公平なものなど存在しないとは全くもってその通りだと思う。仲間はずれ、エコ贔屓その他諸々。この世は不公平で溢れている。
弱者は強者から搾取され、蔑まれる。男から女に覇権が変わってもそこは変わらない。中王区以外の区域で生活していると変わらず女は男の慰みモノである。
息がしにくい世の中で私は今日も生きている。
「ホ別2でどう?」
夕方の繁華街。徐々に看板に光が灯り始め、キャッチが増えていく。学生やサラリーマン達に混じり出勤中の水商売のお兄さんお姉さん達はおはようと挨拶を交わしながら店へと入っていった。空よりひと足早くここは夜になる。
そんな中、特になにをする訳でもなく手持ち無沙汰に立っていれば仕事終わりにはまだ早い、営業の外回り中なのであろうサラリーマンに声をかけられた。下卑た笑みとくたびれたスーツ。春を売るのは初めてだが、やはり買うのはこういう男が多いのだろうか。皮脂の浮いた額をハンカチで拭いつつ、早くしろと目が訴えてくる。どうせならもっとお腹の肉が少ない人がよかったのだが贅沢も言ってられない。正直セックスなんて誰としても同じだ。男が女を使って気持ちよくなるだけの行為。
こくりと頷けば男は笑みを深めて路地裏へと入っていった。ここを抜ければホテル街で、路地の入口で立っていれば売りの合図。友達から聞いた話は半信半疑だったが本当にそうらしい。振り返り私がさっきまで立っていた所を見ると、もう他の女の子が立っていた。
「どのホテルがいいかな?綺麗なところ?お風呂が広いところ?」
「どこでもいいですよ」
どうせヤるだけだ。ベッドとシャワーさえあれば他はどうでもいい。さっさと決めて、さっさと入りたい。掴まれた腕から伝わる熱に嫌悪感を覚える前に。決意が揺らいでしまう前に。早くコトに及んでしまいたい。
「おい」
それは怒気を孕んだ、地を這うような低音だった。つま先から脳天を一気に貫き、思わずぶるりと身体が震える。
夕日に輝く銀髪にアロハシャツ。拳は血で濡れていて頬や服にも所々飛んでいる。吐いた煙草の煙が風に乗り私と男の間をすり抜ける。横浜に住んでいれば誰でも知っているであろうその人。元TDDの碧棺左馬刻。
「俺様の前で買いたぁ、いい度胸してんじゃねぇか」
地面に捨てた、まだ火を付けたばかりであろう煙草を靴底で揉み消す。その音がやけに響いて、私の腕を掴んでいた手が震えた。
煙草へと向けていた視線が上げられ、鋭い眼光で射抜かれる。今の今までどこかの誰かを血が出ていてもお構い無しに殴っていたのだろうに、まだ暴れ足りない、殴り足りないとその赤い瞳は語っている。
まるで飢えた獣のようだ。
私の腕を犯していた熱はいつの間にか消え、バタバタと走り去っていく足音だけが耳に届き、そのまま抜けていった。でも正直、そんなことはどうでもいい。逃げた男よりも目の前の男から目が離せない。
「売りだか買いだか知んねぇけど、俺の目に入るとこでしてんじゃねぇよ。胸糞わりぃ」
吐き捨てるように言われた言葉も、私の耳に届いて、そのまま抜けていった。踵を返したそのシャツを掴んでいたのはほぼ無意識だった。驚いたように振り返る気配が伝わる。しかし視線は自分の足に向けたまま上げることが出来ない。ああ、面白いぐらいに震えているな。
「おにーさん、抱いて、下さい」
「あぁ?」
「お願いします。抱いて下さい」
「お前、何言って、」
お願い、お願い。振りほどかないで。
ぎゅっと手に力を入れ、そのまま目も閉じた。震えは足だけじゃなくて全身にまで及んでいた。
もうあそこで声をかけられるのを待つのは嫌だ。品定めをするような視線を浴びるのは、真っ平ごめんだ。それでも、私は今日誰に抱かれなくてはいけない。
もう、この人しかいない。
身動ぐ気配がして、さっき嗅いだ煙草の匂いが鼻腔を刺激する。それにつられて顔を上げればまた、あの赤い瞳に射抜かれる。きれいな口から吐かれた煙が、私を包み込んだ。普段はむせてしまうその匂いも、今は気にならなかった。
探るような、見透かすようなその瞳。逸らすことは許されない。
「来い」
盛大な舌打ちと、心底嫌そうな顔。それでも肩を抱く腕はどこか優しい。彼が咥えた煙草が私を包み込むように紫煙を吐き続ける。誘ったのはお前だ、逃げることは許さない。まるでそう言われているようだった。
驚きで呆然とする私を半ば引き摺るようにして、碧棺左馬刻はラブホ街に背を向けて歩き出した。

連れてこられたのは誰もが知ってる有名なホテル。アロハシャツの彼はともかく、制服姿の私が来るところでは絶対にない。
ここまでの道では2人とも何も話さなかった。好奇の目に晒されながらも彼は無言で私の肩を抱き続けたし、私はそれを甘受した。時たま遊ぶように肩を指が滑り、それがなんだか色っぽくていやらしくて、ぴくりと反応すると碧棺左馬刻の肩が楽しそうに揺れた。
フロントに到着する頃には肩を抱いていた手が腰に移動していて本格的に逃げられなくなった。フロントマンとの会話なんて耳に入って来ない。
煌びやかなシャンデリアの光が私の目にはキツすぎて思わず目を細める。その先では綺麗に着飾ったお姉様方が私達を見てひそひそと囁き合っていた。碧棺左馬刻は横浜を仕切るヤクザとはいえ、アイドル並みに人気がある。私の周りでも、いくら払ってでもいいから一度は抱かれてみたいとしょっちゅう言われている。年齢問わず、他の女の人も然りだ。そんな男が私みたいな何ともないただの女子高生の腰を抱いているんだ、気に食わないのは良く分かる。
無遠慮な視線も囁かれる言葉も徐々に耐えきれないものになっていく。耳を塞ぎたくなるような罵詈雑言に思わず碧棺左馬刻に身を寄せれば、驚いたように一瞬腕の力が緩まった。しかしすぐに再び強く抱き寄せられる。もうすっかり嗅ぎなれてしまった煙草と香水の匂い。私はそれにどこか安心感を抱いていた。深く息を吸って、彼の匂いを肺いっぱいに取り込む。そうすればなんだか、前を向いて歩ける気がした。
今この瞬間、この場所、世界に私が頼れる人は碧棺左馬刻しかいない。嫌悪感なんて覚える訳がなかった。決意が揺らぐ訳もなく、ただ漠然と、この人に抱かれるんだったらいいなとそんなことを思ってしまう。無遠慮な視線から庇うように回された腕に安心感は助長する。今だったらこの人の為に何だって捧げられると馬鹿なことを考えた。
受付が済むと未だに注がれる視線から逃げるようにエレベーターに乗り込んだ。ようやくまともに息ができる。
「んむ、」
押された階を確認する暇もなく口を塞がれた。何度も何度も角度を変えて徐々に深い口付けへと変えられていく。あまりの激しさに息をすることを忘れる。酸素を求めて思わず口を開けば無遠慮に突っ込まれる碧棺左馬刻の舌。好き勝手に口内を蹂躙し、時たま歯列をなぞり、舌を食みながら軽く吸われる。激しく動きながらもそれは確実に快楽を生み出していく。
逃げないように頭を掴まれていた方とは逆の、腰を抱いていた手が背中から腰のラインをなぞり、やわやわとお尻を揉む。そのまま下へと滑り内腿をいやらしく何度も撫で上げられればびくびくと面白いぐらいに体が跳ねた。
碧棺左馬刻が私の身体を弄り、口内を蹂躙する度にゾクゾクとした快楽が背中を駆け上がり頭を真っ白にする。気付けば彼に支えられなければまともに立っていることすら出来ないようになっていた。
目的の階に到着すると同時にやっと口が解放された。永遠に続くとさえ思えたキス。息は絶え絶えで、だらしなく碧棺左馬刻にもたれかかる。
「下手くそ」
耳元で笑いながら囁かれたその言葉すら、私に快楽を生み出させる。
腰をしっかりと抱かれ、半ば引き摺られるようにして宛てがわれた部屋へと向かう。
キスもセックスも、高校に入る前に初めては済ましたし、回数もそれなりにこなしてきたと思う。ただどの男もまるで気持ちいいだろ?とでも言いたげに快楽を押し付けてくる。それがなんだか気持ち悪くて、周りが言うほど気持ちのいいものだと思わなかった。キスはベタベタして気持ち悪いし、セックスは男が悦ぶだけのものだ。
なんて、そう思っていたのに、今はこれから与えられるであろう未知の快楽に心を震わせている。早く、さっきの続きをして欲しい。なんて、まるで痴女のようだ。下半身が疼いて仕方がない。
「んむ、ふ、あっ」
部屋に入るなり抱き上げられ、乱暴に口を塞がれる。もう受け入れる準備は万端だ。割入ってくる舌を甘受して、碧棺左馬刻の首に腕を回す。本能のままに彼の舌を受け入れた。
「ん、とりあえずシャワー浴びてこい」
「……え?」
「制服着たガキ犯す趣味なんざねぇんだよ」
そう冷たく言い放たれ、1人脱衣所に取り残される。確かに、それもそうかと1人で納得して急いでシャワーを浴びる。我に返ったら負けだ。この状況を恥じらっている暇なんてない。
ムダ毛処理は甘くないかちゃんとチェックして、散々キスをした後だけどしっかり歯磨きもしておく。気合が入っているとは思われたくないが、適当な女だと思われるのはもっと嫌だ。
下着は着けるべきかどうかで散々悩み、髪を乾かすのもそこそこにシャワー室を出た。
寝室に入り、碧棺左馬刻を見つける前に目の前に広がる景色に思わず息を呑む。通された部屋はかなり高い階らしい。横浜の夜景が一望出来る。まだ時間が早いため、眼下に広がるのは赤く染まった横浜の街。1歩外に出れば喧騒に包まれるのに、ここは怖いぐらい静かだった。
「髪ぐらいちゃんと乾かしてこいや」
呆れたようなその声ではっと我に返る。ベッドに腰掛け煙草を蒸す碧棺左馬刻の姿は完全に逆光でよく見えない。ただそのキレイな髪が眩しいぐらいに輝いていた。
きらきら、きらきら。私には何もかもが眩しくて、ぎゅっと目を閉じる。
目を閉じても入り込んでくる赤はここから逃げることを許さないとでも言いたげに視界だけでなく身体も支配する。バスローブの上からでも伝わる熱は、表面からじわじわと私を熱くさせた。腕から肩へ、そっと頬にも熱が宿る。その内熱は全身に広がって、吐く息さえ熱く感じる。
なんだか恥ずかしくて、耐えきれなくて、目を開けると視界いっぱいに碧棺左馬刻の顔が。
「う、えぇ?!」
「っるせぇなぁ、もっと色気のある声出せねぇのかよ」
「顔、近すぎです…」
「何言ってやがる。さっきはほぼゼロ距離だっただろうが」
それもそうか。と妙に納得して頷いてしまったがそれはそれこれはこれである。キスで惚けている時とは違ってしっかり意識がある時に端正な顔が目の前にあれば誰だって驚く。そもそもこんな美形、テレビでしかお目にかからないため見慣れていないのだ。
と、一人でうんうん唸っている間に当の本人はシャワー室に消えてしまっていた。よく見れば廊下にドライヤーが放り出されていて、俺が上がる前に乾かしておけという無言の圧を感じた。
「…世話を焼くお兄ちゃんみたい」
兄なんていないから分からないが、いたらあんな感じなのだろうか。
今からすることを忘れて、一人でくすりと笑ってみる。それでも、鏡台の前に座った私はひどく女の顔をしていて恥ずかしさが増した。

これでもかというぐらい完璧に髪の毛を乾かして、さっきまで碧棺左馬刻が腰掛けていたところに同じように座ってみる。枕元に置かれたコンドームの箱からは目を逸らし、煙草と灰皿に目をやる。私がシャワーを浴びている間に4本も吸っている。きっとあの人の肺は取り返しがつかないほど真っ黒だろう。もう数本しか入っていない箱の下には封の切られていないものが置かれている。全部ここにいる数時間のうちに吸ってしまう予定らしい。とんだヘビースモーカーだ。煙草はあまり詳しくないため、銘柄も数字の意味も分からないし、美味しいかどうかなんてもっと分からない。周りに進められることは多々あるけど、どうしても吸う気になれなくて断り続けている。
「女が吸うもんじゃねぇぞ」
ひょいと取り上げられた煙草と、滴る雫。私にはちゃんと乾かせなんて言っておいて、当の本人はまともに拭いてすらいない。そのまま煙草に火をつけたので、乾かす気はさらさらないらしい。
「あ?」
「ちゃんと、乾かしてください」
「めんどくせぇ」
「言うと思った」
ガシガシと少し強めに頭を拭いても、特に嫌がるそぶりもせずになすがままだ。煙草の匂いに混じって香るのは私と同じシャンプーの匂い。それがなんだか恥ずかしくて、碧棺左馬刻に顔を見られないように膝立ちになる。横から拭くのって、やりにくいな。
「え、ちょっと、」
「耳元で喚くな。うるせぇ」
腰を強く引かれたと思えば碧棺左馬刻の正面から足を跨ぐように膝立ちになっていた。髪を拭くのは許されたとして、この体勢は余計恥ずかしい。
煙草を大きく吸い込んだ時に髪を拭く手を緩めれば、そのまま横を向いて煙を吐き出す。私に煙がかからないように、というその気遣いにきゅっと胸の奥が掴まれたような感覚を覚えた。時たま甘えるように私の胸に顔を埋め、片手でやわやわと胸やお尻を揉みしだく。絶妙な力の入れように息は上がり、腰は震え、気付けば碧棺左馬刻にしがみつくような体勢になっていた。
「もう限界か?」
「なに、が…!」
「腰、揺れてんぞ」
内股を触れるか触れないかギリギリのラインで撫で上げられれば、もう限界だった。情けない声を出して碧棺左馬刻の上に座り込む。そのまま押し付けられた膝で弱いところを責められれば、もうすっかり快楽の虜だ。碧棺左馬刻の首にしがみつくことしかできず、好きなように揺さぶられる。口から漏れるのは自分でも耳を塞ぎたくなるような甘い声ばかり。
ぐるりと身体が反転したかと思えば、目の前には天井と、完全に欲情しきった赤い瞳。きっとその瞳に映る私の顔は甘く、とろけているのだろう。
落ちてくる唇の受け入れ方は、もうすっかり覚えてしまっていた。

セックスは嫌いだ。
初体験は中学2年の時。友達が付き合っていた高校生の彼氏が相手だった。顔は彼女の方が好きだけど、身体は君の方が好みなんだよね。という意味の分からない理由で純潔を奪われた。痛くて痛くて、気持ち悪くて。友達への罪悪感で押しつぶされそうだった。言うことを聞かないと二人の関係を友達にバラすと脅されて、何度も抱かれた。結局その関係は卒業まで続き、ひょんなことから関係もバレ、友達とは疎遠になった。
高校は、先輩とは別のところを選んだのに最初に選んだグループが悪かったのか、男友達を交代で使い回すようなメンバーだった。
高校でも中学と大して変わらず、口内を舐め回す舌を甘受して、腰を振る男にしがみつきながら感じているような声を出し、やっと終わったと安堵の溜息を吐く毎日。
周りのみんながどうしてそこまでのめり込むのか理解できない。きっと私には気持ちいいと感じる器官か何かが欠如しているのだと思っていた。
それなのに。
もうなにもしたくないと思うほど身体は重くて、鳴かされすぎたせいで喉はカラカラ。お揃いのシャンプーの匂いがしていた室内はいつのまにか煙で充満している。ヤっている最中に二箱目に突入したため、空箱はコンドームとともにゴミ箱の中だ。
時たま戯れのように口移しで水を与えられるが、なんだかほろ苦い気がしてならない。間接ニコチン摂取だ。副流煙の時点ですでにそうなのだが。しかし、それが嫌だと思えないのは何故だろうか。
「で、あんなところでなにしてやがった。処女かと思えばそうでもねぇクセによぉ」
「…お小遣い稼ぎ」
「しょーもねぇ嘘ついてんじゃねぇよ。キスの仕方もろくにしらねぇ、中イキもしたことねぇガキが売りなんざで小遣い稼ぐかよ」
痛い所を突かれた。
男が腰を振るのを受け入れるだけで、ろくに快楽を拾ってこなかった私に、この人はあらゆることを教えてくれた。完全に快楽の波が去ったあとでも脇腹を撫でられればぴくりと反応してしまうレベルには作り替えられたと言っても過言ではないと思う。周りが発情期かと言うほどセックスにのめり込んでいるのもまあ、理解できないことは無い。
それぐらいこの人とのセックスは気持ちよかった。
「高校の、友達が…みんな買春をしてて。私はずっとのらりくらりとかわしてたんですけど、そうもいかなくなって。絶対に今日中にしてこいって言われて…」
「友達って言えんのかよ、それ」
「言えないって、分かってます、もちろん。でも、居場所が、ほしくて…どこでもいい、どんな形でもいい。自分が確かに存在していると思える場所が、ほしかった」
赤い瞳が真っ直ぐに私を見つめる。くっきりと眉の間にシワを刻んでいて、伸ばしても元に戻ることはない。どうして貴方がそんな顔をするの?同情?でも、もうなんでもいい。与えられた快楽とぬくもりに完全に安心感を覚えてしまった。
戯れに私の髪を弄んでいた手がするりと頬に滑ってきた。猫のように擦り寄れば、親指でくすぐられる。くすぐったいけど、気持ちがいい。
「あ、写真、撮っていいですか?
「あぁ?」
「どんな相手とヤったのか、証拠提示です」
「…んだよそれ」
溜息と共に吐き出された紫煙が宙を漂って換気扇の向こうへと消えていく。やっぱり、ダメか。元々期待はしていなかったけど。代わりを見繕うような時間はもうないし…ダメだったと正直に言うしかないか。
「え、ちょっ」
なんて、拗ねたように枕に顔を埋めていれば急に抱き起こされた。頬にダイレクトに感じる、左馬刻さんの熱。
「…早くしろ」
「左馬刻さん、写真とか嫌いだろうしお遊びの相手とは絶対に撮ってくれないと思ってました」
「よく分かってんじゃねぇか。この俺様が特別に許可してやってんだ、ありがたく思えよ」
カウントダウンでも始めそうな勢いだ。待ってくださいと慌てて枕元に置いてあるスマホを取る。視界に入ったのは最中、擦れるのが痛いからと外してもらった、というか、外させられた左馬刻さんのトレードマークのようなネックレス。これがないとなんだかあの人らしくない。
付けてくださいとお願いすればお前が付けろと案の定言われた。
「…女ってンなにカメラアプリ入れてんのかよ」
「撮る人によってアプリを変えたりするんですよ」
「めんどくせぇ。どれも一緒だろ」
心底理解できないといった顔をしながら悪態を吐く。この人は意外と感情が表情に出やすいらしい。撮りますねとスマホを向ければぐっと肩を引き寄せられた。顔に左馬刻さんの髪がかかり、さわさわとしたくすぐったさに身を捩る。大丈夫?私、ちゃんと笑えてる?
「左馬刻さん、カメラこっちですよ」
「ンなもん分かるかよ」
写真ホルダに収まった左馬刻さんは不敵な笑みを浮かべていて、また胸が高まった。 どうしてだろう、これさえあれば私は強くなれるような気さえする。なんて。ベッドの下に散らばった下着とバスローブを拾い上げる左馬刻さんの腕を掴んだのはきっと何かの気の迷い、気のせい、だ。
「まだシたりねぇってか?キモチイイ事覚えたら盛りのついた雌猫みてぇに鳴いて俺を誘うのかよ。あぁ?」
「っと、あの、ちが、くて…」
「何が違ぇって?言ってみろや」
あのラブホ街で出会った時と同じように、怒気を含んだ低い声。掴んだ手は払われて、掴まれた顎はキリキリとか細い悲鳴をあげている。見下ろす赤い瞳は、赤いのに、冷たい。
「家に、帰りたくなくて」
「…」
「父さんのいる家に、帰りたくないんです」
眉間に刻まれた皺はやっぱり、伸ばしても元に戻らなかった。

「母が亡くなるまではきっと、ありふれた一般家庭だったと思うんです」
ちゃぷりと音を立てて目の前を漂う左馬刻さんの手を取れば、彼は私のしたいようにさせてくれる。甘えるように握って、指を絡める。
自分の足の間に座る私の頭を気まぐれに撫でるだけで、彼はなにもしてこなかった。触れ合う素肌のぬくもりがお湯と共に私の体だけじゃなくて心も包み込んでいるような気がする。先を促すように親指で手の甲を擦られるとくすぐったくて身を捩ってしまう。
「小学生低学年の時、母が亡くなって。最初は父さんも、普通だったんです。お仕事は辞めて、家で女の人といることが多くなったけど家事も、しててくれたし、私のことも、見てくれてて、名前も呼んでくれて…」
目じりを親指で撫でられて初めて気付いた。頬を流れるのは汗か水滴か何かだろうと思っていたから。泣いたのは久しぶりだった。だって、泣いても何も解決しない。誰も助けてはくれなかった。
「父さんが女の人に体を売ってるって気付いたのは、中学に上がってからです。いつも、どの時間でも家には女の人がいて。父さんは私のことは呼んでくれないのに、その人のことは呼ぶんです。それが嫌で、聞きたくなくて、気付けば派手な人たちと一緒にろくに学校も行かず街を遊び歩いていました」
どれだけの男の人と体を重ねても、友達と呼べるか分からない人ができても、結局私は一人だった。必死にしがみついていた居場所は砂上の楼閣のように何かを一つでも間違えると脆く崩れてしまうもの。それを守るのに必死で、身を削ってでも周りに合わせていた。冷静に考えればひどく滑稽だ。それでも、私は居場所がほしかった。
だから、
「おにーさん、キス、してください」
「…名前で呼べっつったろ」
「へへ、そうでした。…左馬刻さん」
もう、同情でも何でもよかった。この人から与えられるぬくもりも、快楽も何もかも気持ちよかったから。一方的に押し付けられるのではなく、与えられるものだったから。私はここに自分の意志で存在してるのだと思えたから。人のやさしさに触れたのは、久しぶりだったから。
だから、私がこの人の側に居場所を見出してしまうのは、仕方のないことだと思うの。

「家まで送ってもらっちゃって、ありがとうございます」
「チェックアウトギリギリまで居座りやがって」
「へへっ。ルームサービス、美味しかったです」
ぼろぼろのアパートの前には似つかわしくない黒塗りの車。帰りも歩きかな、なんて思っていればホテルのロビーにはお迎えの車があって、そういえばこの人はヤクザなんだったと思い出した。
結局お風呂でも、上がってからも、彼の言う盛りのついた猫のように何度も求めてしまった。途中からはもうまともに覚えてすらいない。ただ何度も耳元で囁かれた私の名前がひどく特別なもののように思えたことだけはしっかりと覚えている。目が覚めれば腰が痛くて、お仕事もあるだろうにそんな私を気遣ってか、私一人置いて帰ることもできたはずなのにチェックアウトギリギリの時間まで一緒にいてくれた。この時間が永遠に続けばいいのにと思うほど、酷く心地よいものだった。
ふぅっと車の窓から吐き出された紫煙がホテルでの出来事を反芻する私を包んで、消えた。お別れなんだと思い知らされる。太陽はまだまだ高い位置にいるのに、この人にはそれが似合わない。陽の光より煌めくネオンの方がよっぽど似合う。
私はただの女子高生で、この人はヤクザ。本来は交じり合うはずはないのだから。
「あぶねぇだろ、離れろ」
「…はい」
じゃあなも、またなも、元気でなも、お別れの言葉なんてなにもなかった。お揃いのシャンプーと香水と煙草の匂いだけを残して去って行ってしまった。車が見えなくなるまで見送るだなんて馬鹿なこと、しなかった。そんなことをすればもう二度と、あのぬくもりから離れることができないような気がしたから。
画像フォルダを開いて昨晩撮った写真を眺める。その他にも何枚も、グループの子とか男の子とかと撮った写真はいっぱいあるけれど、この写真に写る私だけが唯一心から笑っている気がする。
この世に公平なものなんて存在しない。不公平で溢れている。私は今日からまた、酷く脆い居場所を守るために奮闘するのだろう。それでもきっと、大丈夫。この写真があれば、大丈夫。
外で深呼吸をしたのはいつぶりだろうか。いつも酸素を取り込むのを途中で拒むように喉の奥が違和感を訴えていたのに。
私が確かに存在していたと感じられた、左馬刻さんの側の、あのぬくもりを覚えている限り、強く生きていけるだろうと。確かにそんな気がしたんだ。




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