気付かない儘に、きっと決まっていたのだろう。
こんなにも、君を。
伍 ・ 晴れ渡る
「……気付いてたんですか?」
「気付かせたかったんじゃないんですか?」
てっきり気付いて欲しいのかと思っていました、と望は空惚けた。
恐らく、久藤は望が気付かないか、気付いても無視をすると思っていたのだろう。声を掛けた瞬間、目を見開き声も無く驚いていた。珍しいものを見たな、と妙に得をした気分になる。
望は久藤の腕を引くと、家に向かい歩き始めた。掴んだ制服から、じっとりと濡れた感触が伝わる。先程は陰になっていて解り難かったが、良く見れば髪からも雫が垂れていた。
「何時から、彼処に居たんですか」
命が帰るよう伝えたとき、雨は降り始めたばかりだった。あれから、どれ程の時間を雨の中に立ち尽くしていたのだろうか。
一体、何の為に。
風呂場に押し込み、問答無用にタオルを数枚投げ付けた。取り敢えず乾かさない事には、望と同じ様に風邪を引いてしまう。
タオルを受け取った状態から動かない久藤に焦れ、望は床に散乱したタオルで久藤の頭を掴み拭き始めた。
「せ、先生」
「このままだと、私と同じように風邪引きますよ。じっとして下さい」
「……はい」
互いに無言のまま、乾かし続ける。ある程度水分が取れたところで、望は手を止めた。
久藤がずっと持っていたタオルで更に拭いておくように告げ、使用したタオルを洗濯篭に放り込む。ついでに暖かいものでも淹れておこうと踵を返した途端、腕を捕まれた。
「何で、入れてくれたんですか」
「ずぶ濡れの生徒を放って置けるほど、人非人ではないので。わざわざ風邪を引かせる訳には行かないでしょう」
教師の顔で答える。本来なら、声を掛けても直ぐに帰らせるつもりだった。濡れていると気付いた途端、久藤の腕を掴んでいたのだった。
入れてしまったものは仕方ない、と思うが矢張り話はしたくなかった。
久藤の用件は、九分九厘、昨夜の事だろう。
男としての自尊心故か、それとも別の何かに因るものか。出来る事ならば、避けたい話題ではある。
話題にしたくない、とは思いつつも怒りや嫌悪は無かった。暴行を加えられた相手など、殺したい程に憎むのが普通だろうに。
望は自らほど解らないものは無いと思っていたが、今回ほど自分が解らない事も無かった。
男に襲われたなど、絶望し自殺を選んでもおかしくないのに、その選択肢すら浮かばなかったのだ。
「本当に?」
捕まれた腕に、力が込められる。望の行動に、久藤も不安を覚えていた。
「ボクは、先生を……」
「あの、居た堪れないのでそれ以上言わないで頂けませんか」
負の感情が無いとは言え、好き好んで聞きたい言葉ではない。
取り敢えず落ち着かせようと思考を巡らす。幾ら拭いたとはいえ、濡れた服のままで居るのは不味い事に漸く気付いた。
服を用意し、着替え終わったら居間に来るように伝える。望は一足先に居間に向かうと、買い置きしておいたお茶を用意し出したのだった。
数分も経たぬ内に、着替え終わった久藤が現れる。
「服、有り難う御座います」
取り敢えず卓に着くよう勧めたが、以降の会話が続かない。茶が冷める頃になって、漸く久藤が口を開いた。
「風邪、大丈夫なんですか?」
「大丈夫ですよ。もう熱はありませんし、医者にも掛かりましたから」
「原因ってやっぱり……」
「違いますから!雨に濡れた所為ですので、お気に為さらずっ!」
慌てて訂正を入れる。あの行為が原因で寝込んだと思われるのは、不甲斐無い事この上ない。
ある意味、原因と言えなくは無いのだが。
あの後、立てないという悪態を晒す事だけは避けられた望は、逃げるように図書室を飛び出していた。残る熱と、己の感情に混乱し豪雨だというのに傘を差す事を失念していたのだった。
そして、この失態である。結局不甲斐無いんじゃないか?と思わなくはないが、敢えて考えないようにした。
わざとらしく咳き込み、この話は終わりだと言外に伝える。だが、久藤にとってこの話は導入にしか過ぎなかった。
「あの時、何で抵抗しなかったんですか?」
僅かに聞き取れる程度の音量で告げる。聞かなかった振りをするのは容易かったが、する気にはなれなかった。
「……さぁ」
「さぁって……!ボクは真剣に……」
「私だって解らないんですよ」
健康な成人男子なのだから、遣ろうと思えば抵抗は出来たのだ。なのに、抵抗が出来なかった。
「というか、する気が無かったと言えば良いんでしょうか」
「え?」
無意識に零れた言葉に、久藤の表情が固まる。瞬間、望は自分の発言を悟った。
自覚したと同時に顔面に血液が集中する。これではまるで、告白のようではないか。
再度熱が出て来たのか、自らの思考が一切纏まらない。
「き、聞かなかった事にして下さいっ」
「無理です」
「では、心が読めるんですから悟って下さい」
「だから、出来ませんってば」
悉く出口を塞がれる。如何にかして突破口を開けないかと画策するが、何も思い浮かばなかった。
何時の間に移動したのか、卓を挟んでいた筈の久藤の位置が、望の隣に変わっていた。突然の近距離に、思わず腰が引ける。
逃げを打った分、久藤の手が望にむかって伸ばされる。
「ボクは先生が好きです。勿論、恋愛の意味で。だから、理由を言える様に……理由に為るように、ボクを好きになって下さい」
「繋がりがおかしい気もしますが……考えてみます」
考えると答えた段階で、答えは既に決まっているのだろう。否、考えるまでも無い。
朧気な意識の中、更に伸ばされた腕を避ける事はしなかった。
終