自分が生きている意味について真剣に考えた事がある。
ただの女子高生が世の中に貢献できるわけでもなく。むしろ、所謂不良グループに属している私は世の中にとってのお荷物、不要なものなのだろう。
父親にも友達にも”私”を求められることはない。ノリのいい女であったり身体であったり。個として求められることはない。いてもいなくてもいい存在。きっと、それが私。
だから、あの夜、私を私として見てくれた、求めてくれた。あの、幸せな時間。永遠に続けばいいと願った。願わずにはいられなかった。あの、夜。
つらい日々の生きる糧として、匂いも何もかもを何度も鮮明に思い出す。何度も何度も反芻する日々。
生きる意味をあの人の隣に見出してしまった。きっともう、2度と交わることなんてないのに。

写真フォルダに収まる左馬刻さんとのツーショットは劇的にとは言わないがそれでも少し私の生活を変えてくれた。
碧棺左馬刻に抱かれたという事実はよほどのステータスになるようで女の子達からは一目置かれ、男の子はよっぽど自分に自信が無いと声をかけてくることが無くなった。左馬刻さんとの気持ちいいセックスを知ってしまってからは、他の男とのセックスは単に気持ち良くないもの、大げさにいえば気持ち悪いものに変化した。あの時の幸福感を忘れたくないというのが一番にあるが、正直、独り善がりのセックスはもう勘弁だった。
連絡先なんて交換しているはずがなくて、このツーショットがあの日を証明する唯一のものだ。交わったのは1度だけ。きっと、この先の私達は平行線上。
だから、このヨコハマの街で貴方を見かける度に恋焦がれるの。あの日の余韻に浸れるの。私を求めてくれた人がいたって、実感できるの。
その輝く頭髪は、どこに居てもどれだけ離れていても直ぐに視界に入ってくる。繁華街で見かける左馬刻さんは夜を連れて歩いているようだった。どれだけ夜が更けていてもあの人の周りだけ夜の匂いがぐっと増す。夕方の繁華街を歩けば彼の歩いた道のりには夜の帳がそっと降りていく。春の訪れならぬ、夜の訪れを知らせるようであった。
目が合っても、ぱっと逸らされる。私が声を掛けるなんてことは絶対にしない。そういう約束をした訳ではないが、暗黙の了解というやつだ。一夜を共にしたからといってあの人の女面をする気なんてさらさらない。そんなことをして、嫌われたくない。こうして目を逸らされてもいい、一夜の過ちだと忘れられててもいい。私の中では、綺麗な思い出にしていたいの。
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遠くでからからと回る観覧車は何処にいても左馬刻さんを感じられるから好きだ。ヨコハマの象徴のようなそれは昼間であろうと静かに佇んでヨコハマの街を見下ろしている。まるで巨大な監視カメラだ。
平日の昼下がり、学校をサボって閑静な住宅街の階段に座り込む。特に意味は無い。最近煩わしくなった人間関係から逃げ出したくなった。それだけだ。私はただの一夜限りの女なのに、紹介しろと詰め寄られて正直面倒くさい。紹介もなにも、できる立場なんかじゃない。むしろ私のことを左馬刻さんに紹介して欲しいぐらいだ。一夜限りなんかじゃない、期限付きでもいい、セフレにどうですか。なんて。乳臭い女子高生なんて二度とごめんだろう。繁華街で見かけるあの人は綺麗に着飾った夜の女人を携えている。大きな胸を隠さず、左馬刻さんに押し付けてアピールする。白くてしなやかな腕は誘うように絡みつく。あの人には、そういうのが似合う。決して、私のような凹凸のない、細いだけの女なんて、
階段下から吹き上げた風が、左馬刻さんの煙草の煙を連れてきた。特に珍しい銘柄ではないため、よく見れば左馬刻さんに憧れている男の子がよく吸っている。ああ、一目だけでも会いたいな。なんて。
さっきから震えている携帯は、きっと呼び出しだ。周りの子達は最近クラブ遊びにハマっているらしくて夜な夜なあの騒がしいだけの場所に繰り出している。独特の騒がしさはあまり好きではない。愛想笑いを浮かべなら引きずり込まれ、隅っこで美味しいと感じないお酒を胃に流し込んでいくのも限界だ。なによりそろそろ浮いて来そうだ。しかし、あの、きっとお酒やクスリでハイになっている集団に入っていく気はどうしても起きなかった。そんなことなら繁華街でいつ通るか分からない左馬刻さんを待って、遠くから眺めていた方が何倍も有意義だ。
2度目の風が吹く。先ほどよりどこか温かさを増したそれは変わらず左馬刻さんの煙草の匂いを運んでくる。近くの家の人が吸っているのだろうか。ふと、視線を観覧車から下げると、日光を反射して眩しいくらいきらきらと輝く、
「あっ、」
ぱしっと両手で口を塞ぐ。思わず声に出してしまった。赤い瞳が私を射抜く。間抜けなポーズのまま固まった私を見て、吸って、吐いて、
「よぉ」
それは久しぶりに向けられた、私への言葉。挑発的に上がった口元がまた言葉を紡ぐ。久しぶりだな、とか、そういったものだったと思う。呆けた私の耳には入ってきやしない。ただ、目の前にいる左馬刻さんが本物なのか、風が連れてきた幻なのか見定めようとするので精一杯だ。
くいっと、顎を引く。その仕草は、知っていた。来いの合図だ。あの夜身体に教えこまれたからか、ばっと考えるより先に身体が動いていた。ばたばたと階段を駆け下りる。左馬刻さんの吐いた紫煙が私を引き摺りこむの。
「わわっ」
「っと、危ねぇな」
ずるりと足が滑って飛び込んたのは温かな胸板。片手で軽々と抱き留めてくれた左馬刻さんはそのまま私の髪を2.3度梳いた。風で乱れた髪の毛を整えてくれる。緩慢な動きに合わせてへらへらと口元が緩んでいく。今ならごろごろと喉を鳴らせる気さえする。
腰に回された腕が解かれる気配はないのでここぞとばかりにくっ付いてみる。階段1段分。見上げるだけの左馬刻さんの顔がすぐ目の前にある。遠くから眺めていた顔が、少し動けば触れられる距離に。
吐かれる紫煙は相変わらず私を掴んで離さない。メンソールと合わさって独特の甘い匂いを作り出す香水は、私にとって毒だ。じくじくと内側から侵される。このまま私だけをその赤に写してくれたらいいのになんて、馬鹿な考えばかり。
「こんな住宅街で、何されてるんですか?」
「仕事」
耳を澄ませば、確かに聞こえてくる喧騒。住宅街に似つかわしくないそれは、所謂金回収、だ。
「ヤクザみたい」
「ヤクザだっての」
「そうでした」
「で?そういうお前は何してんだ?」
分かってるくせに、サボりだって。観覧車を見て貴方のことを思ってましたなんていえなくて、ええっと、と言い淀む私を静かに見下ろす。誤魔化すように笑う私を見ながら吐き出された紫煙は突風に巻き上げられていった。序に私のバランスも崩して行ったのだが、左馬刻さんが腰を掴んでいてくれたおかげで事なきを得た。そのまま無遠慮に腰周りをまさぐるのだから頭の中ははてなでいっぱいだ。思わず降参のポーズを取ればがしりとほっぺを掴まれた。痛い。
「痩せたか?」
「ふぁい?」
「飯、食ってんのかよ」
はいとも、いいえとも言えなかった。また、誤魔化すように笑ってみる。眉間に刻まれた皺はさらに深くなって、機嫌を損ねてしまったようだ。
ざりざりと綺麗に磨かれたブーツの先がまだ長い煙草を削る。どうせ捨てられるなら、もっとボロボロになるまで使い込んで欲しい。貴方なしじゃいられなくして、貴方しか見れなくして。そして、捨てられるの。そうしたらきっと幸せなまま死ねるから。
ああ、甘い毒がじくじくと身体だけじゃなくて心まで犯していく。
「行くぞ」
どこに?とは聞けなかった。聞く暇もなかった。1段を降りるのに手間取っている間も腰はぐいぐいと引っ張られていく。引き摺られていると言った方が正しいかもしれない。
相変わらず会話はなくて、住宅街をずんずんと突き進む。
「……え?」
連れてこられたのはひっそりとしたカフェだった。ソファに放り投げられ、メニューを渡される。本日のランチと書かれたそれと左馬刻さんを交互に見る。待って、頭が追いつかない。
「あの、」
「ちょうど昼時だろ。付き合えや」
ふぅっと吐き出された紫煙は私の方に流れることなく上へと消えていく。
頭は考えることを放棄していて、じゃあと適当にメニュー表を指せば気付いた頃には注文が終わっていた。ドリンクは食後に、と言っていたのでまだまだ一緒に居られるということだけは分かった。
「ここ、どうしたんですか?」
「車ん中から見えた店がここしかなかったんだよ。……何笑ってやがる」
「だって、左馬刻さんにしては可愛らしいお店なんですもん」
堪えきれずくすくすと笑えば軽く頭を小突かれた。うるせぇとそっぽを向くのでさらに笑ってしまう。
ああ、私普通に話せてる。
私も左馬刻さんも相変わらず何も話さない。美味しいですね。そうだな。なんて、簡単なやり取りばかりだ。メニューのデザートの所を見ながら「……美味しそう」と呟くと追加で頼んでくれた。本当に、優しい。
運ばれてきたザッハトルテは甘くて、苦さなんて感じないぐらいに甘くて、ずっとここに居たいとさえ思ってしまう。
この甘さに溺れてしまいたい。
「腕、」
「へ?」
「いいから腕出せ」
それは本当に唐突だった。訳も分からず腕を差し出せば制服が限界まで捲られる。肘裏を確かめるように何度か撫でて、袖を戻された。
「最近若い奴の間でクスリ流行ってんだろ」
「あ、はい。クラブとかで見かけます」
「他所から持ち込まれた中々やべぇもんだ。……手ぇ出すなよ?」
「はい」
いい子だ、と頭を撫でられる。先程の事といい、私に兄がいたらこんな感じなんだろうか。面倒見のいい、おにーちゃん。
私がトイレに行っている間に会計は済まされていて、出しますと言っても聞き入れては貰えなかった。恥かかせんなと言われてしまえばもう何も言えない。
店を出ると先程の幸せな気持ちとは一転、気分が沈んでしまって仕方がない。もう、左馬刻さんとお別れだ。こうしてまた構ってもらえることはもうないかもしれない。未だに震え続ける携帯に返事をしないといけない。断るにしても理由はなく、行きたい理由はもっとない。携帯が震える度に私の気分を下へ下へと落としていく。
「ずっと鳴ってんのな」
「……最近、周りがクラブ遊びにハマってて」
「あ?」
舌打ちと再び腰を抱かれたのはほぼ同時だった。行きよりも歩幅は大きく、怒りを顕にして歩いていく。変わらずはてなマークを頭に浮かべた私は引かれるがまま付いて行くしかない。ずるずると引かれた先には見覚えのある黒塗りの高級車。後部座席に放り投げられればはてなマークが頭の中を埋め尽くす。
「待ってろ」
そう言って左馬刻さんは去っていってしまった。ぽかんとした私と、同じような顔をした運転手さんだけが車内に取り残される。……えっと、どういうこと?
それから1時間と少しして、厳ついあからさまな男の人を従えた左馬刻さんが帰ってきた。この辺りでの集金は終わったらしい。所々に血が飛っているがそれは見て見ぬふりして、抱き寄せられた胸元で大きく息を吸う。 左馬刻さんの匂いを体に循環させながらああ、帰ってきたんだな、と思う。
左馬刻さんが仕事の話をしているのを聞き流しながら外を眺める。きらきらと輝いていたヨコハマの街並みも、 左馬刻さんがいなければどうってことのない、ただの街だ。私にとってどれだけ 左馬刻さんが特別なのか思い知らされる。仕事の話を右から左に聞き流しながらただひたすらに左馬刻さんの体温を感じることに集中する。いまだに震え続ける携帯の電源を問答無用で落とされたけど何とも思わなかった。だって、私にとってはここがすべてなの。
舎弟の人が開けた扉から慣れたように降りていく左馬刻さんを見つめていたら。すっと手を差し出された。付いて来い、ということらしい。重ねた手はそのまま解かれることなく、ブランドのロゴが輝く店内へと入っていく。押し込められたフィッティングルームで正気を取り戻したがもう遅い。次々と運ばれてくる服に袖を通して、左馬刻さんに見せて脱いでを何回も繰り返す。何着目かを数えるのをやめた頃にはもう頭を埋め尽くしたはてなが思考を汚染していて、気付けば真新しい服を身にまとって、制服と何点かが入った紙袋を手に持って店を後にしていた。ありがとうございますとお礼を言っても帰ってくるのはおーと気の無い返事。車に乗り込めば報告や仕事の話が続き、理由を聞ける雰囲気ではない。はてながたくさん入った紙袋を心底大切に抱えて、暮れる街を走っていく。
「あの、左馬刻さん」
「あ?」
「服…」
次に連れてこられたのは左馬刻さんの事務所だった。扉を開ければ別世界、とはまさにこのことだ。左馬刻さんの煙草の匂いが染み付いた部屋を抜け、応接室のようなところへ通された。飲み物にお菓子に雑誌、と次々と出てくる暇つぶしの道具を受け取りながら問えばそんなもんもあったなという顔をされた。そんな、すぐに忘れるようなものでもないでしょ。
「とりあえずこっちおいとけ」
「…えっと、」
「仮眠室な。まあ俺ぐれぇしか使わねぇけど」
そう言って紙袋をクローゼットの前にぽんっと置く。
嘘だ。転がる女性物のバックに靴。所々に化粧品が置かれていて、きっとクローゼットの中には女性物の服で溢れている。ここは左馬刻さんが女の人を抱く部屋だ。サイズも好みも全く違うそれらはきっと、左馬刻さんの相手をした女のものだ。自分の存在をアピールするかのような配置。一体この中の何人が2回目以降をもらえたのだろうか。左馬刻さんの隣を何人もの人が狙っている。ここは左馬刻さんの仮眠室で、女の人を抱く場所で、戦場だ。
「仕事が終わるまでしばらく待っとけや」
「はあい」
きっと気まぐれで選ばれたのであろう私は、この場所に居続けるために何をすればいいのだろうか。何を差し出せばいいのだろうか。
何でもする、何でもあげる。もう私のは左馬刻さんの側しか居場所がないのだ。それを手に入れるためだったら、悪魔との取引にだって応じる。
「ってこの顔、服にあってないな…」
学校用にと施した派手目の化粧は、小綺麗な黒のレースがあしらわれたワンピースには似合ってなかった。下ろしたままの傷んだ金髪も子供っぽさを助長させている。
鞄の中には財布と化粧ポーチと、必要最低限の筆記用具。このままどこかに泊まりということもよくあるので化粧落としや替えの下着なんかも入っている。正直な話、これさえあればどこででも生きていける。
来客用であろう化粧室で一から顔を作り直す。下地を整えたところでスペースが足りないことに気付き元の場所に帰ってきた。テーブルいっぱいに化粧品を広げて、どれをどう組合わそうか考える。この時間が一番好きだ。だって、他のことは考えなくてもいい。髪の毛もつい最近覚えた編み込みにしてみよう。出来るだけ子供っぽく見えないように。年の差なんて感じられないように外見を整えていく。
「やっぱ女ってこえーよな」
「っ!?え、いつの間に」
「集中しすぎだろ」
時計を見ればあれからかなり時間が経っていて、自分がどれだけ熱中していたかが分かる。化粧を一新した私の顔や頭をまじまじと見て、一瞬誰だか分からなかったというので内心ガッツポーズだ。きっと、高校生を連れ歩いているようには見えないだろう。仲間内でも滅多にしないメイクなので気付かれるようなこともまあないと思いたい。
どかりと隣に座った左馬刻さんが煙草を咥えたのをじっと見つめてみる。手にしたジッポの蓋が奏でる音は何とも心地いい。
「あ?吸いてぇのか?」
ふるふると首を振ればじゃあ何だと眉間にシワが刻まれる。あの、と口を開こうとしたところで手渡されたのはシルバーのジッポ。さっきまで左馬刻さんが握っていたので微かに温かい。
「火、付けるか?」
「いいんですか?」
「おー。好きにしろや」
左手で風除けを作って右手でホイールを回す。友達やテレビの見様見真似だ。私の作った火がしっかりと紫煙を生み出す。ちゃんとできたことに胸を撫で下ろす。ラーターの火を付ける。ただそれだけのことだけど、左馬刻さんの前では失敗したくなかった。
私とは反対を向いて煙を吐くので、こっちを見てくれてもいいのに、とまた思考が犯される。この匂いは私をただの女にするの。
「ふー…。行くか」
「お仕事ですか?」
「お前となんの仕事に行くんだよ。晩メシ」
「え?」
「ホテル直行のほうがいいか?」
「私は、左馬刻さんが都合のいい方で…」
「んだそれ。そこの仮眠室ヤんのは嫌だろ?」
「っホテル!ホテルがいいですっ!」
「ガキがホテル連呼すんな」
「む、言わせたのは左馬刻さんですよ?」
それもそうか、と灰皿に押し付けられたタバコが小さな悲鳴をあげた。鞄も制服もそのまま置いていけと言われたのだけれど、財布だけ持っているのもなんとも間抜けだ。それを見かねた左馬刻さんが舎弟さんがに持ってこさせたのは箱に入った真新しい鞄がいくつか。そこから左馬刻さんが選んでくれた鞄に化粧ポーチと財布を突っ込めば、左馬刻さんコーディネートの私の出来上がりだ。
行きと同じように腰を抱かれる。ああ、夢にも見た左馬刻さんとの二度目の夜が幕を開ける。二度と交わらないと思っていたのに。逸る気持ちが抑えきれず、跳ねるなと怒られたがこればかりは見逃してほしい。
だって、あの幸福に満ち溢れた夜がこの先にあるのだから。

左馬刻さんとの2度目の夜以降、人前で会っても知らんぷりはいつも通りだが、数回に一度くいっと顎で合図がされるようになった。指された方へ行けばもうすっかり顔なじみとなった左馬刻さんの舎弟さんが車の扉を開けて待ってくれている。私服を着ている時はともかく、制服の時は服を買ってくれる。申し訳ないからと言っても聞き入れてくれなかった。
2度目に事務所にお邪魔した時は甘いものが好きな私のために紅茶やお菓子が用意されていた。仮眠室に散りばめられていた小物達がゴミ袋に入って隅の方でこちらを睨んできた。
3度目にお邪魔した時は仮眠室にあった女の人達の武器の数々がこの前の袋合わせ全て一箇所に集められており、左馬刻さんが心底邪魔そうに蹴っていた。それ、何百万ってするバックじゃ…とは言えなかった。
4度目にお邪魔した時には仮眠室にはベッドしかなくて、クローゼットには左馬刻さんのものと思われる男性物の服に私の服。ベッドも初めに見た時となんだか様子が違っていた。いつの間にか、昼間からお呼びがかかった時は抱き枕に徹するのが習慣となっていた。
たまたまテレビでしていたわんにゃん特集を観て「お前みたいだな」と言っていたのできっとペット感覚かなにかなんだろう。別に私はそれでもよかった。セフレの1人でもよかったのだ。左馬刻さんが求めてくれるのならペットであろうがなんでも構わない。
左馬刻さんに求められている。1度きりじゃなくて、何度も。私に居場所を与えてくれる。
その事実だけが私にとっては一番重要なのだ。
「またな」
何度も夜を共に過ごすうちに後部座席の窓を開けてタバコの煙を吹きかけるように私に言葉をかけるのが左馬刻さんの習慣になっていた。煙は私の肺だけでなく心までも犯していくようでもっともっとと欲しがってしまいそうになる。始まりのあの日は私が左馬刻さんの車を見送ったけど、最近は私が家に入るまでここでこうして待ってくれている。怪しまれないように、変な噂を立てられないように左馬刻さんは決して車から降りない。私のことを気遣ってくれているようだが正直な話もう遅い。夜な夜な黒塗りの高級車で横付けを、たまに朝帰りをしているのだ。私は井戸端会議のいい材料になっていることだろう。まあ正直な話そんなことどうでもいいのだけれど。
また、といつもなら左馬刻さんが吐き出した煙が風に奪われてしまわないように帰るのだが、その日は違った。紫煙はすでに私を包むのをやめ風下へと霧散していった。怪訝そうな左馬刻さんの様子が気配だけで分かる。
「帰りたくねぇのかよ」
細くて頼りない足だけが視界に映る。頭を縦に振ればそっと左馬刻さんの気配が遠のいた。面倒くさい女だと思われたのだろうか。きっとそうだ。左馬刻さんだけには嫌われたくなくて。どうしても嫌われたくなくて。それでも、もう家に帰りたくなくて。この曜日のこの時間はよく父が客を取っている時間帯だ。ただでさえ壁の薄いおんぼろアパートなのだ。どれだけ隅で縮こまっていようと、どれだけ耳を塞いでいようと、その声が律動が部屋の壁や床を伝って私まで響いてきそうで。それがまるで外側からじわじわと私の居場所を奪っていくようで。もう、うんざりだった。私の居場所はもう、左馬刻さんの側しかないのだ。
「帰んぞ」
「へ、」
どこに、という問いは煙と共にかき消された。
いつの間に回り込んだのかふわりと、もうすっかり嗅ぎ慣れた匂いに包まれる。触れ合った個所から伝わる温もりがじわじわと私の心を溶かしていく。おかしいな、この人はヤクザなのに、私とは住む世界が違うのに、どうしてこんなにも温かいのだろう。
再び乗り込んだ車内で左馬刻さんは何を聞くわけでもなくゆっくりと私の頭を撫でてくれた。それがなんだかむず痒くて、嬉しくて。溢れる涙に気付かれないように左馬刻さんの胸元に顔を押し付けた。
静寂に包まれた車は街の喧騒の合間を縫って走る。また、ホテルだろうか。左馬刻さんはなぜか頑なに私をラブホテルに連れて行きたがらない。私は左馬刻さんといられれば正直どこでもいいのだが、左馬刻さんは違うらしい。小娘には不釣り合いな部屋の中、ルームサービスを頬張る私に何を誰を重ねてこの人は微笑んでいるのだろうか。
「兄貴」
「あぁ、」
これまた私には不釣り合いなヨコハマの高級住宅街で降ろされた。ではまた明日と、車と左馬刻さんの舎弟さんは走り去ってしまった。閑静な住宅街に左馬刻さんと二人取り残される。腰を掴む腕の力は強くて、初めての夜を彷彿とさせる。もう、どこにも逃げやしないのに。首が痛くなるほど高く聳え立つ高層マンションのエントランスホールを抜け、エレベーターに乗り込む。やっと二人の世界になったところで重なった唇は互いの熱を貪り合う。まるで初めての夜の再現だ。数時間前まで身体に宿っていた熱が一瞬のうちに蘇ってくる。すっかり力の抜けた身体は左馬刻さんの脚で軽く揺さぶられることで簡単に快楽を生み出してゆく。嬌声は左馬刻さんの口に飲み込まれくぐもった声と水音だけが木霊する。
「ん。ほら呆けてないで行くぞ」
エレベーターが開いて、閉じて。解放されたのはそれから暫くしてからだった。ふらふらと足元のおぼつかない私の腰を抱いてずんずんと突き進む。表札のかかっていない部屋の鍵を手慣れた手つきで開けるのを眺めながらああ、ここは左馬刻さんの家なんだなとぼんやりと思った。放り投げられたのは洗面所で、間抜けな顔をした自分の姿が鏡に写っていた。…シャワーを、浴びればいいのだろうか。そっと左馬刻さんの手を握れば「手ぇ洗ってこい」と頭を撫でられた。いやらしいことを考えていた自分が恥ずかしい。よしっと気持ちを切り替えて再び洗面台の前に立つ。歯ブラシにワックス、ドライヤーやアイロン。左馬刻さんの生活臭が滲み出ていてああ、本当にここは左馬刻さんの自宅なんだなと実感する。大きく息を吸いかけて、止めた。あまりにも変態くさい。鏡に写った女を無視してさっさと手を洗う。洗面所に来たらそういう気分になってしまうの、どうにかしないとな。
「コーヒーしかねぇけど大丈夫か?」
「あ、はい。大丈夫です」
「砂糖、好きに入れな」
「ありがとうございます」
白いカップの中に広がる黒い液体はまるでこの街のようだった。無意味にスプーンでかき混ぜ、香ばしさを鼻腔いっぱいに吸い込む。スプーンの動きに沿って立つ銀色の波はまるで左馬刻さんのようだった。口いっぱいに広がるほろ苦さは左馬刻さんのキスより苦くて、酸っぱかった。コーヒーは左馬刻さんのようで、左馬刻さんじゃない。そんな矛盾を二度、三度と飲み込む。
「にが、」
「お子様にはまだ早ぇ味だったろ?」
「はい。なのでキス、してください」
なんだそれと笑いながらそれでも左馬刻さんの唇がそっと近づいてくる。ああ、そうだ、煙草と、これはコーヒーの苦さ。そして左馬刻さんの甘さ。それが私にはちょうどいい。舌が軽く絡んで、離れていく。砂糖を何杯入れたらこの甘さを再現できるのだろう。
ぐるるる〜
もっと、と腕を伸ばしたところでお腹が震えた。可愛らしさなんてない。それはもうがっつりと、きっと左馬刻さんにも聞こえていただろう。だってほら、肩が震えている。
「んっ、ふふっ、ふっ、いや、ほんと、色気のねぇ女」
「…笑いすぎですよ」
ぷくりと膨らませた頬をぷすっと潰される。そのまま尖った唇に子供の戯れのように触れた左馬刻さんはいつも以上に楽しそうに笑っていた。今まで見た中で一番無邪気な、左馬刻さんの本質を垣間見れるような笑みだった。そんな、気がする。
「晩飯食ったろ?」
「安心したらお腹空いちゃって…」
「安心?」
「…左馬刻さんの側が、一番安心します」
頬に添えられた手に擦り寄ってみる。拒絶は、されなかった。少し間があって、遠慮がちに少しがさついた親指が頬を滑っていく。
「今んなに食材ねぇから適当でいいか?」
「え、左馬刻さん料理できるんですか…?」
「あ?んだよ意外か?」
「外食とかコンビニ弁当とかばっかりなんだと思ってました…」
「あれだろ、ギャップってやつ?」
にやりといたずらっ子のような笑みを浮かべた左馬刻さんは掠めるようなキスを落として台所に消えていってしまった。今日は何だか予想外なことが多くてくらくらする。砂糖を何杯入れても左馬刻さんとのキスの味には程遠くて、コーヒーが冷めてきて溶け残ってしまった砂糖の甘さに頬が緩む。ああ、勘違いしそうなこの甘さは、今の私たちみたいだ。
何かお手伝いをと思い、渡された布巾で念入りにテーブルを拭く。お茶のポットだとか、妙に生活感が溢れていて違和感を覚える。誰かと、住んでいるんだろうか。ふと周りを見渡せば必要最低限のものだけが揃えられたリビングが目に入る。ローテブルには空き缶や吸殻の残った灰皿。スーツも放り投げられている。一人暮らし、のように見えるけど…。ああ、そうだ確か妹がいるって、聞いたことがある気がする。前まで一緒に住んでいたって。あまりそういう事には興味がなくて聞き流していたけど、それなら納得だ。
「食えねぇもんとかなかったよな」
「あ、はい。特に何もないと思います」
「おー」
美味しそうな匂いが再び私のお腹を鳴らす。小気味の良い包丁の音にお湯の煮える音。ぐうぐうと待ちきれないとお腹が鳴るのでまだですか?とカウンターに身を乗り出せば待てと小突かれた。できるまでのお楽しみらしい。
「おら、座って待っとけ」
「はぁい」
間延びした返事に左馬刻さんが笑う。ここでは穏やかな空気が流れている。左馬刻さんはいつもより話してくれるし柔らかく笑う。そわそわと落ち着きなく周りを見渡す。キッチンにリビング、視界に入る左馬刻さんの私物全てがなんだか愛おしい。何をどう設置しているのか、小物からなにからなにまでに目が行く。
「手ぇ、危ねぇから退けとけよ」
「…ラーメン?」
ごとりと置かれた大皿に並々と注がれたスープと麺。メンマやチャーシューはなく、あるのはニンジンにキャベツ、もやし…野菜、多すぎません?
「冷蔵庫にあるもん全部ぶっこんだ」
「豪快ラーメンだぁ…」
渡された来客用のお箸を置いてぱちりと手を合わせる。左馬刻さんはいただきますもごちそうさまもちゃんとする人だった。見た目によらず。ヤクザなのに。
いただきますと食卓で向かい合って言うのはいつぶりだろう。母が亡くなってから、なかった気がする。
野菜の間から顔を覗かせている麺を数本啜る。味噌ラーメンなんだ。じゅわりと口の中にお味噌が広がって美味しい。麺は柔らかくて、所々ふやけていた。野菜は沢山入っているのに、どれも簡単に噛み切れるぐらいに柔らかくなっている。
優しい、味がする。誰かが私の為を思って作ってくれた、手料理。ぱたぱたと雫がテーブルに落ちていく。拭っても拭っても止まらなくて、何かが込み上げてくる。ふわりと甘い匂いに包まれて、暖かな手が私を包み込む。
「どうした?」
「優しい、味がしました。優しい心の暖かなぬくもりを感じました。ずっと昔に食べてから忘れていたものでした」
「なんだそれ」
止まらない涙が、視界を染めていく。左馬刻さんが作ってくれたラーメンは、左馬刻さんとのキスの味がした。優しい味。私を労ってくれる味。私を慈しんでくれる味。
「ん」
「へ?」
手渡されたのは四角くて、冷たいもの。涙の隙間から見えたのは、左馬刻さんが愛用しているジッポ。
「これ、は?」
「俺の火、付けてぇんだろ?なら付けさせてやるよ」
するりとジッポごと包み込まれる。そのまままるで誓うようにキスが落とされる。
ああ、勘違いしてもいいですか。私は、左馬刻さんにとって他の女よりも特別だって。自惚れても、いいですか。

お腹に響くドラムの音。叫ぶような話し声。グラスから滴る水滴は不快でしかない。
「ねえ、楽しんでる〜?」
遊びの約束を断って1人、私服を身に纏って繁華街に繰り出すことが多くなった。お呼びがかからなくても別によかった。だって、必ず目が合うの。私を私と認識してくれている。その事実だけで十分なのだ。ポケットに入ったジッポを撫でればどんな不安も解消されるような気がした。左馬刻さんが近くにいるという安心感が私を埋め尽くす。周りからの不信感が募っていようとも関係ない。今の私には左馬刻さんが全てなのだ。
だから、これはそのツケだ。今まで蔑ろにしてきた分の。家の近くで待ち伏せされて、そのまま質問攻めされた。最近懇意にしてくれている大人の男の人がいる。携帯は充電のし忘れが多くてすぐに電源が落ちる。だとか、そんな言葉を並べた気がする。考えていた答えを言えたかは分からないし、納得してれくれたかも分からない。いや、納得なんてしていないから私は今ここにいるのか。のらりくらりと躱してきていたけど今回ばかりはそうはいかなかった。ズルズルと引き摺り込まれたのは件のクラブ。ロッカーの近くで美味しくもないお酒と格闘していれば男女問わず話しかけてくる。みんな酔っていて、ラリっていて、少し怖い。こっそりと渡される怪しげな薬や注射器を処理して奥で乱れている友人達を眺る。夜が更ければ更けるほど人々は理性を失っていった。乱れ狂う様はまるでサバトだ。
これ、お気に入りでしょ?と友人に手渡された缶のお酒を持て余して、こっそりと抜け出す。お酒は全く酔えなくて、音楽は肌に合わない。ああして狂う事は私にはできなさそう。
路地裏で開けた缶の中身を喉に流し込む。甘いそれは私の好きなお酒だ。ほろ酔いと書かれたそれはその名の通り程よく酔わしてくれる。そのはず、なのだ。
「これでも酔えないの…」
別に酔いたいわけではないが、なんだか意味が分からなかった。どれだけ飲んでもアルコールが回らない。これで酔えていたら、私はあの場でも楽しめていたんだろうか。
輝かしいはずのクラブ内も左馬刻さんの煌めきに比べたら足元に及ばないなんて、私も相当ヤキが回っている。
風に乗って左馬刻さんの煙草の匂いがする。顔を挙げなくても誰が来たかなんて足音で分かった。
「うめぇの?それ」
「甘くて、美味しいんですけど、全然酔えないんです」
大通りを車が通る度に左馬刻さんの髪が輝く。やっぱりミラーボールなんかよりも眩しい。
あっさりと奪われた缶の中身が一度左馬刻さんの口内を巡って私に入ってくる。戯れに舌を弄んだ後離れていった甘いぬくもり。
「あっま」
ふわふわとした頭であまりの甘さに顔を顰めた左馬刻さんを見る。なんだろう、頭が回らないの。
「あ?どうしたよ」
「左馬刻さんのせいで、酔っちゃいました」
意地悪に笑った左馬刻さんの裾を力の入らない手で掴む。するりと隙間なく絡められれば、すっかりと身体が火照っていることがバレたのかクスリと笑われた。
「ンなもん、今更だろう?」
再び落ちてくる甘い唇を受け入れる。缶はその辺に放り投げられていて、もうお酒なんてなくても頭だけじゃなく身体もふわふわと弾む。あれだけ酔えないと嘆いていたのが嘘のようだ。
ああ、そうか、私は左馬刻さんに酔っているからお酒では酔えなかったんだ。
乙女のようなことを考えて、一人で納得して、思考を放棄した。与えられる快楽だけ受けていたい。
気付けばベッドの上で左馬刻さんに揺さぶられていた。間の記憶なんてろくにない。路地裏ではキスだけでイかされたような気がするし、車の中では水音ばかりが響いていた気がする。揺れる頭では何も考えられない。シーツに縫いとめられた手が空気を求めて藻掻いて、諦めたように沈んでいく。左馬刻さんに与えられるキスで私は息をしているの。
「ぁっ、ん、さま、と、き、さ…!」
「っ、あ?んだぁ?優しくしてか?それとも激しくか?」
「ちが、もっと、もっと酷くして、貴方を感じさせて」
「……はっ、ガキが。後悔すんなよ?」
キラリと光った赤い眼光が私を射殺すの。お願い。もっと酷くして。もっと左馬刻さんを感じさせて。ナカでも、ソトでも。貴方なしでは生きられなくして。貴方に突き落として、そのまま溺れさせて。
ガリッと血が滲むほど噛まれた鎖骨からも快楽が湧き出てくる。身体中にある左馬刻さんの噛み跡が、私に生を確かめさせてくれる。今を生きてると、貴方に生かされていると確かめさせてくれる。
じわじわと私を犯していた甘い毒は隅々まで行き渡ってもう抜くことなんてできない。きっとこの毒はいつか私の中全てを満たすんだろう。
後戻りできないところまで堕ちた私を見下ろしながら満足げに笑う左馬刻さんを見て、そっと意識を飛ばす。
お願いどうか、このまま私を掴んで離さないで。

サバトの件以来、何かに気付いたのか周りがやたらと男を勧めてくる。制服から見え隠れする左馬刻さんの歯型を見れば大抵の男はドン引きして諦めてくれるのだが、中にはそうでない人もいる。断れば私の学校内外での居場所は無くなるので、犬に噛まれたと思いながら適当に揺さぶられる。ああ、私こうなっても他の居場所を手放さないんだ。と、少し自己嫌悪。左馬刻さんの側は絶対じゃないから、他に居場所がないと安心できないの。
その日は特に最悪だった。連れられて行ったホテル街にはこちらと同じ数の男の人。1人ずつ振り分けられるのかと思っていればどうやら乱交らしい。空いた口が塞がらないとはこのことだ。逃げようにも左右をがっちりと挟まれていて逃げようがない。ああ、どうしてこうなったんだろう。どの選択肢を間違ってしまったんだろうか。行こうかと掴んできた腕は気持ち悪くて仕方がない。左馬刻さん以外には触られたくないと身体が悲鳴をあげる。
「この前は一緒に遊べなかったから、今日は思う存分楽しんでね」
「え…?」
そう、耳元で囁かれた言葉。どこかで会ったことあったかなと思い顔を上げ、血の気が引く。サバトでクスリを配り歩いていた人だ。他の人も皆、そうだ。全員あのクラブでクスリを配っていた。左馬刻さんのいう他所から入ってきたやべぇクスリ。はめられたと気付いた時にはもう遅くて、下卑た笑いを浮かべた男たちにずるずると引き摺られていく。クスリで狂った私を、左馬刻さんは抱いてくれるんだろうか。
「よぉ」
私の名前を呼んだその低い声が、風に乗って全身を撫でていく。怒気を孕んだ低音は地を這ってその場の人間を縫い止めた。私を掴んだ男達の体が大きく震えたのが分かる。声だけで誰か分かったのだろう、誰も振り向かない。言葉を発しようとしない。ごくりと、生唾を飲み込む音だけがこだまする。そういえば、初めて左馬刻さんに会ったのもこの辺りだった。
くいっと上げられた顎に反応して、するりと腕を抜け出す。駆け寄ればいつも通り腰を抱き寄せられた。ああ、やっぱり触れて欲しいのは左馬刻さんだけだ。身体中が喜んでいるのが分かる。
火のついていない煙草が私の頬を滑る。火をつけろの合図だ。ポケットから全然手に馴染まないジッポを取り出す。固くて中々うまくつけられないけど、左馬刻さんはちゃんと待ってくれている。
吐き出された紫煙が風に乗って流れていく。何気なく目で追えば、彼女達はもうどこにもいなかった。
「まだあいつらと付き合ってたのかよ」
「…はい」
「男連中、この前話したヤクの売人だって分かってんのか?」
「あ、やっぱり?」
「くそ。分かってんだったら近付くなダボが」
大方調べはついているのだけれど、拠点が分からなくて踏み込みに行けないのだという。一つ所にとどまらずヨコハマ内外を点々としているのかもしれない。他のディビジョンのことになると手は出せないしで、かなり手を焼いているという。まあそれも時間の問題だけどなとにやりと笑う左馬刻さんの顔が格好良くて、正直話は頭に入っていなかった。
だってあの人達がどうなろうと、私と左馬刻さんには関係ないもの。
あの日以来、左馬刻さんは合図を送るのをやめて、人がいようがいなかろうが関係なく声をかけてくれるようになった。学校にまで迎えに来てくれる日もある。大抵のスケジュールはぺらぺらと話してしまうので、把握しているらしい。事務所で左馬刻さんの帰りを待つ日も多くて、私は徐々に他の人との繋がりを切っていった。他校の人からのも、男の子からのも、全部無視か適当な理由をつけて断っている。その頃にはほぼ毎日左馬刻さんの事務所に通っていたからだ。用事がない日は事務所に来いというのでなら遠慮なく、と学校に行く必要のない日は事務所にお邪魔している。wi-fiのパスワードも教えてもらったし、ネット環境は完璧だ。お茶だしをしたり灰皿を洗ったり、できることをさせてもらいながら日々を過ごしている。ホテルに行く日は毎日じゃないけど、明日も左馬刻さんに会えるのだと思うと家に帰るのも苦痛ではなくなっていた。
私の存在理由全てが左馬刻さんに塗り変わっていく。毎日が楽しくて幸せで。だから忘れていた。
「っ!?」
その時一番最悪なことが起きて、居場所も何もかもを失うの。
後頭部に感じる鈍い痛みと甲高い笑い声。どうして神様は、私をこのまま、幸せなままでいさせてくれないのだろう。

「アンタ、目障りなのよね」
それは、私がこの世で何番目にか恐れている言葉。中学の頃この一言で居場所をなくした。仁王立ちで私を囲う彼女達にも、後ろでにやにやとこちらを見ている男の子達も、何もかも見覚えがあった。
選択を間違えた。入るグループを間違えた。もう後戻りなんてできなくて、選ばなかった選択肢を選びなおすことなんてできなくて。見た目も趣味も話題も全て合わせた。嫌われないように顔色を伺ってノリも話も合わせて。本当の自分が分からなくなるほど自分を偽って。嫌われたくなくて。もう、居場所をなくしたくなくて。
目を覚ましたのは左馬刻さんとは絶対に行かないラブホテル。男女数人で一部屋に入るだなんて絶対におかしいのに止める人はいなかったのか、ベッドに放り投げられた私を囲うたくさんの男の子。例のヤクの売人もいた。くすくすとした笑い声が部屋中から聞こえるような気がする。
本当は、分かっていた。彼女達が私と左馬刻さんの関係を羨んで妬んでいた事を。それでも私はもう、手放せなかった。あの人の温もりを。あの人の優しさを。誰かに譲ることなんて、絶対にしたくなかったのだ。
だから、これは、当然の報いだ。左馬刻さんとの関係を誰にも奪われたくないのなら。傷付く覚悟も必要だ。穢れた私を変わらず抱いてくれる確証なんてないけれど。今の私には捨てないでとみっともなく縋り付くことしか出来やしないけど。
「みっともなく泣き叫んで、土下座して、もう碧棺左馬刻とは関係を持ちませんみんなに譲りますって言うなら、許してあげる」
許す気なんて、ないくせに。私の四肢を掴む腕が緩むことなんてなくて。耳障りな甲高い笑い声が何度も何度も鼓膜を揺さぶる。
「好きにすればいい。それに、私を抱くか貴女達を抱くのか、決めるのは左馬刻さんだから」
「この女……!」
私に決定権なんてない。だって、私もいつかは捨てられるのだから。
「君には全然射れてあげられなかったからね。大丈夫、すぐに気持ちよくなるから」
喚く女の声を合図に肉を押し退けながら注射の針が入ってくる。何がどう危険なのか、左馬刻さんに聞いておけばよかった。でももう、好きにすればいい。注がれる液体にも、これから私の身体を蹂躙するであろう男の子達にも、私の身体も心も反応しない。私が開くのはこの世でただ1人、この男達でもない、父親でもない、左馬刻さんだけだから。
遠くでインターホンが鳴る。何度もしつこく。扉を騒がしく叩いて、がちゃがちゃとドアノブが音を立てる。うるさいなあと薄れていく意識の中で悪態を吐く。
「……なによ騒がしいわね。誰か追加でも呼んだの?」
「いや、私達は別に……」
「なら一体……」
「お楽しみのとこ邪魔すんぜぇ」
それは聞き覚えのある地を這うような低い声だった。この短期間で聞くのは3回目だ。完全にシャットダウンしかけていた視覚を、聴覚をある一点に集中させる。身体を震わせる低い声。ほら、それだけで私の身体は喜ぶ。誰、なんて言わなくても分かった。
「俺様の女でガキが楽しそうなことしてんしゃねぇか」
それは、一瞬だった。左馬刻さんの長い脚が、拳が、次々と男の子達を薙ぎ払っていく。呻き声は次第に泣き声に変わり、ごめんなさい、許してくださいとうわ言のように繰り返す。女の子達は声も出せずに縮こまっていた。ピンク色のいかにもな室内が一瞬で血の海に変わった。未成年であろうとなかろうと、左馬刻さんには関係ない。もう誰も何も言わなくなった、言えなくなったところで左馬刻さんは拳を振り下ろすのをやめた。
「いつまで経っても来ねぇから探してみればこれか。お前のお友達はほんと、お優しいなぁ」
びしゃびしゃと大量の水が流れていく音がする。そっと頬に触れた指は冷たかったので他の人の血を洗い流したんだ。
視界はもうほぼ真っ暗で、吐く息は熱い。身体が芯から火照ってきていて、頭にモヤがかかっている。左馬刻さんと口を動かしても言葉にはならなくて、返事はない。
「男はとりあえずいつもんとこに放り込んでおけ。女は任す」
「任すって兄貴、」
「皆まで言わせんなよ。俺の女にこんなことしてくれたんだ。…俺様の目にはいらねぇとこにやれっつってんだ」
ひぃっと悲鳴が聞こえた気がするけど、そんなことはどうでもよかった。
助けてください許してくださいなんでもしますからお願いします許してください殺さないでください。お願いしますお願いしますお願いします。
叫び声が部屋に響いては消えていく。大きなモノを引きずる音と合わさってまるで1つの音楽のようだ。サバトで流れていたものと似ている。彼ら彼女らはどうなるのか、目に見えた未来なんてどうでもいい。
そっと手放した意識の向こうで左馬刻さんが私に触れてくれている。
それだけが私の全てだ。

「やあ。目が覚めたかい」
白い天井と、覗き込む天使。ここは天国かと錯覚してしまいそうなその声が数度私の名を呼んだ。ピッピッと一定のリズムを刻む電子音や、腕に感じる違和感がゆっくりと私を覚醒させる。
「ここ、は……?」
「シンジュクの病院さ」
「病院……」
「覚えてないのも当然だね。左馬刻くんに担ぎ込まれて…3日ほど経ったかな?」
「3日…」
目が覚める前の記憶は全て左馬刻さんの温もりに覆われていて、朧げにしか思い出せない。点滴の針とは別のものが私の身体に入り、力強い何かが私の四肢を抑えていた。機械音よりも高い女の声が鼓膜を揺らし、そして、そして…なんだっけか。
「無理に思い出す必要はないよ」
「でも、」
「君が覚えているのは?」
「…左馬刻さんのぬくもり、です」
「なら、それだけをしっかりと覚えておくんだ」
灰色と紫の混じったシンジュクの夜のような髪をした先生はそう言ってするりと私の髪を撫でた。左馬刻さんより骨ばった指が何度も宥めるように髪を梳く。
「あの、左馬刻さんは…」
「ああ、さっきまではいたんだけど最近忙しいみたいで……そうだこれ、預かってるよ」
かさりと出されたのは一枚の紙。広げれば11桁の携帯番号。これはと目で問えば左馬刻くんのだよと控えめなウィンクが。
左馬刻さんの、携帯番号…。
辛うじて動く指で何度もなぞる。ああそういえば、繁華街に居れば事務所に行けば必ず会えたから連絡先交換をしていなかった。もう来るなと、いう意味なんだろうか。それともなに、電話をすればいいんだろうか。いつ、どのタイミングで…?
「このあと検査して異常がなければ退院しても大丈夫」
「あ、はい。お世話になりました」
お大事にと去って行った先生と、残された紙切れ。見渡せばここは個室で、お花が綺麗に花瓶に生けられていた。私のお見舞いに来る人なんて、いるはずもない。父は私が入院していることにさえ気付いていないだろう。友人なんて言える人はいないし。なら、これは。
そういえばさっき先生がさっきまで左馬刻さんがいたって…。なら、これは左馬刻さんが…?手汗で少し湿ってしまった紙と、花。
あの人はどうしてこんなにも私を掴んで離さないんだろう。
次の日に聞かされた検査結果は良好で、お世話になりましたと頭を下げ病院を後にする。財布のお金は記憶より増えていて、左馬刻さんが入れたのであろうことは容易に想像できた。着替えまで用意してくれていたのだ、あの人は。何から何まで。左馬刻さんと出会ってから私の全ては左馬刻さんで形作られていると言っても過言ではない。
シンジュクからヨコハマまで電車に揺られる。イヤホンから聞こえる音楽は頭に入ってこなくて、思い浮かぶのは左馬刻さんのことばかり。早く会いたくて、会いたくて。何度も紙を広げては左馬刻さんの筆跡を眺めた。家に荷物を置きに帰ってから、事務所に行ってみようか。助けてもらったお礼もちゃんと言えていないし…。でも昨日の今日で、求めすぎだと呆れられてしまうかもしれない。
ヨコハマの駅に足を下ろした頃には明日また改めて事務所にお邪魔すると決断はしたけれど、このまま家に帰るのはなんだか気分が乗らなくて、ヨコハマの街をふらふらする。
『昨日未明、身元不明の男性数人の遺体が見つかりーーー』
街はいつも通り機能していて、数日前の出来事なんてなかったかのようだ。朧げな記憶はそのまま左馬刻さんの温もりに書き換えられていく。嫌なことは全て忘れて、左馬刻さんの温もりに溺れてしまっても、いいのだろうか。
「聞いた?ーーちゃんのお宅、一家で夜逃げですって」
「他にもーー」
ビルを抜けた風がぐいぐいと背中を押す。足は自然に一箇所に向かっている。風は背中を押すだけじゃなくて手まで引くのだ。待って、やめて、まだ心の準備ができていないから。明日行くって決めたから。
ポケットに大切に押し込んだ紙を何度も撫でる。渡された番号にどのタイミングでかければいいのか分からなくて、結局こうして撫でるだけだ。背中を押す風は強くなる一方で、浅いポケットから紙を奪おうと何度も吹き抜けていく。お膳立ては十分だから、かける時ぐらい静かにしてほしい。何度も深呼吸して取り出した携帯は数日ぶりに見るけれど、メルマガとアプリの通知が溜まっているぐらいだ。キーパッドを開いて、吸って吐いて吸って、吐いて。
紙に書かれた文字を見なくても、左馬刻さんの番号は筆跡ごと覚えている。
無機質な呼び出し音は緊張で火照った体を冷ましていく。出なかったら、どうしよ。この番号を渡してくれた意味が違ったら、どうしよう。風はすっかり止んでしまったのに体は冷えていく一方だ。
『…あ?』
「えっ、あっ、あのっ」
『おー、退院したんか』
「はいっ!あの、お花とか服とかお金とか、すみません、ありがとうございます」
『別に気にすんな。で?事務所の近くまで来てんだろ?』
「え、」
『そろそろお前の思考と行動読めてきたわ』
風なんかに押されなくても足が左馬刻さんの事務所に向かう。早く早くと心が急かす。身体が左馬刻さんの温もりを求める。
ああ、早く貴方に会いたいの。

事務所に向かう途中で拉致られたからか左馬刻さんは車から降り、私が部屋に入るまで見送ってくれるようになった。私は前以上に事務所に入り浸っているし、左馬刻さんはなにかと私のために車を出してくれるようになった。申し訳ないからと断っても有無を言わせず押し込まれる。ホテルには週に1度のペースで泊まっているし、事務所の仮眠室で夜を明かすことも増えてきた。つまり、家に帰るのはめっきり減った。最近では荷物を取りに帰るか、左馬刻さんの仕事が忙しい時ぐらいしか帰らない。
左馬刻さんの隣でしか落ち着けなくなってしまった。
後ろから漂う紫煙が励ますように背中を押す。鼻に残った左馬刻さんの香りが唯一のお守り変わりだ。ドアノブを握りゆっくりと回す。我が家に鍵なんて必要ない。ゆっくりと息を吸って、吐いて、そっと扉を開ける。部屋に入れば明日学校に行くまで部屋の隅に縮こまっているだけだ。いつもの日常が待っている、だけ。次左馬刻さんと会うまでの辛抱だ。
「あ、れ…?」
鍵は開いていた。女の人のピンヒールが玄関に乱雑に脱ぎ散らかされていた。これはもう見慣れてしまった、今の彼女の靴だ。父親の靴もある。なのに、音が、しない。テレビの音も、女の人の嬌声も、なにも、しない。ふらふらと視線を上げれば、廊下の先、リビングに広がる誰かの、
――バタンッ
…なに、あれ。なにあれなにあれなにあれ!!!
理解が、追いつかない。脳が画像の処理を拒んでいる。心が、分かりたくないと叫んでいる。このまま目を背けて左馬刻さんの元へ駆けて行けと足が訴えている。それでも、手が、ドアノブから離れてくれない。身体の全てが別のことを訴えてきて処理が追い付かいない。嫌な汗が、止まらない。どっどっどっどっ、と心臓が異様に早く脈を打つ。心音が鼓膜を揺らし、心臓は耳の奥にあったのかと錯覚する。
カンッカンッカンッ
それでも、耳は、鼻は。いつでもあの人を追いかけている。
カンッカンッカンッ
革靴の踵が階段を叩く音がやけに響いてくる。コツコツと廊下を穿つ音が身体に響く度に力が抜けていく。視界を覆われ、抱き寄せられたと理解した時には全ての感覚が左馬刻さんに向かっていた。ドアノブを握りしめていた手は、代わりに力なく左馬刻さんの手を握っていた。鼓膜にダイレクトに響く心音に集中すれば、手の甲を擦る動きに合わせて深呼吸をすれば徐々に落ち着きを取り戻してきた。
「何があった?」
それは酷く優しい声だった。耳元で低く、小さな子に話すように問いかける。目を覆っていた手は、しっかりと腰を支えてくれていた。
「分かり、ません。多分、あの、腕が」
「あ?腕?」
「父さんの、腕が。音もしなくて。なんだか、おかしくて」
どうしよう。左馬刻さんの口の中で何度も呟く。歯列をなぞられ、上顎を擽られ、舌をきつく吸われてしまえばまう、何も考えられない。落ち着けと、キスで言われたみたいだ。
「腕が、あったのか?」
「は、い。廊下の奥に、転がっていて…いつもしている音も、何もしなくて…」
「…入るぞ」
「え、」
「確かめてみねぇと分かんねぇだろ。その目でしっかり。…心配すんな。ちゃんと握っててやるから」
絡め取られた指にぎゅっと力が入る。靴を脱ぐ余裕もなくて、足音と息を殺して廊下を進む。左馬刻さんの匂いに混じって嫌な臭いが鼻腔を刺激した。あまり嗅ぎ慣れたくない、血の、独特の、香り。指だけじゃ心細くて腕に抱きつけば、とんとんと親指で軽くタップされた。落ち着けと、何度も何度も。
廊下を進めば地に伏した父親は嫌でも眼前に晒され、その奥で倒れた女は恍惚とした表情で父親の手を握っていた。血溜まりに溺れた2人。近くに転がった包丁が部屋中に2人の血を撒き散らしていて、ここはお前のいるべき場所ではないと言われているよう。
不思議と声は、涙は出なかった。冷静に部屋の中を眺めている自分がいることにも別に驚きはしなかった。父親の転がった腕を見た時に、ある程度予想はしていた。いつかは、こうなるんじゃないかと思っていたからだ。どちらが刺したのか、それとも互いにか、分からないけれど、父はいつか私を残してこの世を去っていくのだろうと頭の片隅で思っていた。
「…オイ、親父さん息してんぞ」
「へ、」
微かに聞こえるヒューヒューという歪な呼吸。瞳はもう何も写していなくて、覗き込んでも反応はない。それでも、父親はまだ生きていた。
「とう、さん…?」
ぴくりと動いた瞼は今にも閉じてしまいそう。唇は何かを紡ごうとするけど出てくるのは肺に届かなかった空気だけ。
「…っ、ぁ、」
「…ぁ?これか」
「それは、」
血溜まりを掻き分けるように父親が求め続けていたのは母が亡くなる前に撮った家族写真。母と私の顔が何か鋭利な物で貫かれているが、食卓に飾られていたはずの家族3人が笑っていた頃の写真。目もろくに見えず声すら発することのできない父親は左馬刻さんが握られせた写真をゆっくりと、まるで壊れ物のように撫でた。母の顔を、そして次に、私の顔を。
ぽたりと流れた涙が血溜まりに波紋を生む。数年ぶりに顔を埋めた父親の胸元からは知らない匂いがするし、記憶より細くなった身体は徐々に温もりを失っていく。
「ねぇ、遅いよぉ」
私はどこで選択を間違えたのだろうか。父から目を背けたことが間違えだったのか。互いに避け始めたのか、いや、私が父のしていることに耐えきれなくなってそして、父から距離を置いたのだ。
もっとちゃんと、父と接すればよかった。だって、会話なんてなくても私の学費も毎月のお小遣いもちゃんと用意してくれていたじゃないか。不定期に変わる父の恋人が作る料理も、お客さんが作っていったらしい料理も食べる気なんて起きなかったけど、それでもちゃんと私の分を用意させてくれていた。
こんなになっても、父はちゃんと母と私を愛してくれていた。
「父さん、父さん…!ごめん、さい…私も、父さんのことだいすき…」
決壊した涙は枯れることを知らずに溢れ続ける。握ったままの手が泣くのをやめさせてくれない。
「左馬刻さん、ここまで引っ張ってきてくれてありがとうございます。父の最期を看取れてよかった。父の気持ちを、知れてよかった」
「…そーかよ」
ぶっきらぼうな言葉とは裏腹に柔らかに微笑んだ左馬刻さんは2度3度と私の頭を撫でてくれた。宥めるような、褒めるようなその動きに涙が再び溢れてくる。
「明日、目ぇ腫れんぞ」
「だって、」
「ちゃんと親父さんと笑顔で別れてやれ」
「止め方、分かんないです」
「あー、しゃーねぇなぁ」
「んむ」
こんな時に、こんな場所でだとか、言わなきゃいけないことはいっぱいある。それでも、軽く触れるだけの唇から離れたくない。
血溜まりの中でしたキスは優しい味がした。
「だいたい状況は分かりました。それで、彼女は?」
「第一発見者で男の娘」
「はあ、それで事情聴取の配慮、ですか」
左馬刻さんの香水と煙草の煙を肺いっぱいに吸い込む。やっぱり、この匂いが一番落ち着く。
左馬刻さんの知り合いらしい警察のお兄さんは深い溜息を残して部屋の中へと消えていった。未だにぐずり続ける私の頭を左馬刻さんはずっと撫でてくれていて、そろそろ禿げてしまいそうだ。
警察のお兄さん曰く、状況証拠から見て父の彼女が起こした無理心中ということでこの件はおさまるそうだ。確かにあの人は今までの人よりも父に入れ込んでいたような気がする。
父も母も駆け落ち同然で勘当されていて、私は親戚にあったことも連絡先も知らない。警察の方で調べて連絡はしてくれるらしい。左馬刻さんがお金は出すといってくれたが、葬式はしないことにした。母と同じお墓に入れてくれさえすればそれでいい。
「どーすんだ、これから」
「…どうしましょう」
これで完全に、私は居場所を失ってしまった。会ったことのない親戚の元に行く気なんてさらさらないし、この家に一人で住んでいる自分の姿も、想像できない。ドラマではこういう場合施設に預けられたりしているのだが、私はどうなるんだろうか。
叶うのなら、この温もりにずっと溺れていたい。
「…俺んとこ来るか?」
「へ?」
吐かれた紫煙は私に絡みつき、そのままどこかへ消えていった。見上げた左馬刻さんは真っ直ぐと私を見ていて、まるで時が止まったかのように周りの音が消えた。世界に私と左馬刻さんしかいなくなったかの様な錯覚。
「でも、だって、私、何もない。左馬刻さんに渡せるものなんて、」
「テメェ自身があんじゃねぇか」
「そんな、それでも私、私」
私はただの女子高生で、堅気の人間で。何もできなくて、お金も、持っていなくて。私に差し出せるのは身体だけ。それだけなのだ。そんなちっぽけなもの一つでこの人の腕の中にこのまま、いてもいいのだろうか。左馬刻さんの舎弟さんが言っていた。兄貴は自宅に俺らも女も、誰も上げないって。そんな神聖な場所に、私なんかが。
「あー、くそ。ウジウジ考えんな。お前は黙って俺の腕の中に飛び込んでくればいいんだよ」

自分が行きている意味について真剣に考えたことがある。社会に貢献できるわけでもないただの女子高生である私は、なぜ生きているんだろう。
血溜まりはすっかり拭き取られていて、リビングはいつも通りの見慣れた光景が広がっていた。足元に置いたボストンバックには化粧道具と勉強道具と必要最低限の衣類。それ以外は全てそのままだ。ここには色々な思い出が詰まっている。幸せだった頃の、何も感じられなくなった日々の。私の17年間がここに。
ことりとテーブルにお揃いを強制されたケースに収まった携帯を置く。私の17年間は、ここに全て置いていく。振り返るものなんてなにもいらない。
「おい、まだかよ」
「すみません、すぐに行きます」
私のこれからは左馬刻さんのそばで始まっていくのだ。あの人が求めてくれればそこが私の居場所で、私の存在意義になる。
全てを棄てて、真っさらな私で貴方の傍に。




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