の言葉に、彼女は静かに頷く。
特に促すようなことはせず、次の言葉を待っている。
澄んだ青色の目を優しげに細めて、ヨルは僕を見上げた。
「『イノベーター事件』は僕にとってなんだったのか。
僕はどうすればいいのか。
ずっと考えている」
「………うん。
……答えは、出た?」
「いいや、分からない。
LBXをやめようとも思ったが、出来なかった。
……LBXがあったからこそ、僕はバン君たちと出会えた。
でも、僕はLBXがあったからこそ、取り返しのつかないことをした」
『イノベーター事件』がなければ、お祖父様を喪うことはなかったのかもしれない。
彼への感謝と憎しみを同時に抱くことはなかっただろう。
しかし、あの事件がなければ僕もヨルも出会うことはなかった。
ヨルの果てのない愛憎を知ることもなかった。
僕はこれからどうするべきなのか。
ヨルは「『自分』になりたい」と確かな意志で言っていたのに、僕自身はそれが分からない。
「……君にとって、『イノベーター事件』は何だったんだ」
知らず、僕はヨルに問いかけていた。
彼女は自分の手の中のミルク色をしたコーヒーを揺らす。
カップの中の氷がカラカラと音を立てた。
沈黙が満ちていく中、柔らかい風が吹き、木々が揺れ、ヨルの長い髪が少しだけ靡く。
それを手で抑えながら、彼女は僕から外した視線を前に向ける。
その視線の先には楽しそうに遊ぶ親子や子供の姿。
ヨルはそれを羨ましそうに見つめていた。
「あの事件がなければ、私は……ここにはいなかっただろうね。
きっと、違う場所で死んでたよ、私。
だって、それしか残されてなかったから」
無機質な声でヨルが呟く。
その声は先程まであった感情は消え、不自然なほどに澄み切っていた。
「檜山さんには会わず、どれだけ時間が掛かってもユイを完成させて、お母さんたちと同じ場所に向かったと思う。
それとも、ユイを完成させることなんて出来なかったのかな…。
ジンも私を思い出すことはなかったし、『雨宮ヨル』って名乗ることもなかった。
そういう意味では、『イノベーター事件』もLBXも私を救ったのかもしれない。
………救われたからって、全部が全部そうなるって訳ではなかったけれど」
姉の言葉がその最たるものだろう。
あれはヨルに何を与えたのか。
涙を流せたこと、解り合おうとする意志がその中にあったことも、永遠に閉じた場所から抜け出すきっかけになったことも確かだ。
そして、ヨルに憎しみを抱かせたことも。
「LBXは檜山さんに言われてやっていたのもあるけれど、お姉ちゃんがすごく強くて、何かを与えられているのが羨ましくて、私もそうなりたくて始めたの。
同じようになれなくて、どうしようもなくて、虚しくなるばかりだった。
でも、ティンカー・ベルは初めての私の機体で、それが少しだけ嬉しかった。
嬉しかったの……。
懐かしかったなあ。嬉しいって、思うの。
LBXは認めてもらうための、鳥海ユイになるための道具で、お姉ちゃんが私に残してくれたものの一つ。
大事なものだったはずなのに、クイーンが壊れた時、体が軽くなって、壊れて良かったと一瞬でも思わずにはいられなかった」
どうしようもない痛みに耐えるように、ヨルの声が震える。
まだ塞ぎ切っていない傷口を自ら抉り、血を流しているようなものなのだから、それは当然なのかもしれない。
しばらく沈黙してから、ふっと自嘲するように笑い、彼女はゆっくりと否定するように首を横に振る。
「……『かもしれない』じゃないね。
LBXは私を救ったよ。
バン君たちと出会えた。新しい友達も出来たよ。
………ジンにまた会えた。
『イノベーター事件』は私にきっかけをくれた。それもまた救いの一つなのかな。
憎しみも悲しみも喜びも愛も、全部吐き出さなければいけなかったけれど、醜い自分自身をみんなに見せなければいけなかったけれど、救いはあった。
今、ここにいるのが、その証拠だよ。ジン」
ヨルはどこか暗い目をして、僕に言う。
彼女は微笑み、そして暗く澄んだ良く通る声で続ける。
「でも、それは私の答えであって、ジンの答えじゃない。
私にとっては救いになっても………ジンにとってはきっと違う」
僕がかつてヨルに言ったことが自分に返って来ているようだ。
自分自身の答えは自分で探さなければいけないと、僕は彼女に言った。
どれだけ時間が掛かっても、僕もヨルも答えを見つけなければいけない。
答えが見つからないというのは、こんなにももどかしいものなのか。
僕は随分と彼女に無責任なことを言っていたんだと実感する。
答えが欲しい。
誰か助けて欲しい、と。
僅かながらでも、思わずにはいられない。
それでいて、自分で見つけなければ、納得など出来ない。
相反した思いが身体の中で渦巻き、気持ちが悪い。
「ジンがこれから、またLBXをやめたいと言うのなら、やめてもいいと思う。
LBXがジンを幸せにしないのなら、私は止めない。
それに……今この場所で話している私が、君に何か言えるはずがないから」
最後は痛みの混じる、寂しげな口調だった。
その声に、儚げな笑みに、僕は何故か違和感を覚えた。
痛みを、苦しみを語る姿は、間違いなく本物だ。
瞳の中に複雑に絡まる感情は嘘の吐きようがない。
しかし、最後の言葉の意味が……何か引っかかる。
居座り続ける気持ち悪さの中に、更に別の違和感が生まれ始める。
「さて、と……」
残っていたコーヒーを飲み干し、ヨルは立ち上がる。
さすがに甘すぎたのか、舌を小さく出し、不味そうに顔をしかめている。
「捨てて来るね。
ジンのも、もういい?」
「ああ。すまない」
彼女は僕に確認すると、いつの間にか空になっていたカップを僕の手から受け取り、ゴミ箱に捨てる。
投げ入れるかとも思ったが、しっかりとゴミ箱に垂直に落とした。
くるりと長い髪を翻しながら帰ってきた彼女は、その白く小さな手を僕へと差し出す。
僕はその手を取って、立ち上がる。
彼女が僕から預かったままだった紙袋もその際に受け取り、立ち上がらせてくれたヨルの手を離した。
「帰ろうか」
「……そうだな」
なおも透きとおる痛みを伴った声で、ヨルは言った。
漸く視界に捉えた柔らかな木漏れ日を受け、彼女は歩き出す。
後ろで手を組み、ゆっくりとした動作で僕の少し前を歩き、亜麻色の長い髪を揺らした。
僕も小さなその背中を追いかける。
違和感がじわりと胸の奥で広がっていくのを感じながら。
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