家の扉を開ければ漂ってくる夕食の匂いと、ぱたぱたとスリッパを鳴らしながら近付いてくる嬉しそうな気配。それが当たり前に繰り返されると、一体いつから思っていたのだろうか。押し倒さんばかりに飛び付いてくるその折れそうに細い身体を抱きとめるために軽く腕を開いた自分に乾いた笑みを漏らしつつ2秒、3秒……待てど暮らせど、部屋の中はまるで1人で暮らしていた時に戻ったかのような静寂を貫くばかりであった。
「……撫香?」
呼び掛けても返事はない。バスルームにも寝室にもその気配はなく、待ちきれずに寝たわけではないようであった。外に出たという連絡も報告もない。あれは、そういう類の連絡を怠るような女ではない。むしろ逐一居場所やその日の予定を送って来やがるからそこまで徹底しなくていいと言ったほどだ。
リビングへと続く扉からは闇がこぼれるばかりなので大方寝落ちでもしたのだろう。ここ数日、出席日数を補うため大量の課題を出されたと嘆いていたので原因もまあ、予想はつく。テーブルに突っ伏して寝ているのだろう、とドアノブを回せばがちゃりと子気味良い音が闇の中に響いた。この扉を開けるのが楽しみだと感じるようになったのも、一体いつからであろうか。最近分かり切った問答を繰り返している。
「……あ?」
空いた口が塞がらないとはまさにこのことだ。確かに撫香は突っ伏していた。突っ伏していたのだが。
「誰が床で寝てると思うんだよ……!」
闇の中に浮かぶ撫香の顔はいつも以上に青白くて。駆け寄り額に手を当てればあまりの熱さに部屋に響く程の舌打ちをした。室温、撫香の体温のおかげで2.3度は上がってるだろ。
「今すぐ車回せ。あと、夜間外来してるこっから1番近い病院調べとけ」
呼び掛け、頬を軽く叩けば呻き声が返ってくる。ただでさえ低体温症の癖に8度以上ありそうな熱をこの細い身体に閉じ込めているのだ、撫香の吐く荒い息はねっとりと絡み付き重くのしかかってくるかのようであった。指1本動かせない彼女なりのヘルプサインなのであろう。
「とりあえず、水飲めバカ女」
「んぅ、」
散らばった課題や毛布の類。すっかりカーペットに水分を吸い取られた空のコップ。リビングで課題でもこなしながら俺を待つつもりだったらしい。準備している途中で倒れたのか。そういえば酷い風邪も病院に行かずベッドで丸まって治してきた女だった。熱を測ることもあまりしたがらない。何度あるか見たら余計にしんどくなるからだといつの日かほざいていた。心配するからしんどいと思ったら、風邪っぽいと思ったらすぐに言えと言ってあるのだが守った試しがない。まだ大丈夫と思えるラインと限界があまりにも近すぎるのだ。このバカは。
何度か口移しで水を飲ませてやれば楽になったのかきゅっと弱々しく俺の服を掴んだ。どうしたと問えば先程よりは落ち着いた息遣いが聞こえてきたので、とりあえずほっと胸を撫で下ろす。
額から足先まで指を滑らせれば足先のひんやりとした冷たさにまた、眉間にシワが寄る。こいつはまた、靴下も履かないで。末端冷え性の癖にこういったことを怠るから……と、撫香の足先を擦りながらまるで母親みたいだな、と理鶯に言われたことを思い出す。いや、どちらかというとその役目は銃兎だろうと今思い返せば訳の分からない返しをした気がする。
『兄貴、もうすぐ下に着きます』
「あぁ」
寝室から持って来た毛布で撫香を包み、抱き上げれば慣れたはずのその軽さに再び眉間に皺が寄る。腕の中にすっぽりと収まる撫香の熱に侵されたしんどそうな顔。何故この女はどこまでも俺に頼ろうとしないのか。気丈なフリをするのか。甘えて、来ないのか。
「お嬢の容態は」
「見たら分かること聞いてくんじゃねぇよおい、いらねぇこと喋ってる暇があんならさっさと車出せや」
「へ、へい!」
「死ぬ気で車走らせろ。この時間だ、あんま車もいねぇだろうからスピードなんざ守ってんじゃねぇぞ。ただしちょっとでも撫香が揺れるような雑い運転したら殺すからな」
住宅街を駆ける後部座席で膝枕でもしてやろうと思えば胸元を掴んで離さない。寝転がっている方が楽だろうに、離れたくないと力の入らない指が訴えてくる。普段から、これだけ素直だったららいいのに。
車内に響く息遣いは荒くて、毛布越しでもその熱が伝わってくる。眉間には滅多に刻まれることのない線がいくつかあって、指の腹で伸ばしてやれば擦り寄ってくる。
「そろそろ病院着くからな。あと少しの辛抱だ」
返事の代わりにきゅ、と力の込められた手を包み込んでやりながらそっとキスを落とす。このまま撫香を苦しめるくそ熱野郎を俺が吸い取ってやれればどれだけいいか。


診察の合間も意識は朦朧としているくせに俺から離れる事を拒んでいた。5歳ほど退化したその行動に口元が緩むのを抑えられない。待合室でも、どこでも俺から離れたがらない芋虫状態の撫香を抱え直し多少ましになった呼吸を肌で感じる。
「兄貴、会計は…」
「見たら分かることをいちいち聞いてくるんじゃねぇよ。さっさと済ませて来い」
前の椅子を蹴り倒しそうになった衝動なんとか押さえ込み、撫香の負担にならない程度に財布を投げつける。ここは病院だとか他の患者がどうだとかは正直な話どうでもいい。俺に体重を預けきった撫香の負担になるかならないか。重要なことはそれのみであった。
繋いだ手に力を込めれば弱々しく握り返してくる。さっき飲んだ薬が効いてきたのか、それとも薬を飲んだという事実にどこか安心したのか。滑らかな頬に赤みが戻ってきたことにいくらか安堵する。俺に隠すのを100歩譲っていいにしても、薬だけはしっかりと飲んで欲しいものだ。惚れた女の熱に侵された顔は正直クるものもあるが、限度というものがある。できれば微熱程度で留めて欲しい。毎回倒れられるのは勘弁願いたい。心臓がいくつあっても足りない。この俺様をこれだけ心配させられるのは後にも先にも妹と撫香ぐらいだろう。
帰りの車の中ではすっかり落ち着いた寝息が聞こえてきたのでとりあえず一安心。ベッドに寝かせてやるまで1度も目を覚まさなかったのでこれは薬が効いているのだろう。そのままぐっすりと寝て、早く回復してくれ。
汗で濡れて気持ち悪いだろうからせっせと着替えさせてやる。濡れタオルが気持ちいいのか何度も擦り寄ってくるので犬猫のブラッシングでもしている気分だ。コイツはいつか、猫のようにゴロゴロと喉を鳴らしそうだから怖い。
抱き寄せたいつもより高い体温も、握り締めた汗ばんだ手のひらも、首筋にかかる熱の篭った息も、落ち着いたとはいえ苦しそうな寝顔も、全てが俺の心を締め付ける。いつでも健康体でいて欲しい。幸せそうに笑っていて欲しい。歪んだ顔は、全て俺が元凶であって欲しい。ほかの何者にも撫香を苦しめさせやしない。
こつりと合わせた額が、起きた時にはいつも通りのぬくもりであるように。今はそれだけを願ってゆっくりと瞳を閉じた。



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