ヒュウ。
喉の奥から細く漏れた音が大きくなるのに伴って息苦しさも増していく。口を開けて必死に酸素を取り込んでみたがむしろ苦しさが増す一方だった。


昔から、なにかおぞましいものを見た後にはきまって謎の呼吸困難に陥っていた。蟷螂が蝶を捕食する瞬間や、スクリーン越しの猟奇殺人など、ありふれた現代社会の一景色がなんらかのきっかけで私の気管を狂わせる。ならば私は今、何に恐怖しているのだろうか。


荒い息遣いは担任の声にかき消されて、誰も私の異変に気づかない。授業中の教室でひとり戦い続ける私に声をかけたのは、隣の席でペンを回していた竜ヶ峰くんだった。



「大丈夫?」



はぁ、はぁ。
吸っても吸っても満たされない。まるで真空に投げ出されたみたいだ。横から竜ヶ峰くんの心配そうな声が聞こえてくるが、顔を上げることができない。「ねぇ、大丈夫?」くるしい。少し上擦ったテノールは鈍った脳を震わせている。


ノートに綴られた数字が落ちた汗で滲み黒い染みに変わった。丸まった私の背を、躊躇いがちに竜ヶ峰くんの手が上下している。ゼエゼエ。とうとう耐えきれずに崩れ落ちた。椅子が倒れる音に驚いて、先程まで黒板と対峙していたクラスメートたちの視線が一斉にこちらへ集まる。だれか、たすけて。


顔を青くした担任が、保健医を呼びに出ていった。しかし今の私はそんなことを求めてはいない。得体の知れない絶望感が体を駆け巡る。うあ、あ。発音したはずの声は言葉にならずにただ口から流れ落ちた。代わりに汚い唾液が顎を伝ったが、なりふり構わず救いを求めて手を伸ばす。虚しく空を切るかと思われたその手を掴んだのは、やはり彼だった。ヒュ。喉が鳴る。


指先が震えている。渇いた喉からは、もはや空気すら漏れない。思えばそう。昔からそうなのだ。おぞましいものを見ると、息のしかたが分からなくなるのだ。顔を上げると、竜ヶ峰くんの笑顔。えがお?「ねぇ、だいじょうぶ?」

だれか、たすけて。



100318




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