健康な身体、心を許せる友人、優しい世界。私を取り囲む小さな幸せが日常に埋もれていくことが怖かった。平凡に甘んじて、幸せを感じる心が麻痺していく。そんなふうになりつつある自分をどうしようもなく嫌悪していた。






「つまり君は、幸福を実感したいが為にあえて不幸の中に身を投じている訳だね。…うん、僕には全く理解できない。」

「馬鹿にしてんの?」

「いやいや。ただ、馬鹿だなあと思って。」

「その眼鏡、フレームだけにしてやろうか。」



放課後、保健室。

この男とは折原を通じて知り合って以来、こうしてよく怪我の手当てをしてもらうようになった(頻繁に怪我をする理由は言うまでもないだろう)。奇人として名の知れる彼だが、同時に医術に関する並外れた才能の持ち主だということも周知の事実であるため、その点では私もそこそこの信頼を置いている。

いつからか保健医が姿を見せなくなったこの部屋で、岸谷新羅は言う。私を理解できない、と。




「進んで不幸になりたがる人間なんて聞いたことないものなあ。」

「なりたいわけじゃないよ。知りたいの。」

「それなら尚更、君が身をもって体験する必要はないと思うけど?なんなら、臨也にみたいに人間観察でもしてみたらいいんじゃないかな。いじめに悩む不幸な子供なら、五万と居るだろうしね。」

「…観ているだけじゃ、実感できないもの。新羅、人間はあまりにも愚かなんだよ。平和な日常に浸ってるうちに幸せの感じ方を忘れていく。生きることしか脳にないそこらの野良犬の方が、よほど謙虚かもしれない。」

「あはは、」




適当に相槌をうつと、新羅は口角を上げたままテキパキと消毒を進めていく。

哲学を気取ったこの拙い持論は、本来なら思春期のそれとして年を重ねると共に消えていく筈だった。実態を持たず、ときどき思い出してはまた沈む。そうあるべきものだった。

私が道を違えた要因はただひとつ。




「臨也と出会わなければ、君もそこそこに女子高生をやってたんだろうね。可哀相に。」





思考に絡めとられて身動きが出来なくなっていた私に、あの日折原は甘く囁いた。

『俺が不幸を教えてあげる。』