28.駒鳥と雀
ドアノブを握る時。
それをゆっくりと回して、開いた時。
開いた扉の先に、まっすぐな紅い瞳が見えた時。
じわりと胸の奥に鈍い痛みが広がっていくような気がした。
すぐそこまで迫っていた銀色の細い針が、やっと心臓を刺していくように。
ゆっくりと、でも躊躇することなく生温い血を垂らしながら、奥へ奥へと針が刺し込まれる。
紅い瞳がどこか憂いを帯びているのを見た時。
じわり、じわりと刺さり続ける針に血が伝い、一滴落ちたような音が胸の奥から聴こえたような気がした。
■■■
海のように青い瞳と目が合う。
その瞳は僕を見ると微かに揺らめいて、ドアノブを握る手に力が籠る。
扉がギシっと歪な音を立てた。
「………っ」
ヨルの息を呑む音が聞こえた。
何か言おうとしたのか、口を開きかけて止めた。
僕はその行動に目を細めながら、こちらから彼女に声を掛ける。
「久しぶりだな。ヨル」
なるべく静かにそう言うと、彼女はこくんと何かを飲み込むように喉を動かす。
動揺したようにまた青色が揺らぐ。
「……どうして、ジンが?」
不思議そうな目をして、彼女は僕に訊いた。
その反応は尤もであるのだろうけれど、少しだけ違和感があるように感じられる。
「…手紙に『大丈夫』と書いていたからだ。
僕は……ああいう時の君の『大丈夫』はあまり信用していない」
「…………」
本人にも思い当たる節があるのだろう。
僕の言葉にヨルが押し黙る。
数日前、いつもよりも遅れて届いたヨルの手紙には「大丈夫」という言葉があった。
彼女は普段「大丈夫」という言葉をあまり手紙に書かない。
その言葉が嫌いなのか、単にそう書くようなことがないのかは分からないが、とにかく「大丈夫」という言葉が異様に引っ掛かった。
それに僕の方にはリリアさんから連絡があった。
やはり厄介なことに首を突っ込んだらしい、と…。
「………そう。
とりあえず、中に入って。
詳しい話は中で」
彼女が身体を移動させて、僕を中へと招き入れる。
それに頷いて僕は中へと入る。
ヨルに聞いていた通り、家の中には本が所狭しと積まれていて、なかなかに圧巻だ。
ただ聞いていたよりも本の数が少ない気がする。
歩くのもそれほど難しくはなさそうだ。
視線を本から家の中に移すと、目の前に二人の人物がいた。
一人は先ほど僕とインターホン越しに話していた夏目誠士郎さんだ。
そうなると、もう一人の金髪碧眼の女性はヨルの手紙によく書いてある「リゼ」か。
彼女は訝しげに僕を見ると、首を傾げ、右手の人差し指で何かを思い出すようにこめかみを何回も叩いた。
ヨルは玄関の扉を閉めて僕の右隣を通り抜け、「リゼ」と何か話を始める。
「リゼ」の方はこめかみを叩いていた手を下げ、何回か鷹揚に頷いたのが見えた。
このまま立ち止まっている訳にもいかないかと考えて、彼女たちの傍まで近付くと、長い金髪を揺らして「リゼ」が僕に笑いかけた。
「はじめまして。
私はここの居候で、ヨルの友達のリーゼリッテ・ノーマ。
よろしく。
リゼって呼んでくれていいよ」
「僕は……ヨルの友人の海道ジンです。
僕の方もジンと呼んでください。
貴女の話はヨルから聞いています。
お会い出来て光栄です」
「うわっ、礼儀正しい。
あ、敬語もいらないって……海道ジン?」
僕が名前を名乗ると、リゼが目を丸くした。
何故か僕の名前を何度か反芻して、最後に人差し指を僕の鼻先へと向ける。
ヨルとは違う若干明るい青色の目を輝かせ、わなわなと指を震えさせる。
「海道ジンって、確か『アルテミス』のファイナリストの海道ジン?」
「ええ、そうですが…」
「やっぱり! へえー、あの海道ジンか。
ふむ、意外なところで意外な人が……って、そうでもないか。
リリアさんと会った時、ヨルは山野博士に伝言を伝えてたし…。
ヨルは日本ではLBXで意外と有名なの?」
彼女が不思議そうに訊くと、ヨルは首を静かに横に振る。
実際は彼女は「アルテミス」のセミファイナリストであり、イノベーター事件に関わっていたのだから、有名と言われれば有名なのだろうが……「アルテミス」はイオとして出場したのであり、イノベーター事件は一般には伏せられていることの方が多い。
……ヨルがリゼにそのことを言うとも思えないから、ここは僕も話を合わせよう。
「じゃあ、ジンとはどこで会ったの?」
「えっと……学校かな」
ヨルの答えに僕も頷く。
リゼはそれに疑問に思うことはないようで、何回か頷いて納得したようだった。
「ああ。学校…なるほど。
それで……なんで、そのジンがここに?」
彼女は当然の疑問を口にする。
それに答えるのは簡単だが、おそらくは僕とヨルぐらいにしか通用しないだろう。
「それは……」
ヨルが言い淀み、さりげなく僕を見上げる。
青い瞳が微かに怯えるような色をした。
僕は小さく頷いてから、僕の方から説明することにする。
「リリアさんの方から連絡があったんだ。
ヨルとリゼが厄介なことに首を突っ込んでいるから、と」
僕がそう言うと、リゼは苦虫を噛み潰したような顔をする。
誠士郎さんは逆に納得したように一つ頷いた。
更にその様子を見て、ヨルが静かに目を細める。
彼には僕がイギリスに行くことを伝えてあったから、そのことが分かったのだろう。
他にもリリアさんから言われたことはあるが、それは今は伏せておこう。
後で僕が確認すればいい。
「……通り魔事件のことを調べているので、間違いはないな。ヨル」
ヨルに視線を戻して訊くと、彼女は少し考えてから無言のままに一つ頷く。
リゼの方は未だに渋い顔をしながらもリビングの方に向かうと、ノートパソコンを探し出し起動させ、ヨルに渡した。
ソファの上の雑誌や新聞を退けて、そこを指差す。
座れということだろうか。
「詳しいことはファイルに纏めてあるから、見せるよ。
とりあえず、座りなよ。
今回は私がお茶でも入れてあげるから。
ヨル。説明しておいて」
「えっと……うん。
リゼ、ありがとう。でも、コショウとか入れないでね?」
………最後の言葉は聞かなかったことにしよう。
ヨルは僕の服の袖を引っ張ると、ソファへと誘導する。
誠士郎さんも僕の後へと続いて、ぷかぷかとどこからか取り出したパイプから白い煙を出していた。
煙草とは違う爽やかな甘い香りに、これが薄荷パイプかと納得する。
「薄荷の匂いは苦手かい?」
彼が年代物のパイプを燻らせながら訊いてくる。
僕はそれに首を横に振った。
「いいえ。大丈夫です」
「それは良かった」
彼は安心したように笑って、白い煙をゆらゆらと心許なく揺らした。
僕は彼に向かい合うように腰掛けると、ヨルが僕の隣に少しだけ間隔を空けて座る。
リゼから渡されたノートパソコンからファイルを開き、僕や誠士郎さんに見えるようにテーブルの上に移動させた。
「これが通り魔事件のファイル。
大体のことはここに書いてあるから、後で送るけど……結論から先に言うと、通り魔事件自体は終わってる。
私が通り魔事件を起こしたLBXを壊したはずだから。
そこから警察は犯人を辿っているはずだし、そう遠くない内に相手の方が何かボロを出すと思う」
そう彼女は言うが、その顔は憂いに満ちていて、納得したという顔ではない。
白く小さな手を何回も開いたり閉じたりしながら、僕や誠士郎さんの顔色を窺っている。
僕は手早く画面をスクロールして読み終えると、ヨルに訊き返した。
「何か気になることがあるのか?」
僕がそう訊くと、彼女は青い目を微かに揺らし、今度はキッチンにいるリゼの方を見やる。
彼女が聞いていないことを確認するように、じいっと青い瞳で見つめてから僕の瞳をまっすぐに見つめた。
「うん。………リゼにもまだ言えてないけど、違和感があるの。
確信がある訳じゃないんだけど、でも、違う気がする」
「……違う?」
「私……前にも通り魔事件のLBXと戦ったんだけど、その時の感覚と違う気がする。
攻撃の仕方とか避け方とか、そういう細かい癖みたいなものが違う…と思った。
だから……」
彼女はそこで押し黙り、スカートの裾を握る。
白い手が余計に白くなり、海のような青色は決意するように静かな光を宿している。
そして、その青色の奥底に黒々とした感情が眠っているような気がした。
彼女が今抱いている感情はなんだろうか。
強い意志が明らかに違う意味を持っている気がしてならない。
彼女の小さく息を吸う音が耳に響く。
か細い、ただの呼吸音なのに、嫌に響いてくるのは何故なのだろう。
「私は、まだ通り魔事件は終わってないと思う」
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