初めから解っていたわ。
だって、彼は私と同じ目をしていたもの。
壱 ・ 常月 まとい
早朝の廊下を、1人で歩く。
今の愛しい相手に出会ってからは初めての事だな、と常月は思った。自らの愛が常人以上に深いものであると自覚している常月は、想い人の事は全て知っておきたいという衝動を抑える事が出来ない性分だった。故に、校舎内は勿論、毎日の登下校もひっそりと───偶に堂々と───後に付いて行動していた。
傍から見れば犯罪予備軍、単なるストーカーでしかないが、常月は自分の気持ちに正直なだけだと公言して憚らない。
今朝も同様に糸色家の門扉が見える位置で待ち構えていたのだが、中から現れた人物の言葉によってその日課が叶わなくなってしまっていたのだった。
所属する教室を通り過ぎ、尚も歩を進める。目的の扉に手を伸ばすが、鍵が掛かっているのかそれはビクともしなかった。
扉に背を預け、その場にしゃがみ込む。通常なら生徒の登校には早い時間帯だが、此処に居れば待ち人が直ぐに訪れる事は解っていた。
余程本が好きなのか、当番でも無い日にも待ち人は此処に居た。そして、想い人も。
情景を想う度にツキンと胸が痛む。
認めたくない。けれども。
「あれ?常月さん?」
「久藤君」
思考に沈んでいた間に時が過ぎたのか、声を掛けられ待ち人の到着を知る。
常月は立ち上がると、扉から少しずれ久藤の隣へと移動した。久藤が持っていた鍵で開錠する様を、じっと見詰める。
「朝に図書室来るなんて、珍しいね。何か探して……」
「ねぇ」
話途中に言葉を遮る。聞きたいのは、そんな事じゃない。
聞かない方が誰の為でもあるのかも知れなかった。特に、自分自身には。
弱くなる意思を戒めるように、ぎゅっと拳を握る。手の平に食い込む爪の痛みが、常月を駆り立てた。
扉を開き掛けた手を止め、久藤が常月を振り返る。
「先生が居ない事、聞かないのね」
「……毎朝、図書室に来るって訳じゃないし。先生が居ないのに、常月さんが居るのは珍しいとは思ったけど」
いつもと変わらぬ穏やかな笑みで返される。あまりもの変化の無さに、この思いは杞憂ではないのか、という考えが常月の脳裏を過ぎった。
それこそが偽りだと頭を振り、言葉を綴る。
「今朝、家から出て来なかったの。暫らく待っていたら、お兄さんが来て先生は体調不良だって教えてくれたわ」
「お兄さんが?」
常月の口から、予想外の人物が出て来た事で久藤の顔が僅かに強張る。その様子に、常月はこの感情は杞憂ではない事を確信した。
「そう。でも、昨日の先生はいつも通りに自殺騒ぎをするくらい元気だった」
「それを元気と言うのは、何か違う気がするけど」
本人が聞いたら絶望するんじゃないかな、でも先生だしなぁ、とフォローに成らない台詞を口にしながら、久藤は苦笑を浮かべた。
「昨日は雨だったから……季節の変わり目だし、風邪でも引いたんじゃないかな」
「ただの風邪だったら、貴方のトコなんて来ないわよ」
自分の耳にすら届くか如何か、という小さな声で呟く。案の定、目の前に居る筈の久藤の耳には届いていなかった。
今朝、症状を聞かされた際に如何しても姿を見たくなり、常月はこっそりと裏口に廻り込んで室内の様子を伺っていた。
障子の閉められていない窓から垣間見た姿は、確かに体調不良そのものだった。だが、病気と違い、何処か違和感を覚える。
言うなれば、只の直感。
目の前の彼が原因だという確証なんてものは全く無い。それでも、聞きたかった。
「昨日、当番だったの?」
「うん。新刊が入ってきてたから、そのチェックと入力をしてたよ」
「先生と一緒に帰った?」
「いや、別々だけど」
「……そう」
これ以上は聞く必要は無いと、常月は会話を終了させた。核心に迫る事柄は聞いていないが、常月には此の言葉だけで充分だった。
それに、もうじき予鈴が鳴る時間だ。
教室へと踵を返す。数歩歩いた所で、ピタリと足を止めた。
「今日、用事があるから先生のトコに行けないの」
「え?」
常月の意図を瞬時に掴みきれなかったのか、久藤から疑問の声が上がる。
「……察してよ」
不満を顕わに吐き捨て、教室への道を再び歩く。
道中、常月の内心は複雑だった。誰の想いが、何処へ向かっているかは解っている。
折角、敵に塩を送ったのに理解されていないのでは意味が無い。だからと言って、自ら懇切丁寧に教える気は更々無かった。
同じ形の想いを抱いているのに、簡単に譲る訳にはいかない。
呆然と見送る久藤を背に、常月は胸中で宣戦布告を示した。