01.リーゼリッテ・ノーマ
「それでは、処分を言い渡します」
アリシアが眼鏡の位置を指で直しながら、静かな声で告げる。
私はそれをまっすぐに見つめていた。
彼女は冷ややかな眼差しで私を見下ろす。
その視線がものすごくムカつく。
出来れば、眼鏡を思いっきり叩き割ってやりたい。
「リーゼリッテ・ノーマ。
貴女のした行為は重大な違反行為です。
他の生徒への悪影響は否めません。厳罰に処する必要があります」
だから、それは私がしたんじゃない。
そう言いたいけど、言ってもこの段階じゃもう意味がない。
「よって、貴女を退寮処分にします。
一週間後には部屋を明け渡してください」
彼女の無慈悲な言葉で、私は一年間苦楽を共にした愛すべきこの寮から出て行くことになったのである。
■■■
疑心暗鬼になると、人は弱くなる。
疑われると自分が本当は悪いんじゃないかと思えてくる。
同室者からはあることないこと言われ、寮長には違反者と糾弾され、寮の皆からは淫乱女と陰口叩かれる。
誰だって自分の潔白を疑い出すんじゃなかろうか。
だから、一瞬思った。
私は彼女たちに正論をかざしたつもりでいたけれど、本当は暴論を振りかざしていたのではないのか。
私の必死の反論はただの暴言だったんじゃないのか、と。
「………って、そんなわけあるか!!」
弱気になってどうする。
あれは完全完璧な冤罪。
やってないことをやったと言えば、退学も有り得る。
弱気になった自分を叱咤するように人目もはばからず叫ぶ。
右手の新居へのメモも投げそうになったけど、それは踏み止まった。
これがないと家に着けずに野宿確定。
お金だってないし。
「シエラの奴……大学で会ったら容赦しないんだから。
見てなさいよ!」
あいつ文系だから滅多に会わないけど。
一週間前、退寮を言い渡された私は必死になって新居を探した。
幸い、退寮の件で停学を一週間ほど喰らっていたので探す時間はあった。
でも中途半端な時期なので空き物件がなく、先輩に呼ばれて研究室にはこっそり出入りしていたために探す時間も少なくなった。
実家は遠いし、親には説明したけど仕送りは月末なのでお金もなし。
どうしようかと教授に愚痴混じりに相談したら、知り合いにちょうどいい奴があると紹介された。
なんでも子供と二人暮らししている知り合いの研究者が同居人を捜しているらしく、私なら条件に合うんじゃないかとのこと。
その人はそれなりに忙しい研究者の人で、家で子供…女の子を一人にしておくのは防犯上よろしくないのではということで同居人を捜していたそうだ。
共同生活は寮のことがあるので苦手意識はあるけど、背に腹は代えられない。
一も二もなく飛びついた。
「しっかし、三十分話して『オーケー』って……それでいいのか?」
しかも、ほとんど雑談だ。
あのぼんやりしたような人はあれで大丈夫なのだろうか。
研究のことになるとまた違うらしいけど。
ズンズンと街路を進み、少ない荷物が入ったスーツケースをガラガラと転がして行くとメモに書いた住所に辿り着く。
赤い壁のオンボロアパート。
これが新居か…。
ここまでは問題なし。
問題はここから。
第一印象はやっぱり良い方が良いに決まってる。
挨拶のシュミレーションは完璧。
笑顔も良し。
少し緊張しながらチャイムに手を伸ばす。
これを鳴らせば、私の新しい生活が始まる。
チャイムを鳴らすとインターホンから女の子の声が聞こえてきた。
《はい。どちら様ですか?》
「あ、えーと……今日からお世話になる者です」
《ああ。お話は聞いてます。今開けますね》
よし。受け答えは良い感じ。
どんな子が出てくるんだろう。
写真とかは見せてもらえなかったので、まだ知らぬ同居人にわくわくする。
女の子なら、まあ…どうにか仲良く出来るはず。
というか、異性ならどんなに良い条件でも断っていた。
ガチャリと扉の開く音がする。
ドアノブを回す白い手が見えて、インターホンから聞こえてきた声が響いた。
「お待たせしました。
リーゼリッテ・ノーマさんですか?」
「あ、はい。そうで…す?」
随分低いところから声がするなーと思って視線を下げると、そこには異国風の少女が一人。
亜麻色の髪に青い瞳。
身長は聞いていた年齢よりも低いようで、私が見下ろす形になる。
あれ? 私、来る家間違えた?
「どうぞ」と案内されるままに家に入るけれども、目の前の子がすごく気になる。
確か…二人とも日本人って話だったような……。
しかし、ここでその話を出すのは失礼だと思ったので、話題探しに周囲に視線を移す。
荷物は玄関に置いたままで良いと言うので置く。
目の前には二階に続く階段。
古いアパートの壁をぶち抜いて、一つの家みたいにしているこの家の至る所に本が積み上げられている。
考古学に機械工学その他学術書が多数、古い童話に日本語で書かれたハードカバー。
LBX関連の本が新しそうな塔を作っているのも圧巻だ。
それからその辺で買える安いペーパーブックに、何故か子供向けの言葉遊びの本や日本語訳の付いた小説、どこで使うのか育児書まである。
統一性がなさ過ぎて、何がしたいんだかさっぱりわからない。
「すごい量の本…」
「これでもだいぶ押し入れや書斎に押し込んだんですよ。
捨てるというのが、私もおじさんも苦手で……さすがに眉唾なペーパーブックは処分しましたけど」
「へえ〜…」
通されたリビングらしき場所にも本がそこらかしこにある。
家具はよく言えば歴史を感じる物ばかりで……うん、古すぎてがらくたレベルが多すぎる。
テレビはあんなに古くていいのだろうか。あんまり見ないからいいけど。
テレビに向けて置かれているソファには件の彼が座っていた。
「来たか。まあ、とりあえず座って」
「わかりました。失礼します」
ソファでパイプを燻らしていた彼…夏目誠士郎に呼ばれ、私はソファに腰掛ける。
女の子は「お茶入れてきますね」とキッチンの方に向かった。
「煙は苦手かな?」
「大丈夫ですけど……これ、煙草じゃないですよね?」
煙草とは違うけど、甘い香り。
なんだろう、これ。嗅いだことないな。
彼は古い時代の探偵たちが吸っているようなパイプを私に見せた。
これもかなりの年代物。さすがに価値がある感じがする。
「薄荷パイプっていう、日本じゃお祭りとかで売ってるんだけど…知らないか。
身体に害はないし、気にならないなら吸っててもいいかな?」
「擬似煙草みたいなもんですか?」
「うん。そんな感じ。
パイプは祖父さんからの貰い物。よく煙草に間違えられるんだよ。
まあ、少し前まで本物吸ってたからしょうがないんだけど。
本当に大丈夫?
ダメなら今後家では控えるよ。
煙草型のお菓子は食うけどね」
「いえ、気にしませんので。
ストレス溜まりますよね……。最近の遺伝子工学への風当たり」
「まあ、厳しいかな。
医療方面でもオプティマとかで代用利くようになってきてるし、予算取ってくるのが大変だ。
生命倫理の問題もあるしね」
「そうですよね。
たくさんの人が助かるっていうのは、良いことなんですけどね」
「話の途中で申し訳ないのですが、お茶入りましたよ」
話が脱線していると、ティーポットとカップ一式を持った彼女がやって来る。
目の前の夏目さんはそれに気づくと、さりげなくパイプを口から離した。
小型のティースタンドを真ん中に置いてから、丁寧な所作で紅茶を入れると私たちの前に置いていく。
綺麗な琥珀色。
これはきっと美味しいだろうな。
そう思いながら彼女の方を見ると、シュガーポットが砂糖をたんまりと入れていた。
「そ、そんなに入れるの?」
「…え、と…問題ですか?」
「問題っていうか、紅茶の味を潰すし…あんまりおすすめしない。
これ、ダージリンでしょ。
ストレートティー向きだし、これは良い茶葉だから尚更」
「おいしければいいかな、と」
「どうせ祖父さんが買ってた所からなんとなく買ってるだけだから、俺たちはあんまりそういうの気にしないしなあ」
二人して頷かれる。
どうしよう。味方がいない。
いや、この場では私の方が変なのか。
「うん。まあ、お茶の件は後々どうにかするとして、とりあえず自己紹介しようか。
俺は夏目誠士郎。職業は研究職。
遺伝子工学が専門。あの世界ではそれなりには有名かな。
研究もあるし、忙しい時はほとんどこの家にはいない。
一応はここの家主」
そう言って、彼は女の子へと視線を向ける。
亜麻色の髪をした彼女は少し考えてから口を開いた。
「雨宮ヨル、です。
十三歳で学生です………他に言うことありますか?」
十三歳でこの身長はどうなんだろうか。
「いいんじゃないか。別に。
性格とかは追々知っていくしかないからね。
はい。次は君」
「ああ。はい!
リーゼリッテ・ノーマです!
リーゼリッテは長いので、リゼと呼んでください。
十七歳。飛び級で大学生やってます。
専攻は遺伝子工学。
諸事情がありまして、今日からここに居候することになりました。
よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
「はい。よろしく」
簡単な挨拶の後、この前は話さなかったお金の話をする。
ここら辺からすればかなりお安めの値段。
食費や光熱費を含めても、正直寮よりも安いかもしれない。
よく今まで同居人がいなかったと驚く程だ。
そのことを訊くと、夏目さんは事も無げに答える。
「希望者はいたよ。
でも、どれもこっちから断った。
信用出来なかったし、下手に良い子でも困るから。
君ぐらいが丁度良かったんだよ。
退寮の話が決め手かなあ。素直というか、なんというか…勘だけど。
それほど良い奴じゃないっていうのは大きいかな」
「はあ……どうも」
果たして褒められているのだろうか。それは。
「それはいいですけど、ところで……雨宮さんは日本人ですよね?
それからお二人の関係は?」
場の空気が和んできたかと思ったので、訊きたかったことを訊く。
二人を交互に見ると、やっぱり日本人らしくない。
夏目さんはイギリス人のクウォーターらしいので目が翠色をしているのは納得できるけど、彼女はどう見ても外国人だ。
なんとなく寒い国の人っぽい。
「曾お祖母ちゃんがロシア人なんです。
先祖返り? 隔世遺伝…みたいな。
間違いなく日本人です」
「ヨルと俺は父方の曾祖父さんが一緒なんだ。
曾祖父さんの長男の孫がヨルで、長女の孫が俺。
呼び方とかわかんなかったから、とりあえず叔父ってことにしてる」
「なるほど」
要は遠い親戚ってことか。
私が納得していると、何やら視線を感じた。
視線の元は雨宮さん。
何事かと首を傾げると、視線を逸らされた。
「雨宮さん。何か…」
「え、と……少し気になって。
私の方が年下ですし、ヨルでいいです。
敬語も必要ありません」
「ああ、そういえばそうですね。
じゃあ、敬語はなし。ヨルって呼ぶことにする。
ヨル。私にも敬語はいらないから。
夏目さんは名前で呼んでも?」
「構わないよ。
ああ。そうだ。
連絡先を交換しておこうか」
CCMを取り出して、三人で連絡先を交換する。
それからヨルに部屋を案内されソファから立ち上がると、「そうだ」と誠士郎さんがおもむろに訊いてきた。
「リゼ。君、LBXは持ってるかい?」
「いいえ。持ってないです。
寮ではほとんどの奴が持ってましたけど、正直研究の方が楽しいですし…それが何か?」
「いや。ヨルはLBX持ってるから、なんとなく確認。
二人でやるようなら据え置きの強化ダンボールを買おうかなと思ったんだが…、あれ、結構高いよね。
侮ってた」
彼は乱雑に積まれた本の中からカタログを取り出しながら、またパイプを燻らす。
翠色の瞳を真剣に光らせながら。
それを横目に見つつ、スーツケースを片手にヨルの後を付いて階段を上がっていく。
二階には部屋が三つ。
その一番手前が私の部屋…とヨルの部屋になる。
部屋に入ってみると、家と同じように古びた机や椅子、ちょうどいい大きさのクローゼットにベッド。
寮の部屋と同じぐらいだけど、同室者の荷物がないので随分広く見える。
「……で、ここが私の部屋」
その部屋にあるもう一つの扉を開けると、別の部屋が出て来た。
覗いてみると、少し小さめの机。その上にLBXのパーツがいくつか。
誠士郎さんの言うようにヨルもLBXをやるようだ。
クローゼットに、ベッド…家具はあんまり変わらないかな。
「なるほど。繋がってるのね」
「うん。音はあんまり立てないから…」
「ああ。あんまり気にしないからいいよ。
前の同室者がそれなりにうるさかったし」
あ、思い出したらイラついてきた。
「……そうなんだ。
そういえば、退寮って言ってたけど、どうして?」
ヨルは小首を傾げ、純粋に疑問を投げかけてくる。
……どうしたもんか。
あんまり人に話したくはないしなあ。
「ええ、と…ほら、退寮って結構なことだから、今はその…ね?」
「………そう、だよね。
解らなくてごめんなさい。言いたくないことの一つや二つ、あるよね」
そう言って、彼女は視線を落とす。
やばい。失敗したか。
というか、思ってたよりもこの子は気弱な子なのかもしれない。
こっちが素か。
「まあ、後で必ず話すよ!
とりあえず、改めてよろしく。
勉強とか解らなかったら言って。理系は大体わかるはずだから」
「あ、はい。よろしく…お願いします。
宿題のこと、多分訊くと思う」
はぐらかすような言葉にヨルも乗ってきてくれる。
良かった……と言っていいのかな。
妙に聞き分けが良いけど、この年の私ならもっと突っ込んで話を訊いたけど。
私と同じようで違う青色を見る。
その色がどことなく濁ったのは気のせいであって欲しいと思った。
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